2008年06月06日

心の教育(6) 心の育みは家庭でと言うけれど、4

79c953cf.JPG タイトルに、『心の教育』と銘打つのは、約2年半振りである。

 これは、かつて、『誤解を招きかねない言葉ではないか。』と指摘され、あえてつかうのを避けてきた。誤解を招くというのは、たぶん、この言葉が、一般的には、『上からの押し付け的なイメージ』をもつとされてきたからであろう。

 『国が、こうあるべきという、人間像を押し付ける。』あるいは、『教員や保護者が、子どもに、自分の価値観を押し付ける。』そういうイメージをもたれているとしたら、わたしとしては不本意である。そこで、あえて避けてきた。


 しかし、だんだん、それではいけないと思うようになってきた。

 それは、別なときには、

『心を育むのは家庭でしょう。学校は、知識・技能を身につけさせる場。学校が心を育むなどということまで引き受けてしまったら、肝心な知識・技能の教育がおろそかになってしまう。』などというコメントをいただいたこともあったからである。

 このようにとらえる方は、大勢いらっしゃるのではないか。


 そして、この立場で、『心を育むのは家庭』と言った場合、『押し付け観』は、どうなるのだろう。

 
 国の押し付け的『心の教育』は、あってはならないとしながらも、家庭での『押し付け』は是認しているようにもみえる。
 さらに言えば、『時間があれば、学校も押し付け的心の教育をやることはかまわないが、現実的には、学習内容の多さから言って、時間的に、とてもやり切れないのではないか。』となるのかもしれない。

 つまり、『心』と『知識・技能を身につけること』を、見事に分離していることから、とても、子どもの内面を重視しているとは思えないのだ。

 だから、こういう方々は、知識・技能も、子どもに押し付けているのではないか。別な言い方をすれば、教え込み教育だ。



 そういう意味で、『心』をとらえているなら、

 やはり、拙ブログにおいて、子どもの豊かな心を育む教育を述べる際は、『心の教育』と銘打ち、『教え込みでは限界がありますよ。子ども自らの気づきを大切にする教育、子ども自らの気づきを支える教育なのですよ。それは、学校だからこそ可能という部分もあるのですよ。』と言い続けないといけないのではないか。そういう思いになってきた。


 

 これまでも、いろいろ、自分の実践を掲載させていただいたが、今日も、まずは、具体的な実践を載せさせていただきたい。



 1年生担任のときである。時期はちょうど今ごろであった。

 学校にも、学級にもなれて、そろそろ、多くの子に、自我が出始めるころである。


 Aちゃんは、極度の甘えん坊のようだった。

 わたしの身体に身をすり寄せてくるし、わたしが腰かけていると、わたしのひざに乗ってくることもあった。


 また、ほめられたい欲求も強かった。わたしが、
「うわあ。Bちゃん。〜をやってくれたのだ。ありがとう。」
などと言うと、必ずと言っていいほど、Aちゃんが口をはさむ。
「わたしだってやったよう。」

 あまりにその回数が多いから、やっていないのにやったと言っていることはけんとうがつくが、本人がやったと言っている以上、
「ああ。そうか。Aちゃんもやってくれたか。それは、気がつかなくてごめん。ありがとうね。」
と言ってやる。そのうち、ある種の変化が現れるに違いないと思いながら。


 案の定、数日後には、友達から声がかかる。

「Aちゃんは、やっていないよ。先生。」
「うん。やってないよ。Bちゃんだけだもん。」
「ええっ。そうか。やっていないか。・・・。Aちゃん。どうなの。」

 かわいい顔をして、『えへへ。』とばかり、笑ってごまかす。

「そうか。やっていないのか。じゃあ、ほめるのはやめておこう。」

 そのうち、『うそつき。』などと、友達から言われるようになる。

 このときは、黙っていない。

「Aちゃんはね。うそをついているつもりはないと思うよ。ただただ、先生にほめてもらいたいのだよ。その気持ちがものすごいのだな。・・・。だから、つい、やった気になっちゃう。・・・。そうだよな。Aちゃん。」

 またまたにこっとするAちゃん。

「それならさ。今度は、Aちゃん。ほんとうにやってくれればいいなあ。そうしたら、先生は、うんとほめてあげられる。」


 またまた、変化が現れる。

〇Aちゃんに、実践意欲が出てくる。

〇やらないのにやったということがなくなる。

 さらに、もう一つ。

 まわりの子どもたちの変化だ。Cちゃんが言う。

「toshi先生。Aちゃんね。誰も言っていないのに、一人で、〜をやってくれたよ。」


 もう絶賛する。

「Aちゃん。ありがとう。〜をやってくれたのだって。すごいなあ。やったこともすごいけれど、先生に、『〜をやった。』と言ってこない。それが、もっとすごいよ。

 どうだい。もう、先生にほめてもらわなくてもいいかい。」

 うれしそうにニコッとするAちゃん。

「そうか。もう、『ほめてもらわなくてもいい。』っていう気持ちになったのだな。
その気持ちがうれしいよ。だから、ほめなくていいって言っているけれど、先生は、ほめちゃう。だって、うれしいのだもの。

 それとね。もう一つ。友達のいいところを言ってくれたCちゃんにも感謝だな。Aちゃんのいいところを教えてくれた。だから、Aちゃんも、うれしいでしょう。」

 子どもたちから、自然に、AちゃんとCちゃんへの拍手が贈られる。

  
 
