2008年07月14日

保護者として、教員として、(1)3

778ab317.jpg 今日は、ちょっと恥ずかしかった思い出。きまり悪かった思い出を書かせていただこうと思う。

 というのは、『ADD?先生の発達障害児 教育応援サイト』ブログのなおみさんから、前記事にコメントをいただいたのだが、それを読ませていただいて、『あらあっ。』と、思わず叫んでしまったことがあるのだ。

 ふつうはこういうとき、リンクさせていただくのだろうが、そのようなことがあったので、ここでは、全文、引用させていただきたい。



 そのコメントは以下の通り。

《私は学校と家庭が信頼関係が結びにくいのは、お互いが、パラダイムや価値判断の基準にずれがあることに気づいていないからだと思うのです。親って、先生としての資質や成果よりも、先生の口調とか自分の子への評価とか、自分の意見に耳を傾けてくれたかとか…感情に訴える部分で先生をランクづけすることが多いです。一生懸命やってるか、仕事をたくさんこなしているか、という部分は見えないし、関心がありません。

 でも教師の多くは、仕事としての教師の部分に気持ちがいっていて、そんな所で自分が判断されているとは考えてないのではないでしょうか?これではいつまでも平行線で、不祥事があると冷たい視線を向ける人が増えます。困りますね。》



まずは、いろいろ理屈を言う前に、わたしの苦い体験談を語らせてほしい。



 娘が小学生のときだから、もう、30年近く前のことだ。

 娘の学校は、日曜日に運動会をやってくれたから、毎年見に行くことができた。

 そう。休日の運動会というのは、今でこそ当たり前だが、当時、我が地域では、さほど多くはなかったのである。


 たぶん、長女が2年生のときだったと思う。

 リズムの団体演技。わたしはあらかじめ、娘がどの辺で踊るかは聞いていたから、すぐ分かり、カメラを構えた。

 ゆったりと撮影ができたし、『おお。みんな、よくそろって、上手なものだな。娘も張り切って演技している。』そんな思いでいた。


 ところが、しばらくたつと、隊形移動がある。そうすると、娘がどこにいるのか分からなくなってしまった。

 さあ、大変だ。
 『娘はどこだ。どこだ。』それしか関心事はなくなってしまった。

 だいぶたって、やっと見つけたときには、もう、演技の大半は終わっていた。



 でも、その後だ。

 猛烈な自己嫌悪感が襲ってきた。

 自分は教員なのに、何ということだ。演技の印象は、踊り始めたときしか残っていない。隊形移動からは、娘を追い求めるので精一杯。まったく演技を見ていない。そういう自分に気づいた。




 ちょうど、その一週前の日曜日が、自校の運動会だった。

 運動会終了後の反省会では、次のような話がでた。


「団体演技、上手だったね。」
「うん。どの子もすばらしい演技だった。〇〇ちゃんなんか、ちょっと心配していたけれど、さすが、本番は強いね。しっかりやっていたじゃないか。」
「隊形移動もスムースにできたし、〜。」
「ほんとう。よかったねえ。きれいだった。」

「でも、親って、そういうところをしっかり見てくれているのかな。あんがい我が子しか見ていないものだよな。」
「そう。もしそうだったら、残念ね。」


 ああ。その通りに自分がなってしまうとは。




〇教員である自分が保護者でもあるのは当たり前だが、教員であるなら、保護者の立場になったとしても、一般の保護者とは違った、教員としての見方ができていいではないか。

 まして、『親っていうのはこんなもの。』という話をしていたのだった。それなのに、その通りの親に自分がなってしまったという驚き。

〇隊形移動というのは、指導者としては、見てもらいたいところの一つである。それがうまくできれば、拍手喝采を浴びることもある。だから、保護者がしっかり見てくれることを期待している。そして、そのことをわたしはよく承知しているはずなのである。

〇なおみさんが、保護者と学校との信頼関係が、なかなかうまく築けない理由として、『保護者と学校とのあいだに価値判断の基準にズレがあるから。』とおっしゃった。
 なんと、そのズレを、わたし一人のなかで演じてしまった。わたしのなかで自己分裂を起こしたと言っていいだろう。それに気づいたとき、わたしは愕然としてしまったというわけだ。




