2008年06月08日

心の教育(7) 心と学びは一体4

8a502e56.JPG 前記事では、『心の教育』と題し、学校における『心を育む指導』をいかにとらえるか、そして、いかに子どもの心を育んでいったらよいかを、具体的実践例をまじえ、述べさせていただいた。

 しかし、そのなかで、『子どもは心で学ぶ。』とか、『豊かな心を育むことは、豊かな学びの保障につながる。』とか書きながら、とり上げた具体的実践例は、いわゆる『学習、学力』と結びつくものではなかった。

 そこで、本記事では、学習場面をとり上げてみたいと思うが、

 そのまえに、ちょっとお断りを。


 わたしは、『  』を使う場合、そこにいろいろな意味合いをこめるが、『いわゆる』という意味合いで使うことも多い。だから、いわゆる『学習、学力』と書くと、意味がダブっていることになってしまう。

 すみません。そこは、それだけ強調したかったということでお許しください。



 何を強調したいかと言うと、

 『豊かな心は、そのままで、立派に学力の一部なのですよ。』

 ということだ。


 学力低下論者には、まず、この視点はないであろう。

 学力低下を言うとき、『心の荒廃が学力低下をもたらす。』というのは聞いたことがあるけれど、『心の荒廃』そのものを学力低下とするような論調を、わたしは聞いたことがない。


 東京都品川区の教育長にしてもしかり。

 抜き打ちの学校訪問での、そこの校長とのやり取りがおもしろい。

 「区でやった学力調査の結果は、もう見た?」
 「まだ、チラッとしか、見ていないのですけれど、・・・。」
 「だからさ、そういうところを、もっと敏感になってもらわないと。うかうかしていると、(他の学校に)子どもがとられるんだよ。来なくなっちゃう。」

 現場を引き締めるという、その中身が、これなのだよね。学力=『学力調査の結果』なのだ。そこに、『心』の入り込む余地は、おそらくないだろう。

 教育長なら、こう聞いてほしいものだ。

 「どう。子どもたちは、おもいやりとかやさしさとかを身につけているの。温かな心の通い合う学校づくりは進んでいるかな。」
 
これなら、まっとうに思えるのだが。
  


 先ほどの、『豊かな心は、そのままで、立派に学力の一部なのですよ。』についてだが、学習指導要領においても、

『人間としての調和のとれた育成』総則第1−1
『主体的に学習に取り組む態度』総則第1−1
『人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念』総則第1−2
『児童の内面に根ざした道徳性の育成』総則第1−2

などと言っている。豊かな心を育むことは、そのまま学力の向上であることの証左ではなかろうか。



 それでは、以上、お断りしたうえで、『豊かな心』と、『いわゆる学力、学習』が、どう一体化されるかを述べてみよう。



その1


 1年生。入学してすぐのころである。連日、子どもの生活を見つめ、おもいやり、やさしさあふれる言動をほめたり共感したりしていると、次のようなことが起きた。

 算数の教科書の最初は、絵だけである。数字すらない。

 そのなかに、飛んでいるチョウチョウと、お花の絵がある。

 それを見たAちゃん、Bちゃんが言う。

「チョウチョウさん、かわいそう。チョウチョウさんは、6匹飛んでいるのに、お花は5つしか咲いていないよ。1匹とまることができないから、かわいそう。」
「ほんとうだ。ミツを集められないね。」

 算数的には、『多い、少ない。』の概念がとらえられればいいのであろう。しかし、それは、『かわいそう。』という情動を伴って、押さえられることになる。

 将来的には、その思い(やさしさ)が、引き算を学ぶ意欲へとつながるであろう。



その2 


 むかし、まだ、1・2年生も、社会科・理科を学んでいたころである。

 2年生の社会科に、『郵便で働く人たち』の単元があった。


 わたしの尊敬する先輩の教員(かつて、『あこがれの先生(1)』に書かせていただいた先生です。)から、次のような話を聞いた。


 その先輩のクラスでは、郵便配達の人は、『ヘルメットをかぶっている。』『いや、おまわりさんと似た帽子をかぶっている。』の対立が起きて、それなら、見に行こうということになった。

