2008年05月17日

政治教育のすすめ4

f7aba2e8.JPG 日本の学校教育において、政治教育は、どのような位置を占めているのだろうか。


 教育基本法の第十四条には、

 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。

としながら、2項において、

 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。

とある。これは、旧法とくらべても、若干字句が変わっただけで、変化はない。


 つまり、戦後一貫して、政治的教養は尊重されなければならないが、特定の政党を支持したり、反対したりする政治教育は禁止されてきたということである。


 さて、後段に異存はないが、前段の政治的教養は、学校教育において、はたして尊重されてきただろうか。


 それが、本記事のテーマである。


〇わたしは、小学校教育の状況しか語れないのだが、小学校社会科にも、政治単元と言われる単元はある。

 しかし、その多くは、憲法、三権分立、国民の権利義務など、政治的な知識を身につけることに終始しているのではないか。

 学習指導要領には、
『国民主権と関連付けて政治は国民生活の安定と向上を図るために大切な働きをしていることについて考える。』
とある。

 しかし、どうだろう。

 たとえば、現在なら、後期高齢者医療制度が、国民生活の安定と向上を図るためになるのか、ならないのか、そういったことは、まったくと言っていいほど学ばれていないのではないか。


〇これは、教育基本法で、『尊重されなければならない。』とされる、良識ある公民として必要な政治的教養にあたると思う。ぜひとも、とり上げてほしいものである。

 しかし、多くの学校は、『こうした問題をとり上げるのは、あまりにも生々し過ぎる。特定の政党を支持したり反対したりする教育になりかねない。』ということで、できないと考えているのではないだろうか。

 わたしは、そのようなことはないと考える。

 確かに、ストレートに、A党支持、B党反対となってはまずいだろうが、今行われている政治に対し、深く掘り下げようとする学習は、まさに、尊重されるべき政治的教養であると考える。その結果として、一つの政策(政党ではない。)に、賛意を表したり、疑問を提示したり、反対したりすることはありうるのではないか。


〇これは、どういう指導法をとっているかにもかかわる。日ごろ、教え込みの授業をしているのであれば、こうした話題をとり上げるのに抵抗感があることは、容易に想像できる。

 だって、指導者は、後期高齢者医療制度に関して、政府はこう言っている。反対する政党はこう言っている。『そこで、わたしは、〜。』とならざるをえないものね。黙っていれば、子どもが、『先生は、どう考えるの。』と質問してくるだろう。


 それに対し、日ごろ、問題解決学習に代表されるように、子どもの思い、考えを軸に学習を進めているのであれば、子どもたちは、主体的に調べ、自分の考えをもち、それを発表し、話し合いへと入っていく。

 自分の思いを述べ、友達の発言を聞き、そうしたなかで、自分の思いをより固めたり、友達の考えに賛成し、自分の思いを修正したり、そのすべてを主体的に行う。ここでは、指導者の意見は仮に言ったとしても、子どもにとっては、あくまでそれは参考意見に過ぎない。


〇こうした学習は、子どもたちに、学ぶ喜び、学びの充実感をもたらす。そして、自分としての生き方を徐々に形成していくことになる。

 それに第一、価値を追求することに貪欲な子どもたちは、こういう学習を要求するだろう。

 たとえば、以前、

   人権教育(15)交流をテーマの総合的な学習の時間

なる授業を紹介させていただいた。こういう学習を進めている子どもたちは、当然、障害者差別の問題に入っていかざるをえない。社会には歴然として、そういう問題があるからだ。好むと好まざるとにかかわらず、学びの必然として、そういう差別の実態が見えてくる。

 また、

   総合的な学習の時間とは、(1)

では、高齢者との交流を通し、福祉問題にかかわる授業を紹介させていただいた。もし、この学習が現在行われているのであれば、これだけ騒がれている後期高齢者医療問題だ。子どもたちは、当然追求への意欲を見せるであろう。避けて通ることはできない。

 もし避けるならば、子どもたちは、『大人ってずるいな。くさいものにはふたなのだな。』と思って、学ぶ意欲を減退させてしまうに違いない。これでは、『生きる力』を培うことができないね。


 国は、総合的な学習の時間を発足させたとき、学習内容として、国際理解,情報,環境,福祉・健康の4つを例示した。

 ああ。考えてもみよう。どれも、政治性の高いものばかりではないか。


〇実はこうした学習は、PISAも支持しているのではないか。

 PISAは、PISAのねらう学力として、『社会にでて役に立つ実用的な学力』『問題解決能力、すなわち、パターンを認識して類似性を見出し、発展させたり、問題を認識して、解決の戦略を展開したり、その戦略を評価するといった能力』などをあげる。

