2008年09月27日

入試による選抜システムは?4

6001e6bd.JPG 先の『PISA調査と中学受験問題と』なる記事では、多くの読者の皆さんに、『へえ。toshiは受験反対なのか。』と受け取られたかもしれない。

 しかし、これは半分当たっていて、半分は当たっていないのである。


 わたしの真意は、今の日本の受験による選抜システムに反対なのであって、どういうシステムがいいかと言えば、

 たとえば、『フランスのバカロレア資格』(リンク記事の中ほどで簡単にふれています。)のように、ある一定の資格試験にパスすれば、どの大学でも入れるという、そして、入学は簡単だが、卒業はきびしいという、そういうシステムにすべきだと思うのであって、


 現状、入試による選抜となってしまっている日本の状況下で、一人ひとりの保護者の方が、お子さんの受験を選択されることになったとしても、それについて、とやかく言う気はないのである。

 だって、個々のケースをとり上げれば、小学校での学級・学校生活、地域の公立中学校の状況、私立中学校の教育方針など、さまざまな要因があるものね。

 また、高校入学、大学入学においては、例外こそあるものの、受験を避けて通ることは、ほとんど不可能だものね。

 

 でも、20代のころは、未熟だった。保護者や子どもに対し、『受験反対』を言っていた。そのあたりの述懐は過去記事にあるので、よろしければご覧いただきたい。懺悔の気持ちである。

   教員生活35年 20代のころのわたしを、反省の思いで書いています。


 ついでに、あと2つほど。

   初任時代の思い出 わたしの初任校は、『受験教育推進校』と言っていいような学校でした。公立小学校が受験教育をやるとどうなるか、ぜひお読みください。40年近くむかしのことではありますが・・・、

   心の教育(2) こんな指導ができるようになったのは、40代が近づいたころ。
 学級がまとまって、子ども同士の人間関係がよくなれば、受験する子は減るという、ある意味、示唆に富んだ話ではないかと思います。




 さて、いよいよ、本日の記事となるが、

 先日の『PISA調査と中学受験問題と』の記事において、なおみさん、フルタさん、柴田さんから、たくさんのコメントをいただいたので、本記事ではそれらを受けたかたちで、記事にさせていただきたい。前号の補足記事となるであろう。




 まず、ニワトリが先かタマゴが先かというような話になってしまうのだが、


 なおみさんは、『現在の公教育には、いろいろな問題がある。子どもを育む環境としては、よくない部分が多い。人間性豊かな子どもを育もうとすれば、私学の方がいい。』とおっしゃっていると思う。

 これは、なおみさんの地域においては、まさしくそうなのであろう。以前から、公教育の問題的な状況について具体的にコメントをくださっているので、よそ者のわたしとしても納得せざるを得ない。


 しかし、これは、現在の日本の受験システムが、こういう現実をつくり出してしまったとも言えるのではないか。つまり、二極分化をもたらしてしまった。それが顕著に現れてしまったのが、なおみさんの地域の実態ではないのか。そういう言い方も成り立つと思う。

 だって、せっかく学習指導要領で、『人間として調和のとれた育成』とか、『児童、生徒に生きる力を育むことを目指し,創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で,自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに,基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り,個性を生かす教育の充実に努めなければならない。』と言っても、

 現実の受験圧力が強いなかでは、学校教育が学習指導要領の理念から離れざるを得ず、そうした現実に適応する者と適応できない者との二極分化を招いてしまったのではないか。

 そうだとすると、なおみさんのおっしゃるような状況が生まれ、それがさらに二極分化を促進する。

 


 そこで、なおみさんの根源的な問いかけである、

 PISA報告の、『世界各国の教育事情を勘案すると、学校差があるより、一つの学校に多様な学力の子どもがいたほうが、国家的レベルにおいては、子どもの学力は向上する。』というのは、文化の違いがある日本でも同様なのでしょうか。

