2008年05月22日

思考力養成はじっくりと、3

aacfe8b2.JPG 『知識あってこその思考力。知識が欠けているところで、思考をはたらかせることはできない。』と言う人は多い。今日は、つい最近、わたしがやった授業を振り返りながら、そうした考えに、一石を投じたい。

 また、学力調査による学校ランキングの動きなど、そうした世の風潮に対しても警鐘を鳴らしたい。

 

 わたしが今勤務する学校は、どちらかと言えば、学力調査の結果はおもわしくないと思う。うかがったことはないが・・・。

 今日も、初任者である学級担任の声がひびく。
「ええっ。ついこの前、漢字の練習をしたばかりなのに、もう、忘れちゃったの。」


 こういう場合、徹底反復訓練学習を強化しようとする教員は、けっこういるのではないか。特に現代のように、ペーパーテスト的学力へのこだわりが強いと、なおさらだ。

 しかし、どちらかと言えば、学習意欲の乏しい子どもたちに、こうした学習法を適用することは、逆効果をもたらす。学習への拒否反応が、ますます強まってしまう。ひどい場合には、それが学級のアレにつながることもある。



 では、どうしたらよいか。学びへの興味、関心、意欲、態度をつちかうべく、全力を尽くすべきである。

 それには、考える力を養うことが一番だ。人間、自ら主体的に考えることは、充実感をもたらす。
 


 つい、最近、初任者のクラスで示範授業を行った。国語説明文。3年生の『ありの行列』である。単元に入って、4時間目くらいの授業かな。
 
 著作権の関係で、この説明文の全文を示すことはできないが、できるだけ、意味が通るように書いていこうと思うので、よろしくお願いしたい。



 冒頭、わたしは子どもたちにこう投げかけた。

「みんなに最初、感想を書いてもらったね。そのなかに、ウイルソンさんが置いた大きな石のことを書いた子はまったくいなかった。それが、わたしには不思議だった。

 だから、今日の学習問題は、わたしが考えたものなのだけれどね。(『子どもたちの疑問、対立が問題となってはいない。』という意味)その大きな石を置いたわけをみんなで考えてみたいと思う。」


 そして、こう、板書した。

『ウイルソンさんは、(ありの行列のなかに)どうして大きな石を置いたのかな。いじわるをしたのかな。』

 しばらくは、子どもたちに考える時間を与える。挙手はそれほど多くないが、どの顔も真剣ではある。



 まずは挙手している子を指名していった。

「いじわるではないよ。だって、(石を置いたら)行列がどうなるか考えたのだもの。」

 そう言えば、このクラスは、『どうなるか。』っていう発言が多い。この場合だったら、『行列がそのまま続くか。』とか、『バラバラになってしまうか。』とかいうように、具体的に、文章に即して言ってほしいのだが、いまいち明確さを欠く。今の段階では、読みが浅いのだ。

 そこで聞く。

「『どうなるか』っていうのに、つけたしはないかな。」

「行列に石を置いたらどうなるか。」
「石を置いても、そのまま行列がつながるか。」

 おお。やっと、どうなるかの中身が出てきた。


「実験をしたのだから、いじわるではない。」

ああ。また、ばくぜんとしてしまった。そう言えば、この種の発言をする子は、ほとんど教科書をみていない。


 そうしたら、ふだん、あまり、授業に集中していないと思われるAちゃんが挙手。うれしかった。
 
「小さな石を置くと、すぐ、(さとうを)見つけちゃうからつまらない。」

 これはいい。多様な見方が示された。ただ、『石を置いたわけ』を言うのではなく、『石の大きさ』に着目して、それにかかわる理由を発言した。

「ああ。おもしろい。・・・。そうか。ただ石を置いたわけではなくて、大きな石を置いたわけを言ってくれたのだね。Aちゃんは、『大きな石でないと意味がないよ。』って言いたいわけだ。(Aちゃん。うなづく。)

