2008年08月15日

日本社会(家庭教育)を考える。3

1f084847.JPG なおみさんから、公教育と家庭教育の、問題のあるかかわりについて、拙ブログにコメントをいただいた。

 明るい内容がないわけではなかったが、公教育に対する不信感については、ちょっと考えさせられてしまった。本リンク先のコメント14、15番である。


 一部引用させていただくと、
《子どもを持つ親御さんのほとんどが、幼児か小学校中学年までに、塾に入れたり、反復プリント学習をする教室に入れなければ、子どもの勉強ができなくなると強迫的に信じています。》
とある。

 そして、《1〜2歳から習い事を始める子がものすごく多い。》とのこと。何をかいわんや。あ然としてしまった。

 『よそのことは分からない。』と何度も書かせていただいたが、教育風土も、土地それぞれなのだね。

 まあ、なおみさんがやられているような、子どもを内面から伸ばす教室もあるから、一概には言えないにしても、上記のことは、子どもの成長発達に多くの弊害をもたらすだろう。


 なおみさんも、そのあたりのことを、心配されているようだ。

『子どもがこうした問題解決授業のような会話から、家庭でも学校でも切り離されて、一方的に与えられるという形で学習し続けるときに、どうなるのだろう…?と心配になりました。』
とある。


 まあ、どうなるかと言えば、

 考える力が養われることはないから、『自ら考えること』をやめてしまい、挫折に弱く、受身の姿勢で身の回りの環境に不満を持ったり反抗したりする、そういう人格が大量生産されるように思われてならない。


 ことは、学校不信から始まっているようなので、わたしのような立場のものが言うのは、おこがましいのだが、やはり、家庭もしっかり自立してほしいものだ。どうも、今の日本は、実態のない風評に踊らされたり、『隣りがそうならうちも、』といった主体性のない子育てが横行しているような気がしてならない。



 その点、なおみさんは、ちゃんと自立した家庭があることも紹介してくださった。

 

 拝読して、『ああ。わたしがかつて担任したクラスにも、そういう家庭があったなあ。』と思い出した。日本においては、こういう自立した家庭は、どちらかと言えば、少数派かな。



 今、ある一つの家庭を紹介しよう。かつてわたしが担任したAちゃんの家庭である。そのとき、Aちゃんは3年生だった。

 その家庭は、学校と協調し合う関係はもっていた。PTAの役もふつうに引き受けてくださった。学校への感謝の思いはいつももっていらしたが、それが心から言っているのかどうかは分からなかった。

 多くの親ともなごやかな関係はもっていたが、心から打ち解けているようには思えなかった。

 世俗的なことからは超然としているように見えた。

 家庭訪問でも、我が子の話にはあまり関心を示さなかった。女性の生き方とか、職業観とか、そういう話を好んだ。


 でも、Aちゃんは、人なつこい上に、よく家庭のことを話してくれた。

 日ごろ、親子関係はとてもいい感じであることは伝わってきた。親子ではあるが、友人同士といった感じの会話をしているようだった。


 ある日、学級懇談会の翌日、Aちゃんは、わたしに話しかけてきた。

「toshi先生。昨日、学級懇談会があったでしょう。うちのお母さんねえ。そのとき、何やっていたか、知ってる?」

「ええっ。何してたかって。・・・。そう言えば、何もおっしゃらなかったけれど、他のお母さん方の話を聞いていたのではないのかな。」

「うううん。そうじゃないよ。他のお母さんの話はつまらないから聞いていなかったんだって。」

「ふうん。何していたのかな。・・・。分からないよ。」

「あのね。ひまつぶしに、toshi先生の似顔絵を描いていたのだよ。隣りが、Bちゃんのお母さんだったのだけれど、Bちゃんのお母さんは、それを見て、笑っていたんだって。『toshi先生を描いているのね。よく似てるう。』って言ってくれたんだって。」

「そうかよ。それは知らなかったなあ。・・・。おもしろい。その絵、わたしにくださらないかなあ。」

「だめだよ。ひまつぶしだから、たぶんもう捨てちゃっているよ。

 でも、うちのおかあさん、変わっているでしょう。懇談会ってさあ、ふつうは、宿題の話とか、家での勉強の話とか、そういうはなしをするのでしょう。それなのに、そういう話はつまらないんだって。こまったお母さんだね。」

「いや。そんなことはないな。『宿題をもっと出してほしい。』っていうお母さんがいて、『いや。宿題は、今くらいでいい。』っていうお母さんもいて、わたしもつまらないって思った気持ちはよく分かるよ。きっと、そんな話はどうだっていいのだな。・・・。いいお母さんじゃないか。」


 また、こんなこともあった。

 お友達のCちゃんの話。

「toshi先生。昨日、Aちゃんのおうちに遊びに行ったのだけれど、Aちゃんのおかあさんて、おもしろいのだよ。Aちゃんは出かけてていなかったのだけれどね。Aちゃんのお母さんが、『せっかく来たのだから、お茶でも飲んでいったら。』って言ってくれて、それで、わたし、お茶をいただきながら少しお話をして、それから帰ったの。Aちゃんのお母さんて、子どもと話すのが好きなのかなあ。」


 そのようなお母さんに育てられたからか、Aちゃんは、天真爛漫というか、天衣無縫というか、どの子とも仲良く過ごすことができ、物事に動ぜず、友達のトラブルなどには達観したようなところがあった。いつもほがらかに生活することができた。

 自らリーダーシップを発揮するタイプではなかったが、友達からたよられることが多く、そういうときは、よくその力を発揮した。

 
 わたしは、今回、なおみさんのおっしゃる、

『基本的に「放任」して子育てされていたようです。子どもの学習意欲について、自然に発達するものと信じているようでした。』

『一般家庭で、「放任」していると、自分の力で学びはじめる…形にはつながりにくいのに、この方々のお子さんはどうやって自分で学び始めたのか?と考えていると…周囲の大人たちの議論好きが見えてきました。』

『子供さんたちはというと、教師、新聞記者、学者…と知的な職業についていました。』
を拝見して、Aちゃんの家庭のことを思い出したのだ。

 そう言えば、Aちゃんも、今は成人し、医者として活躍している。



 ここで、YKさんが、本リンク先のコメント14番でおっしゃていた、『問題解決思考がエリートの必要条件であると言えると思います。』を思い出す。

 エリートしか問題解決学習ができないのではなく、問題解決学習をおし進め、問題解決思考を繰り返していると、どの子もエリートのように育ってしまうのだ。

 少なくとも、自分の頭脳をフル回転させ、子どもらしい言葉で、自由に思考を発揮していると、どの子も、優秀であるかのように見えてくる。

 授業参観などで後ろにいらっしゃる保護者の方々は、
『子どもってかわいいなあ。おもしろい思考を発揮するものだなあ。』
『なるほど。まだ知識がないから、正解ではないけれど、そう考えた筋道は感動ものだな。』
と思うのだろう。子どもの発言にうなづいたり、思わずにこにこしてしまったり、そういうことが多い。

 

 わたしは、なおみさんのコメントを拝見して、思う。


〇『放任』ということの意味だが、これは文字通りの放任ではないだろう。

 『ああしなさい。』『こうしなさい。』『ダメじゃないですか。』『なぜこういうことができないの。』そういうことはほとんど言わないが、・・・。

 しかし、家庭での会話は多いのだ。なおみさんが議論とおっしゃる部分かもしれない。

 もちろん議論もあるだろう。しかし、ふれ合うような会話が多いのだと思う。


 Aちゃんの、『こまったお母さんでしょう。』にしても、別にほんとうにこまったと思っているわけではない。にこにこして、ちょうど親子の会話のような感じで、わたしに話しかけてくる。


〇『子どもの学習意欲について、自然に発達するものと信じているようでした。』ともある。これもよく分かる。

 さらに、わたしの思いをつけたさせていただくと、

 『こういうふうに子どもに接していれば、子どもは自らの力で、意欲的に問題解決する子どもに育つ。間違いない。

 その場合、公教育などは関係ない。中学受験も必要ない。家庭の力で十分に育っていくのだ。』

そういう確信があるのだろう。

 それは、おそらく、自分も、かつて、そのように育てられたからということではなかったか。


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 ごめんなさい。今日は、学校教育のことにはあまりふれず、一方的に家庭教育についてのみ、持論を展開してしまいました。

