2008年08月12日

日本社会(学校教育)を考える。3

be8c00b4.JPG 『わたしの日曜日午前中の過ごし方は、』というと、テレビにかじりつきである。政治、経済など、ときには、教育の問題も含め、討論番組が3本続く。

 昨日のサンデープロジェクトでは、秋葉原事件を突破口として、日本社会の諸問題を討論していた。


 ところで、拙ブログにおいては、秋葉原事件をめぐり、すでに2度ほど記事にしている。

 そこで、今回は、それらの記事を受け、さらに、同番組をふり返りながら、わたしなりの考察を加えてみたいと思う。

 
 
 まずは、これまでの拙ブログの『秋葉原事件に思う』にリンクさせていただこう。

    秋葉原事件に思う。 (1)  (2)



 それでは、同番組のトークを振り返ってみよう。

 彼らの主張をまとめると、次のようになるのではないか。


 まずは、番組冒頭、近年、犯罪一般は減少しつつあるが、『誰でもよい。』という無差別殺人はふえているという実態にふれたあと、


1.教育が、社会が、『個性、あなたらしさを大事にしなさい。』と言う。『自己実現をはかりなさい。努力すれば、夢はかないます。門戸は開かれているのです。』と言う。
 そこに問題があるのではないか。
 社会は、そのようにできてはいないからだ。自己実現は許されないし、門戸は開かれていない。
 特に、今の30代前半が就職するころは、就職氷河期だった。これは、他の世代に比べ極端にひどかったし、その後も、同世代に対するケアはなんら行われていない。ほったらかしである。

2.上記のような教育の結果、若者の自尊心は強いものがあるが、その自尊心は満たされることがない。
 社会において、一人ひとりは取替えのきく存在でしかない。『社会が、自分を必要としている。』という実感はもてない。

3.彼らは、自己実現できないことへの不満を強くもっているが、その原因を他に求める。社会が悪い、親が悪い、教育が悪い。
 原因は自分自身にもあるのではないかとは思わない。内に向かうことをしない。
 それと関連すると思うが、こういう事態に直面しても、悩むことはない。
 
4.日本はもともと自殺が多かった。
 殺人と自殺は紙一重だ。かつては自分に向かっていたものが、今は社会に向かうようになった。そういう意味では、彼らにとっての無差別殺人は、必然性があるのだろう。彼らの心のなかでは、社会とのかかわりが、無差別殺人というかたちでしか現せなくなってしまった。

5.日本社会は、昭和50年代くらいから、物社会になったと思う。物優先の社会。心がないがしろにされるにつれて、自分を見つめ、自分を律するという社会ではなくなってしまった。

6.憲法がよくない。国民の権利、自由のみ、膨大に書かれていて、義務、責任などにはほとんどふれていない。強調されているのはあくまで個人だ。その結果、心にあるのは、『自己』ばかりとなってしまった。

7.挫折に弱くなっている。親が守り過ぎなのだ。

8.今の日本は、格差社会と言われる。格差そのものは、諸外国に比べれば小さい。しかし、諸外国は、『自分もがんばればのし上がれる。』という希望がもてるのに対し、日本は、『格差が固定化され、一生はい上がることはできない。』と思わされてしまっている。

9.ネット社会の二重性。確かに、ネットはリアル社会にないつながりをもたらしているが、その一方で、どこまでが本心なのか分からない。たとえ自分はそこまで思っていなくても、共感がほしくて書くなどということも多いからだ。

10.日本社会に、共通の道徳的価値観がない。社会で暮らしていて、『自分はこういうマナーのなさは許せない。』と思っても、他もそう思っているとは限らない。だから、見て見ぬふりが横行してしまう。

11.日本では道徳教育が行われていない。外国は宗教がその役割を果たしているが、日本にはそれがない。



 以上だ。


 さて、そこで、わたしの考察だが(補足もある。)、


〇1.の冒頭部分はちょっと違うのではないか。教育も、社会も、日本においては、いまだに画一化ばかりが横行し、個性の尊重はかけ声ばかりとなっているのではないか。
 わたしのブログ記事も、真の意味での個の尊重を訴えているが、なかなか一人ひとりが尊重されているとはいえない実態がある。

