2008年07月24日

TBしてくださったブログ記事から 4

843248ad.jpg 拙ブログにTBしてくださった、亀@渋研Xさんの、『子ども、「校長先生の授業」、TOSS−2』の記事については、前回、考察を加えさせていただいたが、まだ途中である。

 そこで今日は、同記事の後半部にふれさせていただきたいのだが・・・、


 しかし、同氏のブログには、その前段として、同じタイトルのもと、『1』の記事がある。

 
 それを読ませていただくと、現在の学校教育のけだるい部分が伝わってきて、何とも申し訳なく思うのだが、まずはその記事からふれさせていただきたいと思う。



 けだるい部分。

 たぶん、同氏は、お嬢さんの学校の先生方に・・・、





 ああ。どうも書きにくい。勝手な解釈を加えそうで・・・。



 そうか。自分のかつての思いを書けばいいのだね。

 わたしだって、娘2人の小、中時代、同氏と同じような思いをもったときもあったもの。それを振り返ってみよう。



 振り返れば、こんな感じかな。

『先生方よ。もう少し、しっかり教育してくれよ。うちの娘だっていいところはあるのだよ。それをどれだけ見てくれているのかな。伸ばしてくれているのかな。
 学校への格別な不満はないのだけれど、どうも、かったるいのだよ。』