 学校教育が、数々の問題を抱えているのに、こういう記述になったことはほんとうに申し訳なく思います。でも、たまには、許してくださいね。

 また、お詫びをもう一つ。

 そう言っているわたし自身が、家庭においては、とても上記のようにはできませんでした。

 『ああしなさい。』『こうしなさい。』『ダメじゃないですか。』『なぜこういうことができないの。』と言っていた口です。あまりえらそうなことは言えないのに、言ってしまいました。 

rve83253 at 01:42│Comments(57)TrackBack(0)保護者 | 自己啓発

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この記事へのコメント

1. Posted by 亀@渋研X   2008年08月15日 03:36
こんにちは。
今日は、toshi先生の記事に、というよりもコメントを寄せられた方々の声について、同じ親の立場からちょっと口を挟みたくなってしまいました。

まず、早くから習い事を始める子どもが「すごく多い」かどうか。下記はベネッセによる昨年度の調査です。

http://benesse.jp/blog/20070228/p1.html

ベネッセは教育産業の大手ですから、「ほら、みんな習い事をしていますよ」と言った方が得なはずなのですが、彼らの調査では小学校入学前は4割未満、入学後に8割余です。
でも、よく見ると「塾に行くから習い事をヤメた」という回答もあります。なるほど「塾は習い事ではない」と考える人もいるんですね(それとも、そっちがふつうかな?)。
では、別の統計を見てみましょう。

http://benesse.jp/blog/20080130/p1.html

「学齢による変化」というところのグラフを見てみてください。「補習塾」や「受験のための塾(進学塾)」というところでは、学齢以前ではとても少ないですよね? ついつい「年齢が上がると増える」というところに目が行くかもしれませんが、幼いうちは学習塾への熱はさほどでもないのが「全国平均」というわけです。
もっとも、この調査では「補習」と「進学」と目的を明示していますので、それには合致していない塾があれば、数に入っていないかもしれません(たとえば、近所の塾はどちらだと思いますか? 公文は?)。
2. Posted by 亀@渋研X   2008年08月15日 03:55
ウチの近所(東京都下の、うちの学区)だと、感覚的には「小学校低学年までで学習塾に行っている子は少ない」です(なんらかの習い事に行っている子はたくさんいます。水泳が人気かな)。でも、これは調査したわけではありません。PTA等で知り合ったお母様方との会話からの「感触」です。

私たちは、ついつい身近な人だけを思い浮かべて「みんな」と考えてしまいます。それは必ずしも正しくないということも知っているのですが、うっかりしちゃうのですよね。よその土地の人は事情だって違うし、なんてこともありますし。

ベネッセが調査対象にできる保護者というのは、ベネッセの顧客が中心になることでしょう。つまり、子どもに通信添削をやらせている家庭です。

言っちゃあなんですが、通信添削はなかなかマジメに取り組めない教材です。ぼくが子どもの頃もそうでしたし、うちの子どもたちも、よくて渋々やるって感じ。長女は言われなくてもやってましたが、喜んでやっているわけではなかった。なんというか向き合う意欲が長続きしないのですよね、ああいう教材は。
そうすると家内は、「やっぱり塾の方がいいのかしら」と思い始めます。学校の宿題が少ないと不安になる人だし。まあ、家内の例を見ても「強迫観念」は、珍しくない程度にはあるってことは言えるのかもしれません。

どこの家でもそうだとは言いませんが、一定数はそういう家庭が混じります。そういう家庭では、教材をこなさないという焦りが生まれることがあります。その結果、あれもこれもやらせよう、となってしまうおウチも、きっとなかにはあることでしょう。

ベネッセによるこういう調査が自社の顧客限定かどうかはわかりませんが、もしも顧客限定ならそういう家庭がある程度は入ってくるのを避けられません。もっと広範な調査だとしても、比率が下がるだけで、そういう「焦っているおウチ」が混ざります。

3. Posted by 亀@渋研X   2008年08月15日 04:12
調査とか統計って、そういう「誰に聞いたかで比率が変わる」という宿命をもっているんですよね。まあ、ぶっちゃけ誤差です(これが「該当者すべてに聞きました」という全数調査であれば別です。原理的には「誤差」はありません)。

もうひとつ。「誰もがやっている」ということに基準を求めていいのか。
いや、みんなやっていることをやらない、なんてことになるとすごく不安になるのはわかります。だけど、そうだな、たとえば「なおみ」さんの挙げておられた「放任」の家庭は、そういうことを基準にしてはいなかったのではないでしょうか? 家庭内に議論があるかないか、ということももちろんあったのでしょう。でも、そうやって議論をしていると、どうしても「みんなと同じ回答にならない」ってことが増えます。

ここで「それはなぜ?」と聞かれるとうまく応えられないのですが、ありそうな回答としては「正解がないから」「議論の結果が正解だから」でしょうか。つまり議論っていうのは、「正解があって、そこに行くように話し合いをしているわけではない。話し合いでたどりついたところが、とりあえず今のところの正解」ってことなんです。
ということは、家庭内に議論があるってことは、昨日まで鉄板だったはずのルールが今日は変わることがある、ってことでもあります。議論での「正解」って、「みんなをいちばん納得させた説明」ですよね? それが、よそのみんなの考えていることと合わないってことは、いくらでもあるはずなんです。
だから、家庭内に議論があるのであれば、常識を疑ったりすることにもなります。ひょっとすると、そこの家は非常識な場合さえあるかもしれません。だって、そんなところ(常識)に拠り所がないんですもの。

4. Posted by 亀@渋研X   2008年08月15日 04:29
これを「迷走じゃない」と言い切る度胸は、ぼくにはありません。でも、そういう迷走を引き受けていたのが、その「放任」のおウチだったのでしょう。きっと、いったんは子どもの無茶な意見に言い負かされても、「そりゃあ、やっぱりおかしい」となったら、どこまでも議論をするんですよ、そのおウチ。

で、こう書いてきて、そういう迷走を、実はウチはやってるんだなあ、と気づかされました。と言っても志が高いわけではないんです。
うちの家内は「常識の人」です。ぼくもまあ、常識はわきまえているつもりですが上述のようなことを言い出しますし、10代の頃はワルい方にも近かったので(微妙な言い草)、ときどき擦り合わせに時間も手間もかかります。ぼくも家内も理屈っぽくて、朝までワーワーやりあったりします。これでムスメたちが影響を受けないはずがない。上(高1)も下(中2)も、説明が上手か理路が通っているかはともかく、理屈らしいものをこねます。
彼らの動機は情です。「イヤだ」です。家内もムスメたちも。なにが「よりよいか」以前に好き嫌いが色濃く入ってきます。その好き嫌いを正当化しようとして理屈をこねます。まあ、ぼくだってやっていないかと言ったら怪しいものですが。

ま、そんな状態で、ひとつもうまく行っていません。毎日のように戦いが勃発します。だから、「こうすればいい」なんてことは何も言えないのですが、こういうドタバタのなかで気づいたことがひとつ。

5. Posted by 亀@渋研X   2008年08月15日 05:00
おそらく「問題解決型の学習」で育った子どもたちは、必ずしもスムーズに「いい具合なところ」に落ち着いたりはしません。いったんは落ち着いても、おかしなところを見つけます。見つけたら「おかしい」と言います。是正されるまで黙りません。なるほどと思う理由に出会えたら、矛先を納めるかもしれないけれども、「これはどうしてそうなってるの?」が頭から離れることはないはずです。
自力で問題を見つけるのが、彼らに求められている能力のひとつです。そして、もうひとつの求められている能力は、それを解決することです。解決のために必要なのは、おそらく調査と議論です。そして困ったことに、ぼくらは口先だけではなく生活で示すのでなければ、おそらく彼らは納得しません(彼らは隠れた矛盾も見逃さないことでしょう)。

ちょうどぼくらが、どこかの評論家や政治家や校長先生なんかがいい加減なことを言っても見逃さないように、彼らは見逃さないんです。

飛躍かもしれないけれども、もしも、投票にも行かず、上からの指令にはおかしいと思っても諾々と従い、なにがいいことかはさておき隣近所と違うことはしないようなオトナに彼らをしようとは思わないのであれば、なにがいいことか、なにがなすべきことかを考えて行う人にしようと思うのであれば、ボクらは子どもたちと(っていうか、ぼくらのなかにある「みんなやってるし」とかいう思い込みやなんかと)ずーっと戦い続けないといけないのかもしれません。
(次でラストです)

