2008年07月21日

TBしてくださったブログ記事といただいたコメントから TOSSのこと3

41bec74b.JPG 前記事『校長先生の授業(3)TOSSとくらべて』で、A元校長先生の授業を紹介させていただいたところ、いつもお世話になっている、
『ポピュラーサイエンス日本版』から『家電批評monoqlo』と渡り歩く「ニセ科学研究所」のBLOG
亀@渋研Xさんと
『虹色教室通信』及び、『ADD?先生の発達障害児 教育支援サイト』
なおみさんが、
 ご自身のブログに、拙ブログ記事を引用しての記事を書かれた。以下の記事である。

   子ども、「校長先生の授業」、TOSS−2
   幼児教育の弊害…再度しっかり考えなくては…!


 また、ドラゴンさんが、拙ブログ記事に長文のコメントをお寄せくださった。



 ブログを始めてからというもの、他地域の教員の方はもちろん、市民の方の教育論にもふれる機会があるわけだが、それはほんとうにすばらしい体験である。いつも心打たれるものがある。

 今回も、わたし自身、おおいに触発される部分があった。そこで、今日は、上記、ブログ記事やいただいたコメントを引用させていただきながら、再度、考察していきたいと思う。



 それでは、まず、亀@渋研Xさんの記事を引用させていただきたい。

 

1.授業のよどみについて


 亀@渋研Xさんは、おっしゃる。

 『自分の考えたことをグループで討論させたり、ノートに書かせたりして、それを発表させる授業は、小中高で何回も見てきた。しかし、そうした学習は、たいがい、授業によどみが感じられる。テンポが悪くなりがちだ。〜。』

 でも、『このA元校長先生の授業は、子どもの考えを引き出す努力をする一方で、よどみのないようにする工夫が随所に見られる。』とおっしゃる。


 それについてわたしは、亀@渋研Xさんのおっしゃる工夫を、『そうだ。その通りだ。』と是認し、『すごい。よくぞ、そこまでくみ取っていただきました。』と感謝した上で、さらに言いたいことがある。


 それは、A先生の授業には、子どもにとっての学ぶ必然性、切実感をもたせる配慮があるので、一般の授業ならよどむような場面でも、子ども自らがよどませないように活動してしまうのだ。


 たとえば、

 前記事の写真をご覧いただきたい。

 これは、子どもが一列に並んで、自分の思いを順次A先生に話している場面だ。

 この場面、A先生は、その瞬間、瞬間、一人の子どもしか相手にしていないので、ふつうなら、よどんでも不思議はないだろう。

 しかし、子どもたちは、自然体で、自ら意欲的に活動している。

 それは、

〇まだ、席についたまま、証拠になる資料を一生懸命探している子がいる。
〇並んでA先生に話そうと待っている子は、
  ・前記事に書いたように、『早く言いたい。』とばかりに、必死の思いでA先生を見つめていたり、
  ・自分の思った通りでいいか、資料を読み返して確認していたり、
  ・『K君は、どんな資料なの。ぼくはこれが証拠になると思う。』などと、列の前後で話し合っていたりする。
〇もうA先生に話し終えた子は、黒板に掲示してある資料のところへ行き、それを見 ながら、あれこれ、友達とディスカッションしている。

 決してボオッとしていたり、勝手なおしゃべりをしたりはしていないのだ。



 それについて、TOSSの場合はどうであろう。

 TOSSの授業も、まず、よどみはないと言っていいだろう。

 しかし、その理由は、まったく異なる。


 TOSSの授業でも、一生懸命学ぼうとする子どもの姿は見られる。
 しかし、それは、先生の提示した問題であり、自分たちで生み出した問題ということではない。

 そして、多くは、先生の発問のテンポに追いまくられるのだ。『TOSSランド』の授業記録を見ていただければ分かると思うが、発問は次から次へと矢継ぎ早に発せられる。
 
 A先生の授業では、発問はほんの数回。あとは、子どもたちが自分たちの手で学習を深めていく。



2.法則化運動なのだから、


 亀@渋研Xさんは、『TOSSは法則化運動なのだから、子どもを(指導者の持つ)バリエーションに当てはめて「想定している」だけで、実際に(一人ひとりの子どもを)見ていないのは、当然なのだろう。』とおっしゃる。

 
 そのうえで、『そうは言っても、教員に採用され、いきなり、手ぶらで教室にほおり出されるのであれば、TOSSのようなスタイルに惹かれる者が多いのは、うなづけるものがある。』とおっしゃる。

 そして、

 『どうせ法則化と言うのであれば、このA元校長先生のように、どうやって学習意欲をかき立てるか、子どもの意を汲むか、どうやって授業をたるませないか、そのためにはどういう準備が必要か……単元ごとに小手先で格好をつけるようなノウハウよりも、そういう根っこの部分のノウハウを共有することに傾注すればいいのに。そう思ってしまう。』と続けられる。

 わたしとしては、痛いところをつかれたという思いだ。


 ほんとうにそうだよね。そこで、

〇若い先生がお手軽な教育路線に染まらないように、『真に子どもを育む。』とはどういうことか。『大事なのは、教材研究とともに、自分の学級の一人ひとりをじっくり見とることである。』と、先輩ががんばって実践で示さないといけない。


 しかし、悩みは深い。

〇亀@渋研Xさんがおっしゃることは、

 TOSSとは違った意味での、

 子ども一人ひとりを見とる上での『法則化運動』を展開することであるのかもしれない。

 子どもをパターン化することはできない。発問もパターン化することはできない。

 しかし、子どもをあるがまま見るという、そうした見方の法則化なら、できるのかな・・・・?