 そして、問題を見ても、落書きに関する問題で意見表明を求めるなど、政治性を感じさせる問題もいくつかある。


 そして、日本の子どもの不足しがちな学力として、『評価したり、熟考したり、推論したりといった幾つかの分野』をあげる。

 これがすぐ政治教育の不足のためとは言えないだろうが、しかし、それが含まれることに異存はなかろうと思う。


〇以前も書かせてもらったが、国は、教育行政に定見がない。定見がないということを逆手にとると、学習内容に自由度は高いということである。(PISAも、日本をそのように見ている。)


 現に、『良識ある公民として必要な政治的教養』を大切にした実践をしている学校もある。

 以前、ブログで懇意にしていただいているhirarinさんが、ご自分のブログに書かれたある学校の実践があるので、今、リンクさせていただこう。

    静岡市立安東小学校 第40回研究会

 これは、すごい実践だ。憲法9条を真正面からとり上げ、すばらしい授業を展開している。


 何を隠そう。このわたしも、担任時代、『戦争は絶対やってはいけないか。』をテーマに授業をやったことがある。

 『絶対だめ』という意見と、『侵略されたときは仕方ないのではないか。』という意見が対立した。もちろん、意見の一致を見ることはなかったが、大討論をした子どもたちは、満足そうだった。お互いが相手の意見に耳を傾け、反論すべきは反論し、『賛成はできないが、言いたいことは分かった。』というように、理解を深めていった。

 残念ながら、この授業記録を紛失してしまい、ブログに掲載できないのだが、この授業の伏線となった歴史学習がある。それは、大塩平八郎の乱をとり上げた授業だった。

 大塩平八郎は、幕府にとっては反逆人だが、庶民にとっては強い味方だったということから、戦いは是か非かを話し合ったのだった。

 この授業記録はあるので、いずれ記事にさせていただこうと思っている。


 そう。話は違ってしまうかもしれないが、多くの学校では、この種の授業をしていない。意見を戦わせ合う授業を子どものときにしていない。

 それが、大人になってからの討論ベタを生み出しているのではないか。まるで我を張るかのような態度。もちろん、『これだけは譲れない。』というものはあっていいのだが、多くは何でもかんでも反対してしまうのだよね。そして、感情的になる。挙句の果ては、意見別れが人間としての別れをも意味してしまう。


〇最後に、このブログをお読みの保護者の方にお願い。

 政治教育について、いろいろ述べてきたが、それでもやはり、学校においては、A党賛成、B党反対というわけにはいかない。それは確かだ。

 しかし、家庭教育においてはどうだろう。それはいっこうにかまわないのではないか。

 もちろん、子どもへの押し付けはよくない。しかし、子どもが、『お父さん、お母さんの考えはどうなの。』と聞いてきたときは、積極的に意見表明していいのではないか。
 

 わたしにも経験がある。

 選挙の帰り。娘に、『お父さんは何党に入れたの。』

 これはかくすことなく、正々堂々答えた。なぜかの理由までまじえてね。

 こうした政治教育は、家庭教育の独壇場だ。家庭においての家族間の政治討論会。すばらしいではないか。
 

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ninki



 政治教育の位置づけは、宗教教育と似ていますね。

 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない

としながらも、2項においては、

 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

としています。

 宗教的情操を養うことは大切です。これについても、かつて記事にしたことがあります。よろしければご覧ください。

   宗教的情操を養う教育

rve83253 at 14:47│Comments(15)TrackBack(0)PISA | 社会科指導

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この記事へのコメント

1. Posted by ai   2008年05月21日 00:18
相手の意見を尊重し理解を深めつつ、議論を進めるのは大人でも難しいことですね。
本当に、意見の対立が相手の人格をも否定することにまでつながりかねない場合もあると思います。
私も、議論のやり方なんて教わった経験はありませんし、相手と意見の食い違いがあるとついカッカしてしまうことが多くあります。

しかし、指導者次第で小学生でも実りのある議論ができるのですね。
むしろ頭の柔軟な子供たちこそ、こういう考え方をする人もいるんだという発見が、貴重な体験となるのかもしれませんね。