6. Posted by 亀@渋研X   2008年08月15日 05:00
これはもう、飛躍を承知で書いてしまいますが、「ちゃんと育つ」ということは、おそらく「波風を立てる」ということなんです。若い年齢で真剣に考えると(考えても)、歳経た人間と同じ答えにはたどり着きません。若いんだから。でも、ちゃんと考えたことなんだったら、簡単には捨てません。泥沼化、必至です。
がんばって、戦いましょう。自分の持っているもののすべてを動員して。

いや、まあ、実はしっぽを巻いて逃げ出したくなることもしばしばですけど。

長々と(しかもエントリとズレたこと……かも?)を書き連ねてしまったようです。すいません。
こんなすっ飛んだ私にも、みなさまのご意見をいただければ幸いです。

7. Posted by toshi   2008年08月15日 07:01
亀@渋研Xさん
 うわあ。こんなにも長文のコメントをありがとうございました。最近、ライブドアブログは、1コメントに書き込める文量が増えたようで、これは、議論するにはとてもありがたいことですね。
 さて、いただいたコメントですが、最初の部分では、ちょっとした誤解があるようです。そして、その誤解は、わたしのとり上げ方の問題であるようで、その点、なおみさんと亀@渋研Xさんにはお詫び申し上げます。すみませんでした。
 なおみさんは、ご自分のお住まいの地域での傾向として、幼時段階からの塾通いをとり上げられました。そして、これは、やはり、その地域においての公教育への不信感が根底にあると訴えていらっしゃいます。
 わたしにしても、『よそのことは分からない。』としながらも、また、幼児段階からの塾通いが多いということには驚きながらも、最近のブログやメールにおけるやり取りから、また、教員時代のわずかな経験から、これにはうなづけるものをもっており、そういうことを受けてとり上げさせていただきました。
したがいまして、なおみさんもわたしも、全国的傾向などと思って論述しているわけではないのです。その点、回を重ねるごとに、だんだん『ことわり』の入れ方が雑になり、あたかも、全国的な傾向として論述しているような感じになってしまったことをお詫びします。すみませんでした。
 
8. Posted by toshi   2008年08月15日 07:25
わたしの地域においても、幼児段階からの学習塾通いというのは、まずないと言っていいでしょう。そこで、わたし、地域単位での塾へ通う子の年齢別調査はないものか、検索で調べてみましたが、そういう資料は見当たりませんでした。学校もそういう調査はしませんので、わたしも、限られた情報範囲での結論付けとなります。
 我が地域においても、なおみさんのおっしゃる『強迫観念』は、お子さんが小学校段階になれば、あるでしょうね。ほとんどの家庭でということはないのですが。そして、なおみさんのおっしゃるように、その観念は、公教育の信頼度と大きくかかわっているということは認めざるを得ません。
 地域の公立中学校が落ち着いていれば、この種の強迫観念はほとんどないからです。

 調査とか統計は、真実を表してはいるのでしょうが、それが生活実感と大きく異なるということは、往々にしてあると思います。
 亀@渋研Xさんのブログ記事の秋葉原事件についての考察も読ませていただきました。そして、やはり、生活実感と大きく異なる点があることを感じました。その理由も想像ではありますが、思い浮かんだ点がありますので、貴ブログにコメントを入れさせていただこうと思いました。よろしくお願いします。
9. Posted by toshi   2008年08月15日 07:47
 なおみさんがおっしゃる『議論のある家庭』。これも共感できるものだったので、記事にさせていただきました。
 わたしのクラスにいたAさんの家庭も、ちょっとふつうではない雰囲気がありました。それは記事に『超然としているように見えた。』と書かせていただいたとおりです。わたしはそれを、『自立した家庭』ととらえさせていただきました。なぜなら、『問題のある家庭』とはまったく思いませんでしたし、お子さんも自由な雰囲気のなかで、理想的に育っていると思ったからです。わたしは、自分が教員なのに、そのような子育てができていず、劣等感に襲われたくらいです。

 亀@渋研Xさんからいただいたコメントの後半部は、学校における問題解決学習においても、克服していかなければいけない点が多々あると思いました。そういう意味で、いい、点検材料をいただいたと思います。近いうちに記事にさせていただこうと思いました。また、よろしくお願いします。

 最後に一つお願い。貴ブログをいまだリンクさせていただいていないことに気づきました。リンクさせてくださいね。よろしくお願いします。
10. Posted by なおみ   2008年08月15日 07:51
亀@渋研Xさんへ
私自身が幼児教育にかかわっていて、そうしたことに関心のある方を相手にお話をすることが多いので、そこで感じた印象から、「多い」とするのはおかしかったですね。主観的な感想や印象で感じたことを意見にするとき気をつけなければならないとも感じました。しかし、私はそうした主観で感じるものが、数字による錯覚を補ってくれるとも感じていて、それはそれでひとつの事実で大事だと思っています。年々幼児教育産業が相手にする子どもの低年齢化が進んでいて、親の意識が変っているのは事実なのです。私も毎日のように、幼児を持つお母さんに接していて、まだ1〜3歳の子の習い事について悩む姿には驚いています。個人的に親御さんの話をしっかり聞くと、幼児をめぐる環境がここ数年大きく変化してきたのを感じるのです。
数年前までは、幼稚園に入ってからの悩みだったのに、3歳児で数個習い事をしている子が少しでもいるというのは、それが統計の数字ではうまくあらわれないとしてもかつてから思うと異常なことです。また、公園で1〜2歳児の母親が「幼児教室にまったく通ってないなんて、あなた変ね」とママ友に言われたという話を雑誌の投稿欄に書いていて、読んでいる人たちが違和感を感じていない…というのも、幼児をめぐる環境の変化を感じます。
11. Posted by なおみ   2008年08月15日 07:52
(私には4割はとても多く感じるのですが)教育やしつけそのものにまったく無関心な方も増えているて、両極に子育てが分かれているので、数字を鵜呑みにすることの無理を感じます。数字は数字であって、検討するもののひとつで、過去と数字が変らないから、かつてと幼児の環境が変っていないとは言いがたいのです。それはただ、私の印象というのではなく、幼稚園教諭、小児精神科医の著書をたくさん読むなかからも見えてくることです。また、子どもがチックなどになっても教室をやめられない背景には、個人の問題とは言いがたいものもあるのです。
12. Posted by なおみ   2008年08月15日 10:06
亀@渋研X さんへ
ひとつ私が正確な表現を避けていたため、塾という言葉に誤解が生じているようなので、名前をあげさせていただきます。
私が乳幼児期の親の心に大きな影響を与えていると感じている教室と家庭教材は「七田式」です。
私のもとに相談に見える方の80パーセント以上は七田式と何らかの接点があります。次に多いのは公文式と英語塾、幼児用の高額な英語教材です。
教室に通わなくても、こうした教材の勧誘を受けたり、購入したり、行きたいがお金がないと考えている方によく会います。また、ヤマハの音楽教室、体操教室、スイミングもよく聞きます。また、以前は少なかった小学校受験に向けた塾も増えていて、それはネット等で調べてもわかるかと思います。
13. Posted by なおみ   2008年08月15日 10:51
toshi先生へ
「ほとんど」という言葉を安易に使ってしまったことを反省しています。本当は、学校へ行かせることすらあまり意味を感じていないほど、教育に無関心な方も増えているので、私が「ほとんど」といったのは、そうした層を除外したごく普通に子どもの成長を願っている層の意識の変化なのです。
私は子育て支援を手伝っていたのですが、支援者や医師の話の最中も後ろを向いておしゃべりを続ける親の数は少数とは言えず、集団に接っしていると教育に無関心層の増加はよくわかるのです。そうした教育に無関心層とは別に、ごく普通に子育てしているグループのなかで、幼児教育の低年齢化や公教育への不信感が進んでいるのです。私は、統計とは別に現場の声、現場が感じる印象というのは大事と思っています。私の印象は私の住む狭い地域のことでなはく、虹色教室通信を通して海外や地方の方とも情報交換を続けてきて感じているものでもあります。問題の核は「性急さ」です。それが文部省まで偏った教育法に難題を安易に投げてしまう姿勢にもつながっていると思います。
14. Posted by toshi   2008年08月16日 10:18
なおみさん
 わたしこそ、安易に引用してしまって、申し訳ありませんでした。
 なおみさんのおっしゃる部分にけっこう共感できたものですから、家庭教育にかかわる部分についてのみ、引用させていただけばよかったですね。
 なおみさんのおっしゃる議論のある家庭、わたしが申し上げる自立した家庭がふえていくことも、日本においては、大事なことですね。
15. Posted by なおみ   2008年08月16日 11:33
toshi先生へ
今回のことはとても勉強になりました。私はこれまで自分のブログでも秋葉原事件を取り上げたのですが、それをアスペルガーと断定したり、他の話でも安易に客観的ではない意見を主張することはあまりなかったのです。が、コメント欄に書き込む…という行為で、反射的によく考えを練らずに言葉を使用していて、自分で不適切な表現と気づいても修正ができないため放置していたことを反省しました。言葉に責任を持つ必要を、今回しっかり学びました。
また、数字については考える機会になりました。例えば、良い学校か、よい先生かを評価する時、数字で表そうとすると、生徒の成績の伸びで測ったりします。そうした目に見える数値に表せないものは、評価されません。私が親御さんの相談を受ける時、
「低学年から塾に行かないと…」と不安を訴える声は多くても、実際、入塾する方は少ないのです。
ただ、その話の深刻さから強迫的と心では受け取りますが、データーとしての数値は変化していないことと思います。ただ親と子の追い詰められるような気分に過去とのちがいを感じるだけなのです。↑のURLのような事件を他人事と考えない方によく出会います。
16. Posted by YK   2008年08月16日 13:33
<<・・そうやって議論をしていると、どうしても「みんなと同じ回答にならない」ってことが増えます。・・ここで「それはなぜ?」と聞かれるとうまく応えられないのですが、ありそうな回答としては「正解がないから」「議論の結果が正解だから」でしょうか。つまり議論っていうのは、「正解があって、そこに行くように話し合いをしているわけではない。話し合いでたどりついたところが、とりあえず今のところの正解」ってことなんです。>>