 いや。やっぱり、無理なような気がする。子どもはあくまで、一人ひとりだものね。



3.幼児教育の視点から


 次に、『虹色教室通信』のなおみさんのご意見にふれさせていただきたい。

 同氏は、幼児教育に携わっていらっしゃる。そのお立場から、TOSSの指導法を幼児教育の問題点と関連付けて考えていらっしゃる。


 同ブログに、印象深い言葉がある。

『これほど幼児教育が流行していても、いまだに幼児教育産業の方法に従った結果、世の中で成功した…という人物はあらわれないのだそうです。』

とのこと。


 TOSSはどうなのだろう。この言葉がそっくり当てはまるだろうか。それは分からない。

 しかし、少なくとも、なおみさんは、TOSSも同類と思われているようだ。

 何を、『成功』と見るか。それによっても違うね。受験勝ち抜き組を成功というなら、TOSSによる成功者はいるのかもしれない。


 しかし、自分自ら人生を切り開いていくような、そんな学力、それは、国の言うところの『生きる力』と言っていいだろうが、そういう学力は、どうなのだろう。

 子どもは指導者の発問待ち、指示待ちだからね。



4.TOSSの問題は、社会一般の授業観、教育観、子ども観の問題


 ドラゴンさんからは、示唆に富んだコメントをいただいた。引用させていただく。

『私は、TOSSの授業の問題は、そのまま社会一般での授業観、教育観、子ども観の問題でもあると思っております。
 社会一般でも、子どもは大人の不完全な形であり、大人が知識を持っていて、子どもは持っていないので与えてやろう、そのような子ども観、教育観が根強いと思っています。そしてTOSSは、その典型なんだろう考えています。

 そのため、教師からの発問・指示が中心です。TOSSランドの総合的な学習の事例も多くが座学であり、講義です。たまに活動があっても教師の指示で動くようになっています。』


 そうか。それなら、TOSSは、確かに、社会受け、一般受けする面があるのだね。

 おまけに、この引用文のあと、ドラゴンさんは、こうもおっしゃる。

『すぐに効果を出すとするとTOSSのやり方も効果的に見えるでしょう。内容や手順を覚えれば、覚えている内は成果を出せます。』



 となると、危機感は深まる。


 これだけ、ゆとり教育が批判され、学力低下論が渦巻き、学習内容重視の指導要領改訂があり、・・・、そういう社会風潮の今だ。TOSSはますますもてはやされてしまうのかな。


 
 でも、考えてもみよう。

 PISA調査で、日本の学力低下が盛んに言われるようになったが、でも、そうした意味の学力で言えば、それは、今でも、世界のなかで上位に位置する。

 しかし、問題は、『学ぶ意欲の低下』だ。日本は、これに関しては世界最低なのだ。

 それなのに、こちらはあまり問題視されていないよね。


 学ぶ意欲の低下に考慮を払わず、学習内容を増やす方向性でいったら、・・・、いや、現状は、そうなっているのだけれど、

 また、学ぶ意義、学びへの切実感に考慮を払わず、ただひたすら覚えさせることに熱中していったら、・・・、これも、そうなっているよね。

 日本の子どもは、いったいどうなってしまうのだろう。


 わたしには、その将来が、見えるようだ。


 今こそ、わたしたちは、A元校長先生の授業に学ばなければいけないのではないか。



5.ネットが社会を変える!?


 ドラゴンさんは、さらにおっしゃる。

 『私は、ブログは学びの場として非常に価値のあるものだと考えております。

 佐藤学さんが言われている学びの共同体が、ブログにはあるのだろうと思います。

 それでは、書かれていることを読むだけより、自分で発言する、そして意見を交流する、そういう方が、より学ぶことができます。大人も学ぶときには、一方的に情報が伝えられるより、そういう方が、より学ぶことができます。』


 もう、これは、まったく同感だ。

 自分の思いを出し合う。意見交換する。それによって、学び合いが成立する。

 授業は同一の場にみんないるのだから、書き合う必要はないが、そのブログの手法を、学校の授業にもと願わずにはいられない。

 

