2008年04月19日

ブログの効用4

9eacf132.JPG 退職して初任者指導に携わるようになってから、4年目の春を迎えた。このホームページとブログも、始めてから2年半近くが経過した。今、振り返ってみると、あらためて、感慨無量なものがある。


 このブログへかける思いが、始めたころとはずいぶん変化してきた。


 当初は、・・・、正直に申し上げよう。

 わたしがブログを始めたきっかけは、

『35年間の教員生活によって、蓄積したものがたくさんある。』

 それらをネタにすることによって、

〇全国の初任者の皆さんのお役に立てれば、
〇広く教員、市民の皆さんに向けて、教育を語ることができれば、

 そんな思いであった。

 だから、そのときの思いから言わせてもらえれば、基本的に、ブログは、わたしからの一方通行であった。
 わたしは広く世間にはたらきかけるだけ。今、思えば、独善的なものの考え方をしていた。
 
 
 別な言い方をすれば、本を出版するのと、大差はない。


 過去の先輩校長のなかにも、退職すると、過去の実績や退職時の思いなどを本にまとめる方は、何人もいらした。

 『自分のやってきたことを語りたい。』
 『後世に残すことができれば、ことのほかの喜びである。』と、まあ、名誉欲もあるだろう。そうした思いをもつ方はかなりいらしたと思う。

 わたしも、そのはんちゅうだった。


 しかし、わたしの気持ちのなかでは、『退職後、本を出すようなことはしない。』そういう思いが強かった。なぜなら、それは自費出版であるし、かなりの出費を伴うものだったからである。

 それに、自費出版なんて、だれも、気持ちよく買ってはくれない。義理と人情で、身のまわりの方々が買ってくれるだけ。そして、そのまま、多くは、『ツンドク』となってしまうのであろう。えらい迷惑をかける。

 そんなわけで、これには自己規制をかけていた。


 
 ところで、そのような折、まことにいいタイミングだったが、世間ではブログのブームを迎えた。


 わたしは、これに強い関心をもった。

『うわあ。これはいい。無料なのが魅力的だ。それに、まわりの方々に迷惑をかけることもない。だって、日本中の関心のある不特定多数(不特定少数かな。でも、多くの方々に読んでもらえるようにがんばりたい。)の方々が、誰からも強制されず、自分の気持ちで読んでくださるのだから、ツンドクということはありえない。ありがたいことだ。やりがいがある。』

 そこに、出版本以上の魅力を感じた。

 ごめんなさい。正直に言わせてもらえれば、匿名のブログではあるが、名誉欲もむくむくと盛り上がってきたのである。




 ブログの効用。今、振り返ると、わたしのなかでは、2段階に分けられる。


〇基本的に、自己の名誉欲を満たす次元で語られる効用。出版以上の魅力といっても、基本的にはその域を出ない効用。

〇その域を超えて『自己の研鑽になる。』、いわば、当たり前のことではあるが、『学習は永遠である。』ということを認識させていただいた、もう、名誉欲などという次元では語れない効用。



その1

 当初、わたしは、コメントやメールには、あまり関心をもっていなかった。と言うより、偏見をもっていたと言ってもいい。

 だって、ネットに関してのマスコミ等の情報は、あまりいいものではなかったものね。ネットをやる人は、みんなある種の魂胆をもっているかのような印象を与えていた。


 でも、始めてみて分かった。ネットはすばらしい。


〇反響があるというのは、うれしいことだ。それも瞬間的に返ってくる。おほめの言葉だったり感謝の言葉だったりすると、有頂天になった。

 子どもみたいだね。


 校長という仕事は、あれであんがい孤独なのだ。何をやっても、反響はあまり返ってこない。つまり、称賛も批判もあまりない。だから、手応えが分からない。それで、ときには、不安に駆られることもある。


 その点、ブログはいい。ほんとうにすばらしいコミュニケーションの場だ。これは、出版ではほとんど味わうことのできない、ネット特有の良さであろう。

 いわば、双方向のすばらしさに魅せられたのである。当初の偏見はほとんどなくなった。


〇2つ目。ネットに無縁だったときは、教育にかかわる情報を得るには、同地域の教員同士の話かマスコミのそれしかなかった。

 ところが、ネットは、異なる地域、異なる校種の教員、また、市民の方々との情報交換をも可能にしてくれた。そうした方々、つまり、面識もなく、利害もない方々とのコメントやメールのやり取りは、新鮮だし、興奮するし、ときには、真剣勝負という感じも抱かせてくれた。