 でも、それだと、やっぱり、ウイルソンさんは、いじわるしたとも言えるね。だって、すぐ見つけちゃうとつまらないから、そうならないようにしたわけでしょう。」


 そうしたら、Bちゃんである。

「いじわるではない。ありさんがこまるかを知りたくて実験した。」

 おもしろい。ありさんがこまるかどうかというはんちゅうなら、やっぱり『いじわる』とも言える。けっして『いじわる』の反論にはなっていないが、意見そのものは、反論になっている。『実験をしたのだから、いじわるではない。』という思いのはんちゅうなのだろう。

 ここでわたしがそれを指摘しても、同じことの繰り返しになるから、それはやめた。


 そうして、視点を変える発問をした。

「みんなは、『実験をしたのだからいじわるではない。』と言うのだけれど、大きな石を置いたのは、ほんとうに実験なの。」
「そうだよ。実験だよ。」
 子どもたちはけげんそうな表情だ。

「だって、書いてあるじゃん。実験をしましたって。」
「そうかな。書いてあるかな。じゃあ、読んでみるよ。」


 実験は二つしたのである。

 一つ目は、さとうを置いたこと。

 そして、二つ目。行列ができた後、そこに、大きな石を置いたこと。

 だから、子どもの言うとおりだ。


 しかし、わたしには、ある魂胆があり、あえて言った。

「『実験をしました。』って確かに書いてあるけれど、それは、一つまみのさとうを置いたっていうことなのではないの。そう書いてあるよ。

 大きな石を置いたのは、実験と言っていいかどうか分からない。」


 すると、

「だって、さとうのところには、『はじめに』って書いてある。だから、実験は一つだけではない。」
「そう。『はじめに』っていうことは、2つ目があるっていうことだよ。」
「その2つ目が、大きな石を置いたことじゃん。」
「そうだよ。だから、実験は2つしたのだよ。」
「2つ目の実験のところには、『次に』って書いてあるよ。『はじめに』と、『次に』でしょう。だから、やっぱり実験は2つしたのだよ。」

 よし。いいぞ。つなぎの言葉に着目しだした。上できだ。

「そうだよ。ウイルソンさんは、どうして行列ができるかを知りたいのでしょう。それで、2つの実験をしたの。」

 そうした子どもたちの反論に、わたしは会心の笑みをもらしてしまった。


 実験の目的まで出てきた。それまでの言葉足らずというわたしの思いを完全に払拭してくれた。

 さあ。読者の皆さんには、気づいていただけただろうか。授業を見ていた初任者も気づいてくれたかな。



 これは、子どもに『段落』を意識させる、その導入を図ったつもりだ。

 しかし、本時、そこまでは入っていかない。これは、初任者である担任の、次時以降の授業にゆだねよう。



 そうして、わたしは次の発問をした。

「実験は2つした。2つだけした。そういうことで、いいの。」

 すると、

「まだある。道しるべになっているかどうかも実験した。」

 そうしたら、すぐ反論がでる。

「道しるべは実験ではないよ。これは、研究だよ。」
「そう。これはウイルソンさんが道しるべがあるのではないかなって考えたの。実験しているわけではない。」

おお。いいぞ。しっかり教科書に着目しだした。『国語は文章に即して、〜』が大事だものね。

「そうか。分かった。じゃあ、道しるべが実験か研究かも、担任のC先生と、次の時間に、勉強してもらおう。今日やることは、『ウイルソンさんは、いじわるをしたのかな。』だからな。」

 そう言って、黒板に、『道しるべは実験かな。研究かな。』とだけ書いた。



 ここで、ぜひ理解してほしいことがある。

 初任者の授業は、今のところ、子どもの発言に流されて、話し合っていることが、次から次へと変わってしまうのだ。何が分かり、何が解決したか、あるいは、解決していないか、それが徹底しないまま、話題が変わっていってしまう。

 『それではいけないよ。今何を話し合っているのかは、常に明確にしてほしい。』



 冒頭のAちゃんの発言に戻った。

「どうだい。さっき、Aちゃんが、『小さな石を置いたのでは、すぐさとうを見つけてしまうから、つまらない。』と言っていたけれど、じゃあ、ウイルソンさんは、大きな石を置いたから、おもしろい実験になったのかな。」