「子どもはよく見ていますねえ。いい学習問題ですよ。」
そう、わたしは言った。
 


 見学の結果、分かったことは、

 郵便局から配達区域に行くまでオートバイに乗っているときは、ヘルメットだ。しかし、配達区域に到着して、各戸、配達して回るときは、ふつうの帽子に取り替えている。

 しかも、すごいのは、配達区域のなかでも、オートバイを運転するときは、たとえ数十メートルであっても、ヘルメットに替えている。 


 そして、その件が解決したとき、一人の子が言う。

「すごいよ。郵便のおじさんは、寒くもないのに、顔を真っ赤にして、配達の仕事をしていた。」

 これもたいしたものだ。よくそのようなところまで気づくものだな。感心してしまう。

「郵便配達の人は、どうして、顔が真っ赤になったのだろう。」
そういう学習問題ができた。


 また、子どもたちは郵便配達の人を追いかけることになった。

 そして、分かったことは、

〇基本的に郵便配達の方は走って仕事をしている。坂道や階段も走っている。時間がないのかな。

〇犬がいるうちは、ほえられて大変だ。ときどき、チャイムを鳴らして、おうちの人と話をしているけれど、犬がいるとこわいだろう。

〇郵便受けの高さが、家によって、いろいろだ。なかには、地面にくっついている郵便受けがあったり高いところにあったりする。そのため、郵便配達のおじさんは、いちいち、しゃがんだり背伸びしたりしなければならない。走りながらだから疲れるだろう。
 また、郵便受けのないうちもある。そういうところは、門を開けて、入っていかなければならない。

 以上、顔が真っ赤になるわけが分かったというわけだ。


 そして、あらたに、『ぼくたちも郵便配達の人に協力しなければいけないことがあるのではないか。』『郵便配達の人は、郵便を間違えて配達してしまうことはないのかな。』などという問題が生まれていく。



 このような学習が可能になる理由として、

〇子どもたちは、学級のなかでみんななかよしだ。よくまとまっている。だから、問題解決の話し合い学習において、意見も活発にでる。対立やつけたしなどによって、学習がどんどん深まっていく。
 だから、一つ、学習問題が解決すると、そこから、新たな学習問題が自然に生まれる。

〇豊かな人間関係の構築ができている学級は、安心して意見を言うことができる。『間違っているかな。』『おかしい意見だと笑われないかな。』などということを気にしなくてすむ。だから、ほとんどの子が発言する。

〇人が大好き。人への興味関心が強い。だから、学習対象となる人に対しても、思いを寄せる度合いが強い。『郵便配達の人をよく見ている。』というのも、その表れだろう。

〇こういうクラスの子どもたちは、学習でとり上げた人物が大好きになる。郵便屋さんを学べば郵便屋さんに、お店屋さんを学べばお店屋さんに、農家を学べば農家の人に、それぞれ、あこがれる。そして、将来はその仕事につきたいと思う子もいる。

〇こうして、学習対象となる人たちの、仕事への思いとか、努力、苦労、工夫などを、実に深いところでとらえるようになる。


 いかがだろう。前記事に書かせていただいた、

『〜。学校は、知識・技能を身につけさせる場。学校が心を育むなどということまで引き受けてしまったら、肝心な知識・技能の教育がおろそかになってしまう。』

とは、かなり違った結果になるのではないか。心を育むことに時間をとられることによって、知識・技能の習得が困難になるのではない。それどころか、ますます充実していくのだ。



 ここでは、低学年の事例しか載せられなかった。

 高学年の事例、さらに、技能にかかわる事例は、すでに記事にしたことがあるので、リンクさせていただきたい。ただし、記事のテーマは、本記事とはじゃっかん異なるので、ご了承いただきたい。

   かわいい先生


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 そう言えば、生活科となってから、郵便屋さんの学習は、ほとんどやらなくなりましたね。なんだか、さびしい気持ちになります。

 それでは、今日も、皆様のあたたかい心のこもった1クリックをよろしくお願いします。

rve83253 at 22:38│Comments(0)TrackBack(0)教育観 | 指導観

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