 ああ。現職のときから、このブログをやっていたなら、世間の教育観、児童観などに、もっと目が開かれていたかなと思う。残念な思いもあった。


〇と同時に、今はもう、『校長』という肩書きを背負っていないから、ある程度本音を出したり、気さくになれたりして、比較的自由な気分で意見を交換することができる。

 これは、僭越ながら、コメントやメールをくださる方にも言えることなのではないか。

 自分のお子さんの通う学校が相手ではないから、ご自分の思いを率直にぶつけることができる。

 これは、『リアル社会では果たせないよさ。』と言えよう。



その2


 そうしたコメントやメールのやり取りを通してだんだん気づいてきたことは、


〇冒頭に書かせていただいた、一方的で独善的なものとは違って、

 双方向的なやり取りを通し、読者の皆さんが、わたし自身を伸ばしてくれる、わたし自身を学びの場に導いてくださる。

 そのような思いを抱くようになってきた。
 
 これは、うれしいことだ。ありがたいことだ。


 そう。

 子ども主体の教育、子どもとともにあゆむ教育、子どもの目が輝く教育、生きてはたらく知識が身につく教育・・・、

 それは、問題解決学習をおし進めるうえでは必然であるし、心の教育を標榜する上でも大切なことだし(逆に、押し付けの、『心の教育』は恐ろしい。)、ひいては、民主主義教育の根幹にかかわる。
(わたしは、上からの押し付けの教育は、教える内容が何であれ、基本的に民主主義教育を破壊するものととらえています。)

 そういう教育を標榜する者なら、自らの生き方も、一方的だったり、独善的だったりしてはならないのだ。


 このブログを通して、コメントやメールの交換ができることは、知っているはずのそういうことを、あらためて、確認させてくれた。

 まさに、民主主義の実践。

 そういう場であることが認識できたのである。


〇そう認識することによって、記事を掲載する思いも、当初とは違ってきた。

 当初は、もちろん、冒頭に書いたように、35年間の教員生活を通しての、自分の思いを主張する場。読者に訴えかける場。(ごめんなさい。今もそうした思いはあります。)

 しかし、今は、それに、『自己啓発の機会を与えてくださる場』『自分自身を磨かせていただける場』という思いが加わった。

 
 では、最後に2つほど、その事例を語らせてほしい。


その1

 前にも書いたことであるが、ここ数ヶ月の、PISA調査をめぐっての記事は、わたし自身、大いに勉強させていただいた。PISAに関してまったく無知であった自分を、これだけ語れるようにしていただいたのは、まさに、読者の皆さんのおかげなのだ。いくら感謝しても、し尽くすことはできない。


その2

 わたしがかつて担当した初任者のなかに、ふるさとを遠く離れて、当地へ着任した教員がいた。Aさんである。

 よくがんばった。子どもや保護者からの信頼もあり、着実に成長した。

 しかし、Aさんは、今春、ふるさとへ帰り、そちらで教員を続けることになった。


 我が地域に、そういう例は多い。しかし、これは、ある意味、我が地域にとっては、大いなる痛手なのだ。


 教員養成には、数十回に及ぶ研修、指導教員の人件費等、各地域は大変な費用をかけている。

 それが、結果的に、他地域のために使ったことになってしまうわけだ。


 校長仲間でも、
「いやあ。残念だなあ。せっかく養成して、一人前のいい教員に育ってきたなと思っても、突然ふるさとへ帰られてしまうのでは、やりきれないよなあ。」

そういう声は多い。

 そこで、そのような思いを、メールで仲良しになった方にぶつけたことがあった。

 そうしたら、およそ、教員仲間内では聞いたことのない論理を、ぶつけられた。

『toshi先生のご指導で伸びた初任者が、その成果をもって、全国に広がっていく。何と素敵なことでしょう。』

 わたしは、上記のような、校長仲間の常識にひたり切っていたから、これには、強い衝撃を受けた。


 なるほど。そうか。お金のことなどで、ケチケチした思いを抱くことはないのだ。『夢は大きく。』そんな、目からうろこが落ちるような思いになった。

 やっぱり市民の方との意見交換は、すばらしいな。

 専門的なものを持たない方のほうが、人間として、市民として、ハッとさせられるものをもっている。むしろ、全うなものをもっている。
 そのような思いにさせていただいた。あらためて、場合によっては、教員らしさより、人間らしさが大事と、学ばせていただいた。


 それからというもの。A先生に話す内容が変わった。

「ふるさとへ戻っても、ここで学んだことを忘れるなよ。新しい土地で、これまでの3年間を持続発展させてほしい。子どもが主人公の学級づくりにまい進してほしい。」

 

 4月も半ばを過ぎてしまった。

 今ごろ、A先生は、ふるさとの地で、がんばっていることだろう。

 
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 ブログは、正しく、理性をもって使えば、民主主義を大いに守り育てることになるでしょう。
 ブログで意見交換させていただくと、『これは、まさに、問題解決学習の実践そのものではないか。大人の学習の場だ。』そう思うことがあります。
 人間は、ほんとうにありがたい、情報伝達手段、コミュニケーションの手段を手に入れたと思います。

