2008年08月22日

問題解決学習の真髄を求めて(1)3

043f7a76.jpg 問題解決学習とは、『子どもが、自分たちにとって、切実であり、解決せずにはいられない問題をとり上げ、自ら主体的に考え、追求し合うなかで、よりよく生きようとする資質を養う学習。』となるだろうか。

 『よりよく生きようとする』というのが具体的にどういうことかと思われるかもしれないが、その点は、『問題解決学習』なるHPにリンクさせていただこう。このなかの、『三、「解決」の意味をどうとらえるべきか。』をご覧いただきたい。

 なお、同リンクHPには、『初志の会』とあるが、これは正式には、「社会科の初志をつらぬく会」と言い・・・、

 ご承知のように、社会科は、戦後、民主主義を担う教科として、強い国民的期待のなかで発足したのであるが、そのときの心、初志を忘れないで、研究、実践に取り組むことを目的とした研究組織である。

 わたしも一時この会の会員になったことがある。



 さて、

 これよりしばらくは、問題解決思考を中心に、これまでいただいたコメントをとり上げながら、学校における問題解決学習について実践的に述べ、真の問題解決学習とは何か、現状との矛盾もあるだろうが、それをどう克服していかなければいけないかなど、共通理解できたらいいなと思い、記事にさせていただこうと思う。

 ただ、いただいたコメントによって記述することになるので、全体としてはあっちいったりこっちいったりしてしまうことになると思う。その点、お許しいただきたい。


 それではまず、今日は、拙ブログ記事、『ブログと問題解決学習(2)』によせられたコメントの19番にふれてみたい。YKさんからいただいた。

 『議論(ディベート)と問題解決とは、少し違うような気がします。ディベートは論破が目的ですが、問題解決学習はむしろ言葉による和解が目的だと思っています。』


 これについては、わたし、苦い思い出がある。


 ある学校の研究会に、講師として招かれたときであった。

 その学校の研究テーマは忘れてしまったが、国語科と社会科の研究を進めていた。

 わたしは社会科の講師。

 国語の講師は、大先輩の校長先生だった。

 当然、わたしは、社会科の指導講評のみをすればいいはずだった。だから、国語についての研究討議の際は、ノータッチのつもりでいた。

 ところが、そんなとき、司会の方から、『toshi先生からも一言、お願いできますか。』と言われた。

 後から考えれば、『いえ。特にありません。』でも済んだはずだった。差しさわりのないことを言うだけでもよかったはずだった。

 でも、とっさには、そう思うこともできず、ついよけいなことを言ってしまった。


 そう。そう。その国語の授業でとり上げていたのは、

 単元は、当時、5年生の国語にあった、『一秒が一年をこわす』。この説明文は、『人間の営みが、地球環境を壊している。』という話だったと思う。

 その教材を受け、『地球は滅びるか。』というテーマで、『滅びる。』『滅びない。』のディベートをやる授業だった。

 
 そこで、わたしが言ったことは、

「議論はとても活発でした。高学年の子達が、あれだけ、論拠をしっかりもち、討論するというのはすばらしいと思いました。
 討論そのものは、やや、『滅びる。』論の方が優勢だったですかね。ただ、違和感をもったのは、『滅びる。』論の子たちが、優勢を意識したからか、とても、にこにこして、元気だったことです。
 言っている内容が、『滅びる。』論なのですから、その論拠を心で感じ取っていたら、地球の未来は悲惨であり、絶望的なのですから、もっと悲痛な、苦渋に満ちた感じでの物言いになるはず。
 彼らの明るさ、張り切りぶり、それが何とも、不可解でした。」

そのようなことを言った。


 研究会が終わったあと、校長室で、国語の先輩校長から、言われてしまった。

「toshiさん。あれは、ディベートと言って、雄弁術ね。話術の向上をねらうのが趣旨なの。だから、『滅びる。』論を展開しているからと言って、そう思っているとは限らないのよ。『滅びる』論を展開した子が、次は、『滅びない』論を展開することもあるしね。勝負にすることもあるわ。」

