2008年05月02日

強い思い(2)4

44e2b533.JPG 本日の記事は、テーマとはまったく異なるところから話を始める。よろしくお願いしたい。 



 我が亡母のふるさとはここからかなり遠い。しかも、我が地域とは自然環境をまったく異にする山村である。

 そこに、亡母の弟、つまり叔父とその家族が住んでいる。その叔父も、10年ちょっと前に他界した。


 叔父は、多くの短歌を残した。家族はそれを立派な歌集にまとめて発刊。わたしにも贈ってくださった。

 そのなかのいくつもは、教育論に通じるところがあるので、いずれ、シリーズとして、拙ブログにも掲載させていただこうと思っているが、今日は、そのうちの数首を紹介させていただきたい。



 まず、一首。昭和53年作とある。

 若き日に父にならひし農法は大方役に立たなくなりぬ



 日本に農業が出現したのは、弥生時代と言っていいであろう。

 それから、この時代まで、

 つまり、歌に出てくる『父』、それはわたしの祖父でもあるわけだが、

 その祖父の時代に至るまで、農作業は、基本的に手作業であるという意味で、ほとんど変化がなかったであろう。

 もちろん、農機具の進歩、改良というものはあったが、その一つ一つは、数世代にわたって行われるような、おだやかな変化であったと思われる。

 また、その進歩、改良は、全国一斉に進むわけではなく、よそへ伝播するスピードも、やはりおだやかだったのではなかろうか。


 そういう時代は、年長者が技術等を若い人に教えたはずである。若い人にとっての年長者は、何でも知っている人、何でもできる人、自分にはできないすごい技術をもっている人。そのようにうつったであろう。

 そういう時代、年長者は権威もあっただろうし、尊敬もされただろうし、大事にされたであろう。



 しかし、叔父のころから、その様相は一変する。

 技術革新の一つ一つは、数世代に及ぶなどというものではなく、一世代のなかで、どんどん進行するようになった。めまぐるしくなったのである。

 こうなると、技術等を年長者から教わるなどということは、ほどんどなくなった。なにしろ、一世代のなかで、いくえにも進んでしまうから、年長者の技術はすぐ時代遅れとなってしまう。


 また、技術の伝わり方も、まったく様相を異にするようになった。

 かつては、口コミ、見よう見まねなどにより、ゆっくり伝わっていったものが(戦国時代の鉄砲伝来のように例外はあるけれどね。)、いまや、いいとなれば、全国一斉に技術革新の波にのまれてしまう。

 かつては、年長者の手にゆだねられていた知識・技術が、マスコミ、書物(近年はネットもあるね。)などの力によって教えられるようになった。

 こうした面からも、年長者から教わるものは激減してしまったのである。年長者は、権威もなく、尊敬の対象でもなくなってしまった。



 さあ。こまった。

 年長者は、社会にとって不要な存在になってしまった・・・のだろうか。



 ここで話を変える。


 生物進化の歴史から考察してみよう。

 生物進化の歴史のなかで、ずっと長い間、おそらく40億年の大部分は、生物生存の目的の第一は、種の保存であった。繁殖であった。

 食物連鎖で分かるように、ある種が絶滅してしまったら、生物全体の生存にはかり知れない影響を与えるから、それは本能となって自然に培われていった。

 そうしたなかでは、生物は、基本的に、繁殖を終えると命は絶たれたのである。繁殖を終えれば目的は達したことになるし、それが終わっても命を永らえることは、種の保存を危うくする。食い扶持を減らすからだ。
 
 縄文時代の遺骨を発掘すると、当時の人間の平均寿命は、20歳代だったことが分かるという。つまり子孫を残すとすぐ、もう、死がやってきたのだ。当時まで、この種の保存の法則のなかに人類もいたといえよう。


 では、弥生時代以後、なぜ、人間は寿命を伸ばしたか。それは、教科書的な答えだが、農耕が始まったことにより、生活が安定し、富を蓄えられるようになったから。

 
 でも、ある学者は、それだけではないと言う。

 農耕を中心とした技術を、若い人に伝える必要が生じたから。つまり、若い人に学習の必要性がましてきたから。それによって、年長者には、生きがいが生まれたから。

 そうか。生きがいは、寿命を長くする効果をもっていたのか。

 

 ところが、近年、どうだろう。

 学習の必要性はものすごく高まっているものの、それが、あまりに猛烈な勢いで進むものだから、もはや、それは年長者の手から離れてしまった。



 さあ、こまった。

 年長者は、社会にとって不要な存在になってしまった・・・のだろうか。


 
 そろそろ、本日の結論に移ろう。

 こういうときに、日本においては、後期高齢者医療制度がスタートした。

 まことに時宜を得た政策と言えよう。


 人類も繁殖を終えたら命を絶える。

 だって、若い人を育てる役割は、もう終わってしまったのだもの。生きがいもなくなってしまったのだもの。それが自然の摂理というものだ。

 

 また、話を大きく変える。ごめんなさい。結論はまだ先でした。


 日本は、議院内閣制ならぬ、官僚内閣制だと言われる。

 その官僚の多くは、子ども時代からの激しい受験体制のなかで勝ち抜いた経験を持っているであろう。

 わたしが初任だった昭和45年。わたしは、公立小学校でありながら、受験教育に力を入れていた学校に勤務した。そのときの卒業生は、今、50歳かな。

 このころの受験勝ち抜き組の一部が、今、官僚の中枢となっているのであろう。



 ところで、彼ら、勝ち抜き組がどういう教育を受けていたか。わたしはよく知っている。

 これまでいくつか記事にしてきたので、それにリンクしよう。

   教員生活35年

   心の教育(2)