家庭でも、親の考えは唯一つの正解などではなく、「私はこう思うがあなたはどう思うの?」と子ども自身にも考えさせることは大切だと思います。
2. Posted by フルタ   2008年05月21日 12:55
この記事を読んで、米国がアフガン攻撃を開始する前後に日本でも行われた、ピースウォークに子ども達を連れて参加したときのことを思い出しました。政治的な話題を他人とすることをそれまで避けていたように思いますが、あのときばかりは反対意思を示したいという強い思いがありました。当時7歳の上の子は、プラカードを持つ知らない人ばかりの集団に、戸惑い気味だったのを覚えており、未だに子連れで行ったことを少し後悔もしています。
aiさんのおっしゃる『家庭でも、親の考えは唯一つの正解などではなく』には、本当に頷けます。政治的なことで、自分が子どもに自分が考えを話すとき、なるべく対立する意見の人が考える利点も話すように心がけています。
3. Posted by toshi   2008年05月22日 14:18
aiさん
《むしろ頭の柔軟な子供たちこそ、こういう考え方をする人もいるんだという発見が、貴重な体験となるのかもしれませんね。》
 かつて、『鉄は熱いうちに打て』シリーズにも書いたのですが、議論のやり方を子どものうちから自然に身につけさせることは、ほんとうに大切なことと思います。いろいろな見方があることを、子どものうちから肌で体験しているかどうかは、それこそ、人としての一生の生き方にかかわってきます。PISAの主張の一つもそこにあると思います。
 
4. Posted by toshi   2008年05月22日 14:27
フルタさん
《政治的なことで、自分が子どもに自分が考えを話すとき、なるべく対立する意見の人が考える利点も話すように心がけています。》
 うううん。ちょっと考え込んでしまいました。わたしは、記事では、家庭教育の特権。親は自分の思いを大いに語るべきと言いたかったし、生き方をはっきり示すのはいいことと思っていましたから、そういう政治の場(?)へ子どもを連れて行くことも
オーケーという気持ちでした。
 戸惑いというのは、どうでしょう。お子さんにとって唐突だったからということはなかったでしょうか。
 もし唐突感があったのだとしたら、子どもが親の思いを聞こうとする、そういう姿勢を日ごろから養っておきたいという思いはあります。 
5. Posted by YK   2008年05月22日 22:24
宗教的情操についてですが、最近私の父から聞いた話をご紹介します。父の友人は2歳になる孫を大変可愛がっていました。ですが、残念ながらその方は病気で亡くなってしまいました。もちろん周囲の大人はみなその事実を受け入れました。しかし、その2歳の子は悲しんでいるわけでもなく、事実を把握できているわけでもなく、まだお爺ちゃんと話しているのだ、というのです。つまり、お爺ちゃんの声が聞こえ、お爺ちゃんに向かって話かけるのだという話でした。これについて、まだ小さいので事実を受けいれることができないのだ、あるいは、習慣が抜けていないだけだと言う気には、やはり私はなれないのです。
6. Posted by YK   2008年05月22日 22:42
むしろ私は、宗教的情操を教育される以前の、宗教的情操の純粋な形を見出すのです。それは、この場合で言えば、お爺ちゃんが亡くなったことは事実ですが、この2歳児の中において、亡くなっていないという、これもまた事実です。この事実は、おそらく2歳児が少年になるにつれて忘却されることでしょうが、それは、かつては生きていた、というよりも、生きていることを忘れた、ということになります。とすると、多かれ少なかれ、自然状態において、人は宗教的情操を備えているということになるのではないでしょうか。とすると、「特定の」という言葉は、少数派を侵害しないという意味では権利に関わる問題ですが、実質的にはさしたる意味のない言葉に思えます。
7. Posted by YK   2008年05月22日 23:04
大抵の親はお爺ちゃんが亡くなったと教えるのでしょう。しかし、本当は生きていることを忘れただけだ、とすれば、やはり生きていると考えるのが妥当であると思われます。と、宗教的情操を育もうとすれば、このように死者(とされている存在)の語り掛ける言葉に耳を傾けるとか、そういったことについて、注意深くなる必要があるように思われます。しかし現代日本においては、宗教的情操を想起しようとしても、TVなどマスコミ・ジャーナリズムが用意した商業主義にまみれた占い師らが大手をふるっている始末で、子どもの精神以前に大人の精神が右往左往しているために、このような感性を子どもが伸ばす余地はほとんど無いように思われます。
8. Posted by toshi   2008年05月23日 06:19
YKさん
 その2歳の子にとっては、今も、目の前に、おじいちゃんが存在しているわけですね。その思いをまわりの大人は大切にしてやりたいですね。亡くなったことを教える必要はないように思います。YKさんがおっしゃるように、《死者(とされている存在)の語り掛ける言葉に耳を傾けるとか、そういったことについて、注意深くなる必要がある》ということですね。
 以前、『知ってるつもり』という番組がありまして、忠犬ハチ公をとり上げたことがありました。愛犬がご主人の死を知らず、いつまでも、渋谷駅に迎えに行ったという話ですね。
 この番組のなかで、ある方が、『飼い主さえよければ、犬はみんな忠犬ハチ公になりうる。』と言っていたのが忘れられません。
 これを応用すれば、『幼児の周りにいる大人がよければ、幼児は皆、心やさしい宗教的情操を身につけた大人になりうる。』となりそうです。
9. Posted by YK   2008年05月23日 12:40
<<『幼児の周りにいる大人がよければ、幼児は皆、心やさしい宗教的情操を身につけた大人になりうる。』>>