亀@渋研Xさんはこうおっしゃっるのですが、こういう議論の形式は私ならブレインストーミングと言いますね。「正解がない」から→「同じ回答にならない」から→「とりあえず今のところの正解」とする。こういう思考のプロセスは一般的と言えば一般的です。一方、私が問題解決というときは、「<唯一の>正解がない」ということを所与のものとして、「同じ回答にならないのは当然である」ということを共通認識として受け止め、「他者の意見を注意深く聞く」、「自分の意見を言葉で上手く表現する」ということを「意識する(させる)」ということです。
17. Posted by YK   2008年08月16日 14:01
「例えば、日本の学者同士はある水準まで行くとツーカーでわかるでしょう。ちょちょっというとパッとわかる。すると、弟子はものが言えないわけですよ。それがアメリカなんかへ行くと若造がパッと手を上げて、すごい馬鹿な質問をするわけですよ。でもそれに対して先生はちゃんと答える。アメリカの大学院へ行って、僕の正直な感想を言うと「何と馬鹿なやつらが大学へ来てるか」。その結果、どうですか?学者はみんなアメリカの方が日本よりレベルが高いじゃないですか。これがなぜかというと、どこかでツーカーの世界で溺れているから、無理にでも言語化して戦うところまで行かないということですよね。こういう意味では、言葉にするということの意味を痛切に感じます。」

これは河合隼雄さんの言葉ですが、やはり教育にはこういう点は大事ではないかと思いますね。専門に限らず。。質問させるというのは大事で、私も質問させますが、難しい質問には「それは難しい質問だ」という返答をしますし、なぜ難しいかを説明しますから。あるいはわかっていても、なぜそういう質問をしたのか、とか聞けば議論が発展することもあります。本来は家庭でこういうことができればいいのでしょうが、そういう環境にあった子ばかりではないので、接することができる限りは質問はしたりさせたりしますね。
18. Posted by なおみ   2008年08月16日 15:20
YKさんへ
<これがなぜかというと、どこかでツーカーの世界で溺れているから、無理にでも言語化して戦うところまで行かないということですよね。こういう意味では、言葉にするということの意味を痛切に感じます。>というご意見、ちょうど今、自分で実感していることなので、とても興味深く感じました。亀@渋研X さんが、ベネッセの調査結果を紹介してくださったことから、その結果と自分の毎日経験していることから受ける印象の食い違いを感じました。
それがなぜなのか、私がいつも接している層に偏りがあるからなのか、ただ自分の狭い地域の現象を自分が拡大解釈しているとも思えない…どう表現すれば相手に理解しやすい言葉にできるのか…と考えるきっかけになりました。それは言語化することの痛み…誤解もあれば、間違いも犯せば、表現する難しさにもぶつかる…を伴っていますが、自分と異なる見方があるから、より自分の感じ考えていたことがはっきりしてくるということがありますね。
私が特に「あっ」と感じたのは、「強迫的」という言葉を、みなさんが意外ととらえたことです。女性はけっこうちょっとした子どもの心配事で「強迫的」と言える心理状態になりやすいし、そうした知人の相談に乗ることも多いので「ああ、あれね」とあまり気にとめない言葉のはずなのです。
19. Posted by なおみ   2008年08月16日 15:20
(続きです)
それは決してオーバーな表現なわけでなく、今、優等生だった子が成績の下降を気にして殺人まで犯す事件が起こったり、燃え尽きる子たちを生んでいる

背景には、そうした幼児期から続いている緊迫感があるはずなんです。でも「強迫的」という言葉が、違和感をかもしたことで、何気なく使用していた言葉についてより深く考えてみるきっかけになりました。
言語化したからこそ…と感じています。
<私が問題解決というときは、「<唯一の>正解がない」ということを所与のものとして、「同じ回答にならないのは当然である」ということを共通認識として受け止め、「他者の意見を注意深く聞く」「自分の意見を言葉で上手く表現する」ということを「意識する(させる)」ということです。>
うまく言葉にできなかったことを表現していただきありがとうございました。
20. Posted by なおみ   2008年08月16日 18:43
toshi先生へ
何度もコメントを書いていてすいません。秋葉原事件の件で…toshi先生が、もし何だか 年々 学校をめぐる状況が変化している…と感じる場合、それは決してtoshi先生の生活圏の経験からだけの印象ではないと思うのです。知っている校長先生のお仲間がいらっしゃるでしょうし、娘さんたちの声、見聞きする情報など、現場で関心を持って仕事をしていた場合、常に自分の考えに付け加えたり修正したり疑問を持ったりしているはずだからです。私はわが子達の年齢の普通の子の見る映画がデスノート、バトルロワイヤル、リアル鬼ごっこと学生を主人公とした快楽殺人を扱ったものが流行し続けていることからしても、昨今の思春期の子の心の変化を感じます。
21. Posted by なおみ   2008年08月16日 18:48
それから問題解決学習をする家庭で育った子は、確かに亀@渋研X のお家のお子さんのように社会に疑問をどんどんぶつけながら、波風を起こしつつ元気に育っていく子もいるでしょうし、まったく別のタイプも育ってくると思います。うちの娘はどちらかというと 亀@渋研X の娘さんのように好き嫌いがベースにある意見もよく言いますが、社会への関心(難民問題に関心があります)自分の生き方への関心を話題に私に話しかけてくることが多いです。息子は哲学的な話題が好きです。自分がこれまで生活し考えてきたことを、的確な言葉で表現したいという思いが強いようです。どちらも「波風を立てるタイプ」ではないけれど、「波風を立てるタイプ」の議論好きのお友達とも仲が良いようです。
22. Posted by 亀@渋研X   2008年08月16日 20:14
toshi先生、なおみさん
不注意な読解で余計なお手間をおかけしてすいません。
リンク先のコメント群も目を通したつもりだったのですが、勘違いが多々あったようで申し訳ありません。また、いま読み返すと不躾な部分も少なくありません。それにも関わらず、真摯なコメントをありがとうございます。

統計と実感のギャップについては、ぼく自身ずっと気になっています。マスコミの端っこで生計を立てているので、なぜそうしたギャップが生まれるかということも含めて、折に触れて考えています。マスコミの読み解きの甘さや扇情的な報道が原因と考えられるケースも少なくないのですが、それだけでは説明できないケースも、多々あります。
しかし、先のぼくの書き方は、統計至上主義みたいで不適切だったかもしれません。統計や報道と実感の、どれかひとつだけに頼って考えるのはとても危ういことですね。

