2008年06月22日

『先憂後楽』の思想3

b5526053.JPG 『先憂後楽』

 この言葉は、けっこう、意味が誤解されているようだ。

 『まず、苦労しなさい。努力しなさい。そうすれば、その苦労や努力は報われ、やがて、楽しい人生がやってくる。』

そのように受け取られているふしもあるようだ。

 しかし、努力は報われるためにやるのではないだろう。努力そのものに価値があるからやるのであり、努力は報われないことだってありうる。だから、この誤解は、この言葉にとって、迷惑なことだろう。



 ほんとうの意味はそうではない。これは、政治をとるものの心構えを言った言葉だ。封建時代、名君は数多く存在したが、そういう殿様は、きっとこの言葉を肝に銘じたに違いない。

「国の大事については、世の人々に先立って憂い、そして国がよく治まり、人民が楽しんでいるのを見届けてから、初めて自分も楽しめ。」


 ちなみに、東京都岡山市に、後楽園という公園があるが、これは、あながち、この思想と無関係ではないようだ。


 民主主義の現在なら、なおさら、国の政治をつかさどる政治家、官僚の皆さんに、肝に銘じてほしい言葉だね。



 ところで、この言葉。

 『わたしたちの学級経営、学校経営にもつながるな。』と思い、わたしは気に入っている。


 まずは、学級、学校づくりに、真摯に取り組みなさい。

 児童理解、授業改善のための研究、研修にも励みなさい。そして、『子どもが自ら学ぶ、子どもが生きる、子ども主体の学級、学校づくり』をおし進めなさい。

 そうすれば、子どもが育まれた後は、実に楽しい学級、学校となり、教職冥利に尽きる学級、学校経営ができますよ。

 そう言っているように思える。



 『先憂後楽』の思想は、それ以外にも、いろいろなメリットがある。


前々記事でふれた、『楽観的な見方』が可能になる。『子どもは自ら学ぶ存在だ。』『人を信頼すれば、人はそれに応えてくれる。』など、結果がそうなるから、自らの生き方にもよい影響を与えてくれる。

〇『先憂』についても、『憂』ではなくなる。確かに先手を打って仕事をするから、忙しいことは忙しい。しかし、『こうすればこうなるに違いない。』と確信できることも多く、結果への期待も高まり、それが励みになる。結果が実ったときの達成感も大きい。義務感から解放されての仕事は、やりがいも大きいと言えよう。

〇『はたらく』ことは、『はたをらくにすること。』と言った人がいる。『なるほど』とばかり、手を打って感心したことを覚えている。
 そう。はたらけば(はたをらくにすれば、)、まわりが喜んでくれる。感謝してくれる。すると、次はまわりが『わたし』を楽にしてくれる。好循環だ。大人同士の豊かな人間関係づくりにもつながる。

〇初めに手を打つ。いろいろな事態を想定し、それを未然に防ぐべく努力する。これは危機管理の発想につながる。危機が発生してからの対応では、もう遅い。

〇どんなに努力しても、事件、事故は発生するだろう。絶対起こらない保障はない。しかし、『先憂』があるかないかによって、評価の声はまったく違ってくる。
『ふだん、あれだけやってくれているのに、起きてしまったのだから、仕方ないじゃない。気の毒だったわね。』
と思ってくれるか、
『やっぱりね。ほら、言わないことじゃない。ついに起きちゃったわ。どうしてくれるのよ。』
となるのとでは、えらい違いだ。

〇物をつくる仕事なら、事件、事故は、絶対悪かもしれない。しかし、わたしたちの仕事のように、人の心、内面にかかわる仕事は、この、人の思いの差こそが絶対的となってしまうことが多い。

〇こうした取組は、仕事や人生に、生きがいをもつことができるし、幸せを実感することもできよう。
 また、先に紹介させていただいたEQ(心の知能指数)にも出ているのだが、これは、ストレスがたまるか否かにもかかわるので、健康面にも大きな影響を与える。

 