という問題にふれてみたい。



 結論としては、『これは同様である。』と申し上げたい。

 過去記事へのリンクが重なり申し訳ないが、ご覧いただければ幸いである。


 まず、こちらの方はあっさりとしか書いてないが、PISA調査がねらうもの(2) この記事の◎の3番目がそれにかかわる記述となる。

 また、多様な学力の子が一緒にいた方が、全体としての学力は向上するという意味では、『習熟度別授業』は決して学力の保障にはならないということと一緒だと思うが、これについても、過去記事で述べている。

 こちらは、多様な子どもが一緒にいたほうがいい理由まで、かなり詳細に述べている。

    日本のよさを生かそう。(習熟度別学習をめぐって)

 また、『多様な学力の子が一緒に学ぶことは、学力の高い子にとってもメリットがある。』ということについては、

    小学校における習熟度別は?で述べている。

 もう一つ、これは初任者向けの記事だが、

    どのレベルに合わせるか。も、参考になるだろう。

 また、『算数こそ、習熟度別の方がいい。』という考え方もあると思うので、『いや。算数も多様な学力の子がいた方がいい。』という意味をこめて、

     いじめ防止と算数の授業(2)

を紹介させていただきたい。

 以上、多様な能力の子が一緒に学ぶ方がいい理由を、るる述べてきた。

 
 この項の最後に、OECDがどう言っているかを示そう。

 シュライシャー氏の講演だが、(リンク先の16ページから)

 学校差、習熟度別など、早期から子どもを分化、選別するシステムのある国の結果をPISA調査で分析してみると、表面的には、子どもの能力によって分けているようにみえるが、実質は、家庭環境、貧富の差など、社会的要因によって、分けられてしまっていることが分かる。それによって、国家レベルでみたとき、成果は上がっていない。

 分化、選別のシステムが特になく、多様な能力差に対応すべく教員が努力している国の結果を同調査で分析してみると、大きな成果を上げていることが分かる。

 要約すると、そういうことを言っているのだと思う。


 なお、同調査では、日本は特にどちらのグループというようには位置づけられていない。特殊な要因があって分類できないようだ。 

 

 ご承知のように、日本は近年、さまざまな分野で、二極分化が言われる。格差と言ってもいい。

 そのような日本で、受験による選別システムを今後も温存したら、なおみさんのおっしゃるような状況は、ますます深刻度をましてしまうのだと思う。




 次に、

 なおみさんは、以下のようなこともおっしゃる。

 『受験がなくなることには複雑な思いがあります。子どもをめぐる環境は、ネットやショッピング、遊戯施設とさまざまな誘惑に満ちています。私はわが子の二人とも、受験というひとつの真剣に自分に向き合う時期がなければ、日本で暮らしている限り「我慢すること」「誘惑に負けないこと」「失敗を恐れないこと」といった精神的なことを学ばせる機会はほとんどなかった気がします。情報のあふれかえった世界で、地に足がついたリアルな経験と言えば、受験くらいだったからです。

 ただもし新しい教育制度ができて、卒業に向けて真剣に学校生活を送ることの方が、受験よりずっと精神的なものを得れるのかもしれないとは思うのです。

 周囲の意識に自分を合わさなくてはならない…と感じる日本の子がさまざまな学力の子といっしょに過した時、どうするのかな?という心配も感じています。』


 繰り返しになるが、

 受験システムがあるから、二極分化が進んでしまう。なおみさんのおっしゃる『誘惑に負ける』姿も出てくる。

 受験システムがなくなり、真に子どもの内発的動機付けによる学習態度を養うことができれば、こんな安易な誘惑に子どもが負けるわけはない。

 子どもは、どの子も、自ら伸びようとする思いをもっているのだ。


 そう言えば、OECDのシュライシャー氏も言っている。(リンク先の15ページ右側)。2000年時点のことなのだが、

 「フィンランドも、日本も、子どもをやる気にさせることに成功しています。しかし、その内実は異なります。フィンランドは、教員の努力による内発的動機付けで成功しているのに対し、日本は受験という外発的動機付けによって成功しているのです。」