 それからというもの。わたしのなかで、何かが変わった。

 むやみに保護者を批判的に見ることがなくなった。

 なおみさんのコメントをお借りすれば、

『(教職にある自分は、)仕事としての教師の部分に気持ちがいってい(たとしても、保護者からは、自分の思いとまったく違った)所で自分が判断される(こともありうる)と考えられるようになった。』のである。

 そして、少なくとも、それを、保護者のエゴとはとらえなくなった。

 言葉を変えれば、保護者が我が子中心なのは当たり前。それをとやかく言うのはおかしい。

 よく子どもを受容することが大切と拙ブログで述べているが、保護者も受容できるようになった。



 こんなことがある。

 拙ブログの今年1月3日の記事だ。『初任者の成長(5)学級文化の創造』

 ここに、こういう記述がある。再録する。



『〜。

 運動会では、多くの方から絶賛を浴びた。保護者同士の喜びの声が印象的だった。
「ねえ。ねえ。見たあ。・・・。3年生のよさこいソーラン。」
「見たわよ。すごかったね。・・・。3年生でもあんなに踊れるのだね。」
そのようなやり取りが、わたしにまで聞こえてきた。

〜。』



 これは、昨年度の勤務校における運動会にお邪魔したときのことを書いたものである。

 わたしは、今、週2日の勤務になっており、基本的に初任者のクラスにしか入らないから、ほとんどの保護者はわたしのことを知らない。それで、上記のような保護者のナマの声を聞くことができたのだが、・・・。


 わたしは、この保護者の声に感動したのである。だって、この保護者たちは、我が子だけを見ていないものね。

 かつての自分ができなかったことを、この保護者たちはやっている。ある意味、なおみさんの言葉をお借りすれば、『仕事としての教師の部分』とズレがないわけだ。



 だから・・・、

 そう。感動したからこそ、

『そうした保護者の声を、担任はじめ、校長先生、教頭先生に伝えたことは言うまでもない。』

となった。

 
 これが、自己分裂を経験する以前だったら、少なくとも、保護者の声を、当たり前と受け取り、『喜び』とはしても、『感動』まではいかなかったに違いない。




 一歩、論を進めよう。

 教員は、保護者の我が子中心の声を『エゴ』と受け取るのではなく、人間的な思いと受け止め、受容し、許容することができれば、これは、両者の信頼関係の構築に、ものすごく役立つのではないか。


 だって、教員は保護者の声を受け止めることができるけれど、保護者は教員の思いを受け止めることは無理だものね。経験がないのだから。


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 今日のような記事を書くと、

「やっぱり子育て経験のある先生と、ない先生とでは、違うわね。経験のある先生は、子どもにあたたかいわよ。」

などという声が聞こえてきそうです。そして、現に、そういう声は、保護者からも、教員からも聞いたことがあります。


 でも、これも、なおみさんやわたしが警戒する、十把一からげのとらえ、画一的なとらえ、さらに言えば、『決めつけ』ですね。


 子育て経験のある先生はみんなあたたかく、経験のない先生はあたたかくないなどということは、断じてありません。

 そのはんちゅうになれば、あくまで一人ひとりです。 

rve83253 at 02:12│Comments(8)TrackBack(0)保護者 | 自己啓発

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この記事へのコメント

1. Posted by なおみ   2008年07月14日 09:19
コメントを取り上げていただきありがとうございます。<「やっぱり子育て経験のある先生と、ない先生とでは、違うわね。経験のある先生は、子どもにあたたかいわよ。」>という声は、正しくはないけれどある真実を言い当てている気もします。というのも、逆の側から見ると、保護者の中でも、教員経験のある方や、集団をお世話する立場を経験したことがある方は、わが子だけに焦点を当てた発言はあまりしないのです。それは個人の性格によるというより、経験の幅やさまざまな視座から物を見られるようになったから…とも言えるのです。私のダンナさんが子ども会をしていた時、遠出して子ども達を連れてどこかに行く時必ず、「塾があるので、途中から合流したいが良いか?」といった要望があって困っていました。
2. Posted by なおみ   2008年07月14日 09:23
引率の手伝いがただですら少ないので、個人のニーズに応えていると、大きな事故につながりかねないのです。しかし個人の立場からこうした行事への参加を考える時には、だからと簡単に塾を休ませることも悩むでしょうし、行事を子どもにあきらめさせようにも強い反発にぶつかったりもするのです。そうした集団からの目も個人からの目も経験することは恥ずかしいことではなく、より大きな視座からものを眺めることができるようになるきっかけとなるように思います。
子育てもかなり大きくなるまでを経験すると、子どもが親の思うようになる存在ではないことを知ります。また、先生というのも経験してみると、子どもは先生の思い通りになる存在ではないのでしょうね。どちらもそうした現実を実感することが大事なんだろうな…と感じています。
3. Posted by toshi   2008年07月14日 18:15
なおみさん
 ううん。こまってしまいました。
《なおみさんやわたしが警戒する、十把一からげのとらえ、〜。》
 かってに、なおみさんのお名前を出してしまい、申し訳ありませんでした。まずかったですね。
 今日の例では、《正しくはないけれどある真実を言い当てている気もします。》というコメントから、グレーゾーンと言ったところかな。わたしの経験からは、否定させていただいたのですがね。