 そこで、同氏がとり上げているタイプの教員に言いたいことは、

『子どもの前で無理するな。』

 
 教員だからと言って、何もえらそうにする必要はない。お説教をしたり、教訓をたれてばかりいたって、化けの皮ははがれる。

 すみません。

 そんなことを言っても、わたしだって、若いときを振り返れば、そんなにえらそうなことは言えないのだが・・・。

 穴があったら入りたいくらいだが・・・、



 ともかく、

 子どものよさを見つけよう。

一人ひとりのよさを見つけよう。

それは一人ひとり違うのだが、それを見つけよう。Aちゃんのすばらしいところ、Bちゃんの得意なところ。Cちゃんの変容。Dちゃんの成長。など。など。

 具体的に見つけよう。


 そして、それを見つけたら、口に出してほめよう。感動しよう。多少演技があったっていい。

 そうすると、それまで、いかに自分はそういうことを口にしていなかったかが分かるだろう。

 
 子どものよくないところ。気になるところ、それもある。

 しかし、それに対しては、人間的な弱さと受け止め、共感してやろう。そして、これも、ちゃんと口に出して言わないとだめだ。

 そうすると、子どもも、

「先生は、わたしのそんなところまで、見てくれているのか。すごおい。」
「先生。ありがとう。」

口に出しても言うし、心でも、そのような思いをもつ子に育つ。

 そうすると、子どもはだんだん変わっていくはずだ。



 そこのところ。どうも、お説教や教訓の多い教員は、子どもが理解できていないのだよね。

 たぶん、『上記のようなことをしていれば、子どもになめられる。』そう思っているのだと思う。

 でも、それは逆だよね。

 同氏のお嬢さんの言葉にもあるように、子ども一人ひとりをしっかり見ていないで、お説教ばかりしている方が、なめられるのだ。

「なにさ、自分だってできないくせに。」



 再度、繰り返す。

 子ども一人ひとりをよく見よう。授業なら、子ども一人ひとりの思いを把握しよう。

 そして、よさを認めよう。やる気にさせて伸ばそう。授業なら、どの子の発言も、どの子のノートもほめよう。


 その典型例が、前々記事のA先生の授業と受け止めることができるのではないか。




 さあ。前段は終わり。

 次に、前回の亀@渋研Xさんの問題提起の続きに移る。



1.小中間の断層


 これは確かにある。そして、わたしの子ども時代からあるのだから、新制中学校が発足した戦後すぐからあったし、いまだに解決しない問題ではないか。


 その断層とは、

〇考える学習から、覚える学習へ、

〇手取り足取りの指導から、一人前扱いの指導へ、


 でもね。かつての子どもたちは、それに耐えたのだが、今は、中一プロブレムと言って、よりその断層が深刻になっているのだよね。

 だから、ここは、中学校にもっとがんばってもらわなければならない。


 中学校に言わせれば、小6からその準備教育を始めてほしいということになるのかもしれない。

 でも、ここは、亀@渋研Xさんが指摘される、

〇小学校の先生に比べると、中学校の先生は細やかに生徒の意を汲むとは言い難い。
〇「なぜ、どうして」よりも、まず「覚えろ」という傾向が強くなっていると感じる。
〇(中学校は)教える技術について、小手先の工夫になっているように見える。
〇小学校の教師の「どうやって教えるか」の努力と熱意に比べると、(中学校が)見劣りすることは多い。

などの点、わたしもほとんど、同感なのである。

 そのせいもあるのだろう。近年、我が地域では、小中間の教員の異動が盛んに行われるようになってきた。



 そうか。中学校の名誉のために言いたいが、近年、我が地域においては、中学校でも、以前に比べ、きめ細かな教育が行われるようになってきた。

 また、中学校も、楽しい学校づくりを標榜するように変わってきている。

 交流の成果かもしれない。願わくば、こうした動きを日本中ですすめてほしい。



2.子どもの意欲を引き出すということ、


 またまた、亀@渋研Xさんの言葉をお借りしよう。



《「子どもの意を汲む」とか「やる気を引き出す」なんていうと、迎合なんじゃないか、勉強はおもしろいばかりではない、つらいもので当たり前、なんていう声も聴こえてきそうだ。〜。

 だけど、ムダなつらさを増やす必要もない。それが学習意欲をそぐものであれば、なおさらだ。》



 これについては、上記、『楽しい学校づくり』のリンク先の記事でもふれている。

 でも、あれこれ理屈を言う以前の問題として、最近の世相が、そういう解釈を許さなくなってきていると言えないか。中学校でも、『手取り足取り』の指導を要求される事態は、増加しているものと思う。

 同氏の言葉をお借りすれば、《ムダなつらさを増やす必要もない。》以前に、《ムダなつらさを強要されることを、子どもが許さなくなってきている。》と言えそうだ。



 もう一つ。本項にかかわる記事を紹介させていただこう。

   『甘やかしと受容は違うのよ。』



 また、同氏は、子どもをほめることについても、ふれられている。以下のようだ。



《ほめられる(認められる)ように振る舞うことが動機となって学習や生活に取り組むというのでは、確かに危うい。外ではなく、内に動機をもっていてほしい。
 他者と比較することや、他者とやりとりすることでしか知り得ないこともある。でも、だからといって他者と比較することや、他者からの働きかけが前提になってもらっても困る。》



 引用は以上だが、

 近年、ほめる教育の重要性も、増してきていると思う。ほめられることは、自己肯定感が育まれるし、自信もつくし、また、ほめてくれた先生に好感、信頼感を持つだろうし、基本的にはいいことづくめだ。別な言葉を使えば、基本的には、内発的動機付けにもつながる。

 ただ、同氏がおっしゃるような心配がないわけではない。『ほめられたいから、がんばる。』『ほめてくれないと不満を言う。』ようなケースだ。

 それは、そういう様子がうかがえたときの配慮事項と考えればいいのではないか。
 
 これについても、かつて記事にしたことがある。

   心の教育(6) 心の育みは家庭でと言うけれど、



3.習熟度別と少人数指導について


 これについても、かつて記事にさせていただいた。

    日本のよさを生かそう。(習熟度別学習をめぐって) 

 くわしくは、リンク先記事をお読みいただきたいが、要するに、PISA調査の国際間の比較から言っても、習熟度別授業はいい結果を生み出していないのだ。

 もうこれは、時代錯誤の指導法と結論付けられている。


 理由は、亀@渋研Xさんのお言葉にもある。

《「学力で薄く薄く輪切りにする」のが今の都立高校受験だとすると、その結果生まれた均質さは、一部の上位校を除いて「諦め」「無力感」「敗北感」を受験校選びの段階から生み、それが高校では倦怠感という形で表出されているのではないかと思えてしかたがなかったのだ。》