〇1.の後半部はその通りだ。
 我が家の娘2人もちょうどその世代だね。やっぱり就職はきびしかった。
 かなりまえから、契約社員、ニートなどと問題視されているが、その多くはこの世代と思う。そして、確かに、なんの対策も打たれてはいない。

〇2.は認めるが、ここでいう自尊心は、真の意味のそれではあるまい。『甘やかされて育った結果の、気ぐらいの高さ』くらいのものではないか。真の意味の自尊感情が高いとはとうてい思えない。

〇3.も確かに言えるのだろうね。しかし、これも、『自己実現』という言葉はふさわしくないのではないか。『自己の欲求』くらいのものではないかな。

〇4.は、ほんとうにその通りだと思う。

 番組はこうも言っていた。

・『死にたいなら一人で死んでくれ。何も、他人を巻き込むことはない。』と思う人は多いと思うが、それでは、社会と隔絶して死んでいくことになる。彼らは無差別殺人によって、社会とかかわろうとしたのだ。

・だから、自分が引き起こした事件を社会がどう見ているかへの関心は強いものがあるだろう。しかし、今、容疑者は、携帯はとり上げられ、マスコミとも隔絶されたなかにいるから、その欲求を満たす手段がない。それはつらいのではないか。

〇6.ここで憲法が持ち出されるとは思わなかった。案の定、他の人から反論されていた。
『憲法の条文を変えたって、今の日本社会の諸問題は解決しませんよ。』
ほんとうにその通りだと思う。根本はもっと違うところにある。
 
〇8.については、わたしは、よく分からない。外国のことが分からないし、今の日本の若い人たちの考え方も、その通りなのかどうか、ちょっと分からない。だから、この件は、保留としよう。

〇9.は、秋葉原事件の容疑者が、ネットにたより切りだったことから、話がでたと思われる。
 ここでこれをおっしゃった方は、前段で次のように話された。
 「あくまでネット上でのアンケートだが、『容疑者の心理に共感できる。』としたものが意外と多かった。しかし、それがほんとうに共感しているのか、そう答えることが時流に合うとして答えたに過ぎないのかは分からない。」
 これはもう、その通りだろう。

〇10.は、近年、交通機関の利用者の暴力事件が多発するようになり、駅員などがその犠牲になっているという話題になったとき、『多くのものが見て見ぬふりをするから、駅員がみんなを代表して対処せざるを得なくなる。』という話になり、上記の言葉となった。

〇11.司会者も言っていたが、現在道徳教育が行われていないということはないだろう。問題は、子どもたちの心の琴線にふれて、子どもたちが自分の内面から心を鍛えようとする方向での指導がなされているかにある。

 


 日本社会は、明らかに変質した。

 それが、昭和50年代からというのも、おおむね肯定できる。わたしが初任だった昭和45年ごろは、まだむかしの気風を残していた。


 わたしは、以前も記事にしたのであるが、

 やはり、日本社会が成熟化したことが大きな要因と考える。

 成熟化とは、身辺に物が満ちあふれ、かつては、『ほしい、買いたい、食べたい、快適に暮らしたい。』と熱望した暮らしが手に入るようになり、欲望が満たされるようになったということである。


 これは人間に限らずだが、生物は、楽できる環境が手に入れば、楽をしてしまうのである。

 料理をしないで済む環境なら、料理しない。

 動き回らなくても済む環境なら、動かない。

 特別に子育てに気をつかわなくても済む環境なら、金や物だけを与えて済ます。

 学業など、特に努力しなくても済む環境なら、勉強しない。

一人でも暮らしていける環境なら、めんどくさくわずらわしい人間関係の構築など
避けようとする。


 これが成熟化社会の宿命だ。

 自分自身を見つめるとか、自分で自分を律するとかいうことも、面倒くさくわずらわしくダサイことになってしまった。



 そこで、心の二極分化が始まる。

 成熟化社会においては、以上のことを自覚し、それではいけないと、努力する集団と、そういうことに無自覚なまま、時勢に流されてしまう集団とに分かれる。

 