  
 さて、冒頭の話に戻ろう。

 『心を育むのは家庭』と言って、すましていられるだろうか。

〇確かに、家庭教育は大事。それは分かる。教育基本法の改定でも、家庭教育の項が新たに設けられた。

 しかし、『学校は、学習の面倒さえみれば、それでいい。』という考えには、疑問を呈する。

 学校では、集団生活をおくっている。そして、集団のなかでこそきたえられる、『心の育み』はあるはずだ。そうした部分においては、家庭教育では限界がある。

〇上からの押し付けであってはならない。それは、多くの場合、心の育みとは結びつかない。強いものに言われたから、やむを得ず、きいたふりをしているだけのことも多い。強いものの影響下でなくなれば、簡単に元へ戻る。強いものの力がものすごい場合は、その反動がこわい場合だってある。

〇すましていられない決定的な理由。

 それは、『いじめ』に直結する問題だからだ。多くの『いじめ』は、学校で行われる。その際、『心の教育』は家庭などと、すましていられるわけがない。

 上記、わたしのつたない実践だが、こうした子どもの内面を育む指導が、いじめを未然に防ぐことにもなる。

〇これは、特に小学生の場合に言えることだと思うが、心豊かな学級集団づくりは、そのまま、豊かな学力の保障につながる。

 子どもは、心で学習する。

 楽しくて仕方ない学級。豊かな人間関係の構築ができている学級。そういう学級では、黙っていたって子どもは学ぼうとする。

 そう。あとは、ほめていればいい。どれだけきめ細かくほめることができるかは大事だけれどね。

 (ああ。ごめんなさい。また、誤解を招きそうだ。・・・。黙っていてはダメですね。ちゃんと指導内容は把握し、そのうえで、子どもの考え、思いなどを見とるようにしましょう。)

だから、とても、家庭、学校と、切り離せるものではない。

 また、『心の教育、知識・技能の教育と、何でも学校が請け合うと、けっきょくアブハチ取らずになる。』というのも、おかしいと気づくだろう。心を育むことに成功すれば、子どもは自ら学ぶから、けっきょく、すごく楽になるのだ。


 楽。

 そう。らくになる。

 だが、もう一つある。それは、『たのしくなる。』ということだ。


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 今日の実践は、拙ブログの『鉄は熱いうちに打て』シリーズにもかかわりますね。
 そこで、そのシリーズにリンクします。

    鉄は熱いうちに打て(1)


 もう一つ。かつての我が勤務校の栄養職員で、すばらしい方がいらっしゃいました。

 わたしに、こう言ったことがあります。
「人間の食事って、心でするものなのよ。そこが本能で食べる動物と違うところなの。だから、食育って大事なのよね。」

 この方の実践もかつて記事にしたことがあります。

  心の教育(4)

 双方とも、よろしければご覧ください。


 すみません。またまた補足です。最後の『らく』について。

 これは、時間的、物理的意味で言ったのではありません。あくまで精神的な意味です。『気持ちが楽になる。』そういうことですね。

 時間的、物理的だったら、子ども一人ひとりの考えや思いを知りたくなるし、授業の準備も、子どもの思いにそったかたちでするようになるし、したがって、らくになることはありません。かえって忙しくなるかも。

 今、東京都品川区の問題を書いていますから、言葉に気をつけなければいけませんね。


rve83253 at 11:25│Comments(4)TrackBack(0)教育観 | 指導観

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この記事へのコメント

1. Posted by YK   2008年06月08日 01:48
「心の教育」とは、言いかえれば「自尊感情を喚起する教育」だろうと思われます。国家、社会、家族と相対したときの、自己の価値判断の基準となるのが「自尊感情」だと考えています。従って、家庭でも学校でも、心の教育は必要だと言うのが私の意見です。押し付け感があるのは、勅語などでもそうですが、道徳という言葉では、自己の存在に対する意味付けが十分に行われないという意識があるからではないでしょうか。家庭においては、より自分について考えさせるような生命倫理的な面を、学校においては、人と人の結びつきについて教えるような社会道徳的な面を強調して教えるのが良いのではないかと考えています。
2. Posted by toshi   2008年06月09日 06:12
YKさん
 なるほど。道徳と言いますと、どうしてもあらかじめ用意されていると言っていい徳目などがありますから、一人ひとりの心のありようとは、必ずしもしっくりしないものがありますね。
 自尊感情を養うことは、現代において、また、日本人にとっては、ほんとうに大切なことだと思います。ややもすると、学校、家庭ともに、軽視しており、それが、さまざまな社会の病根とつながっているように思います。
3. Posted by なおみ   2008年06月14日 10:04
こんにちは。いつも読ませていただいています。
報告が後になってしましたが、
こちらの記事を私のブログにリンクさせていただきました。よろしかったでしょうか?

4. Posted by toshi   2008年06月14日 17:03
なおみさん
 リンクしていただき、ありがとうございました。
 わたしも、貴ブログを読ませていただいていました。
 これを機によろしくお願いします。
 今、なおみさんが書かれている「いい子でいることに疲れた。」も、一方的な押し付けに対する子どもの思いと受け取ることができますね。
 

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