 つまり、習熟度別は、能力を固定化させる方向に作用するので、いろいろな問題が起こるわけだ。


 それ以外にも、同氏がおっしゃるように、

 前々記事のA元校長先生の授業のような、子どものダイナミックな意見交換が薄れる。

 やっぱり、子ども主体の授業をおし進めるには、ある程度の人数がいた方がいいし、学力も多様であった方がいい。その方が、活気が出てくるし、多面的な見方が期待できるし、学び合い、協力の姿勢も出てくる。

 人数が少ない方がきめ細かくいい指導ができるというのは、指導者が教え込もうとしている場合に言えることではないか。



4.ゆとり教育について


 これも、まずは過去の記事にリンクさせていただきたい。

    『ゆとり教育』は正しい・・・はず
    ゆとり教育、是か非か。(日本の悲しい『さが』)


 そして、亀@渋研Xさんが、おおむね、好意的に見てくださっていることを、大変ありがたいと思う。


 たとえば、

 《小学校にはかなり根付いたと、ぼくは見ている。》
とか、

 《「ゆとり教育」は悪者扱いされることが多いが、ぼくは見るべきところも多い指針だと考えている(態勢を含め、問題がないなどと考えているわけではない)。十分に花開き、実を結ぶにはつらい環境があったにも関わらず、小学校では、その「見るべきところ」がうまく機能した部分が多々あった。6学年という時間のなせるわざでもあるのだろうか。》
とか、

 《もうちょっと、今の方針での成熟と広がりを待ちたいなあ……。 》


 これだけ、学力低下論が渦巻いている今、市民の方がこのように書いてくださっているのは、もう、とび上がりたいくらい、うれしいことだ。

 
 世の、学習内容増の声は、すさまじいものがあるけれど、国は一応、口先だけかもしれないが、『生きる力』を養う教育の看板を下ろさない。』と言っている。



 そうだ。

 下ろさないのだ。

 『今の方針での成熟と広がり』に向けて、がんばろうではないか。


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 つい、先月末、『一日の読者数が、我がブログ史上初めて、400名を超えました。ありがとうございます。』と書かせていただきました。

 その後、もう数日後にして、400名を下回ることはなくなり、なんと、600名を超える日まであらわれました。

 これも、読者の皆さんが、急速に口コミで広めてくださっている賜物と、ほんとうに心から感謝申し上げます。


 また、亀@渋研Xさんはじめ、何名もの方が、拙ブログを引用、リンクしての記事をお書きくださり、そのおかげで、わたしは、いろいろ発展的に考えをめぐらせることができました。