「うん。なったよ。ちりぢりになったって、書いてある。」
「ちりぢりってなあに。」

 ここで、教科書の挿絵に着目することの得意なDちゃんに、わたしの方から水を向けた。
「どうだい。Dちゃん。この絵から、『ちりぢり』を考えられるかな。」
「はい。バラバラになるっていうことでしょう。ほら。大きな石の上に乗っちゃったアリがいるし、石の周りをうろうろしているアリもいるし、だから、バラバラになっちゃった。」

 他の子も口々に、
「ほんとうだ。石までは行列になっているのに。」
「石を置いたから、行列はちりぢりになってしまったし、石のあと、行列はなくなっちゃったから、おもしろい実験になったよ。」


 そこで、わたしは言う。

「そうか。じゃあ、実験は成功したのだね。」

 そうしたら、予想外の反応。がっくりしてしまった。

「うううん。実験は失敗したよ。だって、ちりぢじになっちゃったのだもの。」

考え込むものも大勢いた。大多数は失敗派。なかに少し首をかしげている子もいたようだったが、・・・、それは発言にはならなかった。


 後で思ったことだが、これは、わたしの発問ミス。すみません。

 子どもたちは、失敗したとか、成功したとか、そのような思いは眼中になかったに違いない。唐突になってしまった。

 それに第一むずかしすぎる。わたしが期待する答えは、
『道しるべを考えるきっかけになったし、その後の研究によって、ありのお尻から匂いのある特別な液が出ることが分かったのだから、実験は成功したと言える。』
だが、現段階でそこまで要求するのはね。ちょっとやっぱり無理だったようだ。


 ただ、次のようなことも思い浮かんだ。

 子どもたちの心のなかには、ありさんへの同情の思いがあるのではないか。だから、わざわざ行列のじゃまをしたことについて、ありさんがかわいそうという思いが深層心理としてあるのではないか。だから、直感的に失敗と思ってしまったのではないか。


 もう一つ。やはり、知的な面の弱さ。

 これも感じざるをえなかった。

〇授業のなかで、『道しるべってなあに。』『ちりぢりってなあに。』くらいの質問なら、理解できるし、調べるきっかけになって、学び方としてはいいのだが、

 「みんな、いい意見をたくさん発表できたね。」
って言ってほめていると、『意見ってなあに。』とくる。これにはずっこける思いがした。

〇読みが浅く雑ぱくと感じる。

 たとえば、ウイルソンさんは、はじめっから、液の匂いによって行列ができると分かっていたかのように読み取っていたり、

 2つの実験の結果、すぐ、『道しるべによって行列ができる。』ことが分かったかのように読み取っていたり、

 これらは明らかに誤読なのだ。


 傑作だったのは、先ほどの、挿絵を見ての発言が得意なDちゃん。授業終了後、ノート持参の上、わたしのところへ来て、言う。
「toshi先生。わたし、大きな石のこと、書いたよ。」


 はじめ、意味が分からなかった。ノートを見せてもらって分かった。

「あっ。そうか。Dちゃんの言いたいことが分かった。わたしが、授業の最初に、『誰も、大きな石のことを書いていない。』って言ったから、『そんなことはないよ。わたしは書いたよ。』って言いたかったのだね。」

 Dちゃん。うれしそうにニコッと笑う。


 しかし、しかし、だ。

ノートには、何と、『ありがこんなに大きな石をおけるなんておどろいた。』と書いてある。

 わたしは声をかけた。

「ありさんが大きな石を置いたの。」
「そうじゃない。ウイルソンさんが置いた。今はもう、分かっているよ。」
「そうだね。これは、最初に書いた文だから、勘違いしちゃったのだね。
 わたしは、『Dちゃんは勘違いしている。』と思ったから、そのまま、大きな石のことを書いたのを忘れてしまった。ごめんね。」