 2000年時点では、そのように日本は評価されている。

 とすると、例の、『日本の子どもの学ぶ意欲は世界で最も低い。』についてだが、これは近年急激に進行していると言えるのではないか。それは、まさしく、二極分化が急激に進んでいる結果とも言えよう。もはや、『受験』は、動機付けにつながらなくなったのである。


 なおみさんは、教育現場における画一化にもふれていらっしゃる。これも、『鶏と卵論』になってしまうが、

 この点で言えば、受験システムは、まさに、学習内容の画一化を招く教育でもある。だって合格一直線だものね。全国各地で学習内容が多様であったら、受験には不具合だ。

 これについても、過去記事でくわしくふれた。

    教育再生会議の提言に思う。(4) 教育の地方分権を このなかの、『3.について』と『4.について』が、それだ。



 よく学習指導要領の存在が画一化の元凶のように言われるが、それは諸外国とくらべればそういう面は確かにあるが、しかし、学習指導要領では、学校の特色ある教育活動を保障してくれているし、個性の尊重もうたっている。

 現に総合的な学習の時間の学習内容は、まったく学校の創意工夫にゆだねられている。

 わたしは、やはり画一化の元凶は受験システムだと思う。受験システムがある以上、国民もそれを求めるしね。



 次、なおみさんも、フルタさんもおっしゃっているが、

 『(我が子の)中学受験時、受験勉強の考える問題は、「小学校の勉強よりもおもしろい。」と、(親であるわたしが)楽しんでいました。』

 『(中学受験)問題を見ていくうちに、それまで勉強にやる気のなかった息子が眼を輝かせて、「問題がものすごく面白い。こんな問題を考え出す先生たちのいるような学校に行きたい!」と言い出し、〜。』
と書かれている。

 これは、前記事に書かせてもらった通りだ。


 わたしだって、同じ。

 よく電車の広告のなかに、進学塾のものだと思うが、中学受験問題がある。わたしは、暇つぶしにあれを解くのが好きである。感心してしまうくらいよくできた問題もある。

 
 わたしが解釈するに、この楽しさは、思考力をフルに発揮できること、実生活に役立つ学力を問うていること、問題解決能力をみる問題であることなどによるのではないか。

 そして、両氏は、学校では味わえない興奮ということもおっしゃる。


 ああ。なさけない。ほんとうはね。ああいう問題を解く楽しさが、また、ああいう問題を作る楽しさが、公教育にこそなければいけないのだよね。

 いや。さらに申せば、学校の授業こそ、そのようなものでありたいものだ。


 もう一つ。フルタさんから、

 『(我が子が)受験したということで、(しなかった子から)興味の的にならないかと、中学入学後しばらく心配しましたが、各クラスに同様の子が3人ずつくらいおり、また、同じ小学校の友達は変わりなく接してくれたので、不要な心配をしたことを私は恥じました。』

とあるが、これは、それこそ、学級経営がよかったからで、そういう心配が当たってしまうこともめずらしくない。

 また、わたしの上記リンク記事のように、保護者がトラウマにかかってしまう例もある。



 ただ、柴田さんには一言。そして、お願いもあります。

 大学の教授でいらっしゃるのだから、いいですよね。


 私は、「受験」は、オリンピックとは違うと思う。

・子どもが好むと好まざるとにかかわらず巻き込まれてしまうこと。特に、高校、大学受験においては、現状では、大部分の子どもがそうなってしまう。

・柴田さんは否定されているようだからいいのだけれど、一般的には、受験の成否が人生を決定するかのように思われてしまっている。

・これは記事にも書いたように、本来の学校教育がゆがめられ、受験教育にのめりこまなくてはならなくなっていること。特に高校がそうなっているようで、未履修問題や合格者水増し問題など、深刻な事態も近年ありましたよね。