 そういう意味でも、感謝しております。

 ほんとうにありがとうございます。

 今後とも、なおいっそう精進してまいりますので、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。



 でも、今日は、

 読者数の増加をいいことに、ちょっと調子にのり過ぎたでしょうか。ものすごく過去記事へのリンクが多くなってしまいました。

『こんなに読めっこないよ。』という声が聞こえてきそうです。

 どうぞ、無理のない範囲で、お時間の許す範囲で、過去記事にも目を通していただければ、幸いです。
   

rve83253 at 18:09│Comments(15)TrackBack(0)教育観 | 児童観

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この記事へのコメント

1. Posted by なおみ   2008年07月25日 18:36
毎回コメントしてしまい、お返事も面倒ですのにすいません。「集団」に教えるのだから個人に目がいかないのはしかたがない…そんな公立の学校へのあきらめに似た思いを抱いていました。しかし、今回の記事を読み、保護者達が本当に望んでいることを、一番大切な目標にしていてくださる学校があるんだな…と、感動しました。
それと、前回のコメントにリンクしてくださっていた「初任者のお役に立ちたい」の記事は、自分の中にもやもやくすぶっていた学校と保護者の思いのずれに対する苦しい気持ちを溶かしていただくような記事でした。思わず涙が浮かんでしまったほどです。若い先生は若さと言うすばらしさがあって、子ども達にとって魅力的に映りますね。
2. Posted by なおみ   2008年07月25日 18:42
でも、保護者達の初任の先生に対する厳しいまなざしは、親側の私にも苦しいものでした。
初任の先生がまだ何にも染まっていないみずみずしい感性で、今回の記事のような思いを育ててくれたら…と願いました。
3. Posted by なおみ   2008年07月26日 16:47
今、読み返すと、飛躍した変なコメントでした。保護者が大切にしていることを目標にしてくださる点というのは、(子ども一人ひとりをよく見よう。授業なら、子ども一人ひとりの思いを把握しよう。
そして、よさを認めよう。やる気にさせて伸ばそう。授業なら、どの子の発言も、どの子のノートもほめよう。)という言葉や、こうした話題が取り上げられることに対する感想です。
4. Posted by toshi   2008年07月26日 17:04
なおみさん
 ああ。学校のなかには、保護者の方に、『「集団」に教えるのだから個人に目がいかないのはしかたがない。』
そう思われてしまうところもあるのですね。
 学校はやはり、自己改革に努める必要がありますね。
 「初任者のお役に立ちたい」では、過分なコメントをいただきました。『若さ』は未熟なばかりではない。特に子どもの指導に携わる場合は、『若さこそが武器になる。』絶対そういう面はあります。
 ただし、『精神的若さ』だって大事です。そこのところは見失わないでいたいですね。

 なおみさん
 変なことなんてないですよ。よく理解しています。なおみさんに引用していただいた部分は、まさに、『精神的若さ』と言えるものですね。
5. Posted by 亀@渋研X   2008年07月27日 01:52
こんにちは。さっそくの応答に加えて、拙ブログでも過分なコメントをいただき恐縮です。そのうえ、二度にわたって大きく採り上げていただいて、にも関わらずこちらの反応が遅くて、本当に恐縮しっぱなしです。

どちらのエントリもいろいろと考えさせられますが、ぼく自身の記事と関係の深いところだけ。

法則化については、「どうせ法則化といったことを考えるのであれば」なんて、極めてあやふやな物言いをしてしまいましたね。すいません、私が考えてたのは、ノウハウの共有という意味では「法則化運動」も、「教え方」や「子どもたちの見方」を整理して提示しようというアプローチも「似ている」といったことに過ぎないようです。これを「法則化」という言葉でくくると齟齬が生じますね。
先の書き方では「TOSSとは違った意味での、子ども一人ひとりを見とる上での『法則化運動』を展開すること」と見えてしまうでしょうし、それをtoshi先生が「いや。やっぱり、無理なような気がする。子どもはあくまで、一人ひとりだものね」とおっしゃるのもわかるような気がします。「子どもにより場面によって異なるのだから、そんな万能の道具みたいなもの、ないよ」となりますよね。
(続く)
6. Posted by 亀@渋研X   2008年07月27日 01:53
ぼくが考えていたのは、こんな感じのことです。
toshi先生のブログを継続的に拝読していると、「これはセオリーとして重要なのではないか」「これは忘れてはいけないポイントだな」と思えることがしばしばあるのです。自分が教壇に立った経験がないために実感を伴っていないので、うまく言葉にできる自信はないのですが、親が見てさえも「そうだ」「これは役立つ」と思える知見が多々あります。

