2008年05月09日

テレビの画像 〜初任者指導の視点から〜4

194944ab.jpg 前記事において、テレビで放送された画像(『真相報道 バンキシャ! 子どものための「教師再生を」』ブログの左サイドバー、『放送内容』欄の『なぞ/“競争のない犬山を東京の教師は?』)をもとに、2つの地域の教育事情を考察した。

 しかし、わたしは、教育事情以外でも、

 今の仕事が初任者指導であることから、自然に、その観点でも見ることとなった。


 テレビの取材を受けた学校、及びテレビ局に対しては、このような考察はまったく想定外のことだろうから、ご迷惑なことと思うが、

 せっかくの放送であるし、なによりはっきり画像に映っているものだから、具体的な考察が可能で、そういう意味では、子どもへの接し方等、多くの方々に考えていただけると判断、あえてやらせてもらうことにした。

 すみません。そういうわけですので、よろしくお願いします。



 さて、ここに登場する教員6年目のC先生は、前記事にも書かせていただいたように、教員としてすばらしい成長を遂げている。それは間違いない。

 ここでは、C先生、及び、C先生をあたたかく育む教員集団にふれさせていただくのであるが、『いいなあ。』と思う点とともに、課題にもふれさせていただこうと思っている。
 だが、その前に、一言、お断りしておきたい点がある。



 それは、ほんとうは、わたしのようなものが、いろいろ申し上げるのは僭越という部分もあるのだ。

 と言うのは、わたしが教職6年目のころを振り返ってみると、とてもC先生のようにはいかなかった。

 一生懸命やってはいたから、当時の子どもたち(今、40代半ばかな。)は、『熱血先生』などと言ってはくれるが、わたし自身、いろいろ課題を抱えていた。

 すでに記事にしたこともある。

   わたしも若いときは

 恥ずかしながら、30代半ばでも、この記事のような部分があった。


 それだけに、このテレビに映るC先生のすばらしさを感じる。わたしなぞ、足元にも及ばない。

 こうしたC先生の成長は、一番はC先生自身の努力、そして、二番目には、教員集団のすばらしさがあげられるであろう。



 それでは、本論に入る。

 まず、C先生。そして、C先生を取り巻く職員集団のすばらしいところから。


 朝、教室で、子どもたちから、いじめの話を聞いたとき、C先生は機敏に対応した。

 これが大事だ。

 『なんだ。そんなの、当たり前じゃないか。』と思われるかもしれないが、

 こういう子どもの訴えをしっかり受け止めてやることは、子どもに、『ああ。言ってよかった。』という思いをもたせることができる。そういう営みを日々続けることは、再発防止にもつながる。


 それも早いうちから心がけることが大切だ。

 C先生は3年生担任だが、高学年になればなるほど、『ちくる。』と言われるのを恐れて、だんだん言わなくなる傾向が出てくる。

 なお、これに関連する記事をすでに書いたことがあるので、紹介させていただこう。

    学級経営・児童理解のページ 5年生


 次、

 C先生の訴えを聞いた、まわりの先輩教員の対応もすばらしい。

 特に、いいなあと思ったのは、先輩教員の質問。

「田んぼに落とされた子に、被害者意識はあるの。」
「遊びの中のできごとなの。」

 そう。これは、『いじめ』の問題に対応するときの重要なポイントだね。

 はたからはいじめられているように見えても、当人同士は、遊びだったり、対等のけんかだったりすることもままあるから、その辺はしっかり押さえないと、指導は始まらない。


 この辺の連携が、日ごろからあるのだろう。C先生は、あらかじめ、ちゃんと、田んぼに落とされた子からも、その辺の事情を聞いている。とてもよい。

 だから、若い教員がしっかり育つのだろう。



 さらに、もう一つ。

 広い体育館で、ドッジビーを屋根に載せてしまった子が、クラスのみんなに謝る場面がある。

 この子が泣きながら、『ごめんなさい。』

 その後、C先生が、
「分かったあ。ドッジビーが・・・(ここで、一人の子どもから、『いいよう。』と言う声あり。)。ああ。やさしい。いいようって言ってくれた子がいる。よかったねえ。」


 ああ。わたしは、C先生のこの言葉にしびれてしまった。
 
 いい対応だなあ。第一、先生の言い方がすばらしい。ほんとうに、うれしさが、口調ににじみ出ている。C先生が感動している様子がビーンと伝わってくる。



 初任者指導をしていると、担任が子どもの話を聞いていないと感じることが、まま、ある。

 特に、この場面。

 C先生には、子どもたちに、強く言いたいことがあったに違いない。わたしが、想像するに、

「分かったあ。ドッジビーがやねにのっかっちゃったんだって。それで取れなくなっちゃたの。もう、みんな、ドッジビーで遊べないねえ。残念だけれど、Dちゃんが、こうやって謝っているから、許してあげていいかな。」