 わたしは、さらに論を進めたい。

 ネットは、上記4.で指摘した、日本の教育の危機を救う力をもっているかもしれない。教育観を変えていく力があるかもしれない。

 
 ウェブ進化論の梅田望夫氏は、『ほんとうの大変化はこれから始まる。』と書かれる。

 『一億総表現化時代』の到来を予言する。

 大人の学び合いの機会は、増大していくことだろう。
 
 また、『新しい職業』の出現も予言する。

 たとえば、

 かつて、野球で飯が食えることを誰が予想しただろうか。わたしは、ラジオ、テレビの発達が、こういうことを可能にしたのだと思う。

 『新しい職業』は、何も、ラジオ、テレビ局で働く人だけの職業出現ではない。

 
 何が言いたいか。

 ネット時代における新しい職業の出現は、何も、ネット関連産業だけのことを言っているのではない。これから、今の我々が予想もつかない、新しい職業が出現するであろう。

 そういう未来なのだ。

 そういう未来に生きる人間の育成を、今の学校は担っているのだ。

 そういう時代に生きる人間を育てているのに、知識の注入でいいのか。

 都道府県名とその位置を覚えさせることがそんなに重要か。そんなのは知らないよりは知っていた方がいいという程度のことではないのか。

 ネット社会の出現が、必然的に、教育観を変えていくような気がする。


 再度言いたい。

 今大切な学力は、自分自ら自分の人生を切り開いていく力。それに違いない。

 それには、どういう教育をしたらいいか。

 わたしは、A元校長先生の実践されたような授業、

 それが必須と思われる。


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 亀@渋研Xさんが、上記引用記事に書かれたなかには、

 学習意欲の涵養について、

 習熟度別授業や少人数指導をどう考えるかについて

 ゆとり教育をどう考えるかについて

も書かれています。それはすでに記事に書かせていただいてあります。

 でも、次回記事において、亀@渋研Xさんの記事を引用させていただきながら、再度、ふれさせていただきたいと思います。 

rve83253 at 23:55│Comments(42)TrackBack(0)教育観 | 指導観

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この記事へのコメント

1. Posted by なおみ   2008年07月22日 07:31
本当に理解しやすく、自分のなかでくすぶっていたものを解きほぐしていただけた記事でした。
私は家庭教師もちょくちょくしているので、中高生と話をする機会がよくあります。中高生の子らが、他人の…それも目上の人であっても、一部に自分の「良しとするもの」と違う部分を見つけると、それだけで相手を全否定してしまう姿が気になっていました。かと思うと、支持している人物に対しては、まるで宗教の信者のような態度になってしまうのです。
2. Posted by なおみ   2008年07月22日 07:37
昨日TOSS関連の本をたくさん読んでみましたが、向山先生の書いている言葉の選び方…授業開始の「起立〜礼〜」の儀式をする先生を「形式的無能力者用儀式」の押し付けとしたり、自作プリントは「がらくたの山」「問題解決授業」は「極悪非道の学習方法」という表現の仕方を見て、もし新任の教師がこうしたものの影響を受けすぎたら、「起立礼」をしていただけで、先輩教師を見下したりしないか、ある授業法の良い面と悪い面を客観的に比較できるのかなど気になりました。私は、TOSSの授業は、アスペルガー症候群の子には非常に理解しやすい良い授業になるだろうとは感じています。私自身、想像力と推論に問題を持つアスペッ子は、TOSSとそっくりの教え方をしてうまくいっているのです。
3. Posted by なおみ   2008年07月22日 07:54
ですから、軽度発達障害の子によって乱される授業の秩序は、TOSSの授業の一部を取り入れることで回避できるとも感じています。ただ、TOSSを支持する方も法則化などと構えず、教師同士互いに学びあい、尊重しあう姿勢が絶対必要だと感じるのです。TOSSを法則化すれば、灰谷健次郎先生のような子どもの人生に貢献する授業をする先生も「ダメ教師」として追放されてしまいます。
話は変わって、toshi先生の気になさっている学ぶ意欲の低下は、幼児では、遊ぶ意欲の低下として表れています。TOSSに近い大人の一方的な関わり方やすぐに成果を求める態度が原因のひとつです。今、toshi先生が考えておられる問題は、幼児や中高生も含めての子ども全ての深刻な問題だと考えています。
4. Posted by toshi   2008年07月22日 09:31
なおみさん
 なおみさんのこと。よく存じ上げず、幼児教育に携わるとのみ紹介してしまい、申し訳ありませんでした。
 なおみさんのおっしゃる中高生の姿は、わたしが知っているTOSSの先生の姿と重なりました。
 ただ、かつてはTOSSの実践者だったが、『これは正しい教育の姿ではない。』とばかり、TOSSを抜けた先生も知っています。
 教育に携わっていて、全否定か信者のようというのでは、やはり違和感がありますね。
《「問題解決授業」は「極悪非道の学習方法」という表現》
 不勉強ですみません。そういうことを言っているのですか。まったく知りませんでした。ちょっとどうしてそういう論理(?)になるのか分かりませんでしたので、検索にかけてみました。
 
5. Posted by toshi   2008年07月22日 09:36
ちょっと分かりました。
 稚拙な問題解決学習は、確かに批判されても仕方ない面があるのです。でも、そのようなことで問題解決学習全体を批判されても、ただただ苦笑いですね。