 Dちゃんは、ニコッとしてくれた。よかった。



 子どもに誤読はつきものだ。

 それでいいではないか。今、成長途上なのだもの。


 子どもは、友達の発言を聞きながら、自分の誤読に気づいていく。

 あるいは、意見を言うなかで、友達から誤読を指摘されて、自らを正していく。

 あるいは、意見を戦わせるなかで、気づいていく。

 誤読に気づいたり、正したりしていくのも、思考力の発揮だ。

 こういうことを繰り返すなかで、だんだん、正確な読み取り、深い読み取りができるようになっていく。意欲的ならば・・・ね。

 いつも言うように、知識習得と思考力の発揮は、同時進行なのだ。


 また、学力調査での、学校ランキングへの警鐘についてだが、

 先の、国の学力調査では、『B・活用』というように、思考力もみようとはしていた。それは認める。認めるが、こうした調査にこだわればこだわるほど、現場は、『思考力』まで訓練してしまおうという傾向が絶対に強まる。

 特に、この学校のように、知的学力が低いと思われる学校の場合はなおさらだ。漢方薬ならぬ、特効薬を求めてしまうのだ。そして、その結果は、一時的な効き目はあるものの、根本治療ではないために、やがて、副作用がいっぱいとなりかねない。

 手前味噌で恐縮してしまうが、本授業のように、子どもが主体的に、試行(思考)錯誤を繰り返しながら、思考の末に価値を発見していくという、そういう学習こそが望まれるのである。

 なにより、このことは、子どもの学ぶ意欲にかかわる重要性をもっている。本授業から、子どもの、学ぶことへの『意欲』を感じ取っていただけたなら、幸いである。

 『学び』は、ゆっくり、じっくり。しかし、確実に。

 それこそが大切ではないか。

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ninki



 今日の授業の記事は、初任者指導も兼ねているような感じになり、ちょっと焦点がボケてしまったかもしれません。

 こういう焦点ボケということ。もしこれが授業なら×ですね。いえ。記事だって同じでしょう。どうも、すみません。

 最後に、

 記事では、初任者の指導について、ずいぶん批判的なことを書いてしまいました。
 そこで、初任者の名誉のためにふれたいのですが、今、この時期で、これだけ授業の話ができるというのは、やはり、すばらしいことです。ふつうなら、学級経営の話、特に児童対応の話などが中心になります。これも、臨時的任用職員としての勤務が一年間、あったからでしょう。

 あっ。そうか。ふつうの初任者だって、別な意味のよさがあります。それは、一生懸命だということ。はつらつとしているということ。それは、子どもにとって、最大の魅力でしょう。

 どの初任者も、全力を尽くして、日々、子どもと生活していることと思います。

 それでは、全国の初任者の奮闘をたたえる意味で、上記バナーへの1クリックをお願いできますでしょうか。

rve83253 at 12:40│Comments(18)TrackBack(0)指導観 | 授業

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この記事へのコメント

1. Posted by newKamer   2008年05月22日 15:59
 こんにちは。

 いきなりですが、こういった授業で先生にお願いしたいことがあります。それは、合理的な根拠によって意見を変えたのならば、そのことをしっかり褒めてほしいということです(今でもやっているのかもしれないと思いつつですけれども)。下リスト(今作りました)の4ですね。

 このリストは私がよりよい思考のために必要だと考えていることです。

1. 根拠を探すこと
2. 根拠に基づいて意見を発すること
3. 議論を推奨すること
4. 自分の意見が根拠によって覆されたら、意見を変えるのが誠実だということ
5. 根拠の強さに応じた強さの信じ方をすること
6. 根拠が不十分ならば、(考え自体は大いに出して構わないが)結論として確定しないこと

(続きます)
2. Posted by newKamer   2008年05月22日 16:00
(続きです)