 努力する集団はすばらしい。

 それはそうだが、しかし、そうとばかりも言い切れない。

 かつては、そうしないとやっていけないからやっていた。自覚せず、特に努力と思わず、本能的ともいえるような感じでやっていた。

 ところが、現在は、それを努力としてやっている。

 そうなると、不自然になってしまったり、人の心を理解せず押し付けてしまったり・・・、とにかく努力がギクシャクしてしまうことも多い。

 7.はその一つの現れと思う。



 以上、現在の日本社会の諸問題の根源は、ここに起因すると、わたしは思う。

 ちなみに、こうした諸問題は、日本特有ではなく、成熟した社会の国々に共通しているのではないのか。

 そういう意味では、11.の宗教も関係ないことになる。宗教が社会の規範を示している国だって、こうした諸問題を抱えていると思うのだ。



 したがって、社会の変質そのものは、憲法が悪いわけでもなく、教育のせいでもなく、国の政治のせいでもない。


 そうなのだが・・・、見方を変えて、

 『世の中の変化に即応できていない。』という意味なら、いずれも、問題性ありと言えるのではないか。



 それでは、そのことについて、

 わたしは教員だから、学校教育で考えてみよう。


 かつては、小学校入学までの6年間で、一定の家庭教育、しつけはできていることを前提として、学校教育は成り立っていた。

 しかし、だんだん、そうはいかない状況がふえてきた。

 学校は、かつてはしていなかったことまで、引き受けざるを得なくなった。そうしないと、学校教育が成り立たないからである。


 それがスムースに行われている学校はいい。社会の変化に即応していると言えよう。

 しかし、なかなかそうはいかない状況も多いのではないか。そういう学校は、子どもの問題行動にひきづられ、事後対応に追われるようになってしまう。



 そこで、世の中の変化に即応するにはどうしたらいいか。


 事後対応に追われるのはつらい。

 世の中は変化したのだし、むかしのようにいかないのは分かっているのだから、


 学校の方から、もっと、積極的に、挑戦的に、事態に対応する体制はつくれないものか。簡単に言えば、子どもの内面を育む教育体制だ。

『自分から勉強するって楽しいね。』
『理解できたよ。なんか住む社会が広がった感じがするな。』
『友達と力を合わせて努力するって、一人でがんばるより、充実感があるね。幸せ。』

そういう子どもを育むような、教育体制を考える。



 これで終わりにすると、また、誤解を招きそうだから、あえてふれるが、

 とりあえず、今は、その点でがんばることにしよう。『子どもが主人公の学校づくり』の推進だ。

 そして、それがある程度、成果を上げるようになったら、

 『それだけでは窮屈だ。』という意味での問題が表れるだろう。

 そうしたら、学校教育は第二段階に入る。

 つまり、

 『いくら勉強が楽しくても、勉強ばかりじゃ疲れるよね。』
 『友達と一緒に、何かをするって楽しいね。でも、それだけでなく、一人でいることも大切にすると、さらに充実するのではないかな。』


 ここでは、第一段階、第二段階と書かせていただいたが、それは、心構えとしてそういう意識をもとうということであり、実際の指導場面では、両者は混在、錯綜していくであろう。



 以上、そうした学校教育体制がつくれると、世の中の変化に即応どころか、学校教育が新しい世の中をつくっていく原動力になると思われる。

 
 そのためには、まず、教員の意識改革だ。先憂後楽の心構えだね。(日ごろの研究、研修体制の充実であり、断じて教員免許更新制ではない。)