『起立、礼』はわたしも反対論者です。
 でも、担当する初任者がやっていた場合、それは許容します。
 わたしがそのことで言うときは、休み時間から子どもがのっていて、もう授業の雰囲気になっているのに、その雰囲気をいっときでも断ち切ってしまうような『起立、礼』をしたときだけです。
 そして、
「今日のように、『起立、礼』がじゃまになるくらい、子どもたちが燃える授業をしようね。」
と言います。
6. Posted by toshi   2008年07月22日 10:03
《私は、TOSSの授業は、アスペルガー症候群の子には非常に理解しやすい良い授業になるだろうとは感じています。》
 ここを読ませていただいて、わたしは、かつての自分の記事を思い出しました。
 教育ブログランキングに、
『先生が子どもたちのために明日からできること』がありますね。このはるえもんさんが、学級のルールをめぐっての記事を掲載されたことがあります。
 その記事に対してのわたしのとまどいを拙ブログの記事にしたことがありました。
 本コメントのHNをクリックしていただければ出るようにしました。その記事では、はるえもんさんの記事にリンクもしてありますので、双方お読みいただければと思います。はるえもんさんの記事は、(4)が該当します。
 そのうえで、ご意見をお聞かせいただければ幸いです。
7. Posted by なおみ   2008年07月22日 17:35
記事を読ませていただき、日頃、教育について悩んでいる多くの点が、この問題と重なっていることに気づきました。
虹色教室の生徒さんの親で、かつて教員をされていて、今は英語教室で教えておられる方がおられます。その方のおっしゃるには、英語教室はTOSSのような授業展開をして、子供に飽きたり脱線したりする間を与えず、楽しく効果的に教えることを目指しているのだそうです。
その方の娘さんは、そうした学習を好む利発な子で、英語力の上達を本人も喜んでいます。
8. Posted by なおみ   2008年07月22日 17:43
3つ下の息子くんは、そうした集団のペースに乗ることを嫌がり、みんなが夢中になるほど、引き気味になってしまう子です。しかし、今4歳の息子くんには「宇宙はどうしてできたの?」「空と海はどちらが広いの?」と独自の視点で疑問を発し、自分の答を探し続ける娘さんに見られない姿がありました。
その息子さんを育てるなかで、英語の先生であるお母さんは、自分のしている教育のあり方に疑問を抱き、さまざまな子供の中の学びの切実性や必然性に目を向けるようになったようです。
この息子くんのような子は、TOSSのような授業では「やる気の薄い子」でしかありませんが、toshi先生のように子供から発せられる疑問を拾いながら、教師と先生が双方で共鳴しあいながら展開する授業では、しばしば中心となる課題を生み出す子です。
9. Posted by なおみ   2008年07月22日 17:58
私の息子も小3の頃、多くの子供たちが好んで受け入れていたきびきびした先生の授業で、やる気がな100マス計算の時間も短縮できない困った子でした。私は息子が新しい公式が出てくるたびに、その定義についてしつこく疑問を投げかけ続けて、いっこうに学習に入ろうとしない姿を見て、集団教育から得るものが少ないことに悩みました。家庭で息子に接している私には、息子の発想の面白さや思考力の高さが見えるのですが、学校という教育の場ではこうした子がお荷物でしかない現実に直面しました。それで私は、それを家庭で補う必要を感じました。
10. Posted by なおみ   2008年07月22日 18:07
その時の調べ学習の内容の一部に、前コメントのURLとこのコメントのURLにつないでいます。
そのように、本人の疑問から発する学習になった途端、息子の学習態度は一変し、熱心で根気のある取り組みを見せました。他にも理科実験のデーターをまとめたりと学習に強い関心を寄せるようになりました。息子タイプの子は、教室の子でも多く、夢中になるあまり学習と関係ない疑問や発想を口にし、そうした脱線が学年レベルを超えた学びとして実を結ぶことが多いのです。しかし、アスペルガーの子がその輪に入っていた場合、そうした実のある脱線も次回からの学習態度の混乱へと結びつくことが多いのです。