・『すぐれた能力の人がそれなりに評価されなければ、』というのは分かるが、それは評価されているはず。特に子どもの場合は、日々されている。何も受験がなければ評価されないということはない。それに、子どもの場合、評価は、自己肯定感を育むことに貢献させるべきで、受験はそれになじまない。

(この項については、次の文を付け足させてください。28日午前7時)
 なお、柴田さんのおっしゃる『評価』を、わたしの持論に置き換えさせていただければ、評価の場を、入学段階でなく、卒業段階に移行させるに過ぎないから、『それなりに評価される』という意味では、何も変わらないのである。

・わたしは、受験システムは、先述のとおり、人心の荒廃を招来していると思う。特に近年それが顕著に現れているように思う。

・柴田さんは、『早く正確に解答する競争』とおっしゃる。
 『正確に』は問題がないが、『早く』はおかしい。早く解くことを、学習指導要領は要求していない。学習内容にもしていない。時間内に解ければいいのだし、大量に未答を出した場合は、出した側に問題がある。例の、『百マス計算』など、こまった風潮だ。これも、受験に毒された現象と言えよう。

・『勉強が好きな生徒は全力で勉強すればよいし、嫌いな人はそこそこ適当にやって、あとのエネルギーは自分が得意だと思うことに集中すれば良いと思います。』

 『適当に』というのは気になる。先述のように、『子どもは本来自ら伸びようとする存在』であり、わたしたち教員は、どの子も伸ばそうと努力している。ほんとうに一人ひとりの子どもに寄り添い、力をつけようと努力すれば、どの子も、学習が好きになるはずで、そうならない現状は、まさに学習が受験に毒されているからであろう。

 もちろん学力は多様であるから、大学へ行くばかりがよいとは限らない。各人が自分の得意分野で努力し、それが正当に評価される社会になってほしいとは思う。いや。それは切なる願いだ。



 最後に、

 すみません。今日は、過去記事へのリンクが多くて。さらに2つ、リンクさせてください。

 一つは、本日の記事とよく似た記事は、過去にも書いているので、それを紹介させていただこうと思う。

    いわゆる受験教育をめぐって

 もう一つ。

 本記事をお読みくださった方は、受験解消の取組と、教員の授業力アップは、セットであることを認識していただいたと思う。

 そこで、教員の努力点についても、過去に書いているので紹介させていただきたい。

    教員の資質を高めるために、


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 大学教授である柴田さんにお願いがあります。

 高校学習指導要領にあるような、ふつうの高校教育を受け(断じて入学準備教育ではありません。)、一定の基準を満たしたものはすべて合格するような、大学入学のための共通試験を実施し(もちろん、医者向け、理科系、文科系などといった分け方はかまいませんが、)、

 それに合格したら、全国どこの大学にも入学でき、しかし、卒業をきびしくするという、そういうシステムをぜひ開発してほしいと思います。

 大学の自治がありますから、靖国神社の分祀問題同様、国による改革には限界があります。

 大学がそうなれば、高校が落ち着きます。本来の教育に専念できるようになるのです。そういう世の中になれば、自動的に、中学校、小学校も落ち着くでしょう。

 そうすれば、公教育にふさわしい、充実した学習が保障できるようになるでしょう。

 

 
 今後の日本の教育の課題について、わたしの提言は、何度か記事に書かせていただきました。再掲します。




 日本は、子どもを学ぶ気持ちにさせることに、完全に失敗している。したがって、そこに焦点を定めて、改善策を検討しなければならない。

 
〇受験本位の教育システムを改善する。

〇授業改善が急務だ。
   習熟度別授業をやめ、教員の授業力アップを図るなかで、低位グループの引き上げを図る。
(この2行。改訂します。
   習熟度別授業をやめ、教員の授業力アップを図るなかで、どの子の学力も伸ばせるようにする。)