 そうか。そういうことだったか。よく分からずに問題解決学習であるかのように言ってしまったことが悔やまれた。

 やはり、よく研究もしていない、他教科のことは、あまり言うべきではないね。それを実感させられた。



 でも、もう、言い返しはしなかったものの、小学生に、その主の雄弁術が必要かとも思われた。自説でないことをとうとうと主張する。なんか、こわさも感じさせた。


 問題解決学習は、別に雄弁になることを目的とはしていないけれど、でも、言わずにはいられない心情、そういったものを背景としてしゃべるわけだから、また、聞き手によく分かるように話さないと、価値は深まらないから、結果として雄弁になるものだ。


 ここで思い出す過去記事がある。リンクさせていただこう。

    充実した学習を(2)

 どうだろう。つい最近も、『問題解決学習をおし進めていると、みんな、エリートのように見えてくる。』と書かせていただいたが、それは、この雄弁ということと、あながち、無関係とは言えまい。


 それでいいのではないか。何も、小学生の段階で、ディベートそのものを目的としなくても。

 そう思った。


 ああ。いけない。ここで言いたいことはそういうことではなかった。『問題解決学習における話し合いと、ディベートとは違うよ。』というYKさんのコメントに、同意の気持ちを伝えることが目的だった。


 議論というと、どうしても、両方とも含んでしまうものね。


 ところで、ディベートというと、ゲームのようなものだから、相手を論破することもありだが、いや、目的かもしれないが、日常生活においてはどうだろうか。


 なおみさんから、『議論好きな家庭』という問題提起がなされた。リンク先コメントの14、15番である。


《年配の作家や新聞記者や芸術家の方々とふれ合う機会がありましたが、その方々は、子どもさんたちを、公立の小中で、基本的に「放任」して子育てされていたようです。子どもの学習意欲について、自然に発達するものと信じているようでした。成人している子供さんたちはというと、教師、新聞記者、学者…と知的な職業についていました。
 一般家庭で、「放任」していると、自分の力で学び始める…形にはつながりにくいのに、この方々のお子さんはどうやって自分で学び始めたのか?と考えていると…周囲の大人たちの議論好きが見えてきました。普段から、問題解決授業のような会話を繰り返す大人たちに囲まれているのです。おそらく思春期には、子どもさんもその輪に入り、自分の頭でも深く考えたことなのでしょう。》


 さあ、問題は、ここでいうところの、『議論好き』なのだが、これは、論破込みなのか、それとも、YKさんおっしゃる『和解』のみなのかということだ。


 わたしは、これは、論破を含まずと理解する。


 ディベートのような、ある意味、訓練的な学習、ゲーム的な要素もあるそうだが、それだと、感情の入る余地は少ないだろうが、ふつう、論破というと、話している当事者同士、感情の入る余地はかなり多いだろう。

 それだと、
・意地を張ったり、
・日ごろの人間関係によって言う内容が捻じ曲げられたり
・感情が先にたつことによって、論理矛盾をきたしてしまったりして、
価値を深めることにつながっていきにくい。堂々巡りもおきそうだ。


 このようなことを言うのは、家庭での議論について、亀@渋研Xさんから、大変率直で、それがゆえに、『ああ、我が家だって同じでしたよ。』と言うしかないコメントをいただいたからである。リンク先コメントの3〜6番である。

 でも、まあ、家庭はふつう、ねらいもなければ、意図的計画的な営みでもないし、逆に言えば、偶発的に起きる議論の場だろうから、何でもありでいいのだと思う。



 しかし、しかしだ。


 学校で言うところの問題解決学習においても、往々にして、こうした論破的話し合いが行われるのだ。

 何をかくそう。このわたしだって、かつて修行時代はそうだった。過去記事にあるのでリンクさせていただこう。

   発言すればいいというものでも〜 問題解決学習の問題点(4)


 これでは、冒頭述べた言葉で言えば、『よりよく生きようとする資質』にはつながらないと言えよう。やはり、リンク記事に書いたように、

・自分は、一つのことにこだわりたいのだが、友達から意味がないと指摘され、その趣旨は理解できるので、『もういい。』と、自説にこだわらない姿勢を見せるとか、

・自分の信じるところに向かって主張するのはいいが、相手の主張にも耳を傾け、客観的に妥当性が高いのはどっちか、常に、その吟味を行う姿勢をもつとか、

・集団のなかで、常に自分の役割は何かを認識しようとしているとか、

 そういう資質が望まれるわけである。


 そうなって、価値のある問題解決学習が行われると考える。

 なお、冒頭、YKさんのコメントを紹介させていただいたが、そのなかに、『和解』という言葉が使われていた。ちょっとわたしは違和感をもったが、それは、上記の3点のようなことと理解させていただこう。