なおみさんがおっしゃる「幼児をめぐる環境の変化」「両極に子育てが分かれている」については、専門家ではありませんが、ぼく自身も感じています(もう十年あまり前になりますが、幼児教育・早期教育についてのムックを編集した際に、自分でも取材に歩きました。また、地域でここ数年は小・中の連携に関する活動に関わって来ており、たくさんのお母様方、学校や行政の関係者の方々ともお話をさせていただいています。そのなかには幼稚園の園長さんもおいでです。彼とはまだあまり話せていませんが(^^;;)。
また、数字には表れにくい部分があることも、おっしゃる通りかと思います。

23. Posted by 亀@渋研X   2008年08月16日 20:14
先のコメントでは、習い事や塾、「議論のある家庭」の是非には踏み込まないようにしたつもりですが、「習い事等に行って当たりまえ」という風潮には強い違和感を感じています。また「議論のある家庭」には論戦もつきものですが、それを問題点だと考えているわけではありません(議論のしかたの良し悪しはあると思いますが)。お母様方の強迫観念についても、理解しているつもりです。
しかし、ここで七田が出て来るとは……。右脳開発、超能力開発の七田ですよね……。通っている方が、そんなに多いのですか? いや、通わせていても超能力開発などを真に受けている親御さんは少ないだろうと思うのですが……。

教育産業には、昔からうさんくさいものが少なくありません。なかには、オカルトめいたものやカルト教団ぽいものもあります。すべてがそうではないですが、七田は「うさんくさいもの」の筆頭であり、最右翼だと認識しています。ですから、ここでその名前が出て来たことに、ちょっとショックを受けてしまいました。

24. Posted by 亀@渋研X   2008年08月16日 20:19
YKさん、コメントをありがとうございます。
YKさんがお考えの問題解決学習についてご説明くださったということは、私の先の「議論のある家庭」に関する文章(とくに引用いただいた部分)と、違いがあるということかと思います。《唯一の》を強調されているということは、そこがポイントのひとつだということもわかります。
それはブレーンストーミングであって、問題解決学習ではない、ということでしょうか?(というか、問題解決型の思考ではない?)
後段、河合隼雄さんのお話は、そこを説明されているのですよね?(このエピソード自体は胸に沁みますし、主旨にも異論はありません)。
しかし、すいません、なにをおっしゃりたいのか、うまく理解できていません。もう少しご説明いただければ幸いです。

ただ、ひとつ気づいたのは、議論においても指導(というか舵取りというか)が重要だ、ということですね。
多様性への理解を、身を以て示せているかを問われることになる、と言い換えてもいいのかもしれません。
感情に基づく発言があったとしても、「感情的だからダメな発言」と否定することはせずに、ひとまず共感を示すことにはこれまでも留意してきました。ただ、そのうえで理としてはどうかを問う、という繰り返しに陥っていました。これでは形式的に共感を示しただけで、結局は感情を否定しているのと同じですね。我が家では、ぼくが家族3人の感情を、反射的にスポイルして来たのかもしれません。
たとえば、それが感情論だということは指摘しつつ、その感情論に沿うように答えを出してみる、うまくいかなければ、そのときにまた考えよう、といった鷹揚さも必要なのかもしれませんね。

25. Posted by 亀@渋研X   2008年08月16日 20:20
あ、もうひとつ気づいたことがありました。
議論があってもなくても、「みんなと同じ答えにならない」なんてことはいくらでもありますね。「みんな」が定義できない、という問題もありますが。
それで、議論は答えが先にあってするものではないので答えも一通りではない、という論旨がおかしくなるというものでもないとは思いますが、杜撰でした。
26. Posted by なおみ   2008年08月16日 21:58
亀@渋研X さんへ
マスコミの読みの甘さや扇情的な報道を客観的に読み解いてくださる亀@渋研X さんのファンですので、今回も子ども関連で、たくさんご意見が聞けて、とてもうれしかったです。

七田についてですが、様々な方法で乳幼児の家庭に宣伝をしているので、家庭保育園という乳幼児教材を知らない…という方は少ないと思います。教室に通う人はまだまだ少ないでしょうが、(私の教室に見ている方は半数以上掛け持ちで七田教室に通っています)高額な教材を購入している人、洗脳されて考え方がいびつになっている方、教材購入、教室入会にあこがれつつ経済的理由でできなくて苦しんでいる方、お友達が七田に通っているため強いコンプレックスと遅れに対する不安を感じている方などいろいろです。

27. Posted by なおみ   2008年08月16日 21:58
七田式の右脳開発法として有名な「フラッシュカード」を使う学習法はTOSS愛媛代表の小学校教師が書いている本「こんな幼児教育ありなの」という幼稚園で過激に(2歳児に12分間で281枚に漢字や数のカードを見せるなど)行なわれています。このTOSSの先生は、あとがきに「愛光幼稚舎には、何度足を運んでも、そのたびに新しい発見があります。そしてTOSSとの共通点に改めて驚くばかりです。」と描いていて、TOSSと七田の怪しい右脳開発法との接点が見えた気がしました。
28. Posted by なおみ   2008年08月16日 22:05
文章のチェックが甘くて、文章のミスや変換ミスが多くてすいません。
↑のURLはそうした幼児教育の弊害とも言える症状をあらわす子ども達の話題です。
最近驚くほど増加しているようです。不登校やニーとの増加とも関連があると思われます。
29. Posted by なおみ   2008年08月16日 22:27
YKさんへ
YKさんのおっしゃりたいことは、私が家庭で子ども達とおしゃべり以外の話をするときに心がけていたことなのでよくわかります。
私もブレーンストーミングで会話が終わらないように、問題解決をするためのルールを子どもと再確認することを大事に感じていました。
両者は似ていて、大人同士であれば、親しい間柄なら前者で構わないのでしょう。でも日常の体験から感覚で多くを学ぶ子どもに対しては、「同じ回答にならないのは当然である」ということを共通認識として受け止め、「他者の意見を注意深く聞く」「自分の意見を言葉で上手く表現する」ということを「意識する(させる)」かどうかといった微妙な違いが、問題解決として会話する際に大事なのですね。
30. Posted by YK   2008年08月17日 03:17
亀@渋研X さん

 お返事ありがとうございます。言葉足らずで申し訳ありません。この点は少し説明が難しいです。私としては、まず、話し合いには「対話」と「雄弁術」という形式がある、ということから話すべきだったろうと思います。「雄弁術」というのは、「公衆の前で、明確に印象的に自分の意見を発表する術」です。アメリカのドラマなどで、弁護士が饒舌に陪審員に向かって主張するような方法は雄弁術です。これに近いやり方がディベートです。これは基本的には事実に基づいて論理を組み立てて、自分の意見を表明する方法です。これが一つの回答を導く話し合いの形式です。
 もうひとつの話し合いの形式が「対話」です。言い換えるとディアレスティック(ダイアレスティック)です。ディアレスティックというのは、ヘーゲルなどが使うときには弁証法と訳すのですが、もともとギリシアの時代にプラトンなどが使ったときは「対話」という意味で使われたわけです。会話(カンヴァセーション)ではなく、対話です。この対話というのは、プラトンの著作を見ればわかりますが、ただのおしゃべりではないのです。感情論でもない。自己主張でもない。相手と親しく交わりながら、真理とは何かという問いに対して、率直に考えを述べ、考えを深めながら、真理に到達しようとする態度によって話し合いが進められていくわけです。
31. Posted by YK   2008年08月17日 03:17
 相手に関心を払わなくても、話し合いによってブレインストーミングすること自体は出来ます。しかし、「対話」は、相手に関心が十分になければ成り立たない話し合いの形式なのです。クレイマーとかモンスターペアレンツとかいう連中は、自己主張が目的なので「対話」は無理なのです。相手に関心を持ってはいないわけですから。その代わり、そうした連中の神経というのは病的なものを抱えているわけです。
 だから私はこれからは「雄弁術」は最低限必要として、「対話」の出来る人間が育たないといけないと思っています。相手と向き合える人間でないと、時「雄弁術」が発達したところで幸福にはなれないでしょう。上でアメリカを持ち上げておいて何ですが、アメリカほど「雄弁術」が発達した代わりに、あれほど人々の神経の病んだ国はないではないですか。
 むろん、問題解決というのは、人によりいろいろな形式があるのでしょうが、私の問題解決学習というのは「対話」が基礎なのです。そして、その「対話」を支えるのは、相手のことを考える精神とか、そういうものなのです。
32. Posted by なおみ   2008年08月17日 07:04
toshi先生へ
亀@渋研X さんが<議論においても指導(というか舵取りというか)が重要だ、ということですね。>とおっしゃったことで、このことで思ったことを書かせて下さい。
このtoshi先生のブログで展開される対話は、問題解決の形を取っていると思うのです。しかし2チャンネルや他のブログでは、こうした会話がなりたたないような気がします。なぜかというと、toshi先生は指導という形で舵取りをしているわけではないけれど、その誠実な対応や考え方のなかで、ここで展開される全ての会話に影響を及ぼしているからです。YKさんのおっしゃった「意識させる」というのはそうしたことかもしれないと思いました。
ただ亀@渋研X さんのご家族は相手の話を聞かずに自分の好悪で意見しているわけでもないとも思っています。子どもさんたちは、亀@渋研X さんのの批判精神や正義感をベースにより自由に自分の考えを広げているのだと思います。問題解決にはそうした態度も必要と思います。

