2008年08月28日

過度の集団志向3

5469f21d.jpg 今日の記事は、前記事の続き。日本の学校教育の集団志向について考える。


 しかし、初めはとんでもなく関係ないところから、論を進めさせていただきたい。すみません。

 

 わたしは、『学校教育ってすごい力をもっているのだな。』と、強く思ったことがある。

 それは、こういうことだ。


 江戸時代まで、日本人の歩き方は、右足、右手が同時に前へ出る歩き方だった。当然、左足のときは、左手が出る。これを、『なんば歩き』と言うらしい。

 それを初めて聞いたときは、『何と歩きにくい歩き方をしていたものか。』と思った。しかし、あるとき、ふと気づいた。勧進帳の、あの最後の場面、弁慶のとび六法だ。あれは確かに、そのような所作をしている。手足というよりも、体全体が左右にふれる。
 
 ためしにやってみた。体全体を左右に振ると、確かに、なんば歩きは理にかなった歩き方。そのような感じがした。


 さあ。それでは、いつから現代のような歩き方になったか。

 それは明治になってからである。文明開化。富国強兵。西洋式の導入のなかで、明治政府は、国民の歩行の改革を図った。

 その手段として学校が利用された。

 これはすごいことだ。だって、指導する側だって、そのような歩き方はしたことがないはず。今のわたしが、なんば歩きをすると、ぎごちなくなるのと同じように、抵抗感がかなりあったに違いない。教える方も、教わる方も、必死だったことだろう。

 全国一斉にそれをやってしまう日本。そして、それを可能にしたのが学校教育というわけだ。(もう一つ、青年に対しては、軍隊も力となっただろう。)

 
 こう言うと、読者の皆さんのなかには、

 それは、明治政府が強権を発動したからだろう。国民はやむを得ず、それに従わされたのではないか。

 そう思う方もいらっしゃるだろう。

 そう。それは大筋間違いない。今の民主日本とは違うものね。

 でも、当時だって税のことでは一揆が相次いだ日本だ。おそらく、西洋文明にあこがれる気持ちが背景にあったのではないかと想像する。



 さあ。それでは、話を本筋に戻す。


 そのまえに、前回、わたしの記憶のままに書いた、あるアメリカの方の弁論だが、その後、同氏の弁論のHPを見つけたので、まずは、それにリンクさせていただこう。

    第49回 外国人による日本語弁論大会

 このなかの、どなたであるかは、歯ブラシを当てている写真が掲載されているから、すぐお分かりいただけると思う。ジョナサン マイケルズ氏とおっしゃる。


 同氏は、日本の歯磨き教育に、驚きの念をもたれた。『1・2・3・4・1・2・3・4』と声をそろえて一斉に磨くという姿に、驚嘆した。


 ところで、今は民主主義の日本だから、全国一斉にこのようにやるという姿はない。それは確かだ。

 保健指導のなかで、やるべきことではあるから、ほとんどの学校がやっていると思うが、その指導の仕方に濃淡はあるだろう。それはそれでかまわないし、また、そうあるべきだろう。



 しかし、歯磨き指導をはなれ、同氏が指摘する、『集団志向の日本』と言われた場合はどうか。同氏は、『(日本では、国民の)集団志向が、学校で育ち始めるのだと思いました。』とおっしゃっている。



 ここで、再度、過去記事の『やり直し』についてにリンクさせていただこう。


 今は確かに、歩行を一律に改めた、明治政府のような、そんな強権の政府は存在しない。

 しかし、この、学校における『やり直し』の習慣というのは、・・・、どうだろう。今も、国民の意識として、・・・、そう。あえて教員とは言わなかった。

 国民の意識として、厳然とあるのではないか。やっている教員はもちろんだが、それを見ている国民も、ほとんど違和感を抱かないのではないかと思われる。

 なぜか。子どものときからそうされてきたから。空気みたいなものだから。骨身にしみ付いているから。


 わたしは、あるとき、テレビで、有名なプロ野球選手が、子ども相手に野球教室で指導している場面を見た。最初の挨拶で、
「おはようございます。」
「(かすかな声で)おはようございます。」
「元気がないね。もう一度、やり直し。・・・(声を張り上げて、)おはようございます。」
「(さらに大声で)おはようございまあす。」

