2008年06月16日

子育て、受難の時代か。3

9b522e05.JPG かつては、『我が子がいじめにあわないか。』など、被害者側にたった子育てへの不安が多かった。しかし、秋葉原事件のような犯罪が起きるたびに、『いつ自分の子どもが加害者側にまわるか分からない。』という不安の声が広がるようになってきた。

 それが、『子どもをちゃんと育てる自信がないから、子どもを生みたくない。』というように、なんか少子化につながりかねない声として聞こえるようにもなってきた。

 何をかくそう。自信のなさだったら、このわたしだって同じこと。それは、すでに記事に書かせていただいたことがある。
   述  懐

 かくして、子育て受難のように思える最近の世相。

 でも、前記事の末尾に、『子どもって、ただひたすらかわいがればいいのだね。』と書かせていただいたように、『受難なんていうことはないですよ。安心して子育てしましょう。』と言いたいのが、今日の記事である。
  

 まず、今と比較する意味で、むかしの子育ての環境について。

 わたしの両親は、どちらも10人兄弟だった。そのうち成人する前に亡くなってしまった方は、どちらもだいたい半分くらい。いずれも病死である。また、成人したものの戦死した叔父が1人いる。

 亡父の一番下の弟、わたしにとっては叔父だが、現在80歳かな。お元気である。この叔父の言葉で、忘れられない言葉がある。
「今は、子どものいるうちが少なくなってしまったが、むかしは、一軒の家に子どもがいないということはあまりなかった。だって兄弟が10人もいると、一番上と下とでは20歳くらい歳が離れている。
 わたしが生まれて数年後、一番上の兄は結婚した。そして、まもなく姪が生まれる。一軒のうちでだな。
 姪が叔父より年上という家もあった。

 その時代の子育ては、親だけがするのではない。兄弟はもちろん、わたしのように、叔父、叔母が、甥、姪の面倒をみるということもあったし、近所の子どももみてくれた。それに老夫婦が同居している家もたくさんあったから、そういう手助けもあった。

 逆に言うとな。そのころの青年は、結婚、出産前に、少なからず育児体験をもっていたわけだ。自然に学んでいたわけだな。

 それとくらべると、今の子育ては大変だ。今は、赤ちゃんを抱いた経験もなく、結婚、出産となる人も多いそうだな。」

 そう言えばこのわたしにしても、年上のいとこにかわいがってもらった経験はもっている。

 このころは、豊かな自然も子どもを育んでくれたはずだ。木登り、笹舟、サワガニ取り、川遊び、など、など。また、学校の農繁休業などもあった。子どもだって大切な労働力(?)。そのなかで学んだことも多々あったことだろう。

 この時代、親は、一人の子どもにそれほどかかわれるものではなかった。家事も農作業も、今とは比較にならないくらい忙しい。その分、村社会や自然が育ててくれたわけだ。だから親としては、『気づいたら育っていた。』などという感覚もあったに違いない。
 しかし、その分貧しいし、重労働を強いられるし、村社会のなかでは人と合わせていかなければならないし、・・・。したがって、個性の発揮など望むべくもなかっただろう。

 さあ。それでは、今という時代はどうか。

 核家族。そのなかで若夫婦は、子どもの乳幼児期、子どもべったりの生活を送らなければならない。四六時中子どもから離れることができない。

 『子育てが楽しい。生きがいだ。』と感じる親なら、充実した生活を送れるだろう。また、子育てを仲立ちとして豊かな人間関係を築けるなら、むかしの村社会とは違うもののいい子育てができるのではないか。
 しかしそのような親ばかりではないから、つらくきびしい思いをしている親も多いと思われる。おまけに子育て情報は過多。何が参考になるのか見きわめるのはむずかしい。情報に振り回されるといったことも起きそうだ。

 こうしたことは、子どもの側からみても、つらくきびしい面があると思われる。むかしのように、豊かな人間関係、自然のなかで育つわけではない。 基本的に親としかかかわれないから、親の影響をもろに受ける。また、子ども同士のつながりもむかしよりは希薄になっているから、家のなかで一人で過ごす時間も長い。おまけに、戸外での遊びは、親の監視(?)付きだ。

 親は、むかしに比べれば、けっこう個性的に生きられる。しかし、子どもは、どうだろう。前記事に書かせていただいたように、まわりの大人から、『子どもは、かくあるべき。』と価値観を押し付けられる状況もあるのではないか。


 ここで、まことに変な例で恐縮だが、わたしの運転免許取得経験を語らせてほしい。もう、40年くらい前のことだ。

 わたしは、ほとんどの人が受かる仮免の試験で、一回落ちた経験がある。その一番の理由はふかし過ぎ。発進時のアクセルの踏み過ぎだった。

 そうか。今はノークラ、いやオートマばかりだから、こういう問題はないのだろうね。
 むかしは、クラッチを踏んでギヤを入れて、クラッチを徐々にはなしながらアクセルを踏み込むわけだが、その踏み込みが強かったというわけだ。