 なるほど。教員の側から見た場合と、保護者の側から見た場合とで、印象が違ってくるのかもしれませんね。
4. Posted by toshi   2008年07月14日 18:23
なおみさんの心の温かさを強く感じました。『そんなのダメですよ。』と一刀両断するのではなく、我が子中心の要望を出してくる保護者に対しても、『その気持ちは分かります。』という姿勢で臨まれていらっしゃいますね。
 教員の側も、保護者の側も、そういう気持ちが大切なのですね。そうすれば、信頼関係の構築につながるのですね。
 でも、現実は、こういう関係が結ばれる例もたくさんあるのだと思いました。悲観ばかりではないですね。

 ほんとう。信頼関係が薄い場合は、保護者も教員も錯覚してしまって、『自分の思うことが正しい。』となりがちですが、けっきょくは、子どもが成長すれば、子どもが自分で決断するようになります。それでやっと気づくのかもしれませんね。
5. Posted by なおみ   2008年07月14日 21:09
すいません…失礼なコメントになってしまいました。私は基本的にはtoshi 先生と同じ考えで、画一的な捉え方は苦手です。でも、toshi 先生の今日の記事を読むと、やはりtoshi 先生のように保護者の感覚で学校に関わった経験があると、より大きな視座から眺めることができるのだな…とも感じました。それは、必ずしもだから親にならなくては…という意味ではありません。子どものいない先生はダメという一般論でなく、子どものいる先生は高い理想をいくぶん手放すことができるな…という程度のものです。
6. Posted by なおみ   2008年07月14日 21:17
私も、工作指導のような小さな規模で、集団を教える経験をして始めて、それまで見えなかった教師という仕事の過酷さや、難しさを少しだけ理解しました。親側の視点から眺めていた時はまったく見えなかったし、気づけなかったことです。安全管理の大変さを実感するにつれ、融通が利かないように見えたことも、「責任感」という別の視点からも考えられるようになりました。
経験の幅を広げることは主婦も大切ですね。それにしても失礼なコメントをしてしまいすいませんでした。
7. Posted by toshi   2008年07月15日 06:47
なおみさん
 いいえ。こちらこそ、勝手に、お名前をお借りし、申し訳ありませんでした。
 わたしたちは、なおみさんのおっしゃる、《高い理想》。それは、教える側の独りよがりだったり、子どもの実態とかけ離れていたりするのですが、そういうことのないようにするために、研究、研修に励むと言ってもいい訳です。
 でも、むずかしいのは、その研究、研修が、自らの《高い理想》を補強する役割をもっていることもあるわけで、そういう意味では、その内容が問われるわけですね。
 わたしは、教員に、親の経験があるかないかより、この、研究、研修に励んでいるかが一点目。励んだとして、それはどういう研究、研修であったかが二点目。
 そういうことが、《より大きな視座から眺めることができる》かどうかを決定するのだと思っているのです。
8. Posted by toshi   2008年07月15日 06:56
でも、なおみさんのコメントを読ませていただいて、《そうか。保護者の視点から見れば、また違うのかもしれない。》と思うようになりました。

 ちょっと視点がずれるのですが、わたしは、かつて、自分の居住地で、町内会長を仰せつかったことがあります。それも、記事にしたことがありますので、よろしかったらご覧ください。本コメントのわたしのHNをクリックしていただければ、その記事が出るようにしました。

 でも、この町内会長を受けたとき、なおみさんのおっしゃることに関連しますが、《こういう役を引き受け、町内の皆さんと交流することは、我が仕事にも、大いに役立つことがあるはずだ。》という思いが確かにありました。
 そして、やはり、はばの広い見方ができるようになったと思います。

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