11. Posted by なおみ   2008年07月22日 18:18
長くなってすいません。アスペルガーの子には、定型発達の子やADHDの子には、学びの切実性や必然性を失いかねないほどの形式的な儀式やマニュアル化されたパターンが必要で、そこで安心して学習に集中します。toshi先生の大切にされている授業の面白さや、楽しさや盛り上がりは、「できること」も「できなくなってしまう」ことに結びつきがちです。変化の多い魅力ある授業は、ひとりだけ場の空気が読めなくなるので、困った行動を誘発するかもしれません。私は、授業にひとつの正しい形を法則化するのでなく、toshi先生のように、基本の芯となるものを大事にしながら、例外もケースによって認めていく柔軟な態度が必要だと思っています。
12. Posted by YK   2008年07月23日 23:36
私はあまり難しい議論はわからないですが、自分自身を振り返ってみて、高校までの学校生活で「ゆとり」というものを感じたことが一度もないですね。だからといって、親から勉強を強制された記憶もないし、詰め込まれたという意識もないです。考えてみると、私が小学校低学年の頃はバブルの絶頂期でしたが、TVのバラエティ番組を見ながら「自分は将来こんな詰まらない人間になっちゃうのかな」と、直覚した記憶があります。だから、80年代には、考えないという意味で、ゆとりのあった世代がいると思ってます。私には精神的にゆとりがなかったです。高校に入る前にはオウム事件がありました。あの事件を見て、人間の真贋を見抜く能力が自己の内に確立される必要性が高まった気がしました。だから、やはり私にはゆとりは無かったです。
13. Posted by YK   2008年07月23日 23:59
では5、60年代の思想はどうか。反戦平和の思想は極めて重要ですが、スローガンになってしまったら思考停止に陥りやすいものです。この意味でそうした人々の頭の中には十分にゆとりがあります。学生紛争をした人々はどうか。政治闘争は自分と闘う必要がないから、こんなにゆとりのあるものはありません。70年代も経済は成長してますから、一つの方向に進めばよいわけです。こうしたことから、受験の詰め込みという点ではゆとりがないかもしれませんが、戦後の日本の教育は全部ゆとり教育だったと思うのです。ゆとり教育だの詰め込み教育だのは、短期スパンでしか考えないジャーナリズムの悪癖が出ただけだと思うのです。
14. Posted by YK   2008年07月24日 00:34
ゲーテの代表作が『ファウスト』だと答えられたら、それが生きる力になるでしょうか。私はならないと思うのです。読んでみて、自分の感覚と同じになって、自分の生きる姿勢に反映されてこそ意味があると思うのです。「この学校の過去問では『ファウスト』ではなく『若きウェルテルの悩み』が出た。ここを覚えておくように。」こんなの覚えるのは何でもないことですが、生きる姿勢には関係がないです。生きる姿勢を渇望しない人に対しては、ずいぶんゆとりがあるんだなあと私は思います。ですが、私にとってのゆとりとは意味が違うようです。私にとってのゆとりは考える自由を許してくれるものでした。だから、ゆとりという言葉は、考えるという言葉とセットだと思っているのです。
15. Posted by toshi   2008年07月25日 06:24
なおみさん
 お返事のコメントが遅くなり、申し訳ありません。
 例示された英語教室の件ですが、これがはたして『TOSSのよう』と言えるのかどうかは分かりませんので、保留とさせていただきますね。
 ただ、《子供に飽きたり脱線したりする間を与えず、楽しく効果的に教えることを目指しているのだそうです。》は、よく理解しました。
 いろいろな指導法があり、いろいろなタイプの子どもがいますから、それぞれに合った指導法があるというのは理解できるのですが・・・、
 しかし、自ら主体的に動くことは苦手で、受身の方が気楽というタイプの子に対して、そのままでいいとも思いませんので、悩ましいテーマですね。
 近いうち、記事にさせていただこうかと思っています。
16. Posted by toshi   2008年07月25日 06:32
なおみさんの『虹色教室通信』へのリンク記事も読ませていただきました。家庭における問題解決学習。見事です。家庭教育をこれだけ見事になさるご両親。感動的でした。
 えらそうなことを日々言っているわたしですが、我が子の教育に関しては、とてもなおみさんの足元にも及びません。反省することばかりです。
 なおみさんが書かれていらしたのでしたっけ。やはり、我が子となるとまた別になってしまうのですね。感情が先にたったりして。

 
17. Posted by toshi   2008年07月25日 06:43
発達障害の子が学級にいた場合、ふつうならやれる問題解決学習も、格別な配慮が必要ということですね。

一つ思い出すことがあります。むかし、わたしのクラスに、よく場違いなことを発言する子がいました。
 この子の場合、
 『子どもたちの話題がよく変化する、そのペースについていけない。』というよりも、その子の頭脳のなかで思考が先走ったり、思考がめぐりめぐったりして場違いになってしまうようでした。
 よく、級友から、『何言ってるの。意味が分からない。』『そんなこと話し合ってないじゃん。』と言われていました。

 今思うと、その子は、発表力のある子でしたし、上記のようなことを級友から言われても、いっこうに気にする気配はなく、常に快活に過ごしていましたから、その点は助かったのです。
18. Posted by toshi   2008年07月25日 06:43
 わたしも、思考の先走りやめぐりめぐる姿が理解できたときは、『Aちゃんは、みんなの話を聞きながら、〜のように考えたから、今のような発言になったのではないかな。』などと解説風に言ってやり、その違和感を取り除くことに努めました。

19. Posted by toshi   2008年07月25日 07:18
YKさん
 『人間の真贋を見抜く能力』。
 これは大切ですよね。現代的な意味でも、ほんとうに大切と思いました。
 問題解決学習は、こうした力も十分養っていると思います。

 もうかなり前ですが、拙ブログ記事『パワフル算数』にかかわって、亀@渋研Xさんがご自分のブログに記事を書かれ、TBしてくださったことがありました。今、ここに紹介させていただこうと思います。
 本コメントのわたしのHNをクリックしていただければ『パワフル算数』が出るようにしましたので、そこのTB欄をクリックの上ごらんいただければ幸いです。
 
 
20. Posted by toshi   2008年07月25日 07:22
なおみさんもおっしゃっていましたね。本コメント欄の1にありますが、
 最近の高校生に、
『他人の…それも目上の人であっても、一部に自分の「良しとするもの」と違う部分を見つけると、それだけで相手を全否定してしまう姿が気になっていました。かと思うと、支持している人物に対しては、まるで宗教の信者のような態度になってしまうのです。』
という姿を見ているようです。
 そして、これは、TOSSにも言えること。これでは、YKさんがおっしゃる『人間の真贋を見抜く能力』は養えませんよね。
21. Posted by toshi   2008年07月25日 07:30
《私にとってのゆとりは考える自由を許してくれるものでした。だから、ゆとりという言葉は、考えるという言葉とセットだと思っているのです。》
 いやあ。ほんとう。その通りと思います。わたしに言わせれば、『考え合う授業をしようよ。』ということですね。