   そのために、教員を雑務から解放する。授業に専念できる体制にする。中学校の部活動は、社会教育にゆだねる。

   並行して、内発的動機付け重視、子ども主体の学習など、授業力アップのための研究研修体制を強める。あくまで現場本位、実践重視の体制ですよ。

   学校が、主体性をもって、教育活動に取り組めるようにする。

   そうした観点での査定なら、賛成する。

〇家庭教育の重要性を認識できるようにする。

   ただし、家庭に対しストレートにお説教しても、改善は望めない。あくまで、上記取組のなかで、学校への信頼を高めることを通して、家庭教育が改善されるという考えで取り組む。 

rve83253 at 23:26│Comments(9)TrackBack(0)教育制度・政策 | PISA

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この記事へのコメント

1. Posted by 柴田勝征   2008年09月28日 22:22
柴田です。
 toshiさんから初めていろいろなことをたくさん書いて頂いて、緊張しました。「ただ、柴田さんには一言。」なんてもんじゃありませんよ。/(^v^);;

>大学の教授でいらっしゃるのだから、いいですよね。

はい、いいです。(と開き直ることにしています。)これはもう、いろいろなところで何回と無く耳にたこができるほど聞かされていますし、実際、日本の教育の諸悪の根元は大学教育にあり、大学受験が高校教育をゆがめ、高校受験が中学教育をゆがめ、...というように、みんなをゆがめて苦しめているのに、大学教育だけは上からゆがめられていないなんて、ずいぶんいいですよね。そのくせたいていの大学教師は、「中学・高校でちゃんと教育をやっていないから、最近の学生は基礎知識がまったく身に付いていなくて、大学の授業が全く成り立たない。試験をしてもほとんどの学生が零点かそれに近い点数しかとれないから、全員に60点加算して合格にしておいた(60点以上は合格になるから)。」なんて嘆いているわけです。単位未収得による留年者が30%を超えると国立大学では自動的に文部科学省からの予算の配分がカットされるそうです。
2. Posted by 柴田勝征   2008年09月28日 22:41
柴田の続きです。私の勤務校のような私立大学では、大学予算は基本的に受験生・学生さんが払う受験料と授業料から成り立っていますから、「あの大学はテストが厳しくてなかなか卒業できない」という噂でも立ったら受験生が激減して、私学経営が成り立たなくなります。実際、少子化の影響で受験生は毎年どんどん減り続けており、毎年いくつかの大学が(学生が集まらないために)廃校になっています。また、山口県の下関国際大学のように、一昨年、これまで7学部だったのを4学部つぶして3学部にしたために、つぶれることになった学部の教授たちに学長から突然「本年3月いっぱいであなたは解雇されることになりました」という通知が親展でとどいてびっくり仰天した、という話を知り合いから聞きました。「危ない大学、潰れる大学」という本が出ていて、頻繁にデータが更新されていて、全国の(私立・公立)大学の学生定員充足状況から割り出して、「あと何年でつぶれるか」というような説明が、一覧表になって表示されており、経営状況の分析なども詳しく書いてあります。私学協会によると、平成20年度の大学入試の結果、全国の私立大学で定員充足率が30%未満(100人の学生を募集しているのに30人しか受験生が来ない)の大学が75%に上ったそうです。4〜5年前につぶれた山形の何とか言う大学なんか、ほとんど学生がゼロで、名前だけの中国人留学生が数十人学籍名簿に載っているけれど、全員、東京などに働きに行っていて、学内には学生が誰もいない状態が続いていたそうです。正式につぶれる前に、すでに実質的につぶれていたわけですね。それに近づいている大学も少なくないのです。だから、大学入試なんてまったく形式的なもので、実は、受けに来てくれさえすれば誰でも合格にする(合格にしないと大学がつぶれる)という私学が全国にたくさんあるのです。
3. Posted by 柴田勝征   2008年09月28日 23:42
柴田(3): 私たち教授はノルマを割り当てられて、九州各県の高校を訪問して、私たちの大学を受験するように生徒さんに資料を配ってください、というようなお願いに回っているのですが、「4年間の学費を出せない家庭が多いのです。『4年制大学ではなく専門学校に行って、早く就職して少しでも家庭にお金を入れるようになって欲しい』という親御さんが多い」そうです。私の勤務校では、家が仕送りをする余裕がないためアルバイトに精を出さざるを得ず、学業に差し支える学生も少なくありません。大学も非常に階層化されているのです。また、これも教授のノルマですが、東京などの会社を回って「うちの大学の学生を採用してください」とお願いして回ります。「就職状況がよくない」という評判が立つと受験生が激減するという大学の例がいくつもあって、我々も必死にならざるを得ません。それでも私の勤務校はまだ楽な方で、テレビで見ていたら、毎週ノルマで会社回りをさせられている大学教授の姿が紹介されていて、「この大学の先生はリクルート会社なみだなあ」とびっくりしました。