 このようなところの基礎について、小学生の時点で準備しても速すぎないと考えています。

 まだ、「問題解決学習」をよく理解していないので推測なのですが、1, 2, 3辺りについては「問題解決学習」で実現されているんじゃないかと考えています。しかし、4, 5, 6のようなところについては、まだ見えてこないと思ったため、不躾ながら書かせて頂きました。
3. Posted by こたろ   2008年05月22日 21:59
奮闘中のひとりです。お久しぶりです。
次の月曜日、2年生の『たんぽぽのちえ』で研究授業をします。
しかし、2年生の発達段階がつかめず学び合うクラスを創るために四苦八苦してます。

一言でいうと、差がかなりあるんですね。
「なぜ? のあとには、○○だからの理由がある。」
と教えて、全体で丁寧に理由を押さえても、授業後の感想に、
「なんでたんぽぽはせいを伸ばすんだろう?」
って書いてくる子がたくさんいて…。
今日は、その理由をみんなで読んでプリントに書いたのに。。

少しずつでも、一人ずつでも頑張りたいです。

4. Posted by toshi   2008年05月23日 04:58
newKamerさん
 いやあ。すごい。もう、おっしゃる通りです。
 わたしは記事で、子どもの意欲を喚起することに全力を尽くそうという趣旨のことを書かせていただきましたが、それには、『ほめる・受容する・共感する・感動する』ということがほんとうに大事です。特に学級づくりが大切な今(4・5月)という時期は、不可欠と言ってもいいのではないでしょうか。大切なご指摘、ありがとうございました。
 わたしは、拙ブログでもそうですが、姉妹ブログの、『初任者のブログ』では、繰り返し、その大切さを述べています。今そのうちの一つの記事にリンクしましたので、ご覧いただければうれしく存じます。本コメントのわたしのHNをクリックしていただければ出るようにしましたので、よろしくお願いします。


 
5. Posted by toshi   2008年05月23日 05:30
問題解決学習についても、おっしゃるとおりです。『よく理解していないので、推測ですが、〜。』などとはとんでもない。もう、うれしくなってしまいました。
 問題解決学習を志すものなら、皆さん、1〜3については、よく理解し、実践に移されているものと思います。しかし、4〜6については、これは、どうでしょう。必ずしも大切にされていないかもしれません。でも、PISAではないけれど、将来の実生活に役立つ学力という意味では、とても大切ですよね。人としての生き方にかかわります。
 この4については、すでに記事にしたことがあります。これも、本コメント欄のわたしのHNをクリックしていただければ出るようにしましたので、ご覧いただければ幸いです。
6. Posted by toshi   2008年05月23日 05:47
こたろさん
 来週月曜日、研究授業とのこと。大変なときのコメント、ありがとうございます。
 どうぞ、努力が実りますよう、祈念しています。