 そのようなことを言おうとしていたのだろう。その冒頭、一人の子が、小さな声で『いいよう。』と言ったのに違いない。

 C先生は、その言葉を確実にキャッチした。すると、自分の言いたいことをさっと切り上げて、『いいよう。』の言葉に反応した。


 初任者に限らずだ。こうした臨機応変な対応は、できるようでなかなかできない。特に、このケースのように、自分が言いたいことが強烈にある場合は、なおさらだ。自分の言うべきことに頭が集中しているから、子どもの小さな声など、聞こえてこないのだ。

 このケースで、『いいよう。』と最初に言った子は、先生にほめられて、とてもうれしかったに違いない。



 どうだろう。このブログは保護者の皆さんも、多く読んでくださっていると思うので、あえて申し上げるが、

 こうした話は、教員だけのことではないだろう。失礼ながら、保護者の皆さんも、日ごろ、我が子の話をしっかり聞いているだろうか。
 ここから学んでいただければ、幸いである。

 こういう対応が、子どもを育む。心を耕すことにつながる。




 さて、次は、取材に応じてくれた、この学校には大変失礼な話になるのだが、申し訳ありません。

 でも、多くの保護者、及び教員の方々にお考えいただければ、それは、即、子どもの幸せにつながると思うので、あえて書かせていただく。


 前号でも、さわりだけふれたのだが、

 上記、ドッジビーの謝罪の件で、冒頭にC先生が言った言葉は次のようなものだった。

 「B君が話したいことがあるんだって。聞いてあげてください。・・・。はい。立って。泣くんじゃないの。ちゃんと最後まで言うのよ。」

 この言葉に、矛盾をお感じにならないだろうか。・・・。いかがだろう。







 冒頭は、『B君が話したいことがある。だから、先生は、話すのを許可した。』『先生が言わせているわけではない。』と言ったニュアンスだ。それなら、最後の、『ちゃんと最後まで言うのよ。』は変ではないか。

 何を話すか。どこまで話すかは、B君にゆだねられたはず。話す主体は、B君にある。


 極端な場合、ただ、『ごめんなさい。』でもいいはず。あれだけ、泣きじゃくっているのだもの。

 でも、それでは聞いている子たちは、何を謝っているか分からないから、

「どうしたの。」
「何を謝っているの。」
となるだろう。

 それでも、
「ドッジビーが、ドッジビーが、・・・、のっかっちゃった。」
子どもによっては、それだけしか言えないことだってあるだろう。

 そうしたら、先生が補足してやったっていいではないか。

 それが自然体というものだろう。



 まだ、ある。

 こういうこと、外国のことがよく分からずに言うのは変なのだが、わたしは、あまりに日本的だと思う。だから、日本人のほとんどは、上記C先生の指導に、まったく矛盾を感じないし、違和感も抱かないのではないか。

 つまりこういうことだ。

 いっけん、子どもが主体的に言っているかのように見える。しかし、実際のところは、先生が子どもに言わせている。


 そう。これは、我が地域も含めて、おそらく、日本中の学校(親も・・・かな。)がやっていることだ。


 繰り返しになるが、外国はどうなのだろう。

 本音も建前もなく、教え込みの国では、子どもが主体的に言っているかのように装う必要がないから、このようなことはないだろう。

 民主主義国家。子どもの主体的な学びを保障しているかのように見える国に限定しての話だね。


 このような例では、子どもが、『先生に言わされている。』という意識にならないような、『自分の思いで謝ったのだ。』と思えるような指導を工夫する必要がある。

 そうでないと、ナレーターが言っているような、子ども同士の仲直りも、素直に謝る勇気も、もしかしたら、かたちだけになってしまうおそれがある。

 ただ、この場面において、『許すやさしさ。』これは、明らかに、子どもの主体的な言動でしたね。

 だからこそ、C先生は、感動したかのような、声をつまらせての称賛となったのだろう。

 