 それを見て、『ああ。やっぱり、これはもう、日本人の心にしみ付いているのだ。』そう感じざるを得なかった。


 このくらいのことなら、たわいもない。しかし、先ほどのリンク記事の、『やり直し』の大漁旗を持った子どものような場合は、悲惨だね。

 だって、あの旗は大きかったもの。子どもによっては持つだけだって大変そうだったもの。それを持って走るのだ。
 しかも、旗を持っている子はちゃんとやっている。ぼんやりしていたのはその他の子たちだ。それなのに、実質やり直しをしなければならないのは、旗を持つ子というわけだ。

 連帯責任きわまれり。


 くどいようだが、もう一度言わせてもらう。

 わたしはこの教員を批判しているわけではない。日本人全体の深層心理として、みんながこうした心をもっているのではないか。そう、思うからだ。



 これは、わたしの想像だが、もしかしたら、江戸時代の五人組のときから持続しっぱなしの心理なのかもしれない。それを学校教育は見事に引き継ぎ、いまだに持続している。そういうことなのかもしれない。


 今、明治政府のような強権政府はない。しかし、我々国民みんなの心理が、見事その役割を果たしてしまっていると言えないか。



 外国人による日本語弁論大会における、アメリカのジョナサン マイケルズ氏の話は、そういう話ではなかった。

 おだやかに、『集団志向の日本、個人志向のアメリカだが、お互いのよいところを学び合うことが大切ではないか。』とおっしゃった。

 わたしも、基本的には、同氏のこの主張に賛成である。同氏が、日本の集団志向の例としてあげた修学旅行にしても、同じメニューの給食にしても、それから、わたしが思う遠足、運動会、卒業アルバムにしても、それのみをとり上げれば、日本のいい習慣だと思う。基本的には、守り育てていきたい。


 しかし、行き過ぎた集団志向、それは、同氏が例に挙げた、号令つきの歯磨き指導、わたしが例に挙げた、運動会の練習におけるやり直し、こういったものは、何とかわたしたち教員の自覚と、国民の皆さんの後押しで、改善していきたいものだと思う。

 冒頭述べたように、学校はすごい力をもっている。国民みんなを一斉に変えてしまうくらいの力を持っている。それなら、現代という時代においては、わたしたち一人ひとりの自覚と実行力でがんばりたいものだ。



 ラグビーの言葉だったっけ。『一人はみんなのために、みんなは一人のために』

 いい言葉だと思う。同氏のおっしゃる、両国の学び合いのあとにくる、調和のとれた姿を感じる。少なくとも、『一人がダメなら、みんなダメ。』とならないようにしたいものだ。

 
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 わたしが、過度の集団志向に問題を感じるのは、それが、いじめとか、KYの雰囲気とか、その温床になっていやしないかと恐れるからです。

 たとえ、集団に指導しているときであっても、一人ひとりの子どもへの細やかな気配りは、したいものだと思います。

rve83253 at 15:31│Comments(10)TrackBack(0)教育観 | 教育風土

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この記事へのコメント

1. Posted by なおみ   2008年08月28日 17:45
行き過ぎた集団志向は確かに心配です。
以前私のブログで「 日本の教育は 独創的な子 探究心のある子を無視してる?? 」という上のURLの記事を書いたことがあるのですが、独創的な子 探究心のある子が伸び悩む理由のひとつが過度の集団志向にあるように思います。
ただ、毎年、うちのダンナさんが校庭キャンプの手伝いをしている様子を見ていると、集団の中で学ぶものの多さや大切さを、強く感じてもいます。
当たり前とせずに、いつも問い直しながら改善していく気持ちが大事なのかな…とも思っています。
2. Posted by こたろ   2008年08月28日 17:54
初任研で、中学校出身の体育の指導主事が、「体育で集合したときに全体的に聞く姿勢がとれていなければ、できていない子を一人厳しく注意すればいい。時には全体の前で指導することも必要。」という内容のことを口にしていました。
「見せしめ」の発想ですね。
個のために集団を生かせばいいのに、集団のために個を犠牲にする…。
こういう指導主事がいるから、中学校の教員は… と言われてしまうんだと思いました。