 差がかなりあるとのこと。
 でも、この差を生かすことによって、お互いが学び合う姿勢を伸ばしていけるよう、そのような学級経営を心がけてください。
 本記事の実践でも、差がかなりあることは、推測できると思います。
 『意見てなあに。』という質問があったとき、『意見ていうのはさあ、〜ということだよ。』と答える子がいて、お互いに、『教えてくれてありがとう。』とか、『いや。ぼくだって、意見という言葉の意味を考えることができたから、よかったよ。ありがとう。』といった感じの、心のやり取りがうかがえるような学級ですね。
 豊かな人間関係作りのためには、差があったほうがいいのです。
7. Posted by toshi   2008年05月23日 05:58
一生懸命教えたのに、『なんで、〜。』と書く子がたくさんいてとのこと。
 これ、もしかしたら、教材文は、『たんぽぽに、人間同様の意志がある。』かのような書き方をしていたと思いますから、そのあたりに疑問をもっているのかもしれません。『たんぽぽは人間ではないのだから、〜のように思うわけはないじゃん。』ということですね。
 もしそういうことであれば、その根源的な疑問に対応してやらないといけません。その場合は、再度コメントをいただけますか。対応法を書かせていただこうと思います。
8. Posted by こたろ   2008年05月24日 21:08
言葉足らずなコメントですみません。
「なぜ?」と、「〜だから。」というわけとの対応を教えたんですが、まだ「わけ」の意味がわかってなかったのかも知れないですね。
でも、4回も「なぜ?」とそのわけについてやっていたので、子どもたちもたんぽぽのちえのすごさにそれぞれの想いをもったようです。
子どもたちは、人間と同じように休んだり、湿気を嫌がったりするという点に注目する子と、綿毛に変身するという人間にはできない点に注目する子にわかれました。
だから、それぞれすごいと思った意見を交換し、「たんぽぽは人間と同じか」ということで話し合って、おそらく似ているというように落ち着くかなと予想しました。
まとめは、みんなと同じように友だちを増やすためにちえをつかっているということになるかなぁと思ってます。「仲間」のほうがよさそうですが、言葉が難しいので。。
こればかりは、やってみないとわからないですが。 
9. Posted by toshi   2008年05月25日 05:51
こたろさん
 やはりわたしが予想したのは、外れていたのですね。よかった。
 それにしても、すばらしいではないですか。
 たんぽぽのちえのすごさについて、思いをめぐらせているということ。人間と同じような点と人間にはできない点というように、自分たちで観点を見つけて読み込もうとしている点、特に後者は、こたろさんが与えた観点ではないと思いまして、感服しました。子どもが自力解決しようとしていること、こたろさんが、それをあたたかく導いていること、そのようなことを感じました。
 そうなると、先のコメントの、『何でたんぽぽはせいを伸ばすんだろう。』も、もっと奥の深い思いがあってのことかもしれませんね。
 子どもの思いの背景にあるものが分かるといいですね。
 月曜日、子どもが生きる授業になりますよう。
10. Posted by newKamer   2008年05月26日 18:29
toshi先生。

 返信ありがとうございます。「問題解決学習」でも意見を変えることの大切さを意識していることが分かりました。
 是非、このような教育を広げて頂きたいと思います。
11. Posted by アメリカ留学   2008年05月27日 21:28
アメリカ留学のブログを書いてる者です。ランキング内の様々なブログを拝見させて頂いてる最中ですが、つい見入っちゃったのでコメントも残す事にしちゃいましたw

機会があったらまた遊びにくるつもりです、よければ僕の所にも一度来て頂けたら幸いです♪
12. Posted by toshi   2008年05月28日 05:08
アメリカ留学さん
 つい見入ったとのこと。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いしますね。
 我が娘もアメリカにホームステイでお世話になったことがあります。海外でのこうした経験は大変貴重なようですね。成果をあげられますように。
13. Posted by とし   2008年06月01日 12:11
こんにちは。
大変ご無沙汰いたしました。
以前,書き込みをさせていただいた,
平仮名のHNのとしです。
よく訪れ,拝読させていただだき,
論の展開に大きく頷きはするものの,
コメントを書くまで己の考えを消化できずにおりました。

本年度定期異動により,小さな学校に
勤務することのなりました。
はじめての経験で,様々なことが新鮮で,
新任教員に立ち返った気持ちです。
様々なことに,今までの自分の体験を生かすことが
楽しくてたまりません。

さて,新任校では表現力・伝え合う力がテーマとなり,
国語の「書く」領域を,研究課題の対象になりました。
研究課題の係として,今,国語力・言語力の方面からも,
研究の筋・骨子を構築中です。
(続きます)
14. Posted by とし   2008年06月01日 12:12
こちらのエントリーのように,「読み」の単元の中にも
様々な表現力が包含されておりますね。

子どもたちが,説明文の論旨に基づいて
読解した事柄の深まりについて,
「知的学力の稚拙さ」もさながら,
「どう表現していくか」も大きな課題と思われます。
当然のことながら,双方向性のある「表現・理解」
の活動です。

やはり,問題解決学習的に,問題を自己課題化し
きちんと文脈に沿い,根拠を自分なりに明確にすること,
どんな発達段階にあろうと,ステップをおろそかにしてはいけないのだな・・と
そう思いました。