 その具体的な指導法は、

 一例だが、わたしの対応を紹介しよう。とは言っても、わたしが、リンク記事のような指導ができたのは、40代になってからのこと。

   『Aさんは悪くない。』前半の記事

 そう。謝るのも、反省するのも、悔やむのも、すべて、子どもの手にゆだねると、たとえ問題行動をとった子どもに対してでも、大きな感動を示すことができるのだ。


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ninki



 今日の記事は、『若さは未熟』と受け取られかねない部分だけに、焦点がいってしまいましたね。

 それは確かにありますが、しかし、他の仕事と決定的に違うのは、『若さ』ってすばらしい、魅力的という部分もあるということです。なにしろ、相手が子どもですからね。

 そうした記事もかつて書きましたので、よろしければご覧ください。

   はれて教員となった皆さんへ


 最後に、前記事の内容にお詫びを2点。

 まず、東京、東京と書きましたが、東京って言ったって広い。東京の品川区のある部分の声だということを書くべきでした。東京の皆さん。ごめんなさい。

 もう一つ。わたしは、岐阜県犬山市と書いてしまいました。愛知県犬山市でしたね。気づいてすぐ直しましたが、ヤフーで、『バンキシャ 犬山』と検索すると、直す前のが出てしまうのもあります。

 ああ。恥ずかしい。社会科の教員だったのに。犬山市の皆さん。ごめんなさい。

 テレビ画面のB君ではないけれど、お詫びします。
 
 
 それでは、『いいよう。』と、許していただける方は、1クリックをお願い、・・・、できますか。 

rve83253 at 14:25│Comments(12)TrackBack(0)指導観 | 児童指導

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この記事へのコメント

1. Posted by yoko   2008年05月09日 22:38
ドッヂビーの件で、C先生がよかったねぇって言っているところ、見ている私もジーンとしました。こういった日常の学校の様子を見る機会はありませんから、娘の学校はどうなのだろうと少し気になりました。
≪謝るのも、反省するのも、悔やむのも、すべて、子どもの手にゆだねる≫…ついつい口がでてしまいます。やらせる、させるのではなく、自発的にするよう導くのは、勉強もそうですが、難しいですね。
2. Posted by toshi   2008年05月10日 10:38
yokoさん
 教育に感動は不可欠と思います。感動あるところに、子どもの心の耕しがあるのだと思うくらいです。
 子どもの手にゆだねるということ。学校と家庭では違いがあると思います。
 学級には、数十人もの子どもがいますね。そうなると、『誰かがやってくれるだろう。』と思って待ちの姿勢で臨んでも、比較的、ねらいを達成しやすい。
 家庭だとやはりね。1人2人ですから、なかなかうまくことが運びません。それに、『我が子ゆえの事情で待てない。』ということもありますね。根気と信頼と、『これがダメならあちらがあるさ。』くらいの気持ちがないと、なかなかうまくいかないようです。
 でも、矛盾するようですが、理想的には、繊細さと待ちの姿勢とでやるしかないように思います。
 ごめんなさい。なんか、現実的な話にならなかったですね。
3. Posted by YK   2008年05月11日 01:48
このC先生は立派な方ですね。立場は違っても、同世代にこういう先生がいるのは嬉しいです。私自身に子どもはいませんが、このブログは、自分が親になったら子どもにどう接しようかなど、考えるきっかけになって勉強になります。私も立派ではないにしても一応先生と呼ばれていますが、最近は子どもが労働や奉仕の意味について、より深く考えるような教育をしなければならないな、とますます感じています。貧、老、病、こうした問題が比重を高める社会で、調和的な方向に社会を導くためにはどのように人を育てたらよいのだろうか、などと考えてしまいます。
4. Posted by toshi   2008年05月11日 16:32
YKさん
《このブログは、自分が親になったら子どもにどう接しようかなど、考えるきっかけになって勉強になります。》
 このようにおっしゃっていただいて、ありがとうございます。実は初任者にそのようなことを言ったことがあります。
「先生もやがて結婚されて、子育てに励むときがくるだろう。今している学級経営の話は、先生の未来の子育てにも通じる話だと思うよ。」
 また、先ほどは、まさに子育て中の娘へのメールをテーマに記事を書かせていただきました。
 奉仕については、かつて記事にしたことがありました。本コメントのわたしのHNをクリックすれば出るようにしましたので、よろしければご覧ください。
5. Posted by YK   2008年05月13日 01:34
<<今している学級経営の話は、先生の未来の子育てにも通じる話だと思うよ。>>