33. Posted by なおみ   2008年08月17日 07:04
(続きです)
七田のことですが、亀@渋研X さんのおっしゃるとおり、子どもの発達心理学や最新の赤ちゃん研究からわかってきたこと(幼児の脳は親とのコミュニケーションや当たり前の日常生活の中で一番成長する)を無視して、オカルトも含めた持論(海外の障害児研究からはじまっています)で、子どもを天才にすると謳い、乳幼児の親の心に影響を与えています。TOSSの先生が絶賛していたフラッシュカードはそれで障害が出たという報告もされている使い方によると危険なものです。しかし、夢のような結果(からくりがあります)を宣伝しているため、信じたい人は多いのです。
34. Posted by toshi   2008年08月17日 11:09
なおみさんの15番へ
 管理者のわたしは、後での修正が聞くのですが、投稿者の方はそれができないのですね。それで、修正のコメントを後から入れるということになります。
 ライブドアの方へ、わたしから、お願いしてみようと思います。

 また、おっしゃること、よく分かります。追いつめられたような気分というのは、数値には出てきませんものね。

 外部からの学校評価についても、似たことが言えます。それはすでに記事にしました。本コメントのHNにURLを貼り付けました。よろしければご覧ください。
35. Posted by toshi   2008年08月17日 11:15
YKさんの16、17番へ
 ここのところ、本コメント欄が問題解決学習と似ていると書かせていただきました。そして、まさに、最近、皆さんによってそれがかなっていると思い、喜んでいます。
 ただし、本コメント欄の利用に関しては、話が多岐にわたってもかまわないこと、素朴で、問題の原点を見つめるようなコメントも受容したいこと、そういう態度が管理者に必要だと思っています。
 皆さんにもそういう姿勢で臨んでいただけるよう、希望します。
36. Posted by toshi   2008年08月17日 11:26
亀@渋研Xさんの22〜25番へ
 いろいろあっていいと思います。統計重視の方、経験重視の方、それぞれが意見を出し合い、お互いに学び合うことによって、理解が進むのではないかと思います。
 話は変わりますが、わたしは教員でありながら、こうしてブログをやらせていただいて、つくづく資料収集力がないなと確認させられています。そういう意味では読者の皆さんに助けられているのです。今回、亀@渋研Xさんにも、お世話になっております。
《議論においても指導(というか舵取りというか)が重要だ、ということですね。》
 これは、学校においてはもちろんですが、家庭においては親がその役を果たす必要はあるでしょうね。もちろん、家庭においては、計画的、意図的な営みではないですから、柔軟さはあっていいと思います。
37. Posted by toshi   2008年08月17日 11:42
なおみさんの32番へ
 大変過分な評価を賜り、恐縮しています。ただただお互いが学び合う姿勢が大切とは思っています。
 ごめんなさい。わたしは、YKさんのおっしゃるヘーゲルとか、プラトンとかについては、恥ずかしながらまったく無知です。
 ああ。なおみさんのおっしゃる七田式というのも同様です。
 コメントを通し勉強させていただけるのではないかと思っています。
 よろしくお願いします。
38. Posted by YK   2008年08月17日 17:16
toshi先生

ご注意ありがとうございます。そうですね、色々意見を言っておきながら私も書き込みについては反省しなければならないことが多くあります。もしも、私の書き込みで亀@渋研Xさんに対して失礼があったら謝らなければなりません。申し訳ありませんでした。私自身、目上の方たちに対し僭越だと感じながら書き込んでいます。しかし、僭越だと思っても、文章にするとその気持ちは伝わらないので、硬い印象だけが伝わってしまうかもしれないな、と感じて悩むこともあります。実際のところ、私としては、断定調で書きこんだことについても、100%の確信を持って書いていることはほとんどないです。もちろん、文章についての責任は取ろうと思っていますが、やはり言葉にするのは難しい、と感じています。失礼のないようコメントしたいと思いますので、宜しくお願いします。

あと、なおみさん、コメント29番ありがとうございました。
39. Posted by なおみ   2008年08月17日 20:26
YKさんへ
私の読書量や理解力ではYKさんのおっしゃっていることを正確に解釈しているか怪しいものの、いつもYKさんのコメントに深い部分で共感させていただいています。引用してくださっている哲学者の本などもぜひ読んでみたいと思っています。
今、問題解決学習と言うか問題解決思考そのものが、無意味なものとして葬られているような場がたくさん存在しています。政治の世界もそうでしょうし、教育の世界もそうなりつつあります。疑問の声をあげる人がいても、最初から用意された答えしか返さない、情報操作のために意見を述べる、ということが横行しているからです。そうした現代に、YKさんのように丁寧に言葉の持つ意味に向き合うこと、教育の意味を根本から問い直す姿勢は本当に大切と感じています。みなさん、それぞれの意見、知識、生きる姿勢に学ばせていただいています。
40. Posted by YK   2008年08月18日 00:42
なおみさん

コメントありがとうございます。私もこのブログにコメントを書かれている方から勉強させて頂いています。私も教育において大事なのは、まず言葉、特に心のこもった言葉だと思っています。言葉がその人の生きる姿勢によってではなく、マニュアルによって扱わるなら教育は上手くいかないと思っています。しかし、やはり職場環境によっては言葉の重要性など期待されないで能率・効率を最も重視することもあります。一方で、これまで書いたような自分の学問の理想形に近いことができることもあります。こればかりは運ですが、ときどきでも理解してくれる人がいると嬉しいものです。私の知識も拙いものですが、宜しくお願いします。
41. Posted by toshi   2008年08月18日 02:41
YKさん
 まことに失礼な書き込みをしたものと、申し訳なく思っています。ごめんなさい。
 わたし、ご注意申し上げるつもりはまったくなかったのです。でも、読み返してみると、そんな調子になっていますよね。ほんとうに申し訳ありませんでした。
 書き直します。

YKさん、及び読者の皆さんへ
 ここのところ、本コメント欄が問題解決学習と似ていると書かせていただきました。そして、まさに、最近、皆さんによってそれがかなっていると思い、喜んでいます。
 YKさんが、アメリカの例を書かれました。
《アメリカなんかへ行くと若造がパッと手を上げて、すごい馬鹿な質問をするわけですよ。でもそれに対して先生はちゃんと答える。〜。学者はみんなアメリカの方が日本よりレベルが高いじゃないですか。これがなぜかというと、(日本は)どこかでツーカーの世界で溺れているから、無理にでも言語化して戦うところまで行かないということですよね。こういう意味では、言葉にするということの意味を痛切に感じます。》 
 わたしもほんとうにその通りだと思います。
 ですから、本コメント欄の利用に関しても、素朴で、問題の原点を見つめるようなコメントも受容したいなと思っています。また、話が多岐にわたってもかまわないと思っています。そういう態度が管理者であるわたしに、まず必要だと思っています。
 皆さんにもそういう姿勢で臨んでいただけるよう、希望します。