 その次に、教員の定数増。さらには、施設等の改善。

 そして、今の教育改革は、必ずしも、そうした世の中の変化に即応するものにはなっていないと思うので、全面的な見直し。


 そうしたことが大切になってくるだろう。そういう意味では、政治にもがんばってもらわなければならない。



 そうして、『自然に人生の充実に向けて努力する風土』をつくりたいものである。



 ことは、急務である。急がないと、成熟化社会の矛盾は、ますます拡大していくであろう。

 
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 一つ。今の日本社会に成熟していないものがあります。

 これからますます発展していくであろう、ネット社会です。これについては、可能性が未知数。無限と言ってもいいでしょう。

 以前、『ネット社会が新しい職業をたくさん生み出すであろう。』(リンク記事の最後の方です。)という趣旨の記事を書きました。


 たとえば、グーグルアース

 これには驚かされました。パソコン上でこのようなものが見られるとは。


 もう一つ。グーグル翻訳。

 これは、先に、『妹の三回忌 義弟のふるさとで』なる記事で、『まだ、今は、パッパッパッとやると、フランス語に自動翻訳されるなどという便利なものは、ないのでしょうか。』と書きましたところ、

 yokoさんから、無料翻訳、無料辞書、無料辞典なるHPを紹介していただきました。

 ほんとうにネットの可能性は無限ということを、今回も実感させていただきました。ありがとうございました。

 そうだ。パソコン教室の先生がおっしゃっていました。

「人間が、パソコン上で、こういうことができたらいいなと思うようなことは、大体できるようになるのではないですか。」 



 これら、『ネットの無限の可能性』については、もっともっとPRされなければなりません。

 そうすると、世の中は明るくいきいきとしたものになるでしょう。若い人たちに、『わたしだってぼくだって、やれる。』

夢と希望をもたらすと思います。


 そして、それが、新しい時代の学力観を構築させ、学校教育を変革させる力にもなっていく。

 そう思います。

rve83253 at 07:18│Comments(13)TrackBack(0)教育風土 | エッセイ

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この記事へのコメント

1. Posted by なおみ   2008年08月12日 08:07
toshi先生のおっしゃる教育体制の改革、急務ですね。応援しています。
通り魔事件をテレビで議論する時、PSJ渋谷研究所Xさんのブログの記事の「通り魔事件 なんで増えた?」「テレビは報道を自粛すべきでは?」で取り上げられているような肝心の部分をわざと避けて議論しているので、結局テレビ局が作り上げたい意見、一般の人が納得しやすい意見に終始して、現実の原因からは遠ざかっている気がします。また、最近の通り魔事件の多く(秋葉原事件も)がアスペルガー症候群の若者によって行なわれたもので、その問題を話し合うと批判があるので話題に出せないのはわかるのですが、それを若者一般の「自己実現」の欲求とごちゃごちゃにすると、問題が見えにくくなる気もします。
2. Posted by なおみ   2008年08月12日 08:07
私はアスペルガーだから事件を起したというのでなく、今の社会がアスペルガー症候群の子の事件を誘発する多くの問題を抱えていると思っています。ひとつは、アスペルガー症候群の子に非常に有利な反復学習やTOSSのようなマニュアルのある教育法の発達です。そのため、記憶力が高く、人間関係能力や想像力、思考力に弱さを持つアスペルガーの子がエリート意識や万能感を抱いて成長して行くことが多くなっています。高校以降、パターンの暗記では解決できない事態にぶつかった時、認知のゆがみから社会を恨むケースが増えている気がします。これはアスペだけの問題でなく、教育の弊害と言えます。
また情報を文字通り受け取り、背後にあるものを読み取りにくいこと、強い刺激にそのまま反応する性質、テレビ報道などを見て感じた印象に異常なこだわりを見せる…といったアスペっ子の特徴が、報道の自由のもとで暴走している気もします。これもアスペだけの問題でなく、報道の弊害とも言えます。
ただ、これがアスペルガー症候群の子の問題とだけ言えないのには、現代っ子の思考はアスペッ子のそれと酷似してきているからです。またTOSSを支持する教師の意見も、言葉の裏を読めず、想像力が欠如している点でアスペッ子の意見に似ているなぁと感じる時があります。
3. Posted by なおみ   2008年08月12日 08:13
↑の記事に、勝手に初任者のブログの一部を引用させていただきました。報告が後になってすいません。
4. Posted by yoko   2008年08月12日 22:07
windowsが世に出て…この15年程の間にパソコンの進歩は目を見張るものがあります。でも、所詮使い勝手の良い道具にしかすぎません。やはりそれを使う人、その人によって道具は良いものにも悪いものにもなると思うのです。
「人」を育てる、基礎を作る…公教育の場って重要なのですね。
だから、公教育に携わる先生方には、toshi先生のような志の方がもっと増えて、もっと活躍していただきたいなぁというのが親としての願いでもあります。
5. Posted by なおみ   2008年08月13日 13:47
たびたびすいません。産経msnニュースで、【学力低下、学級崩壊、悩む先生…真犯人はこいつだ】という連続の記事を向山氏が書いています。これを読むにつれ、疑問や問題で頭がいっぱいになってしまいました。気になるのは、一切子どもの心理面、個と向き合う態度が感じられない点です。確かに発達障害児が混乱を起して問題行動を起こしにくい授業の環境を整えてはいるものの、それによる定型発達の子の自発性や思考力が抑圧されることには、触れられていません。こうした偏った、だからこそそのなかで完結している意見や方法に多くの人が安易に納得してしまうことに不安を覚えます。軽度発達障害児は普通級に一割いるとされるので、もう少しその子たちに合った環境の整備が必要とは感じています。しかし、TOSSのような一方通行の授業になる野の、大きな問題と感じています。
6. Posted by toshi   2008年08月13日 16:34
なおみさん
《最近の通り魔事件の多く(秋葉原事件も)がアスペルガー症候群の若者によって行なわれたもので、〜》
は、わたしはよく分かりませんが、今の若い一部の人たちが、意欲付けを無視した反復訓練学習などにより、考える力を養われないまま成人してしまう状況には、問題を感じています。

