2008年05月24日

『PTA任意加入』論についてのtoshi的考察3

721a900e.JPG つい先日、『わたしにも、だんだん、PTAの未来像が見えてきた。近いうちに記事にさせていただこうと思う。』と書かせてもらった。

 しかし、その前に、一つ、ふれさせていただきたいことがある。


 それは、『PTAは任意加入であるべきか。』という問題。今日は、そのことについて述べてみたい。

 今のわたしは、これに賛成する気持ちが強い。『任意加入であるべき』と思う。しかし、初めてこれを聞いたときは、正直、驚いた。それは、ほんの数ヶ月前のことだ。

 拙ブログを通し、お世話になっている、作家の川端裕人氏の

 『みんなのPTAを探して』ブログ版 ?任意加入?が前提ってホント?

を拝読してからだった。


 ただし、『任意加入』の対語として、『強制加入』という言葉が使われていることについては、違和感をもった。

『自動加入だろう。』

 わたしにとっては、35年間の教員生活を通して、強制という感覚を抱いたことはなかったし、PTAに入りたくないという声を聞いたこともないし、みんな、『子どもが入学すれば、当然PTA会員になる。』と、自然に受け止めていると思っていたからである。


 川端氏のブログを読ませてもらって、納得できた。

『そうか。役員や委員の就任をめぐっては、いやなのにやらされるという状況のなかで、トラウマになっている方もいらっしゃる。』

 そううかがえば、かつて自分が勤務した学校に、そういう方はいなかったと思うが、そう言い切る自信はない。

 
 そのようなわけで、わたしとしては、自動加入の方がしっくりくるが、しかし、強制加入という状況があることも理解できた。



 それでは、いよいよ本論だが、まずは、長い教員生活のなかで、この自動加入の問題になんら違和感を抱かないで来た、その理由を述べてみたい。

 そして、その次に、それなら、今なぜ、任意加入に賛成するのかも述べたい。



1.自動加入に違和感を抱かなかったことについて


 話は、高校生のころにさかのぼる。昭和34、5年のころだ。

 社会科で、労働組合の学習をしていたとき、ユニオン(クローズド)ショップとオープンショップを知った。組合員になるには、自動加入と任意加入の二方式があるということだった。それは、そのまま、組合と雇用主との関係を示すものでもあった。つまり、ユニオンショップにおいては、解雇と組合離脱は同義であった。

 当然、ユニオンショップの方が、組合としては強力である。


 かつて、日本が発展途上にあったとき、組合はユニオンショップが大勢だったのではあるまいか。思想、信条、行動の自由(つまり、この場合は、組合に入る入らないということ。)を言う前に、待遇改善、賃上げ要求が、雇用される側にとっては重大、切実な問題だったからである。

 組合としてまとまることに必然性があった。


 ごめんなさい。ちょっとPTAからはなれてしまっていますが、もう少しおつき合いください。



 わたしには、民間歴があることはすでに何度か記事に書かせていただいたが、その会社には、組合がなかった。会社が組合設立を認めなかった。だから、給料こそ、大企業並みを約束されていたが、それ以外の待遇にはひどいものがあった。たとえば、朝、出勤すると、突然、そのまま、一週間会社に泊り込みの仕事を命ぜられるなどということもあった。

 教員として採用されたとき、辞令交付式で、ものすごく驚いたことがあった。組合の執行委員長も来賓として壇上にいらしたのだ。そして、挨拶も述べた。

 忘れもしない。

「教員として、辞令をいただいたその瞬間から、皆さんは、組合員にもなられました。おめでとう。」
「よき教員は、よき組合員でもあります。」

挨拶のなかには、そのような言葉もあった。


 今は違いますよ。わたしの勤務した学校にも、非組合員はいましたから。


 わたしは、執行委員長が壇上にいることには驚いたけれど、挨拶の内容に対しては、上記、会社での経験もあったし、高校のころ学んだ知識もあったから、自然に受け止められた。これこそ、まさに、強制加入だが、当然そうあるべきという認識だったのである。

 ちょっと、ごめんなさい。わき道にそれ過ぎですが、誤解のないようにふれておきたいことがあります。今、日教組が目の敵にされる風潮がありますが、わたしが所属した学校はすべて卒業式で国旗(日の丸)を掲げ、国歌(君が代)を歌っていましたよ。他方、教員のストがはなやかだったときは、ストにも参加していました。そういう意味では、ごくふつうの組合だったと思います。



 さあ。お待たせしました。PTAの話に戻します。


 PTAに、『ユニオンショップだ。いや。オープンショップだ。』そのような概念はない。第一、雇用関係にあるわけでもない。

 ないが、上記のような経験をし、思いをもっていたわたしとしては、組合とPTAは、似た存在のように思われた。

〇日本が貧しかったころ、そして、発展途上にあったころ、組合の、待遇改善、賃上げ要求は切実であり、まとまることへの欲求は強かった。

 それは、PTAに関しても言えたのではないか。PTAにとっては、『児童・生徒の教育環境を少しでも改善するため』行政に物申すためには、まとまっていた方がよかった。
 その思いは切実なものがあったと思われる。


 当時、わたしは子どもだったから、よく分かる部分もある。

 ほんとうに劣悪だった。

 学校には図書室もない。プールもない。校舎は雨漏りがする。二部授業が行われる。・・・。そのほかにもたくさん。

 
 もう一つ。まとまっていた方がいい理由。

 自分たちで、教育環境を改善してしまおうとする動きも強かった。わたしが通学した小学校も、地域・PTAの尽力により、図書室ができたのだものね。


 そのあたりのことは、冒頭に紹介させていただいた川端氏のブログにくわしい。

   『みんなのPTAを探して』ブログ版 エキサイティングなPTA史

 