今回のエントリに関連のあるところを例にしてみたいと思います。
実は、長女(高1)が、家内に向かって「ほめてくれない」ことを理由に怒りを表明するシーンが、昨年辺りから何度かありました。家内はほめているつもりなのですが、いろいろな状況があって、長女にはなかなかそう思えないのですね。
そんな調子なので、たとえば最近のエントリにあった「当たり前のことでもほめる」とか、「公平のためには、ほめる質か量か」といったお話は刺激的でした。ほめるのは難しいような当たり前のことのときは、「お、サンキュ」ぐらいのお礼をいうとか、珍しく勉強しているなと思ったら、「やっと始めたか」とか「邪魔しないようにそっとしておこう」とかじゃなくて、手つきで「グッジョブ」と示すとか、なんかさりげないことで、できることがあるんじゃないか、なんて家で話題にしました(それはそれとして、家庭での自分の役割ができていないとき、それを大目に見てやる時と目くじら立てる時の線引きなんか、悩ましいことはつきないのですけどね(^^;;)。
(続く)
7. Posted by 亀@渋研X   2008年07月27日 01:54
そんなふうな、「子どもの行動や発言のどこに着眼するか、なにを自分たちの目標に据えるか、どういうふうに働きかけるか」、そういった部分は共有できるように思うのです。にもかかわらず、それなりにキャリアのある先生方とお話をしても、toshi先生の認識とへだたるところが大きいようなケースもあるような……。
誰もがtoshi先生になってほしいと言っても無茶なのはわかりきったことでして、そういうわけではないのですが、もったいないなあ、もっと共有されていてほしいなあ、と思うことがしばしばなので、ついつい(^^;;

2つめのこのエントリでは「教室っていいなあ」「たくさんの、いろいろな子どもがいるっていいなあ」と、つくづく感じ入りました。ずぼらなことを言うと、教室全体のうちの何人かには伝わることが期待できて、それが波及するとか刺激を与えあうということが期待できるのが、うらやましくて仕方がないのです。
うちには2人しか子どもがいないので、誰に何を言っても、その2人のなかでの響き合いが限界です。直接的な働きかけが占める割合が、すごく大きい。もちろんクラスを経営する先生と違って、2人だけ見ていればいい(しかも学年が違う)という意味では、親は楽で先生は大変なのです。きょうだい=異学年ということを生かすことだって、できるはずです。
でも、思春期の女の子は、いろいろ難しくて、なかなかうまくいきませんが(^^;;

長々と失礼致しました。今後ともよろしくお願い致します。
8. Posted by なおみ   2008年07月27日 10:38
虹色教室通信にコメントをいただきありがとうございます。世界水準についてのtoshi先生の記事を読み、ぜひ、私のブログの読者の方々にも読んでいただきたいと思ったのでリンクさせていただきました。記事は上のURLです。

話が飛びますが、ゆとり教育について、息子(高一)が面白いことを言っていました。
「ゆとり教育っていうのは、先生にゆとりがないと生徒にとっては全然ゆとりにならないんだなぁ。」
中高一貫校に通っていた頃、先生方は真夜中まで学校の用事に追われる忙しさでした。先生同士が競うように生徒に宿題を出していた当時を思い出してのつぶやきです。
9. Posted by なおみ   2008年07月27日 10:48
私は、toshi先生のおっしゃる「愛着・行動・自然を大切に・工夫・楽しさを味わう・知的な気づき・豊かな表現」これらすべてが学力であると、教師や親が捉える事こそ、ゆとり教育だと思っています。
それらは全て、私と多くの虹色教室通信の読者の方が共有している教育像です。また子ども本来の潜在的なものを引き出すまなざしだと思っています。