 つまり、知識を競わせる教育であって、心の面はないがしろにされてきたのだね。そうした傾向は大きい。

 もちろん一人ひとりをみれば、いろんなタイプの人がいるだろう。受験勝ち組の中にも、思いやり、やさしさをもった人は大勢いるに違いない。

 しかし、子どものころ、心を育まれることのなかった部類の官僚の多くが、今、国家の政策を策定している。それなら、彼らが、自然の摂理にかなった政策をとるのは当然ではないか。

 そうした政策の結果、年長者はますます生きがいをなくしていく。



 ああ。

 わたしたち教員が、40年前、

『自ら学び、自ら主体的に物事を考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力』
『自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性』(双方とも、文科省の言う『生きる力』)

をしっかりと培っていたら、こんなことにはならなかっただろう。


 当時もこういうことは言われていた。でも、ほとんどは、単なるお題目、スローガンとしか受け取っていなかったのではないか。

 そうした意味での『心の教育』を怠ってきたツケが、今こうして、自分たち高齢者のもとに回ってきた。何と皮肉なことか。ざんきにたえない。


 しかし、ことは簡単ではない。

 受験教育を中心とした知識つめ込み偏向教育は、その後、増大こそすれ、けっして是正はされていないのである。とすれば、日本の危機は、今後ますます増大するのであろう。


 お待たせしました。いよいよ結論です。


 最後に、年長者は不要か。

 とんでもないことだ。


〇年長者が大勢いて、みんな幸せな生活を送っていたら、若い人にどれだけ夢と希望を与えるか分からない。年長者がみんな早く死んでしまったら、若い人は、『どうせ。自分たちだって、〜。』となり、夢も希望もなくすであろう。

 部屋にかかぐ父の写眞の表情はきびしきやさしきその日その日に(昭和51年)


〇いくら技術革新が進んだって、年長者の出番はあるはずだ。現に、わたしがやっている初任者指導。人と人とのふれ合い。温かな心の交流。それこそが仕事という分野では、年長者の役割はむかし同様にあるはずだ。

 つつましく生きたる父が一生に一度もらひし優良米出荷表彰(昭和50年)


〇今の年長者は、新しい分野で、みずから、『生きがい』を見いだしている。それこそ、主体的に学び、判断し、行動している。そういう人はふえつつある。

 官僚の皆さん。新しい時代のなかで、年長者が新たなる生きがいを見いだせるように、そして、そういう機会が多様に準備されるように、そんな社会の建設に向けて、ご奮闘いただければ幸いです。
 日本人の寿命を縮めないために。そして、明るい日本の建設のために。

 もらひたる老齢年金使ふなく枕辺に置き母逝きましき(昭和50年)

 かたくなを一生通せしなき父が母連れて旅に出でし日のあり(昭和52年)

 
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 叔父の歌集には、おもしろい歌があります。


 老い父は作付け減反に理解ありて人は事態に対応すればよしと云ふ(昭和45年)


 さあ。我が祖父が存命だったとして、まさか、

 老い父は後期高齢者制度に理解ありて人は事態に対応すればよしと云ふ

 とはならないでしょうね。


 叔父は、年長者を敬っていますよ。それは、歌によく現れています。

 それでは、亡き叔父をしのびつつ、すみません。今日も1クリックをいただけたら、幸いです。

rve83253 at 16:45│Comments(5)TrackBack(0)自己啓発 | エッセイ

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この記事へのコメント

1. Posted by エド   2008年05月03日 00:54
はじめまして、学力向上委員会というブログをやっていますエドと申します。お互いのアクセスアップの為相互リンクお願いできませんでしょうか?
そちらのブログは私のブログのRSSに登録して更新されるとトップに表示されるようにしています。
もし、このコメントが迷惑でしたら放置でお願いします。http://kateikyousinoerabika.blog71.fc2.com/
2. Posted by toshi   2008年05月03日 12:18
エドさん
 相互リンクのご依頼、ありがとうございます。
 ただ、受験塾のブログですね。わたしは記事にしましたように、いろいろな塾がありますから、一概には言えないでしょうが、基本的に小学校からの受験教育は、日本を危うくするというとらえです。
 相互リンクの依頼をどう受け止めたらいいのか、判断がつきかねています。
3. Posted by エド   2008年05月04日 22:55
お返事ありがとうございます。
ではコメント削除で相互リンクも無しでOKです。
ご迷惑をおかけしました。
4. Posted by YK   2008年05月05日 19:09
技術が発展すれば年長者が要らなくなるという理屈はありえないですよ。人間のメカニズムの中で一番複雑なものは脳神経だと言われています。脳の中にある神経細胞は一千億だとも聞いています。その細胞の活動の速さを計量したり、細胞の質を分類したり、、今はそこまで科学技術は進んでいます。
しかし逆に考えれば技術はそこまでですよ。経験、記憶、感情の領域は、計量できる範囲を超えたら本人にしかわからないです。そこに年長者の「らしさ」があるように思います。今の社会は「らしさ」を消したがっているようですね。社会の変化が激しければ記憶を振り返る余裕もなくなりますからね。技術に翻弄されてしまっている感じがします。
5. Posted by toshi   2008年05月06日 23:16
YKさん
 まあ、要らなくなるは、オーバーかもしれませんが、でも、社会の変質により、相対的には言えるようになったのではありませんか。
 でも、それではいけないという思いです。
 別な面では、昨日までできていたことができなくなる。記憶も忘れっぽくなる。ということはありますね。
 まあ、今回のことでの、厚労省の高級官僚だけは、まだお年寄りではないけれど、不要になった感ありですね。

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