仰る通りだと考えます。犬と人間を一緒にするなという人もいるでしょう。ですが、忠犬ハチ公にしても、2歳児にしても、1対1の関係において介在したのが愛情であったとすれば、一方の死後も、物質としての肉体以外は消えない、と考えても、何も不思議はないように思われます。中世日本にキリスト教が入ってきたとき、宣教師は「神の愛」という一神教的な表現を避けて、それを「大切」と訳したといいます。とすれば、大切にするという行為自体に、宗教的情操のヒントがあるのかもしれないと思うのです。
10. Posted by フルタ   2008年05月23日 13:41
これまで、アフガンの様子をニュースやドキュメンタリで見るたびに、ピースウォークに参加した話題は子どもとすることがありました。でも、そのときの子どもに気持ちや今そのことをどう思うかは尋ねたことがありませんでした。上にToshi先生がくださったコメント<子どもを連れて行くこともオーケーという気持ちでした。>を読んで少しほっとし、恐る恐る長女に尋ねてみました。「(当時も)戦争はどの国で行われるのも嫌だと思っていたと思う。だから自分も参加しようという意思はあった。でも、小さかったし(7歳になったばかり)、出発まで待っている時間が長かったでしょう。寒かったし。いろんな人がたくさんいたし、始めての体験で唖然とした。でも、良かったよ。参加して」ということでした。
11. Posted by フルタ   2008年05月23日 13:42
聞きながら、デモの出発を待っている間、パレスチナの子ども達のために活動をしている日本の団体が近くに並んでおり、漏れてくる話題から日常とは異なる戦争がぐっと身近で起こっていることのように感じたことを思い出しました。子どもも何かを感じていたことでしょうが、「良かったよ」って言ってもらってほっとしました。
12. Posted by toshi   2008年05月24日 15:18
YKさん
《犬と人間を一緒にするなという人もいるでしょう。》
 そう言われることを覚悟して書かせていただきました。ですから、ご理解いただき、ありがとうございます。
《宣教師は「神の愛」という一神教的な表現を避けて、それを「大切」と訳したといいます。》
 いつも、勉強になる話をありがとうございます。なるほど。日本には、伝統的に、外国で言うような意味での神は、存在しないということですね。すごくよく理解できます。
 当然、道徳的な価値観も、人間的といったらいいか、相対的なものといったらいいか、その背景が違ってくるわけですね。
13. Posted by toshi   2008年05月24日 15:27
フルタさん
 お嬢さんと大切な話ができて、よかったですね。
 わたしは記事では、『学校において、特定の〜』の考え方を支持するような書き方をしましたけれど、ほんとうは、学校においても、こういう話ができるようでなければいけないと、思っているのです。
 その点、民主主義の諸外国ではどうなっているのでしょう。
 人間て、そんなヤワではないのですよね。『親から言われたから、担任から言われたから、』はあるでしょうが、それは参考程度であって、決める主体者は、あくまで本人。
 また、わたしたちは、そういう教育をしなければいけないのだと思います。
14. Posted by YK   2008年05月24日 22:29
<<当然、道徳的な価値観も、人間的といったらいいか、相対的なものといったらいいか、その背景が違ってくるわけですね。>>

そうですね。文化は違うけど、やっぱり大事なことは同じだ、ということが子どもに伝わったらいいなと思うんですが。異文化理解にもつながるとも思いますから。ところで、本文とコメントを見ながら、この問題は、果たして政治教育という枠組みで語るべきなのかな、という気がしてきております。もう少し広く、意志の教育とでもいうべきものじゃないでしょうか(そういう言葉はないかもしれませんが)。しっかりした意見を持つ重要性は、討論だけでなく、民主主義の維持のためにも必要ではないかなと思っております。その中には他国への思い遣りといった問題も含まれておりますので。。
15. Posted by toshi   2008年05月25日 06:01
YKさん
《本文とコメントを見ながら、この問題は、果たして政治教育という枠組みで語るべきなのかな、という気がしてきております。》
 どうぞ。そういうことは気にせずに、コメントをいただければと思います。
 今回も、YKさんは、記事本文ではなく、バナー下でふれた宗教教育のはんちゅうで、コメントをいただいたものと理解しています。
 それでいっこうに構いません。
 政治教育にしろ、平和教育にしろ、どのような名前がつく教育であっても、根は共通したものを持っている。それが、YKさんのおっしゃる『意志の教育』というものだろうと思います。
 わたしは、これを、『子どもが受身でない、主体的な学び』と、理解しています。 

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