2008年07月06日

秋葉原事件に思う。(2)3

7e255f8e.JPG 秋葉原事件について、ずっと心にひっかかっている。

特に、以前記事にさせていただいた、『秋葉原事件に思う。』のなかで、
「『この種の事件がまた起きるのではないか。』という思いに、多くの人がかられるからだと思います。」
と書かせていただいたことが、その後も、重くわたしの心にのしかかっている。

 
 もう、何年も前のことになるが、あるテレビのトーク番組で、ある若者が、
「なぜ、人を殺してはいけないのですか。」
という問いを発したという。

 わたしは残念ながら、それを聞きのがしたのだが、この話を聞いたときは、かなり驚かされたものだった。当然、命の大切さは分かっていなければならない。自明のことを、大の大人が問うことについての驚きだった。


 ところで、この種の事件が起きるたびに、
「今の若者は、命の尊さ、命はかけがえのないもの。そういう認識が育っていない。教育の力で、しっかりと命の大切さを教えなければいけない。」
という声がわき起こる。

 そして、全校朝会などで、校長が、『命は大切です。自分の命はもちろん、〜。』などと話して聞かせる場面が映る。

 わたしは、そうしたことにいつも違和感を抱いた。

 『話して聞かせれば、指導したことになるのかな。話だけで、そうした態度が身につくのなら、教育などは楽でいいのだが。』


 上記、問いを発した若者にしても、この種の話は、何度も聞いてきたのではないだろうか。


 もちろん、『話さなくていい。』と言っているのではない。『話して聞かせて指導がなった。』とするなら、それは違うのではないかと言いたいのだ。



 そして、この、重い問いに対して、折にふれて考え込むうちに、なんとなく、感じてきたことがある。


 まったく、わたしのかってな思いであるが、今日は、そのことについて述べてみたい。



 繰り返すが、まず、『話して聞かせて指導がなった。』という考え方ではダメだ。

 

「なぜ、人を殺してはいけないのですか。」

という問いを発する背景には、『自分はいつ死んでもかまわない。』という思いがあるのではないか。

 そして、さらにさぐると、『自分は生きる価値がない。価値を見いだせない。』

 次には、
『家族、友達、先生、・・・。身近な誰からも、かつて人に愛されたことがない。』事実として愛されたことがないかどうかはさておき、少なくとも、本人はそう思っている。そういう状況があるのではないか。

 そして、最後に、これが決定的なのだが、そして、わたしの主観であることは繰り返し申し上げるが、
『自分は殺されかかったことがある。』
『いつ殺されるか分からない。』
これも、事実がどうなのかが問題なのではなく、少なくとも本人はそう思っている。

 そのようなときに、上記の問いが発せられたのではないか。そう思うようになった。



 となれば、答えは一つ。

『ぼくは、わたしは、身の回りの人から愛されている。』

『なくてはならない存在として認められている。』

そう実感できる指導が必要ということになる。

 そうした指導があって、その上で、上記のような、校長の話があるなら、それは、スッと心に入っていくのではないか。そう思う。


 
 ここで一つのブログを紹介させていただきたい。

 最近ちょっと懇意にさせていただいている、なおみさんの 『ADD?先生の発達障害児 教育応援サイト』『軽度発達障害の子の未来のために今必要なこと 3』である。

 以前も紹介させていただいたブログであり、二度も引用させていただくのは、まことに申し訳ないと思う。また、この記事では、拙ブログ記事を引用されていらっしゃるので、それを紹介させていただくのは、ちょっと恐縮してしまう面もある。



 そうお断りした上で、

 まず、引用させていただきたいのは、
『軽度発達障害の子が生きやすい環境は、全ての子にとっても、まっすぐ育つ環境でもあると思います。』

 もう、ほんとうにその通り。だから、なおみさんが、この記事でおっしゃっていることは、すべての子にとって大切ということなのだ。



 そこで、次に引用させていただきたいのは、

『私が軽度発達障害の子に必要だと思うのは、みんなに追いつくように勉強を頑張ったり、きちんとルールを守ったりさせることでなくて、今のまま、あるがままの姿で、十分褒められたり、認められたり、みんなの役に立ったりすることだと思うんですよ。そうして認め合う社会に犯罪は生じにくいです。』