 ほんとうに失礼しました。これにこりず、これからもよろしくお願いしますね。
 
42. Posted by 亀@渋研X   2008年08月21日 19:16
toshi先生、YKさん、なおみさん、重ねてのコメントをありがとうございます。反応が遅くなってすいません。なんだかなかなか消化できなくて、あれこれ考えているうちにどんどん日が経ってしまいました。ごめんなさい。

なおみさん、追加情報ならびにいろいろとフォローをありがとうございます。YKさんの投稿についてのフォローも、ありがとうございます。
「家庭保育園」はメジャーな教材ですね。しかしすでに業務提携は解消されていて、「七田式家庭保育園」は中古市場にしかないはずです。そうでもないのかな。
早期教育、幼児教育全般の問題点だけでなく、七田についてはいろいろと問題に思うこともあるのですが、それについてはまたの機会に。

YKさんがおっしゃる意味、ようやくわかったかなと思います。ついさっき、これを欠きながら「あっ」と思ったという程度で、確信は持てていないのですが。
「ディベート」「対話」「ブレーンスートミング」という比較からの類推なのですが、的外れでしたらまたご指摘いただけると幸いです。

ぼくが先に書いた〈「問題解決型の学習」で育った子どもたちは、必ずしもスムーズに「いい具合なところ」に落ち着いたりはしません〉〈泥沼化、必至です〉〈がんばって、戦いましょう。〉というようなコメント、言い換えれば、「問題解決型の思考法を家庭に持ち込むと、自動的に穏やかには済まなくなる」という話には、「言いあい」「激しいやり取り」を想起させる部分がありますね。
実際、ぼくは「議論」のなかに、体験としての「親子ゲンカの仲裁」のときのイメージを無自覚に持ち込んでいたように思います。当然「激しいやり取り」のイメージがつきまとうことになります。しかし、そこにそんなイメージを持ち込むのは、誤りですね。親子ゲンカなんてのはブレストやディベート以前の話で(^^;;
43. Posted by 亀@渋研X   2008年08月21日 19:17
いや、我が家にも家族会議をはじめ、ふつうのやりとりもあるので、ぜんぶ親子ゲンカなわけではないのですが、「問題解決型の思考法を家庭に持ち込むと、自動的に穏やかには済まなくなる」とでもいうような話のバックグラウンドとするには、適切を欠いた部分があったようです。

これでは、お気づきになっても指摘しにくかったことでしょう。もしも、それでストレートに書けなかったということでしたら、本当にお気遣いをさせてしまって申し訳ありませんでした。繰り返しになりますが、そういうことじゃないよ、ということでしたら、またご指摘をいただければ幸いです。

ただまあ、困ったことに、そうだとしても実は〈必ずしもスムーズに「いい具合なところ」に落ち着いたりはしません〉とか「穏やかには済まなくなる」という意見自体は変わらないのですが。というのは、「自明な結論はない」ということを認めるところからしか議論が始まらないと考えているからで。厳密に言えば、自明なのは《関わる人や時が違えば「唯一無二の正解」などはない》というぐらいでしょうか(^^;;
おそらく「穏やか」とか「議論」という言葉からどんな状況を想像するかで、かなりイメージが違ってしまうとは思います。適切な言葉の選び方ではないのかもしれません。
ぼくが言いたいのは、「親が絶対」「先達が絶対」だったりせずに「みんなでちゃんと考える」というのは、予定調和や一元的な「正しさ」からけっこう遠いところにあるんだ、それを手探りして行くというのは結構大変なんだ……っていうだけのことなんですが(^^;;

44. Posted by 亀@渋研X   2008年08月21日 19:18
toshi先生、「学校でも課題」とおっしゃるのは、ぼくの先のコメントを「異論があれば言い立てる子どもになる」というように受け止められたのかな、と危惧しています。先のコメントは必ずしもそういうつもりではありませんでした。

なんというか、ここ20〜30年ほど、家庭でも社会でも組織内でも、「無風状態のような穏やかさ」を絶対的な理想のように求めるきらいがあるのではないかという疑いをぼくは持っています。99パーセントの安全では安心できず、100パーセントの安全を求めてしまったり、議論や批判を嫌い、誤りを指摘されることを必要以上に恐れたりする。
ぼくには、そうした態度は不健全なものに思われます。たとえば、少しぐらいはデコボコしていて当たり前なものを、完全に平坦になるまで満足しないようなパラノイアックなものを感じます。
そういう平穏さを求める空気を読めずに、おかしいと思えば指摘するし異議も唱える。オトナが当然だと思っていること(習慣からであれ、根拠のあることであれ)について、自分のもてる知識を総動員して質問し、場合によっては批判してくることもあるでしょう。
これは望ましいことだと考えています。

と書いてきて思い出しました。最初のコメントの動機のひとつは、まさにこれです。長々と書いた割に、ぜんぜんうまく書けていなかったですね。しかも、なおみさんのコメントにそういう部分があったわけではなく、そこから連想した、というのが実際のところです。誠にいろいろお恥ずかしい限りで。

今回は、無用に引っ掻き回してしまったかな、と反省しきりです。行き届かないところ、おかしなところは、どうぞご指摘ください。
ぼく自身はいろいろ気づかせいただきました。ありがとうございます。
これからも、よろしくお願い致します。

45. Posted by なおみ   2008年08月21日 22:52
亀@渋研X さんへ
<「無風状態のような穏やかさ」を絶対的な理想のように求めるきらい>は、現在のこれほど醜い社会を生んでしまった原因のように感じています。
私の子どものころのテレビ報道は、今のようにヒドイものはありませんでした。批判する人がいたからです。
思春期の子の読むマンガや小説や見る映画も今のように殺人を扱ったものが多くを占めるようなことはありませんでした。これは、一般市民が批判しなくなったことと、子供達が幼い頃から怒りやぶつかり合いを抑圧して、無風状態を保っているため、暗いエネルギーが内面で膨らんでいるためだと思っています。
<たとえば、少しぐらいはデコボコしていて当たり前なものを、完全に平坦になるまで満足しないようなパラノイアックなものを感じます。>
私が前の亀@渋研X さんやYKさんに宛てたコメントも「完全に平坦にしたい」思い(勝手な仲裁)から書いているように見えたかもしれませんね…すいません。そうした気持ちは少しもないのです。(実際、私はコメント欄なので書いていませんが、子どもやダンナと低レベルな口げんかをすることも多いです。)
46. Posted by なおみ   2008年08月21日 22:53
(続きです)toshi先生の小学校初任者のブログに<2チャンネルのTOSSの是非を問うスレ>にリンクするように、TOSSの人になりすました人がコメントを入れていたので、リンク先に飛んで読んできました。確かにゴシップも多いし、勝手にリンクを貼るのは行為は間違っています。でも、こうした場しか自由な意見や正直な気持ちやありのままの現実を語れる場がないのも事実で、うなずける意見もけっこうありました。亀@渋研X さんのおっしゃる通り表の社会が無風状態を求めすぎたため、本来悪くもなんともない本音の部分は、ウラの世界に追いやられているように感じました。パラノイアックという表現もよくわかります。
47. Posted by YK   2008年08月22日 20:41
亀@渋研X さん

コメントありがとうございます。おっしゃりたいことがよくわかったように思います。<「無風状態のような穏やかさ」を絶対的な理想のように求めるきらい>というのは私も感じます。意外と教育の現場でも「鶴の一声」というのはあるのだな、という印象を持っています。それもケース・バイ・ケースですけれども「それはちょっと違うんじゃないかな」という程度の疑問すら許さない空気というのは、あまりいいものではないですね。今回は私も勉強になりました。また宜しくお願い致します。
48. Posted by YK   2008年08月22日 21:18
なおみさん

<思春期の子の読むマンガや小説や見る映画も今のように殺人を扱ったものが多くを占めるようなことはありませんでした。これは、一般市民が批判しなくなったことと、子供達が幼い頃から怒りやぶつかり合いを抑圧して、無風状態を保っているため、暗いエネルギーが内面で膨らんでいるためだと思っています。>

暗いエネルギーというのも理解できる気がします。大雑把な言い方ですが、思春期に自我を自分で処理できないくらい、情報はあるがゆとりがないという状況があるように思います。アガサ・クリスティが只の無差別殺人を描いても面白くも何ともないですし、誰も注目しなかったろうと思いますが、今は漫画でもゲームでも平気でやってしまいますね。これでは情緒を育てるのは難しいように思います。