 今担当している初任者ですが、4・5月のころは、『ここは重要だよ。よく覚えるように。』が口癖でした。
 それが、最近はめっきり言わなくなりました。わたし、そのことをほめました。
 しっかり考え合えば、何が重要かは、子ども自身が十分つかむはずです。
 逆に言えば、『これが重要』と指導者が言うことは、子どもをお客さんにしていて、やる気があるか心配だからなのですね。つまり、生きる力を養っていないということでもあります。
22. Posted by ドラゴン   2008年07月25日 18:24
コメントを取り上げていただき、大変恐縮です。
ちょっと調子にのって、2、3追加させてください。
TOSSの先生も、子どもを大事にしようとする気持ちはあると思いますが、どうもその方向に疑問をもっております。
テンポについても、先生のご指摘と同感で、子どものためのテンポではなく、教師のためのテンポのように思います。
もし、子どもが考え込んでしまったとき、そのことは大切にしたいと思うのです。
私のまわりにいる授業の上手な先生は、誤答を生かします。ですから、誤答大歓迎です。
23. Posted by ドラゴン   2008年07月25日 18:31
子どもが間違えたとき、なぜ間違えたんだろうと、みんなで話し合います。それを解決していく過程で、本当の理解が深まります。
TOSSの授業では、そういうことはできないでしょう。
同様に社会科教育の雑誌で、藤岡信勝氏が授業していたのがありました。10年以上前ですが。
子ども一人一人に同じ発問をしていきます。
「君は違う」「そうじゃない」と返していくだけです。そして正答した子どもに「君が正しい」とそれだけの授業です。おそらくテンポはあるのでしょうが、とても授業とは言えません。その授業を評する先生が困っていました。
藤岡氏は、当時は東大の先生で、教育学が専門でした。ストップモーション式などの著書もあります。
それでも、こんな授業です。
24. Posted by ドラゴン   2008年07月25日 18:38
そのような意味で、TOSSの授業観は、社会一般の授業観に共通していると思うのです。

もう一つ、TOSSの授業には「目標」が書かれていません。「評価」もです。おそらく教えた「内容」が目標そのもので、覚えたかどうかが「評価」なんでしょうか。その辺はよく分かりませんが。
教育熱心な保護者にも共通していませんか?
どんな子どもに育ってほしいという目標がなく評価もない。良い学校に入ることが目標で、入れなかったらダメな評価。
そうではなく、子どもが熱心に取り組んだという意欲も評価したいですし、結論は間違ったかもしれないが、その思考の過程が正しければ認めてあげたい。いわゆる「生きる力」をそれぞれ具体的にして、子どもに育みたい。
そういうことが、社会一般でも共通の認識になるといいなと日頃から思っております。
TOSSを通して、そういうことが見えてきた気がします。
25. Posted by なおみ   2008年07月25日 18:59
<ゲーテの代表作が『ファウスト』だと答えられたら、それが生きる力になるでしょうか>というYKさんの問いかけ、
<教育熱心な保護者にも共通していませんか?
どんな子どもに育ってほしいという目標がなく評価もない。良い学校に入ることが目標で、入れなかったらダメな評価>
というドラゴンさんの言葉、どちらも心に響きました。うまく言えなかったTOSSに対する受け入れがたい思いが、この中に全てまとめられている気持ちがしました。横からすいません。

 PISA調査で、日本の学力低下が盛んに言われるようになったことに関して、だからとTOSSの授業をしても解決しないことを証明する記事をリンクしました。よろしかったら見てください。

26. Posted by toshi   2008年07月26日 16:13
ドラゴンさん
 ドラゴンさんのコメントを拝読しながら、わたしは、民主主義について考え込んでしまいました。ほんとうに、国民主権だとか、三権分立だとか、日本国憲法だとか、そういうのを教え込めば、民主主義教育なのかということです。
 子どもの権利条約というのがありますね。子どもも人として尊重されなければならないわけです。自分の主義主張を押し付けるだけなら、それは、どのような内容であれ、とても民主主義教育とは言えませんね。

 もう一つ。ドラゴンさんがおっしゃることにかかわりますが、間違いの結論になったとしても、その思考の過程には、思わず感動してしまうということは、多々あるものです。間違いは正しながらも、それはうんと認め、ほめ称えてあげたいですよね。
27. Posted by toshi   2008年07月26日 16:20
 前コメントの最後について、ちょっと補足させてください。
 ドラゴンさんのコメント23番の藤岡氏の授業(?)のことですが、これは、間違いと違いをごっちゃにしている姿ですね。違いを間違いのように扱ったら、これはもう、民主主義とは無縁ですね。
28. Posted by YK   2008年07月26日 18:31
>TOSHI先生