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 今日の記事では、

『ほらね。だから、問題解決学習なんて、一部のベテラン教員しかできないのだよ。』

という声が聞こえてきそうです。


 そこで、それに対しては、まず一つ。

 なおみさんがいいコメントを入れてくださっています。リンク先のコメント39番です。

 しかし、現在という時代は、なかなか待ってくれないようですね。

 そこで、申し上げますが、初任者だって、素朴ではあっても、いい実践をやっていますよ。学級経営を通し、思いやりのあるやさしい子どもたちの集団をつくることができれば、初任者としては、十分ではないでしょうか。

 この授業は、何回、リンクさせていただいたことでしょう。しかし、初めて読まれる方もいらっしゃると思いますから、また、リンクさせてください。

   育つ初任者(9) パワフル算数!


 最後に、亀@渋研Xさんにお詫び申し上げます。

 よりくわしいコメントをくださいましたね。

 『異論があれば言い立てる子どもになるというように受け止められたのかなと危惧しています。』とありました。

 そうであるような。ないような。

 このあたり、むずかしいですね。

 異論があれば、言い立てなければなりません。しかし、意地を張って言い張るのはね。

 『虚心坦懐に、議論する。』ごめんなさい。分かったような、分からないような。

 そうか。お詫びというのは、新しいコメントをいただいているのに、以前のコメントを引用させていただいていることでした。失礼はないと思うのですが、ちょっと自信がありません。すみません。

rve83253 at 14:57│Comments(6)TrackBack(0)問題解決学習 | 保護者

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この記事へのコメント

1. Posted by なおみ   2008年08月22日 15:11
toshi先生へ
記事と関係のないコメントなのですが、toshi先生のブログは最初の設定で一度に表示できる記事の量を多くしているため、だんだん画面を開くのにかかる時間が遅くなってはいないでしょうか?
私も以前その点で、知人にアドバイスしていただき、設定を変えると動きがよくなりました。
ご心配をおかけしていた私のブログのコメント欄は、今は元通り使えるようです。
2. Posted by なおみ   2008年08月22日 17:53
今回の記事、とてもわかりやすく考えさせられました。どこもその通り!という思いで読みました。
ただ、<・自分は、一つのことにこだわりたいのだが、友達から意味がないと指摘され、その趣旨は理解できるので、『もういい。』と、自説にこだわらない姿勢を見せる
・自分の信じるところに向かって主張するのはいいが、相手の主張にも耳を傾け、客観的に妥当性が高いのはどっちか、常に、その吟味を行う姿勢をもつ
・集団のなかで、常に自分の役割は何かを認識しようとしているとか、そういう『よりよく生きようとする資質』が望まれるわけである。>という部分は、賛成意見とともに、別の思いも抱きました。
これは時間に限られた枠がなく、子どものより長期にわたる成長を支える家庭での教育内容かもしれないのですが…私はわが子に次のような姿勢を求めるのです。
・『もういい。』と、自説にこだわらないさっぱりした姿勢も大事だけれど、簡単に周囲の意見に丸められず自分が納得がいかないならとことんまで考え抜いてみる大切さ。(安易に妥協しない)
・客観的に妥当性が高いのはどっちか、その吟味を行う姿勢と同時に、客観的に相手が正しく思えても何だかもやもやする時にはそうした自分の気持ちを大事にすること。(自分の直感を無視しない)
・集団のなかで、常に自分の役割は何かを認識しようとすると同時に、たとえ集団を乱すことになっても発言すべきときは勇気を持って発言すること。
(自分に正直であることや勇気の大切さ)
それから亀@渋研Xさんがおっしゃっていた「でこぼこがあること」に違和感を抱かない態度です。これは生きる上で大事な資質と感じています。↑のURLの記事でもう少しくわしく書いています。
3. Posted by なおみ   2008年08月22日 17:55
私は議論をするうち多少言い過ぎてしまったり、互いの醜い部分が出てしまったところで、個性のある人と人が真剣に自分をぶつけていれば当然そうなる時もあるし、そうでない理想的な状態を求めすぎると結局、本音が出ない気もしています。(しかし、理想を提示しないことも、議論をなりたたせない原因となりますが)
亀@渋研Xさんの<「親が絶対」「先達が絶対」だったりせずに「みんなでちゃんと考える」というのは、予定調和や一元的な「正しさ」からけっこう遠いところにあるんだ、それを手探りして行くというのは結構大変なんだ……>という言葉は、子どもに常識でいう正しいことを認識させると同時に、「最も大切なこと」として伝えたい生きる姿勢でもあるからです。
<よりよく生きる資質>というのは、このように矛盾に満ちたもので、片方だけを意識すると価値を損なうように感じています。そうした両極とも言える2つの態度を養うことは↑のURLの記事に書いた
「知識を使うための知識」を与えることとなると思っています。
4. Posted by toshi   2008年08月23日 14:28
なおみさん
 さっそく、一度に表示できる記事の量をへらしてみました。
 いかがでしょうか。早くなりましたでしょうか。ご指摘、ありがとうございました。
 