<「完全に平坦にしたい」思い(勝手な仲裁)から書いているように見えたかもしれませんね>

私はなおみさんの書き込みにそういう印象はありません。教育の経験談を教えていただき感謝しています。
49. Posted by なおみ   2008年08月22日 22:27
亀@渋研X さんへ
今もホームページが存在しますが、(家庭保育園という)教材名は変ったのでしょうか。生徒さんたちから、いろいろと他の名前がついている七田の教材を見せていただきましたが、(通販、通信教室、お教室で購入する教材、といろいろあるようです。)もとの教材名まで変っているとは知りませんでした。
現在、七田をしている方のネットでは、「カホ」という隠語で呼ばれているようです。娘の時代も流行っていましたが、今、私がお会いして話をする乳幼児を持つ親御さんで「七田を知らない」という方には会ったことがありません。
50. Posted by なおみ   2008年08月23日 06:58
YKさんへ
48番のコメント どうもありがとうございます。
<これでは情緒を育てるのは難しいように思います>ということ、真剣に考えています。幼児教育をしていて、乳幼児というのは情報を取捨選択せずに目から入った物を(パターン認識といって)写真で写すようにそのまんま自分の中に貯めていくことを学びました。今の若い世代の人は、テレビの報道番組が娯楽の部分も持ち出した頃の人で、子ども時代を通じて、脳の潜在的な部分に殺人にからむショッキングな映像をたくさん刷り込んでいるのだと思うと嫌な気がします。また、軽度発達障害の子は、ドラマのようなストーリーのあるものを好まず、こうしたニュース番組を好むと聞いたので、これも心配です。(現在の幼児には、そうした環境から刷り込まれるものが、さらに惨い様相を帯びていますね)
51. Posted by なおみ   2008年08月23日 06:58
(続きです)
YKさんが問題解決学習に使われた<和解>に向かうという言葉についておたずねします。それぞれに営利目的が絡んだ個人や政治的な色が濃い話し合いの場では、一見、和解を目指しているように見えても、いかに自分の利を広げるかに目的がある場合、折り合いや決着はつくけれど<和解>を目指していると言えるのでしょうか?
また別の話し合いの場で、たとえ答がひとつにまとまらなくても、やはり<和解>を目指して話し合えたと感じることもありますね。こうした微妙な違いというのは、言葉にするとどういうものなのでしょうか。
52. Posted by toshi   2008年08月23日 09:26
亀@渋研Xさん
 問題解決学習が、学校の授業のことのみで語られるのなら、すんなり受け止めていただけたのでしょうが、家庭における問題解決的態度、議論、そういう話になってから、ちょっと、本コメント欄における議論が混乱をきたしてきたのだなと思います。
 家庭における問題解決的態度。これは確かにむずかしいもので、そこには甘えもあるし、ずうずうしさもあるし、したがって、学校の授業なら見られないような混乱も起こるわけですよね。

 わたしのことで言わせてもらえれば、学校なら子どもの自由な発想にゆだねられるのに、家庭だと、『こうあらねばならない。』みたいな感じになってしまうことが多かったのですね。それが親子関係を悪くするに決まっていると思っても、いったんそうなると、その泥沼からは抜け出せないようでした。

 ごめんなさい。ここまで書くと、逆に、『いや。そうでない会話ができたことだっていっぱいあったよな。』と言いたくなる点、亀@渋研Xさんと同じだと思いました。

 でも、なおみさんのおっしゃる『議論のある家庭』は、はっきり、それとは違うのだと思います。簡単に言えば、親子でありながらも、友人同士と見えるような関係ですか、干渉も、甘えも、ずうずうしさもないのだと思います。

 わたしは記事にさせてもらった教え子の家庭にそれを見て、そこから学ばせてもらおうと思ったのですが、その後、家庭内の家族の関係は変わったようでもあり、さほどのことはなかったようでもあり、どうも、もやもやとして判然としません。
53. Posted by toshi   2008年08月23日 09:41
《「無風状態のような穏やかさ」を絶対的な理想のように求めるきらいがあるのではないかという疑い》《議論や批判を嫌い、誤りを指摘されることを必要以上に恐れる。》
 今の日本、それは確かにありますね。そして、その反動として、人間性を傷つけ合うまでやりあってしまうこともあるのだと思います。
 今さら言うまでもないのだとは思いますが、なおみさんのおっしゃる『議論のある家庭』は、わたしには、その辺、とても上手に対応されているような気がしています。『友人同士』のように見えるという言葉のなかに、集約したつもりです。うらやましいくらいです。

 無用な引っ掻き回しなどということはありません。わたしには、『議論のある家庭』の姿がより印象的に皆さんに想像できるようになったのではないか、もしそうならすばらしいことだと思っています。だって、わたしは間に合わなかったけれど、やはり、そういう家庭がふえてほしいですものね。
54. Posted by YK   2008年08月23日 15:33
 話が前後してしまって申し訳ありません。
 コメント51について私の考えを書きたいと思います。「問題解決は論破ではなく、和解を目的とする」というのは、少し文芸的な表現になってしまい、違和感を与えてしまったかと感じています。和解という語は、私としては、相互の信頼、相互の成長、相互の認識、相互の学び合い、などの言葉と言い換えても良いかと思います。和解という言葉は、広辞苑によれば、「〜蠍澆琉媚廚やわらいで、とけあうこと。なかなおり。∩茲い鬚靴討い訶事者が互いに譲歩しあって、その間の争いを止めることを約する契約。示談。」とあります。△論治的な意味合いが濃いですね。ですから、△睿族鬚蕨族鬚任靴腓Δ、私の意図では、,琉嫐9腓い強いです。
 例えば、私となおみさんが「問題解決学習とは何か」という題で議論を始めようとするとき、「対話」ですと、「問題解決学習」についての研究を始めることができると思います。その際、「問題とは何か」「何をもって解決とするか」「何を持って学習とするか」などが、おそらくお互いのイメージのすり合わせから始まって、お互いの認識の共通点や差異を理解していくだろうと思います。
 それで、自分の視点が認められれば嬉しいだろうし、相手の視点がユニークであれば、やはり議論をしていて楽しいだろうと思います。
55. Posted by YK   2008年08月23日 16:07
 逆に、政治的な意味合いが強い、論破を目的とする議論ですと、イメージの擦り合わせのようなことはしないでもいいだろうと思います。「問題解決学習とはこういうものであると言えば、相手を説得できるだろう」、「この点を衝けば、相手のロジックは崩壊するだろう」という点に注意が向けられます。これはこれで議論の一つの形式ですが、相手との意見の違いを知って楽しむとか、相手から学ぶ感覚というのは得られないと思います。
 あと、私の問題解決学習のイメージでは、自分が間違っていたな、と感じたら「修正」も学習のサイクルに入っています。議論→問題発見→議論→問題の認識→議論→問題の解決→議論→問題の認識の修正→議論→問題の再発見・・・という感じでしょうか。こうしたプロセスが厳密に行われる場合もありますが、私は、議論があっちに行ったりこっちに行ったりしながら楽しく議論する(対話のイメージ)のほうが好きですね。これは好みの問題かもしれませんが・・。

56. Posted by なおみ   2008年08月23日 17:21
YKさんへ
ていねいなお返事ありがとうございます。
私も感覚ではYKさんのおっしゃる内容を理解していたのですが、それをきちんと言葉にすることができなくて自分の中で不消化のままおわっていたのです。とてもわかりやすくて、自分が混乱に陥っていた部分を再発見することにもつながりました。
私はわが子や教室の生徒とは「対話」の形で話し合うことが多いです。たとえ幼児でも、障害のある子でも、話をしながらお互いの考えに触れ、自分の思いとのちがいを発見したり、自分の気持ちを伝えたり、共感しあったりするのはとても楽しいからです。そうしたことをいつも自分の直感だけでしていますが、YKさんのように適切な言葉にして意識化できるようになることにあこがれを感じます。
57. Posted by toshi   2008年08月25日 06:43
YKさん、なおみさん
 これぞ、『問題解決学習の真髄』という感を抱かせていただきました。『議論』の中身も煮詰まってきましたね。
《相手との意見の違いを知って楽しむとか、相手から学ぶ感覚》
 子どもたちの問題解決学習も、こうした心を養うべく努力しないと、うまくはいきません。
 それには、やはり、学級集団づくりが大切ですね。

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