 再度繰り返すが、この、『あるがままの姿で、ほめられたり、認められたり、〜。』は、すべての子にとって必要ということだ。

 それこそ、愛されているという実感、自分の生きる価値が認められているという実感、それが、自己肯定感となり、命を大切にする心につながる。

 だから、犯罪が生じにくくなるのだね。



 そして、・・・だ。

 なおみさんは、『みんなに追いつくように勉強を頑張ったり、きちんとルールを守ったりさせることでなくて、〜。』とおっしゃっているが、それは、『それが、真っ先にくるのではなくて、』という意味だと解釈する。
 
 もう一つ。『〜させることでなくて。』に、意味がある。押し付け、教え込みではダメということだ。

 まず、前者。

 またまた繰り返すが、真っ先にこなければいけないのは、『愛されているという実感、自分の生きる価値が認められているという実感』。それなのだ。

 次、後者。

 押し付けられた知識は何の意味もない。テストでは〇がとれるだろう。しかし、自己肯定感のないところでは、むなしいものでしかない。


 逆に、生きる価値の認識、自己肯定感があれば、勉強もがんばるし、きちんとルールも守るようになる。そして、そうして得た、知識・技能・規範意識は、押し付けられたものでないだけに、本物となるのである。


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 あるがままで認められるということ。

 わたしは、その実践例をいくつか記事にさせていただいていますが、ここでは、

   心の教育(6) 心の育みは家庭でと言うけれど、

にリンクさせてください。記事の真ん中よりちょっと上、『1年生担任のときである。時期はちょうど今ごろであった。』からです。


 最後にお詫び。

 今日は、仮説の上に、持論を展開してしまいました。ちょっと気が引ける点があります。申し訳ありません。

rve83253 at 21:48│Comments(17)TrackBack(0)教育観 | エッセイ

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この記事へのコメント

1. Posted by なおみ   2008年07月07日 15:47
この記事の内容と関係ないコメントで悪いです。ていねいなコメントをいただきありがとうございます。またリンク先の記事を読ませていただきました。とてもよかったです。子どもたちの交流の問題、私自身は交流することを大切なことと感じていますが、グレーゾーンの子や親の傷つきやすさを思うと、悩んでしまいます。せめて、親がそうした気持ちを抱くことを自然なことと学校側が捉えて、自由な選択ができるのならいいのに…と感じています。
私はtoshi先生の子どもへの接し方をとても信頼しています。ですから、toshi先生のなさっている活動は、どのような形のものでも、子ども達に良い影響を与えるだろうと感じています。
2. Posted by toshi   2008年07月07日 18:03
なおみさん
 いいえ。わたしの方でリンクさせていただいたのですから、とてもありがたいコメントをいただきました。感謝しています。
 どんなにすばらしい理念であっても、相互理解ないところでの成功はありません。
《グレーゾーンの子や親の傷つきやすさを思うと、悩んでしまいます。》
 それはとてもよく理解できます。
 2年以上前、障害児教育や交流教育について、記事にさせていただいたときも、実に多様な保護者の方のご意見をいただきました。
 『個別支援学級は障害児の隔離ではないか。』という、保護者の方の思いもうかがいました。差別に悩んだり、怒ったりする保護者の思いもいたいほど伝わってきました。
 
3. Posted by toshi   2008年07月07日 18:03
わたしは、そのとき、今、日本においては、障害児教育は、発展途上にあるのではないかと書かせていただきました。むかしよりはよくなったけれど、まだまだ問題は多い、努力しないといけないという意味です。
 ですから、こういう時代こそ、多様な保護者の声を受け止め、信頼関係を構築したうえでの実践でないと、意味をなさないように思うのです。
《せめて、親がそうした気持ちを抱くことを自然なことと学校側が捉えて、自由な選択ができるのならいいのに…と感じています。》
 学校が、保護者に対し、理解を求めるのは大切です。でも、押し付けであってはならず、どうしても理解をいただけなければ、保護者の希望を受け入れる。少なくとも、我が地域では、そうなっていると思います。
 そういう意味での相互理解がすすむようになるといいですね。
 