 産経msnニュースをご紹介いただき、ありがとうございました。なおみさんのおっしゃる通りですね。『子どもに学ぶ』という姿勢がなく、こうすればいいのだと高飛車に言う姿勢には、『ああ。これが教育者か。』と笑ってしまいました。まあ、教育とは無縁の、ちょっと違った世界の人といった感じがしました。

 それでも、なおみさんのおっしゃる一般家庭や教員からは、信頼されてしまう状況があるのですね。そこにこそ、日本の教育の危機がありそうですね。
 
7. Posted by toshi   2008年08月13日 16:39
yokoさん
 グーグル翻訳をご紹介いただき、ありがとうございました。でも、拙ブログ記事を訳して、姪のご夫君に見てもらいましたが、『やすらかに』の『かに』が、蟹に訳されてしまうなど、まだまだのようです。それだけ、これからの開発、アイデア等、やはり今後に期待する部分が多そうです。
 最近の記事では、公教育がもっとしっかりしないといけないという思いを書いています。子どもの幸せのため、がんばりたいと思います。
8. Posted by なおみ   2008年08月14日 21:09
何度もすいません。最近とても気になっていることがあるのです。文部科学省が、ニート対策をTOSSのの先生に委託したり、文部科学省のホームページのトップに<向山洋一氏(日本の小学校教師の“教祖”的存在)は、経験3年目までの若い教師の自己研修法として「その日の授業を逐一(ちくいち)思い出して記録せよ。」と勧めている。>といった文章を取り上げたり、産経ニュースが特集の執筆を向山氏にたのんでいるのもこうした背景があると思うのですが、これは教育の将来を偏ったものにしないのでしょうか?向山氏の算数の問題解決授業の攻撃など気になることがたくさんあります。また、学級崩壊の検索でかかるもので、解決法をしるしているのはTOSSのサイトだけなので、困った先生がすぐそちらへ流れる仕組みもできているようです。toshi先生がおっしゃっているような教育観をしっかり広めていかないと、大変なことになると感じています。
↑文部科学省のURLです。
9. Posted by toshi   2008年08月15日 04:02
なおみさん
 アスペルガーと秋葉原事件とで検索にかけてみたのですが、秋葉原の容疑者は、アスペルガーではないという記事もあり、この辺は断定しない方がいいのではないかと思いました。
 ただ、『現代っ子の思考はアスペッ子のそれと酷似してきているからです。』は、よく分かります。
これも現代という時代がもたらすこまった傾向でしょうね。
 文科省の件は、知らなかったです。お教えいただきありがとうございました。向山氏のニュースの記事は全部読ませていただきました。わたしも、『一日一つの授業でいいから、できるだけくわしく記録をとるように。それによって自己評価することが、明日の授業改善につながるのだ。』ということは、これまでも述べています。
 ただ、初任者指導教員が、初任者と30歳も離れていることは問題だとしている点、わたしは笑ってしまいました。だって、わたしなんか、40歳も離れているのですものね。どうやら、わたしは失格のようです。
 近いうち、これらに関連する記事を書かせていただこうと思います。
10. Posted by なおみ   2008年08月15日 08:27