 そこで、『先憂後楽』を実現するためのヒントになれば、幸いであるが、

〇日ごろから、観察する目を養うことが大切だ。

 事態が起きる前に、この状況下では、こういう事態が起こりうると想定し、手を打つ。

 たとえば、学校の安全対策として、校門に監視カメラを取り付けた。しかし、その一方で、職員室の窓は、日差しがまぶしいということで、カーテンを締め切り状態にしているということはないか。
 これでは、意味をなさない。自ら校庭を見えなくしている。監視カメラに巨大なキャップを取り付けたようなものだ。
 さっそく、カーテンを開けるようにお願いする。ただ、まぶしいのはこまるから、こまめに状況に応じ、対応することも大切だろう。

 こういうのは気づきにくい。『まぶしくてカーテンを閉める。』という行為は、きわめて常識的だし、当然と思われる行為だからだ。
 日常の細かなことだが、このようなことにも気づく目を養っておきたい。

 『ああ。手を打っておいてよかった。』そういうことがふえると、文字通り、『後楽』となる。

〇組織を超えた助け合いを

 これは以前も書いたことがあると思うが、学校には組織がある。誰はこの仕事と明確に決まっている。
 それは尊重しながらも、お互いに助け合ったらどうだろう。みんなが忙しい時期は確かにある。しかし、ある係りの人だけ忙しいということもけっこうあるはずだ。そのときは助け合ったらいい。
 ただし、見返りを期待しないでね。期待しなければ、助けてくれたときの感謝の思いも強くなる。

〇『見返りを期待しない。』は、子どもに対してこそ、持ってほしい感覚である。

 たとえば、学級だよりというものは、誰もが出しているものではないだろう。だから、出せば、感謝してくれる。『学級の状況がよく分かってありがたい。』そう言ってくれることもある。
 しかし、それになれてくると、学級だよりへのありがたみが薄れ、逆に、要求が聞こえてきたりすることもある。
 そのようなとき、『なにさ。これだけやってあげているのに。』などと思うのだったら、かえって出さない方がよいということになりかねない。

〇逆に、子どもの変容を喜ぶ気持ちをもつことである。子どもの変容が、『わたし』を支える。つまり、『わたし』の学級経営、児童理解への自信となり、それが、『後楽』へとつながっていく。



 最後に、

 『先憂後楽』の思想の根底には、人への信頼がある。さらに言わせてもらえれば、その信頼を裏切られたとしても、じたばたせず、ちゃんとそこから信頼関係を構築しなおす、心の強さももっているはずである。


 人は、善悪取り混ぜた心をもっている。

 しかし、人は、人とお付き合いするとき、相手の、善悪取り混ぜた、すべての人格にお付き合いしているのではないようだ。よい心にはよい心が対応する。醜い心には醜い心が対応する。

 人の、ある側面に付き合っているだけだ。

 『先憂』の心。これは自分自身の心だろう。それが相手の善意、好意を呼び込む。すると、相手が、『後楽』させてくれるというわけだ。
 
 『人への信頼』とは、そういうなかで生まれるのではないか。


 問題行動への対応に追われるのは苦しい。負担感も強いものがあり、エネルギーは、数倍必要となる。

 それを避けることはできないが、減らすことはできるのではないか。


にほんブログ村 教育ブログへ

ninki



 先に紹介させていただいた、福島県矢祭町の行政は、まさに、この、『先憂後楽』を地でいくものではないかと思います。再度紹介させていただきます。

   町の行政に感涙(!?)