家庭教育を支援していると、学校とは別の長期にわたる興味関心と付き合い続けて育てること、学習の範囲を大きく広げる超える、という意味のゆとり教育が可能です。上のURLは、学校で問題行動が続き担任がさじを投げてしまい、学校との話し合いのもと、学校を週一回お休みして私の教室に通っていた子の作品です。理科分野と手を使ってする思考にすばらしい才能があります。学校とはちがうゆとりのなかで現れる能力を、(言葉でだけでも)学校に評価していただけないのは残念です。「そんなの関心ない…」は、ゆとりといえるのか疑問なのです。
10. Posted by toshi   2008年07月28日 15:30
亀@渋研Xさん
 『法則化』。悩ましいです。
 初め、子どもの見方の法則化は可能ではないのかと思ったのです。初任者指導をしている際、『子どもってこういうふうに見るのだよ。』などと言っていることがあるからです。
 しかし、それを書くとなると、内気な子にはこう、活発な子にはこうなどと思っても、やはり、それはほとんどの子に当てはまるというものではないし、むずかしい。
 よく考えてみると、ナマの、目の前にいる子どもの姿が初任者とわたしとで共有できるから、Aちゃん、Bちゃんの姿をふり返って言っているのですね。
11. Posted by toshi   2008年07月28日 15:43
しかし、ぬらりくらりで申し訳ありません。
 亀@渋研Xさんが、ご家庭のことを具体的に書かれましたので、わたしもそうした感じで書いてみたいと思いました。
 実は、A先生とは、もう35年以上も前から家族ぐるみでお付き合いいただいているのですが、家庭の子育てのことで助言をいただいたことがあり、それは記事にしたことがあります。本コメントのわたしのHNをクリックしていただければ出るようにしましたので、ご覧いただければ幸いです。
 これを読むと、やはり、法則ってあるかなとも思ってしまいます。
 そうか。法則という言葉がいけないのかもしれませんね。そんな厳密でなく、『こういうときは、こう。』くらいの、ばくぜんとした思いくらいで言えるのかもしれません。
12. Posted by toshi   2008年07月28日 15:51
亀@渋研Xさんの、
「お、サンキュ」ぐらいのお礼をいうとか、
手つきで「グッジョブ」と示すとかというのは、いいと思いますね。
 家族ってそれで分かり合えるし、理屈じゃないですものね。気持ちと気持ちが通い合えばいいのですから、それって、すごくいいなと思いますよ。
 わたし、今、思いました。
 ほんとう。家族って理屈じゃないですね。情。心の通い合いの世界じゃないでしょうか。ですから、心の通い合いは、家族それぞれのものがあると思いますから、その家庭の流儀でいいのではないかと思いました。ただ、言葉や表情、どちらでも、それを豊かに表現しないとダメではないかなあと思いました。
13. Posted by toshi   2008年07月28日 15:56
「教室っていいなあ」「たくさんの、いろいろな子どもがいるっていいなあ」と、つくづく感じ入りました。

 これは、ほんとうに言えることですね。よく、『学級には何十人も子どもがいて大変ですね。』とおっしゃっていただきますが、亀@渋研Xさんのおっしゃるとおり、子ども同士で影響し合ってくれますから、楽な部分もあります。
 あともう一つ。学校というところは、学習にしろ、生活にしろ、先生が指導してくれるところという、暗黙の了解が子どもにもありますから、子どもも、受け入れてくれやすいのですね。
 それは、家庭にない要素だと思います。
『勉強しなさい。』の一言にしても、親の言葉と教員の言葉では、子どもの受け取り方も違うのではないかと思います。
14. Posted by toshi   2008年07月28日 16:59
なおみさん
 またまた、拙ブログ記事をリンクしてくださり、ありがとうございました。
 貴地域において、公立学校への不信感は、かなり強いものがあるようにお見受けしました。残念なことです。なんとか、わたしが常々申しているような意味での教育改革への道が開かれますよう、祈念しています。
 ゆとり教育は、教員が子どもを全人格的に育むことに全精力を傾けられるようにすること、そのための忙しさなら、教員は決していとうものではないこと、ご子息様がおっしゃっているのもそういう意味だと理解しますが、もう、ほんとうにそうでないと成り立たないのですね。
《先生同士が競うように生徒に宿題を出していた》このようなことは、学力といっても、せまい意味でしかありませんし、目先のことでしかありません。
15. Posted by toshi   2008年07月28日 17:08
《私は、toshi先生のおっしゃる「愛着・行動・自然を大切に・工夫・楽しさを味わう・知的な気づき・豊かな表現」これらすべてが学力であると教師や親が捉える事こそ、ゆとり教育だと思っています。》
 もう、本当におっしゃるとおり。前面的に、賛意を表します。

 

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