また,本年度もたくさんこちらのブログで
学ばせていただきたいと思いました。
よろしくお願いします。
15. Posted by toshi   2008年06月02日 13:15
としさん
 初めての異動とのこと。
 以前、拙ブログで、下町と山の手の雰囲気の違いを書いたことがありますが、学校は、地域による雰囲気の違いがかなりある場合もありますから、初めての異動がカルチャーショックを呼び起こすこともあります。
 としさんの場合、『楽しくて仕方ない。』とのこと。よかったなあと思いました。
《どんな発達段階にあろうと,ステップをおろそかにしてはいけないのだな。》
 このステップという言葉。一般的には、知的系統性を指す場合が多いと思います。それはもちろん大切ですが、しかし、もっと大切なのは、一人ひとりの子どもの内にあるステップですね。文意を正しく読み取れないうちに、段落をいくら指導しても仕方ないわけで、
 まずは、
〇意欲をもって読む。
〇次は、文意を正しく読み取った上での思いを持つ。
〇そして、さらに全体の論旨を明確にするための段落の必要性に気づかせる。
となるのでしょう。
16. Posted by toshi   2008年06月02日 13:24
一般的には、最初の、『意欲をもって読む。』段階での工夫、手だて、配慮などが、軽視されている傾向があると思います。
 わたしにしても、今になって分かることがあり、反省仕切りです。だめですね。定年後に気づいても。
 その具体例は、『みんなちがって、かわいそう? わたしと小鳥とすずと』に掲載しています。
 本コメントのHNをクリックしていただければ出るようにしましたので、もし、ご覧でなかったら、参考にしてみてください。
17. Posted by ちろ   2012年06月03日 10:59
toshi先生
お久しぶりです。
明日から「ありの行列」に入ります。説明文、どうしよう・・・とインターネットで検索したところ、toshi先生のブログが一番に出てきました☆

ああ・・そうかあ。
と思うのと同時に、自分の授業、学級作りに反省しっぱなしです。正直少し落ち込んでしまいました。




 子どもは、友達の発言を聞きながら、自分の誤読に気づいていく。
あるいは、意見を言うなかで、友達から誤読を指摘されて、自らを正していく。
あるいは、意見を戦わせるなかで、気づいていく。
誤読に気づいたり、正したりしていくのも、思考力の発揮だ。
こういうことを繰り返すなかで、だんだん、正確な読み取り、深い読み取りができるようになっていく。意欲的ならば・・・ね。
いつも言うように、知識習得と思考力の発揮は、同時進行なのだ。




本当ですよね。
授業の中でお互いの発言を聞きあうことで、自分の考えを訂正させたり、深い読み取りをする力がついたりしていくんですよね。私はそこがバラバラの指導をしていました。形だけではだめですね。

学級作りに関しても、もっと何事にも意欲的になってほしい!励ましあえる温かいクラスを!という願いとは裏腹に子ども達の基本的生活習慣が身につかず、先週は私がイライラしてばかりでした。反省です。

toshi先生の言うとおり、『学び』は、ゆっくり、じっくり。しかし、確実に。ですね。

説明文の形ばかり教えようとしていたところにtoshi先生のブログを読んで、また気持ちがリセットされました。授業案作りそして、学級作り頑張ります!

遅くなりましたが・・・本年度から採用され3年生の担任になりました!初任者です!またtoshi先生から勉強させてください!

18. Posted by toshi   2012年06月03日 17:08
ちろさん
 なつかしい方からなつかしい記事にコメントをいただきました。ほんとうにありがとうございます。
 説明文というと、多くの方が文章図とか段落わけとか要点など、ややもすれば退屈な学習の記憶しかないのではないでしょうか。
 わたしたちは日常生活のなかで説明文を読むとき、要点や段落わけのために読むのではないですよね。知識欲を満たしてくれるもの、子どもの言葉で言えば、『うわあ。もの知りになって得したよ。』そんな気持ちになるために読むのではないでしょうか。子どもの学習も足場はそこに置きたいと考えます。
 今は学習指導要領の改訂でややもすればゆっくりじっくりとはいかないかもしれませんが、気持ちはそれを大事にして学習過程を工夫していただけたらと思います。

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