 次、あまりしていない、次回予告を。

 わたしは、教務主任の仕事を、1年間だけやらせていただきました。それは、わたしにとって貴重な1年間でした。

 よく、中間管理職の悲哀などと言いますが、中間管理職ならではの喜びもあると思います。

 次回はそのことにふれたいと思います。

 それでは、『後楽』につながる1クリックをいただければ、望外の喜びです。よろしくお願いします。

rve83253 at 07:24│Comments(12)TrackBack(0)学級経営 | 学校経営

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by なおみ   2008年06月22日 08:26
こんにちは♪このお話でもtoshi先生のおっしゃっている人への信頼感というのが、とても大事なんですね。私の周辺でも、学校をめぐるさまざまなトラブルを見聞きしますが、個人的に会うとどの人も子も良い人良い子なんですよ。でも、お互いに相手を信頼しないで、すごくがんばっているんです。
政治もでしょうが、今学校ほど、先生、親、子の相手への信頼感がなくなっている場はないような気もします。
2. Posted by toshi   2008年06月22日 16:15
なおみさん
《お互いに相手を信頼しないで、すごくがんばっているんです。》
 まことに失礼ながら、おもしろい言い方だなあと思ってしまいました。なにやら、6月4日付け記事の、東京都の事例を思い浮かべてしまいました。
 わたしは、人事考課制度に反対しませんが、正しく、協力し合ったり、先輩教員に指導を仰いだりする姿勢があるかも評価すべきだと思います。そうできないならば、それは、制度の問題か、体質の問題か、よく検討・吟味しなければいけませんね。
《学校ほど、先生、親、子の相手への信頼感がなくなっている場はないような気もします。》
 これではいけません。きっと深刻な問題なのでしょう。よそのことは分かりませんので、これ以上、ちょっと書けないのですが。
 ただ、東京のケースなら、バンキシャで、今後もとり上げるようですから、それでよく吟味させていただこうと思っています。 
3. Posted by なおみ   2008年06月22日 19:06
こんにちは♪学校ほど、先生、親、子の相手への信頼感がなくなっている場はないような気もします。
という書き方があまりにも乱暴な書き方だったので、もう少し丁寧に書き直してみます。
以前、 toshi 先生が、うそをついた子に対する対応の中には、うそをついた女の子が、きちんと気持ちを満たされたら良い方向に自分を律して行くはず…という子への信頼感が基本にあると思うのです。うそをついたから、この子は将来詐欺師になる…といった解釈をしない…ということです。子どもの失敗や乗り越えていかねばならない弱さを見つけて、すぐさま烙印を押さない姿勢です。でも今、教師や親から子どもに向かうまなざしには、こうした信頼感の薄いものが多いのです。
4. Posted by なおみ   2008年06月22日 19:07
また親が先生を評価する時には、自分も子育てでうまくいかない時もあるという事実を無視して、先生と言う商品を見比べるような感覚があります。
また、先生が親を見るときも、子育てに真剣に迷う親をモンスターペアレンツという言葉で簡単にくくってしまう姿を見かけます。
失敗した時や、うまくいかないときでも、どれだけ自分を信頼していけるか、周囲から信頼されるかで、人の成長が左右されように思うのですが、ちょっとうまくいかないとお店に対するクレーマーみたいな態度をとるのはいかがなものかと疑問に感じているのです。そんなに瞬時に反応していたら、何であっても「育つ」という環境にはなりにくいように思うのです。
5. Posted by toshi   2008年06月22日 22:17
なおみさん
 なおみさんのおっしゃりたいこと、よく分かりました。誰かがまず信頼の関係を構築するように努力しないといけないですね。
 それには、やはり、校長の意識が大事でしょう。『先憂後楽』の思想も、まずは、校長の心構えとして必修事項だと思うのです。
 6月6日の『やっていないのに、やった。』という子どもの話ですけれども、まずは、本人が言っている以上は認めてしまうという『受容』の態度ですね。その次は、『うそ』という言葉は禁句として、『ほめるのはやめておこう。』というくらいです。そして、子ども同士の関係のなかで心をきたえられるようにしむけます。
 こうすれば、『うそ』をつく必要がなくなるので、つまり、心が満たされるので、しっかりと成長していくのですね。詐欺師などとは、とんでもないことです。
6. Posted by toshi   2008年06月22日 22:20
親はともかく、教員は教育のプロなのですから、こういう対応ができてほしいなと思います。それが、親の信頼となり、親をも変容させる力になるのだと思います。
7. Posted by bassman   2008年06月23日 10:36
『先憂後楽』の思想,私の通った中学校
(http://www.city-okayama.ed.jp/~misaomtc/)の校歌にも歌われていました。(ちなみに,岡山市内の多くの学校の校歌に,この後楽園のことが歌い込まれています。)
「♪学びて後に 憩えよと 花のしとねを 広げたり ああ その園もいと近し 我らの中学 操山♪」という一節です。