…2学期が始まるなぁ。
3. Posted by toshi   2008年08月29日 07:40
なおみさん
《独創的な子 探究心のある子が伸び悩む理由のひとつが過度の集団志向にあるように思います。》
 これは確かに言えるでしょうね。伸び悩むくらいではすまないかもしれませんね。
・そういう子が、独創心、探究心を悪ととらえてしまうこともあるのではないでしょうか。発揮する場もないし、常に逆のことばかり求められるわけですからね。
・また、反発する気持ちにつながることもあろうかと思います。教員から見た場合の問題行動の多い子にされてしまう可能性あるように思います。
 こういうケースは、今もあんがいあるのではないかと危惧しています。
4. Posted by toshi   2008年08月29日 08:00
こたろさん
《体育の指導主事が、「体育で集合したときに全体的に聞く姿勢がとれていなければ、できていない子を一人厳しく注意すればいい。時には全体の前で指導することも必要。」》
 驚きました。指導主事がそう言うのであれば、これはもう、問題の根は深いですね。反抗心をつちかう指導といえるのではないでしょうか。
 わたしなら、そういう状況でもちゃんと聞いている子を探し、ほめるようにします。『やり直しについて』の記事中に書いた『信号を守る』論理を使ってほめますね。個を大事にすることによって、集団をきたえていきます。 
5. Posted by みっきーまま   2008年08月29日 14:45
コメントありがとうございました。自分のブログの方にお礼を書いてしまい、すみません。改めて、こちらに書かせていただきました。toshiさんのおかげで、私の今後するべきことが見えてきた気がしています。思い切ってコメントさせていただいて、よかったです。未熟者ですが今後ともよろしくお願いいたします。ありがとうございました!!
6. Posted by toshi   2008年09月01日 15:55
みっきーままさん
 わざわざすみません。
  みっきーままさんのすばらしい取組に敬服しています。
 みっきーママさんのブログのURLを貼り付けさせていただきますね。
http://blogari.zaq.ne.jp/ehonmt/
7. Posted by フミコ   2009年06月05日 02:19
<<《体育の指導主事が、「体育で集合したときに全体的に聞く姿勢がとれていなければ、できていない子を一人厳しく注意すればいい。時には全体の前で指導することも必要。」》
 驚きました。指導主事がそう言うのであれば、これはもう、問題の根は深いですね。反抗心をつちかう指導といえるのではないでしょうか。>>

小学校でこのようなことがあると知った場合、親は子どもに対してどのように対応したら良いのでしょうか?
中学年の子どもにはまだ、反抗心という感覚はなく、先生を信頼しています。
8. Posted by toshi   2009年06月05日 06:08
フミコさん
《中学年の子どもにはまだ、反抗心という感覚はなく、先生を信頼しています。》
 中学年の子どもでも、先生を信頼できず、反抗しているケースは、いくらも見てきました。したがって、フミコさんが、このようにおっしゃることができるということは、お子さんの学校は、まずまず成果を上げているのかなと思いました。
 問題は、指導主事云々が、恒常化しているかどうかでしょう。もし、恒常化しているのであれば、保護者同士連携し、学校に対してものを言えるようだといいなと思います。そして、お子さんに対しては、親の思いを率直に語っていいと思いますよ。
 関連すると思いますが、かつて過去記事に書いたことがあります。『学校、担任批判を子どもの前ですることは、〜。』です。
 本コメントのHN欄に貼り付けましたので、ごらんいただければ幸いです。

 
9. Posted by フミコ   2009年06月05日 07:11
toshi先生

ありがとうございます。

ご紹介のあった記事に書かれていた

<<結論としては、親の思い、考えはできるだけ言わない方がいい。子どもが自分で出す結論を信頼した方がいい。

 要は我が子にとって、わが子の幸せにとって、何が大切かということ。そして、あくまで決めるのは我が子であるということ。>>

このことを肝に銘じて、しばらく見守りたいと思います。
10. Posted by toshi   2009年06月06日 03:06
フミコさん
 過去記事をごらんいただき、ありがとうございました。やはり、お母さんとしては、問題を感じていらしたようですね。お役に立てたなら、うれしく思います。

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