 それでは、これは、選挙ではありませんが、皆様の清き1クリックをお願いできればと思います。

rve83253 at 18:10│Comments(8)TrackBack(0)自己啓発 | ブログ、ネット

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この記事へのコメント

1. Posted by YK   2008年04月22日 20:49
昔の文士に姉崎正治という人がいますが、その人の教育観を見たとき、今の日本とあまり変わらないなあと思いましたね。

「今日の教育は『有用の材』を造ることを勉めて『人』を造ることに着眼しない。・・(略)・・近頃流行の高等専門教育とか実業教育とかは勿論用に立つ財を造り出す『材』を造くる所に過ぎない。其の鋳型にはまらない者は遠慮なしに奈落の底に陥れられる。勿論、一国の生存上有用の材も有用であるが、其の「材」が同時に確かに自覚を有して居る『人』である様に、其の『人材』が同時に品格あり自信ある『士君子』である様にするのが、教育の当(まさ)に目的とす可き所では無いか。」
2. Posted by YK   2008年04月22日 21:31
PISAに関する議論は私にとっても有意義でした。上の姉崎の言葉を思い出しただけでなく、アリストテレスの説く市民的徳や中江藤樹の考えについて再吟味するきっかけになりました。どうもありがとうございました。
3. Posted by toshi   2008年04月23日 13:16
YKさん
 むかしからある教育論の対立(融合かも)なのですね。教育はだれのためにあるか、永遠の課題なのでしょう。わたしも、双方とも大事と考えます。
 PISAがいうところの、『実用的学力』も、おそらく両面あるのでしょうね。社会にとって有用という意味と、本人が主体的に生きる意味で役立つという意味と両面ありそうです。
 アリストテレスとか、中江藤樹とか、わたしもよく勉強してみます。
 こちらこそ、ありがとうございました。
4. Posted by YK   2008年04月23日 20:57
私も哲学を専門的に学んだ人間ではないので、大変恐縮です。アリストテレスの時代の「徳」というのは、人格だけではなく「卓越性(アレテー)」だったという話を読んだことがあります。例えば、靴職人のような人間でも卓越性を備えているために徳を持っています。それは、その卓越性が共同体に還元されているからであって、卓越性(今で言えば専門的知識でしょうか)が卓越性として分離独立せずに、共同体での生活に強く結び付くために、「卓越性=徳」となるのだという話です。この論理は、toshi先生の仰る「知徳不可分」というのと似てるのではないかなあと思いました。アカデミックであれ、情報であれ、過剰に細かいという状況が一面ではありますので、知徳不可分という視点も重要だなと個人的に感じています。
5. Posted by YK   2008年04月23日 21:10
あと、自分で書いておいて後で気づいたのですが、姉崎の話は、当時の状況を考えてみれば、教育勅語が発布されて、忠君愛国の色が強くなって富国強兵に傾いていた時期の話ですから、その時代の教育批判という意味合いが強いのでしょうね。その点を考えないと少し極論に見えるかもしれません。私も、実学であれ哲学であれ、本人がやりがいのある勉強をして欲しいなと願ってますね。特に中高生くらいの生徒たちには。
6. Posted by toshi   2008年04月24日 11:24
YKさん
 ありがとうございます。よく分かりました。
 今で言えば、専門的知識が社会に還元されなければ意味がないわけですね。
 今の日本は、この点において、どこか狂っている点があるようです。専門的知識によって自己保身や自己の利益に走る傾向がありはしないでしょうか。
そうであれば、それは、卓越性が、社会と分離独立してしまっているのですね。
 なるほど。わたしの『知徳不可分』は、たぶんにPSJ渋谷研究所Xさんの受け売りがあるのですが、小さいときから科学的であろうとする態度の養成が知徳不可分を導くとしています。
 これを、おっしゃる靴職人に応用するとすれば、自分の思いだけでいくらいい靴をと言っても、それだけでは、卓越性につながらないのでしょうね。社会に還元されるかどうかは分からないからです。 
7. Posted by toshi   2008年04月24日 11:30
真に使う人のことを考えて(それが科学的態度につながるのだと思いますが、)つくる職人が、卓越性を身につけていくし、徳につながるのでしょう。
 ああ。なんか、すごくすっきりとしました。
 
 姉崎氏のお話については、わたしは、おっしゃるような認識を持っていました。
 教育は、生きる一人ひとりのためか、社会のためか、もっと言えば、国家のためか、それは、戦前においては、非常にきびしい側面を持っていたと思います。それだけに、そういう時代に、姉崎氏が、個の大切さを主張されたということは、すごいことだと思います。大正デモクラシーとも、深くかかわっているのではないでしょうか。
8. Posted by YK   2008年04月24日 20:16
<大正デモクラシーとも、深くかかわっているのではないでしょうか。>

上の発言はおそらく1903年のものです。ですから、日露戦争直前の発言ですかね。この人自身は1904年に東大の教授になっているので、本音はどうあれ、彼自身も国家主義からは逃れられなかったでしょうね。ただ、上の発言は彼の良心が言わせたのかなという気はしました。大正デモクラシーの吉野作造はクリスチャンですので、宗教学者である姉崎と知り合いだった可能性もありますが、ちょっとわかりません。申し訳ないです。

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