4. Posted by toshi   2008年07月07日 18:07
申し遅れました。
 わたしは、むかしの実践をよく書かせていただいていますが、けっこう失敗もしているのです。いいことばかりでは気が引けますので、失敗例もときどき掲載し、自らの戒めとしております。
 本コメントのわたしのHNをクリックしていただければ、そうした記事が出るようにしましたので、その辺も併せ、お時間のあるときご覧いただければ幸いです。
5. Posted by なおみ   2008年07月07日 22:31
ていねいなお返事をありがとうございます。「にがい思い出」のお話、校長先生もすばらしく、またこうした出来事を正確に捉えなおしておられるtoshi 先生の姿もすばらしいと思いました。
私が子ども達と過していると、蝶を殺してしまったという事件をきっかけに、良い方向に自分を立て直した男の子のような心が成長してゆく姿にぶつかります。
6. Posted by なおみ   2008年07月07日 22:32
子どもを成長してゆく存在として、どんなに問題があるように見えるときも、間違いを犯したときも、
叱ると同時に信頼してゆくことは、きれいごとではなく子どもの自然の姿に応じたものだと考えています。ですから、toshi 先生のブログを読むと、それが間違っていないことがよくわかりますね。

7. Posted by toshi   2008年07月07日 23:56
なおみさん
 うわあ。もう、お読みいただいたのですか。しかも、『チョウチョウを殺した話』まで。
 ほんとうにありがとうございます。
 現実は泥だらけ。いい話ばかりではありません。ああ。ごめんなさい。そのなかには、自分自身の反省も含まれるのでした。
 今回、なおみさんの記事を読ませていただき、あらためて、信頼関係構築の大切さについて考えさせていただきました。
 失敗したから、信頼関係を築けなかったということではないですね。理念だけで信頼に足る実践がない場合に、不安感を与えてしまうのだと思いました。
8. Posted by YK   2008年07月08日 16:31
>「なぜ、人を殺してはいけないのですか。」

あえて答えるなら「人間だから」ではないですかね。動物だったら、殺し合っても自然の摂理ということで済むでしょうが、人間は違いますから。私は学校とは動物状態から良心やヒューマニズムを得て人間になる場所だと思ってますが、日本では多くの場合、動物的な競争本能を刺激するのが教育だと考えられているようです。特に今は金が大事だと塾で教える時代です。金は大事ではないと教えるのが教育だと思いますけどね。

>『自分は殺されかかったことがある。』
>『いつ殺されるか分からない。』
>これも、事実がどうなのかが問題なのではなく、>少なくとも本人はそう思っている。

同意しますね。何か脅迫されているような感覚があるのだろうと思います。
9. Posted by toshi   2008年07月10日 05:39
YKさん
《特に今は金が大事だと塾で教える時代です。金は大事ではないと教えるのが教育だと思いますけどね。》
 良心的な塾もたくさんありますが、確かに、言い得て妙と思う部分もありました。

《動物だったら、殺し合っても自然の摂理ということで済むでしょうが、人間は違いますから。》
 逆に、動物の方がすばらしいと感じる部分についてですが、
 猛獣でも、今、おなかいっぱいというときは、目の前をエサになる動物が通っても決して襲わないと聞いたことがあります。必要以上には殺さないということですね。
 ところが、人間は、自分のおなかとは関係なく、趣味で魚を釣ったり、食べきれないほどの料理が出て無駄に捨てたりしているわけです。
 人間社会の矛盾を何とかしたいもの。これ、温暖化問題にもからみますね。
10. Posted by toshi   2008年07月10日 05:42
《私は学校とは動物状態から良心やヒューマニズムを得て人間になる場所だと思ってますが、日本では多くの場合、動物的な競争本能を刺激するのが教育だと考えられているようです。》
 ですから、『動物云々』を除けば、まったく賛成です。現状、結果的にということだと思いますが、良心やヒューマニズムが軽視されていると思わざるを得ません。
11. Posted by YK   2008年07月11日 04:11
>>逆に、動物の方がすばらしいと感じる部分についてですが、

そうですね・・。例えばアフリカでは、一つのオアシスにライオンは何時に水を飲みに来るとか、キリンが何時に来るとか、規則を守っているらしいですね。それで、時間を守れなかったりする弱い草食動物がいたりすると、強い肉食動物に食べられてしまうという話です。そういう意味では弱肉強食という言葉通り、人間も動物であるわけだから、競争があるのも当然といえば当然ですよね。ですが、教育というのは、本質的には競争意識を喚起するものではないように思いますね。それより長い時間をかけて、教養なり理性なりを身に付けて欲望をコントロールできる「人間」になった、ということを教えたほうがいいのではないかと思いますね。もっとも、こんなことは多くの親も興味はないかもしれないですけれど。
12. Posted by toshi   2008年07月11日 08:31
YKさん
《一つのオアシスにライオンは何時に水を飲みに来るとか、キリンが何時に来るとか、規則を守っているらしいですね。》
 知りませんでした。動物の世界にもこのようなルールがあるのですね。お教えいただき、ありがとうございました。
 