 なぜ、こうなったか。これはわたしが思ったことだが・・・、
 わたしは、学生時代の長い休みに免許をとることができた。時間的に割合自由だったため、いつも一人の指導員の指導を受けることができた。これは効率がよく、そのため上達は早かったと思うが、わたしの指導員は、このふかし過ぎについては、指導が甘かったようだ。そのためエンストがこわいわたしは、それがクセになってしまった。
 やはりいろいろな人から教わった方が、指導員のクセがつかずにすむから、そういう意味ではよいのだ。


 話を戻そう。

 指導員は、いろいろな人から教わることが可能だ。小学校教員もそう。まあ一年間は固定されるが、年度が変わればほとんどは変わる。しかし親は親しかいない。親の代わりはいない。だから、親業は親が努力するしかない。
 というわけで、子育て受難の時代ということになる。


 さあ、それでは、次に、『でも、まあ、大丈夫ですよ。』という部分について、書かせていただきたい。

〇まず、先述の、『子育てが楽しい。生きがいだ。』と感じられる親、また、『子育てを仲立ちとして豊かな人間関係を築ける』親には、多くを語ることはないと思う。あえて言えば、『今のままでいいですよ。明るく楽しく、いい子育てをしてください。』ということくらいか。

〇『子育てに悩みを抱えている。』あるいは、自分で、『クセのある子育てをしているのではないか。』と思われるなら、やはり、自己改革を図る必要がある。

 とは言っても、悩みは誰もがもつものであろう。そのはんちゅうなら別に問題性はない。いや。悩みをもつのは健全な証拠とも言いうる。後述のクセのあるケースのなかには、悩みなど何もないという場合だってあると思うのだ。

〇ここで言いたいのは、悩みがひどくてその不安感が子どもに伝わってしまったり、情緒不安定ゆえに子どもにあたってしまったりするケースだ。

 それはよくない。子どもが精神的に落ち着かなくなってしまう。どうしたらいいのかが分からなくなってしまう。だから、その場合は、子どもの前では明るく楽しくふるまえて、子どもが寝静まったあと、夫婦で悩みを話し合うというようにできたらすばらしいのではないか。

〇次に、楽観視できる自分を構築できたらすばらしい。

・『今日は、許せなくて怒ってしまったけれど、ようし、今度許せることがあったら抱きしめてほめてやろう。』などと思ってその瞬間を待つ気持ちになるとか、

・『〜ができなくていらいらしたけれど、でもここまではできているじゃない。そんなにいらいらすることはなかったのではないかしら。』とふり返ってみるとか、

・『ちょっと望みが高すぎちゃったのね。どうせうちの子なのだもの。ここまででも上等なのじゃない。』と思うように努めるとか、

・子どもの前では自信ある態度でいいが、一人になったら、『ああ、今日は失敗しちゃった。でも、まあ、いいや。これからあまりムキにならないように、気をつけよう。』と思って、ニヤッとするとか、

 その方がけっきょく結果までよくなるというものだ。

〇先ほどは、『自分で、クセのある子育てをしているのではないかと思われるなら、』と書かせてもらったが、自分ではなかなか気づかないことも多いだろう。

 しかしまずは、自分をふり返ってみることだ。子どもを追い込むようなことをしていないか。気分にムラがないか。感情的に叱っていることはないか。親の都合で叱っていることはないか。子どもの力以上のものを要求していないか。など。など。

 しかしこれも、ふつうであれば、このわたしも含め誰だってあること。別に気にする必要はない。

 ふつうかどうか。それは、お子さんを見ることだ。お子さんがバロメーター。
 お子さんがいらいらしていたり、落ち着かなかったり、反抗的だったり、無表情だったり、・・・、そういう状況が最近ひどくなってきた。
 もしそういうことがあったら、要注意。軌道修正を図ろう。

〇自分では正しいことをしているつもりでも、それがお子さんに合わないと気づいたら、軌道修正を図る。そのくらいの勇気をもてたらすばらしい。


 最後に、

 人間というのは、本能で生きていないだけに、むずかしくややっこしい生き物だ。

 今、むかしに戻りたいなどと思う人はいないだろう。干渉され個が埋没し義理でしばられる。むかし、そういう傾向はどうしてもあったよね。

 だからと言って孤立もいや。かまってほしい。友達がいないと不安。

 その双方の思いに、・・・、しかし、ほとんどの人はそうしたジレンマを感じながらも、適度のバランスをとって生きている。それで大丈夫。ちゃんと生きている。そこに信頼をおきたい。

 誰だって未知の世界はこわいものだ。不安に駆られる。しかし、みんなやっているではないか。『わたしだけがうまくいかないわけはない。』

 これも、重要な、楽観的な見方を養ううちに入るだろう。  


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 ああ。今日の記事は、ちょっとこわい気もします。
 娘2人から、『お父さん。えらそうなことを書いて、お父さんはそんなふうにしてきたの。』って言われたらどうしよう。
 そう。自分で書いた記事ながら、うまくいかなかったことばかり、思い出されます。
 まあ。いいや。娘2人へ。ごめんね。これも、楽観的な生き方でしょうか。

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rve83253 at 17:01│Comments(0)TrackBack(2)保護者 | 子ども

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