すいません。断定されていなかったのに、それまでアスペルガーと大きな事件の関連の報道が続いていたり秋葉原事件の犯人の言動があまりにそれと酷似していたため、勘違いして誤った記述をしてしまいました。この犯人の職場での短絡的な言動を、アスペルガーのお子さんをお持ちの親御さんが、「きっとこの人は…」とおっしゃるのは何度も聞いていて、それと以前の別件の新聞報道があいまいになってしまったようです。本当にすいません。犯人がアスペルガー症候群か…?という問題、まず医師によって判断が違うこと、誤診もあること、新聞報道がしにくい(バッシングのため)状況にあること、アスペルガーに対する世間の誤解が多いことにより、きちんと問題を話し合うことができていないです。そこで、もしかしたら大きな部分を占めるかも知れない問題点を排除して、それ以外の問題点だけで原因を探っていく姿勢に疑問を覚えるのです。私はアスペルガーを犯罪と結びつける姿勢には絶対反対なのです。しかし、問題が解決されず、アスペルガーの子が犯罪を起こしやすい環境をそのままにすることにも反対なのです。難しいことだと思います。
11. Posted by toshi   2008年08月17日 11:49
なおみさん
 おっしゃること、よく分かります。誤解があって、その誤解を解こうとするとき、確かにむずかしい問題がありそうです。
 原点に返れば、男がとか、女がとか、ひとくくりにして言っていい場合と、そうしてはいけない場合とがあり、その辺のけじめは、何かを論じるとき、とても大切ということだと思いました。論議を展開するとき、気をつけたいことだと思いました。
12. Posted by totoro   2008年08月24日 17:21
国際学習到達度調査(PISA)の結果を受けて以前こんな文章を、新聞に投稿したことがあります。

他国との比較し、我が国の学力が低下している。事実は事実として受け入れねばなるまいが、これが学校バッシングにならねばよいがと心配する。報道各社もその視聴者も、文部科学省も研究者も、おそらくゆとり教育や教員の質の低下に原因を見付けようとするだろう。しかし、それは氷山の一角であり、根はもっと深いと。私たち大人が次世代を担う子供たちの育成を、お金や他人に任せている現実を見ないことには、学校をたたいたところで何も変わらない。例えば、小さいうちから、遊び相手は友達や親ではなく、数万円もする買い与えられたコンピュータゲームやテレビがつとめる。平日も休日も、塾やスポーツ少年団に通い忙しい。そうした生活の中では、自分で考える機会は少なく、ゲームに遊んでもらい、大人の指示のもとに一日中活動が続く。自分から脳みそを活用する暇がない。それに慣れればその方が楽になる。「手伝いなさい。自分で考えなさい。大人も我慢するからあなたも我慢してこのお小遣いで一月生活しなさい。」このように豊かな時代だからこそ、あえて突き放すことも必要のなではないかと思う。
13. Posted by toshi   2008年08月25日 07:15
totoroさん
 おっしゃりたいこと。よく分かる気持ちがします。
 確かに根は深いと思います。社会の育児環境が、考える脳、探究心の脳より、受動の脳、順応の脳にならしてしまうのですね。
 それだけに、学校教育の役割も変化していかざるを得ないのだと思います。従来のつめこみに終始していたのでは、矛盾はさらに拡大するでしょう。

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