 『競争心』は本能的なものですし、子どものもつ素朴な競争心をうまく育めば、教育効果は上がると思うのです。
 かつて記事にしたことがあります。本コメントのわたしのHNをクリックしていただければ出るようにしましたので、よろしければご覧ください。
 ところが、現実は、大人の押し付けによる子ども間の競争が多いので、YKさんご指摘のようなことが言えるのだと思うのです。

 《長い時間をかけて、教養なり理性なりを身に付けて、欲望をコントロールできる「人間」になった、ということを教えた方がいい。》
 全面的に賛成です。いや。ほんとうに大事です。
13. Posted by YK   2008年07月11日 23:12
記事のご紹介ありがとうございました。健全な競争というのは良い言葉ですね。切磋琢磨できる相手がいるというのはいいことだと思います。やはり競争が健全であるかないかは、相手が自分を認めてくれているという感覚の有無でしょうか。自分も当然受験の経験があるわけですが、教える側になってもその辺はどう考えたらいいか、難しいものです。
14. Posted by YK   2008年07月12日 00:22
<<人間社会の矛盾を何とかしたいもの。これ、温暖化問題にもからみますね。>>

上のように書きましたが、確かに、自然の中での自動調節という点では、動物にはその機能があって人間には自動調節というものが無いですね。その結果意識も発達し、文明も発達したといえるのでしょうが、無駄も生んできました。洞爺湖サミットで議題になった原油にしてももともと植物が葉緑素によって作ったもので、人間は既にあるものを消費するしかないです。地球温暖化という結果を見るだけでなく、地球から色々借りているという自覚や、科学文明の限界を自覚していかないと、なかなかこうした矛盾は解決には向かわないかもしれないなと思っています。
15. Posted by toshi   2008年07月12日 16:30
YKさん
 《自然のなかでの自動調節》
 いい言葉だなと思いました。『本能』を端的に言い表していますよね。人間という、本能を脱した生き物が、いい意味でも悪い意味でも、自然を超越して生きています。
 むかし、何かの本で、『地球にめぐみを与えず、めぐみを奪取するのみの生き物は、地球によって滅ぼされる。』というのを読んだ気がします。
 YKさんの、『地球から色々借りているという自覚』という言葉から、そのことを思い出しました。
 いずれにしても、自然、地球、宇宙などに対する謙虚さがもっとなければいけないですね。
16. Posted by 健次郎   2012年09月20日 08:10
校長が、『命は大切です。自分の命はもちろん、〜。』などと話して聞かせる場面が映る。

しかしこの校長さんは、何もわかっていない。

人間は、外部から栄養分を取り入れ、体内で燃焼し、不要物を排出する生物です。

外部から栄養分を取り入れるには他者を何らかな形で否定せざるを得ない。

栄養分としての他者が人間であると、自己矛盾が生じる。
そこで、「他人を殺してはならないという社会規範が生ずるだけの話。」

美しい美女がビーフステーキをおいしそうに食べる映像がテレビで放映されるでしょう。
この映像は社会規範に抵触していないからみていられるだけ。

17. Posted by toshi   2012年09月21日 06:26
健次郎さん
 今また、いじめ自殺が続いているようで、そのたびに、校長の画像がテレビに映し出されますが、他人事のような対応で、強い違和感を感じています。

 人間に限らず、およそ動物は皆、他の命をいただいて、生きながらえています。人間の場合、頂点にいるだけに、この『いただく』という思いがもてるかどうかは重要です。

 わたしは思います。人類が誕生して200万年とも400万年とも言われます。その間の大部分は、狩猟採集生活でした。いつも飢餓の恐怖があったと思います。獲物が獲得できるかどうかは切実でした。そうした中で攻撃的、戦闘的な心が養われました。
 その一方、協力し合わなければ獲物を得ることはできません。また、子どもを育てなければ滅んでしまいます。そうしたなかでは、力を合わせたりいつくしんだりする心が養われました。
 本能による生活から脱却するなかで、こうした双方の心が養われたのでしょう。ですからこれは宿命であり、矛盾とはとらえていません。そして、現代社会においては、『他の命をいただくことによって生かせてもらっていることに感謝する』心情を養うことが大切と思います。
 そうした意味でも『命を大切に』。
 教育の力が今ほど問われるときはないでしょう。
 

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