 でも,toshi先生のブログを読むと,私も『先憂後楽』の意味を取り違えていたのかもしれないと思うようになりました。新たな発見です。
ありがとうございます。
8. Posted by toshi   2008年06月23日 13:31
bassmanさん
 うわあ。岡山市民の方から、コメントをいただけるなんて、とてもうれしいです。
 市内の多くの学校の校歌にうたいこまれているとのこと。『ああ。それだけ、市民に親しまれている公園なのだな。』と、また、新たな感慨を抱くことができました。
 わたしも、今回、いろいろ調べてみて、新しいことが分かりました。後楽園という名は、明治期になってからなのですね。それまでは、御後園と言われていたとのこと。でも、『後』という字が使われていること、また、江戸時代も庶民の入園を許可していたことがあるとのことから、『先憂後楽』とあながち無縁なわけではなかろうと、勝手に想像しました。
9. Posted by toshi   2008年06月23日 13:52
bassmanさんが通われた学校の校歌に、
『♪学びて後に 憩えよと、〜。』とあるとのこと。そうなると、わたしが記事冒頭で、解釈の誤りとしたのも、あながち間違いと決め付けることはできないのかもしれませんね。 
10. Posted by bassman   2008年06月24日 08:13
toshi先生,コメントへのコメントありがとうございました。
一つ事実誤認をしておりました。「多くの学校の校歌に歌われている」としましたが,これは私の思いこみだったようです。岡山市の小学生が校歌研究をしたデータがあり,(http://homepage2.nifty.com/w-museum/kouka/kouka.htm)それを見ると,少なくとも小学校の校歌では1校のみということが判明しました。件の校歌の中に歌われている「操山」「旭川」と混同していたようです。(この二つは多くの校歌に取り上げられています。ちなみに後楽園は旭川の中州のような存在です。)どうも三十数年の歳月の中で,しかも郷里を離れて6年の歳月が過ぎる中で,私の心の中に後楽園が校歌に多く歌われていたかのような幻想が広がっていたようです。申し訳ありません。
11. Posted by bassman   2008年06月24日 08:13
しかし,toshi先生がおっしゃるように後楽園が「市民に親しまれている」というのは確かだと思います。(何せ観光資源の乏しい岡山市ですから,「日本三名園」というのは誇らしい気分なのです。)ただ,後楽園という名称が明治時代になってからというのは,恥ずかしながら初めて知りました。私の生まれ育った家も,後楽園まで歩いて15分ほどの場所で,後楽園は私にとってはやはり懐かしく大切な場所です。そんななじみの深い名称だっただけに,高校の漢文で学んだ「先憂後楽」という言葉がとても印象深く記憶に残ることとなりました。
「先憂後楽」と学校運営をつながれたtoshi先生のお考え,深くなるほどと思いました。日々の実践の中では「先楽後憂」になってしまうこともしばしば。
肝に銘じておきたいと思っております。
12. Posted by toshi   2008年06月25日 05:51
bassmanさん
 小学生の校歌研究、読ませていただきました。すごいですね。これも、総合的な学習の成果だろうなと思いました。
 こういう研究は、その地域が何を大切にしているかなどが分かり、郷土研究家の地域研究にも役立つだろうなと思いました。

《日々の実践の中では「先楽後憂」になってしまうこともしばしば。》
 いやあ。ほんとうにその通りですね。反省することもしばしばです。甘さにつながらないよう、自戒しています。

コメントする

名前
URL
 
  絵文字