>大学教授である柴田さんにお願いがあります。

私は一介のペーペー教授ですから、全く無力です。以前、福岡に転勤するときに学部長から言われました。「あなたは何十年も大学教授をしているのに、珍しいことに学部長とか図書館長とか何々問題検討委員長とか、「長」の付く役職を今まで一つもやっていない。これでは大学に貢献したとは言えないなあ。」「長」になるには、選挙で選ばれるか、より高い役職の「長」から指名されるか、ですが、投票では誰も「柴田」とは書かないし、高い役職の長は「柴田」を指名しないのです。私は能力もないし、人望もないから仕方ありません。40年間、自分の言いたいことを遠慮無く言い、やりたいことを遠慮無くやってきましたから...。
4. Posted by 柴田勝征   2008年09月29日 00:00
柴田(4):
> それに合格したら、全国どこの大学にも入学でき、しかし、卒業をきびしくするという、そういうシステムをぜひ開発してほしいと思います。

 確かドイツで十年くらい前にそういうシステムを実施したら、特定の大学に学生があふれかえって全然教室に入りきれず、2〜3年で廃止されたと記憶しています。

 かなり長くなってしまったので、今回はこれでうち切らせていただきます。私一人でtoshiさんのサイトに「出ずっぱり」というのは申し訳ありませんでした。いろいろコメントしていただいたのですが、私としては、私の舌足らずでかなり誤解されてしまった感じがしておりますが、本当に「誤解」なのか、あるいは「正解」なのか、今後、日を改めまして、また申し開きのためにおじゃまさせていただきます。