そうですね、、。いまは小学生が中学受験をするケースも多いようですが、私自身はあまり受験自体に興味は持てないですね。競争するにしても、本人が自由意思によって競争を選択するなら応援しますが。ただ、それも本人の意思を尊重する程度のものでしょう。
それはどちらでもよい問題ですが、親ともなれば、子どもに学問の楽しさを体感させる責任が生まれると考えます。これは私の経験に基づくので、進学塾の先生にも教えることはできないだろうと考えています。
6. Posted by YK   2008年05月13日 02:15
奉仕に関する記事、ご紹介ありがとうございました。大変興味深く拝読しました。少し、言葉の定義上の問題なのですが「奉仕」は英語でサーヴィス(service)ですが、その語源のサーヴィチュードは「隷属」を意味します。では「何」に対する隷属か、何に対して「奉仕」するかと言えば「神」でしょう。マザー・テレサなどは典型的ですが、神に奉仕して、神の前では平等だから弱者に対しても等しく接する、これが本来的な、というか西洋的な意味での「奉仕」でしょう。この場合は、JPMさんが指摘するような自己満足だとかいう議論は起こりえないでしょう。なぜなら、奉仕(という行為)の正当性が共通価値として承認されていますから。
7. Posted by YK   2008年05月13日 02:34
また「ボランティア」という言葉は、もともと「志願兵」ですから「奉仕」とは若干違って、正義感に基づいて、例えば被災地に赴くとか、そういう意味でしょう。いずれにせよ、基礎となるのは神です。
では日本の場合は、「奉る」「仕える」対象は何かと言えば、「公」なのでしょう。「公」というのは、国家であったり、地域社会であったりするのでしょうが、西洋における「奉仕」とは異なる前提があるように思います。つまり、「神」は絶対的な存在であるが、「公」は必ずしも絶対的な存在ではないということです。JPMさんが、なぜ「奉仕」の必修に反対したかはわからないでもないです。要は、奉仕を強制するほどの説得力のある論理が準備できてないのでしょう。
8. Posted by YK   2008年05月13日 03:17
しかし、私が最近、奉仕という問題について考えるようになったのは、あるきっかけから、人間はもしかすると、「神聖な(sacred)」部分を持っていて、それを実感するとき、人生に充実感をもたらすのではないか、という感覚に捉われたからです。(別に私はクリスチャンではないのですが。)しかし、では、なぜそういうことではなしに、奉仕に拒否反応を示す人が多いのか、、という問題について考えてみると、やはり、奉仕をするにせよ、しないにせよ、「世間の目」によって動いてしまう日本社会の特徴に行き着いてしまうのです。奉仕の問題を考えることで価値基準の不在を感じるのも皮肉的ですが、この問題については考えていく必要があるように思いました。
9. Posted by toshi   2008年05月16日 06:23
YKさん
 日本はどうも、豊かな人間性の構築と学びが切り離されている傾向がありますね。学ぶ力、生きる力、楽しく学ぶこと、主体的に学ぶこと、切実感、必然性のある学び、これらは皆、軌を一にするものだと思います。
 受験社会がこれを妨げているのですね。どうしても暗記中心の学びが横行します。そうしてそうした学びしか知らない者が、教員になったり教育行政に携わったりしていますから、百年河清を待つような感じになってしまっています。
10. Posted by toshi   2008年05月16日 06:37
奉仕については、いろいろな言葉の語源を教えていただき、ありがとうございました。おおいに勉強になりました。
 そうですね。語源から考察することも大切ですね。また、文化の違いも確かに大きいでしょう。
 日本人が、『奉仕』に拒否反応を示す要素としては、世間の目ということもありますが、戦前、これが国家によって強制されてきた歴史が大きく関係しているのではないでしょうか。
 自ら進んで、つまり内発的動機付けで奉仕しようとする心。それを養うことは、前コメントの、自ら学ぶ力、生きる力などと関連し合って機能するのだと思います。逆に言えば、知徳不可分で述べたように、そういう学びを身につけたものが、奉仕の心を自然にもつようになると考えられるのだと思います。
11. Posted by YK   2008年05月18日 02:18
お返事ありがとうございました。歴史のお話も為になりました。また考えてみたいと思います。またコメントが長くなってしまい、他に投稿される方のご迷惑になってしまったかと反省しております。申し訳ありませんでした。

≪日本はどうも、豊かな人間性の構築と学びが切り離されている傾向がありますね。≫

私もなぜ先生がこういったことを繰り返し仰るのか少しわかってきたような気がします。私もここ数年地元の学校法人のトップ数人に会っていますが、ある種の人々は民主主義の維持のためには、部下も子どもも賢くあってはならないと本気で信じているようですからね。学ぶのを好む、しかも思索を捨てずに学ぶ教育者は稀と思えることもあります。
12. Posted by toshi   2008年05月18日 15:59
YKさん
《またコメントが長くなってしまい、他に投稿される方のご迷惑になってしまったかと反省しております。》
 そのようなことはありません。どうぞ、これまでどおり、よろしくお願いします。

《ある種の人々は民主主義の維持のためには、部下も子どもも賢くあってはならないと本気で信じているようですからね。》
 これには驚きました。こういう論理は初めてうかがいました。まさに、人間性無視の反民主主義の考え方というしかありませんね。
 学ぶのを好む、思索を捨てない教育者でありたいですね。

 

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