〇それがいつのころからか、PTAに関しては、市民から、『学校施設の改善が、寄付金やPTAのお金によってなされるのはおかしいのではないか。義務教育は無償であるべきだ。当然公費でなされるべきであろう。』と言われるようになる。

 行政側も余裕が出てきたからであろう。その声に応えるようになっていく。


 組合も同様だ。賃上げ要求が実り、生活がある程度改善されるようになると、それまでかくされていた、思想・信条の自由や行動の自由を求める声が強まっていく。

 市民も、労働争議に対して、同情の思いをもつのではなく、批判するようになっていく。


 以上、まとめると、

 わたしが教員として採用されたころも、

 PTAの役員や委員のなり手が少なくて、選出に苦労はしていたが、

 PTAが自動(強制)加入であるのは必然で、そのこと自体に疑問を抱くPTA会員はほとんどいなかったのではないだろうか。

 わたしの認識としても、組合への意識と相まって、PTA自動加入はきわめて自然に受け止められたのである。



2.今、任意加入に賛成することについて


 成熟社会と言われる今の日本。

 人間として、最低限の生存にかかわる要求は一応なくなった。今や、飢餓や住宅難、子どもの劣悪な教育環境などにあえぐ時代ではない。

 そうなると、利害の共通性も薄まるし、まとまる必然性は弱まる。多様性を認めてもやっていけるからである。

 そうしたなかで、人間が、より人間らしく生きようとする欲求(多様性を求める欲求)が強まっていく。


 さあ。そうすると、PTAのマイナス的な部分がやたら気になるのは、当然と言えよう。

 やりたくないのに、無理やりやらされる。
 多忙でとてもできないのに、やらされる。
 活動がマンネリ化していて、果たして子どものためになっているのか。
 学校からの注文がやたら多い。やって当然という姿勢には、まいってしまう。
 組織上部の言っていることは、わたしの思いとは違う。

 やる意味が見いだせないから、こういう声は強まる。


 この声に、行政、学校は、どう応えるべきか。

 答えは見えている。

 かつて、義務教育の公費負担を求める声に応えたように、

 今は、多様性を求める声にも応えなければいけない。

 そう、思う。



 最後に、

 もう、本日の結論は述べさせていただいたから、これで終わりにしてもいいのだが、一つ、新たな問題提起をしたい。


 まず、労働組合サイドの話だ。

 今、契約社員、ニート、パート雇用、名目だけの管理職などが問題となっている。格差社会と言われるなかで、劣悪な雇用環境が復活してしまったかのようだ。

 こうした時代に、組合に所属するしないの自由を認めっぱなしにしていいのか。団結する必要はないのか。正規雇用されている者は、自分たちのことだけを考えていていいのか。

 思想・信条の自由とどう兼ね合いを見つけるか。我々雇われる側も、考えなければいけないのではないか。


 他方、こうした思いをもって、PTAサイドを語るとどうなるか。任意加入でいいか。

 きわめて、わたし的な話に、おつき合いいただけたらありがたい。


 わたしは、拙ブログにおいて、『教育のあるべき姿』を語り続けている。それは、『子どもの幸せとは何か。』『より人間らしく生きるための人間づくりはどうあったらよいか。』

 『子どもが主人公の学校づくり』『子どもが自ら学ぼうとする授業のあり方』などを通して、子どもの幸せを見つめている。

 つい最近、記事にさせていただいた、『壮大な実験!?』で言わせてもらえれば、細部において異存はあるものの、大筋においては、犬山的教育行政を求めている。


 さて、きわめて夢のような話だが、わたしには、こういうことについて、PTAが一致団結して、国、行政に、物申してくれたらいいなという思いがある。

 かわいい子どものためだもの。

 子どもを受身にしていい訳はない。お客さんにしていい訳はない。

 受験がすべてのような風潮があるが、そんな社会の打破を訴えてほしい。人間が人間らしく生きていかれない世が続いていいわけはないではないか。



 いかがでしょう。唐突に思われましたか。

 そのようなことは、教育の専門家であるtoshiたちがやればいいではないかと思われましたか。

 でもね。

 わたしは、受益者主権論者なのです。教育の受益者である子ども。ならば、その保護者(国民と言ってもいい。)が、教育について主体的に語るのは大事と思っているのです。わたしたち、教育のプロはそのために奉仕する(わたし的に言わせてもらえれば、ブログで広く訴える。)。

 それが大切と思っているのです。


 今のところは夢だけれど、でも、夢が少しでも正夢に近づくべく、これからも、がんばっていきたいと思う。

 PTAが教育改革を訴える主体者となるのを夢見て。


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ninki



 最後は、『PTAの任意加入を認めないかのような論調になったではないか。』と受け止められる向きもあるかもしれません。

 でも、それは違います。

 簡単に言えば、一人ひとりの大人が主体的に生きてこそ、子どもの主体性を求めるようになるのだと、そう理解しています。(ずっと、組合と共通するとして書いてきましたが、ここにきて、組合とPTAの違いが浮き彫りになってきたと思います。)

 くわしくは、未来のPTAを語るなかでふれさせていただきます。

 それでは、皆様の主体的な1クリックをよろしくお願いできればと思います。

    『PTAと学校(11) PTAの未来像は、』に続く。  

rve83253 at 13:45│Comments(0)TrackBack(1)PTA | エッセイ

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