お返事ありがとうございます。亀@渋研Xさんの記事を拝読致しました。文中に自然科学が道徳やしつけの根拠になるかという話題がありましたが、私なら、自然現象を科学の対象としてみるか、人文的な解釈ができる余裕があるか、ということを考えてみますね。私の考えは、なり得るかもしれない、しかし、ソクラテスや孔子の説く所よりは劣るだろうという感じです。・・・問題解決学習についてですが、学生の頃、学生、教授、社会人同士がネットを介して特定のテーマについて調査・研究するという経験をしたものです。ブログも元々は遠隔地で研究PJを進めるためのツールだったのだと思います。今は主に日記として使われていますが・・・。
29. Posted by YK   2008年07月26日 19:05
>なおみさん

引用ありがとうございます。私はアスペルガー症候群という言葉の意味をよく知りませんでした。ネットの範囲ですが調べてみたら、いかにも私にありがちな傾向なので思わず笑ってしまいました。ただ、サイトによるとこれは脳に起因する問題らしいですが、私は脳の欠陥については欠陥とは見做していないので、それが問題であるという認識を抱いていません。子どもに対してもそうですし、私自身についてもそうです。私の学んだ問題解決は経営学の応用ですが、子どもにとっての問題解決学習は、その方法によって心に達するかどうかに注意を払うべきだと思っています。
30. Posted by toshi   2008年07月28日 08:09
YKさん
 人文的解釈ができるかというのは、『道徳やしつけの根拠も含んでいますよ。』と理解してよろしいでしょうかね。

 ブログを利用するようになって、わたしの人生も大きく変わったような気がします。遠隔地の見知らぬ人と親しく学び合えるというのは、ほんとうにすばらしくありがたいことですね。
31. Posted by なおみ   2008年07月28日 09:40
YKさんへ
研究熱心でひとつの物事と深く掘り下げて関わる方は、アスペルガーの特徴と似たものを持っている方が多いかもしれませんね。私も「脳の欠陥」ではなく「脳のタイプ」として捉えています。
学校のような集団の場は、標準的な脳のタイプの子にあわせてルールが設定されているので、利き手と同じで、こうしたタイプの性質への正しい理解がないと、誤解を受けて2次障害の原因になるケースが多いようです。そのため、情報の共有が必要と感じています。脳のタイプですから、短所もありますが長所もあります。ですから欠陥ではないですよね。私自身ADD(注意欠陥障害)の特徴を強く持っているので、余計そう感じるのですが…。ADDは記憶を取り出し方が一般と違うので、忘れ物や手際の悪さはピカイチですが、創造性や拡散思考は優れていると思います。ただ、小学生時代に叱られて自己肯定感が持てない子が多いです。障害としてでなく理解のために情報の共有を望んでいます。
32. Posted by YK   2008年07月28日 17:55
>>人文的解釈ができるかというのは、『道徳やしつけの根拠も含んでいますよ。』と理解してよろしいでしょうかね。

自然科学それ自体は、因果関係を説明するものだから、道徳やしつけの根拠にはなりえないのではないですかね。例えば、19世紀後半にコッホが細菌学上の発見をしたときには、それは人類にとって素晴らしい発見だったと思いますが、現在は、生物兵器は手軽なテロの手段になっています。生物兵器禁止条約がありますが、要は科学が「禁止されなければならない」段階まで発展してしまったということで、道徳の根拠になるというより、一周回って倫理的・道徳的問題として扱う必要性が生まれた、という皮肉な状況なのではないかと思います。地球温暖化問題も、遺伝子工学などの問題も似たような状況かもしれません。
33. Posted by YK   2008年07月28日 19:47
自然現象の人文的解釈というのは、変な日本語ですけれどね。科学は仮説と検証、理論と実践から因果法則を導くものだと思っています。検証にも方法があり、実践にも方法があります。社会科学でもそうですし、数学、天文学、物理学などはその方法も厳格なのでしょう。私が言っているのは、そうした方法に依拠しない自然の認識です。つまり直覚です。例えば、綺麗な花を見て、傷つけてはならないという直覚、星を見て人間の存在を知るという直覚・・。それは因果法則からは外れてますが、精神の機能としては、科学的であるともいえると思うのです。そう思えること自体が不思議なことですからね。それが道徳やしつけに直接結び付くかどうかはわかりませんが、ヒントはあるのではないかと思っています。
34. Posted by YK   2008年07月29日 16:04
なおみさん

私はこの領域について知識が乏しかったようです。御説明いただき、大変よくわかりました。私自身が鈍感だっただけなのかもしれませんが、自己肯定感の持てない子って多いんだなあと感じています。家で褒められたことがないのか・・。やはり教育する側が褒める基準をあまり持ってないかもしれません。(toshi先生のおっしゃりたいことはそういうことなのでしょうか・・)パタン化するというより、幅を広げるという点でやはりアスペルガーなどの知識は必要だと思いました。今は、というか、戦後一貫してそうなのかもしれないですが、記憶力を褒めて、心を褒めないということがままあるように思うのです。私は脳と心は別に存在するという立場ですが、仮に心が脳の機能だとしても、自己肯定の問題は教育上重要な問題かと思います。
35. Posted by toshi   2008年07月29日 17:37
YKさん
《人文的解釈ができるかというのは、『道徳やしつけの根拠も含んでいますよ。』と理解してよろしいでしょうかね。》
 確かに根拠というのは言い過ぎでしたね。すみませんでした。亀@渋研Xさんにしても、そこまでおっしゃっているわけではなく、『子どもたちが科学的、論理的であろうとする態度は、道徳や倫理に対してなんの働きも持ち得ないということではない。』とおっしゃっているのだろうと思いました。
 自然科学の内容が、道徳性やしつけの根拠にならないのは、もう、おっしゃるとおりですね。
 わたしはでも、当時、調子にのって、『知徳不可分』なる記事も書いてしまいました。今、ちょっと言い過ぎだったかなという思いもあります。当コメントのURLに貼り付けましたので、よろしければご覧ください。
 ごめんなさいね。何回も。すみません。
36. Posted by YK   2008年07月29日 19:31
>>確かに根拠というのは言い過ぎでしたね。すみませんでした。