 コメント2でのご指摘の件、わたしも異存はありません。どうも、文章の表記のみでは、細かなニュアンスは伝わりにくいなと感じます。簡単に妥協するのも問題ですし、かといってかたくなに言い張るのもよくないですし、ここはやはり、Aちゃん、Bちゃんの言動を通してしか、言いえない点でしょうね。
 それと、問題解決学習を標榜するわたしとしては、まずは一人ひとりの子どもへのあるがままを認め、そこから抱く、期待、願いであることも申し添えます。
 ですから、基本的に、《理想的な状態を求めすぎる》ということはありません。本音はあくまで大切にしますよ。
 《<よりよく生きる資質>というのは、このように矛盾に満ちたもので、片方だけを意識すると価値を損なうように感じています。》
 このこともよく承知しているつもりです。わたしが示した<よりよく生きる資質>も、矛盾を意識していると思いますし、そうなっていると思うのですけどね。
5. Posted by なおみ   2008年08月23日 17:10
toshi 先生へ
↑のコメントはtoshi 先生に対して、とても失礼なコメントになってしまいました。すいません。うまく書けなかったのですが、toshi先生やYKさんや亀@渋研Xさんやtotoroさんやとびうおさんやドラゴンさんのコメントを読んで、それぞれひとりひとりが議論の仕方は違うけれど、それぞれにとても価値があると感じたことから書かせていただいたのです。また亀@渋研Xさんが言葉に表しにくい内容をうまく表現されているのを見て、問題解決学習の中で、私も基本としては相手への思いやりを大切とする気持ちを持ってはいるけれど、「お互い欠点のある人間同士の会話」「でこぼこがない方がおかしい」ことを忘れてはならないとも感じたのです。そうした自然に振舞える場では、行き過ぎれば自分で修正するので、対話する能力が向上する気持ちもしたのです。私は思春期の子と口論になることがあるのですが、屁理屈も含めて十分話をさせていると、教えなくてもいったん言葉にすることで、次からより相手の立場も考えた話し方をするようになります。ですが、私が「議論とはこういうものですよ」と教えてしまって最初から失敗のないように抑えてしまうと失敗がないので、修正までは至りません。ですから荒れてしまった議論も、十分な学びの要素があると思うのです。何だかこじつけのような意見になってしまったかもしれませんが、今まだうまく言葉にできないので許してください。
6. Posted by toshi   2008年08月25日 07:05
なおみさん
 いいえ。わたしの方こそ、ちょっとむきになってしまったかな。申し訳ありませんでした。
 お互いに分かってはいるのですよね。
《「お互い欠点のある人間同士の会話」「でこぼこがない方がおかしい。」》
 わたしもそれはよく理解しているつもりです。
 なおみさんのコメントの後半部は、まさに、問題解決学習の真髄を言い当てていると思いました。『自分自ら』が大事だということですね。言われて修正するのではなく、自らの意思でやるところに、そしてそれをねらうところに、まさに、真髄があるのだと思いました。

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