5. Posted by なおみ   2008年09月29日 20:30
教育のことも、子どものことも、何に焦点を当てるか、どこを重要視するかによって、同じように教育や子どもの未来を真剣に思いやっていても、考え方が正反対になってしまうこともあると思います。
柴田先生は受験をオリンピックと表現されていましたが、柴田先生がご自分のホームページで書かれていることを読ませていただくとその真意がよりわりやすかったです。
子どもが学校生活を有意義に過して、豊かで温かな心をはぐくんでいけるような環境を提供することは大切です。集団の中で人と協力し合って生きていけるようにすることは教育のひとつの目的です。しかし教育の目的は、それとは別に個人の潜在能力を極みまで高めていったり、学問の世界そのものをより発展させ枠組みを広げる責任も担っていると思うのです。
6. Posted by なおみ   2008年09月29日 20:31
今の受験体制では一つ目の目的を果たしにくくなっていますし、後の目的も良い形で果たしているとは言えません。(詰め込み学習の原因ともなっていますから)かといって、受験がなくなって、大学に格差がなくなると、学ぶ事そのものを愛したり自分の全力を勉強に傾ける経験が、先送りされてしまうように思います。
私が子供達の勉強を見ていると、受験の体験は、勉強が苦手で自己肯定感が低い子にも精神的な良い影響を与えているように思われます。中学では、あまりにもバーチャルな体験が増えて、大人と子どもの境界が崩れてしまったため、子どもがリアルに自分を実感できず、立場がわからず、先生に暴力をふるったり、好き勝手に遊ぶ事を自分の人生だから良いと考えていたりします。が、受験のようにやむをえずリアルな体験をすると、真面目に取り組むことで自信を取り戻したり、先生との関係が良いものになったりします。それは社会との関係にもつながります。私の地域では中3生になると荒れがおさまります。
子どもの自己肯定感は豊か過ぎて何でもできるため、嫌な事を避け、面倒な事を恐怖する気持ちからもさがります。思春期の子の場合、大人が自分を褒めてくれたかどうかより、そちらが大きいように見えます。といって今のように塾に頼り切って、子どもが自由な時間やゆとりを失って受験に追われるのは大きな問題ですね。
7. Posted by なおみ   2008年09月29日 20:57
私がtoshi先生と柴田先生のどちらの意見に賛同しているのか、わかりずらいあいまいな意見になってしまいました。ただ、どちらのご意見も、これまでおふたりが書かれたものをよりくわしく読ませていただくと、
知識偏重の教育は良くないと考えておられるところ、学校での成績がその人の価値を決めるのではないと考えておられるところ、子どもがバーチャルではなく実際触れ、体験することから、自分で問題を発見し思考する事を大切だと捉えておられるところ、子どもにも誰に対しても尊重する姿勢を持っておられるところ、まず現実にできる小さな成功から理想を実現していくとよいと考えておられるところなど、その本質はとても近いもののように思われました。私自身は受験については、慎重に一歩ずつ、よりよい形に進歩していけばいいなと思っています。
8. Posted by toshi   2008年09月30日 00:01
柴田勝征さん
 うわあ。こんなにもたくさんのコメントをいただき、ありがとうございました。
 大学入試改革がテーマの記事でしたから、ついあまえて、ぶしつけ、かつ単刀直入の質問となり、まことに申し訳ありませんでした。
 それにもかかわらず、ていねいなコメントを賜り、厚くお礼申し上げます。

《これはもう、いろいろなところで何回と無く耳にたこができるほど聞かされています。》
 そうでしたか。意外でした。ブログでもマスコミなどでも、このような入試廃止論などは、読んだこともなく、このような主張はわたしくらいのものかと思っておりました。
 柴田さんには申し訳ありませんが、ちょっと意を強くしました。

 大学の現状もよく理解することができました。しかし、入試廃止のあかつきには、こうした内部の改革も必要ですね。国民的合意も必須なようです。
 でも、もし、ご賛同いただけるなら、ぜひ、内部から主張していただければと思います。
 点数底上げも、外部からみれば、やはり変ですね。こうした矛盾は、今後ますます増大するのではないでしょうか。

 少子化の影響は、大学にとって大変深刻であることもよく理解できました。

 なんか、いろいろな点で、行きづまりの感を強めているように思いました。大学がインフレ状態なのかなとも思いました。

 でも、とにかく、記事にも書きましたように、時代はどんどん変わります。しかし、システムはむかしのまま、変えても小手先のことだけというのでは、矛盾はますます大きくなり、国家存亡の危機などということにもなりかねませんね。

 なお、考えてみます。

 ありがとうございました。 
9. Posted by toshi   2008年09月30日 00:13
なおみさん
 
 ううん。正直のところ、ちょっとコメントするのにこまりました。やはり、足場が違うと言うことなのでしょうか。
 同じ教育観をもっていても(そう申し上げていいでしょうか。)、違う結論になる原因は、それしかないように思いました。
 記事にも書きましたが、経済、雇用など、いろいろな面での二極化が進行している現在、受験システムの温存は、この二極化をますます進行させてしまうように思います。
 また、小学校ではかなり行われていると思う問題解決学習も、中学、高校で行い得ないのは、やはり受験があるからだと思うのです。
 とりあえず、このくらいにしておきます。別に反論というわけではありません。目指すところは一緒だと思っていますので。
 

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