いや、いや、謝られるなんてとんでもないことです。私も一応教育の現場にいますが、なかなかこういう議論はできないのです。だから考えてはいても、文字にすると混乱してないか心配です。今後とも勉強させて頂きます。
37. Posted by なおみ   2008年07月29日 20:19
YKさんへ
《人文的解釈ができる余裕があるか》という言葉、新鮮に響きました。ある時期から教育の世界からこういう感性が排除されてしまった気がします。ちょっとこの言葉とはずれますが、小学校の頃、宮沢賢治の「やまなし」の授業を受けた時、自然を見つめることで、直感的に人間の生きる意味や価値に触れたような感覚を持ったことに通じる気がします。

こうした直覚で学ぶものは、道徳に近いけれど道徳という言葉を超えている気もします。
自然環境と自分との統一性を感じ取る瞬間というのか、自分の内部の核心に触れる瞬間というのか……そうした学習は他人と自分との隔たりを埋めたり、子どもを内面から創造的に変化させたりする
道徳の目指している以上のものをもたらすこともあるように思います。
38. Posted by なおみ   2008年07月30日 09:36
toshi先生へ
「知徳不可分」の記事を読ませていただきました。
《内発的動機付けをおもんばかることなく活動させれば、徳と知を分断させることになる。》というご意見に、心から賛同します。
学校では知とはIQ(知性的な合理的な知能で直列思考)徳とはEQ(こころの知能指数とも言われる連想的思考)のことを指しているように思います。
しかし、toshi先生のおっしゃっている徳とは、SQ(精神的知能)についても配慮しているご意見のように感じました。
SQ(精神的知能)とは、意味や価値という問題を提起して解決する能力なのだそうです。広い豊かな視野に立ち、自分の行動や人生の意味を見出す能力と言えます。SQは、脳全体のデーターを統一する共振にもとづいている、と読んだことがあります。
39. Posted by なおみ   2008年07月30日 09:38
YKさんのおっしゃっていたことに近いですが、
人は基本的な、究極的な疑問を抱かずにはおれない存在です。なぜ自分が生まれてきたのか?自分の人生にどのような意味があるのか?
子どもの疑問は知的好奇心だけでなく、こうした精神的渇望から発せられることも多いと思います。

「自分が不思議に感じたことから学び始めないと欲求不満になる」という
知徳の分断が起こる原因は突き詰めていけば、そうした人の存在の核から遠ざかることにつながるから…とも思えました。
40. Posted by toshi   2008年07月31日 02:41
なおみさん
 知徳不可分の記事、お読みいただき、ありがとうございました。
もう一つ。
 正直に申して、わたしは、SQなる概念を知りませんでした。お教えいただき、こちらも、ありがとうございました。
 あえて言わせていただければ、SQはEQに含めてとらえていたと思います。
 精神的渇望、『なるほどな。』と思いました。これは、宗教的な情操を養うことともつながるでしょうか。
 もしそうであれば、わたしはかつて記事にしたことがあります。本コメントのHNに貼り付けさせていただきました。よろしければ、ご覧ください。
41. Posted by YK   2008年08月03日 22:07
なおみさん

お返事ありがとうございました。

>>こうした直覚で学ぶものは、道徳に近いけれど道徳という言葉を超えている気もします。

ある人はこれを「something great」と表現しています。そして、私はその表現が適切であると感じています。いまは「学問≒自然科学」と考えられているし、人間の行動や思考も自然科学に近づけたいという願望が基本的にあるのだろうと思います。しかし、自然科学それ自体が、道徳や倫理の問題に直接プラスにならないならば、自然科学の方法だけでは、人の心に近づくことは難しいとも思っています。それを克服するためにはどうしたらよいか。私の考えでは、自然科学と併せて、より広い集合を、自分の中に形成することが大事だと思っています。
42. Posted by YK   2008年08月03日 22:31
例えば、歴史学、宗教学、文学、音楽、哲学、心理学、美術・・・こうした諸学問を「人間の生」という共通項によって再構築する。そして、生の体験、生の表現、(他者による)表現の理解というプロセスを通じて、人間を自然の対象として観る自然科学の視点と「生きる力」を培っていく。これが私の教育のイメージなのです。それにしても宮沢賢治の様な文学者は光彩の加減まで文字で表現できてすごいですね。

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