2008年10月01日

toshiの家庭学習(宿題)論(1)4

91936b12.JPG ある読者の方から、メールをいただいた。

「〜。なんとなく、toshi先生は、宿題なんて重要でない話題のように思われているように感じていたため、今まで尋ねることができなかったのですが、学校の宿題についてどう、お考えになりますか?」

 『重要でない話題のように思われているように感じていた。』
と書かれ、『うわあ。見抜かれていたか。』とばかりおかしくなったが、やはりこれは、保護者の皆さんにとっては最大の関心事と思い、記事にさせていただくことにした。


 このメールをくださった方は、ご自分のお子さんの宿題事情も書かれていたが、それは、次回以降に譲らせていただこう。



 さて、

 『わたしは、宿題をださなかった。』と言ったらうそになる。それはやはり、だいたいは出してきたのである。

 でも、できるだけ出したくはなかった。だって、宿題というと、なんか、強制のような、ノルマのような、そんなイメージが払拭できないものね。

 学習とは、子どもが自主的、主体的にやるものだ。それでこそ、血となり肉となる。


 では、そのように思うわたしが、どのような宿題を出していたか。

 申し訳ないが、それについても、次回以降に譲る。

 すみません。




 ここでは、まずは、わたしの家庭学習(宿題)論とも言えるものを、書かせていただきたい。


 結論を先に述べてしまうと、『宿題は出さないにこしたことはない。しかし、子どもが自主的、主体的に取り組む家庭学習はおおいに推奨したい。』ということである。


 これは、わたしが常々記事にさせてもらっている問題解決学習とかかわりがある。



 わたしが20代のころ、

「今日の話は昨日の続き、今日の続きはまた明日。」

で始まり、終わる、ラジオの10分間トーク番組があったが、授業もこうありたいものだと思う。別な言葉で言えば、授業にはストーリー性をもたせたいということでもある。



 また、テレビのドラマにもたとえてみよう。


 世の中の多くの授業は、『水戸黄門型』になっているのではなかろうか。各授業は、一件落着で終わる。『そうか。なるほど。分かったよ。』という感じである。明日はまた別なテーマが学習内容となる。

 心の安定型である。気持ちは落ち着いてしまう。


 それに対して、『大河ドラマ型』ともいうべき授業がある。それが我らが標榜する授業だ。

 『ハラハラ、ドキドキ。さあ、この続きはどうなるか、次回を見たくてたまらない。』

 どうだろう。一件落着どころではない。

 『ええ。なんでえ。よし。調べてみよう。』そんな感じである。授業もそのような思いをもたせて終わらせたいものだ。

 心の飢餓状態型である。気持ちは不安定である。
 



 たとえば、

 今、わたしが担当している初任者の学級では、『わたしたちの買い物調べ』をやっている。ちょうど昨日の授業だったが、

 それぞれの家の買い物調べを発表していたら、自分たちのまちには、商店街が3つもあるのに、買い物の多くは、そこではなく、スーパーマーケットでしていることが分かった。

7月以前の街の概観単元の学習において、子どもたちは、街の商店街にある多くのお店を知っていることが分かっている。なかにはお店自慢をした子もいるくらいだ。

 それなのに、そうしたお店ではあまり買い物をしていない。


 初任者である担任は、そのことを指摘し、

「なんだ。あんなに商店街のお店をよく知っているから、わたしは、みんなはそういうお店で多くの買い物をしているのだと思っていた。それなのに、買い物調べの結果はぜんぜん違うのだね。スーパーマーケットばかりだ。」

 すると、子どもたちは、スーパーで買い物するわけをさかんに言い出した。


 そのなかに、『近いから』というのがあった。

 でも、この理由に対しては、反対する子が多かった。必ずしも近いとは限らないと言うのだ。特に、三つあったうちの一つ。そのスーパーは、自分たちの街にあるわけではない。川向こうの隣町だ。


 そこで、一人ひとりの子どもに、商店街とスーパーとどちらが近いか、挙手してもらった。そうしたら、ほとんどの子にとって、スーパーより商店街のほうが近いことが分かった。つまり、この理由は、一部の子にとってしか正解でないことが分かったのだ。


 これこそ、心の飢餓状態がつくられたことになる。『ええ。なんでえ。』とか、『やっぱりな。』とかいう心の状態をつくり出した。



 となると、正しい理由は何か。

 今日の授業では、『スーパーだと多くの買い物がスーパーだけでできるから便利だ。』『お金を払うのが一回で済む。』『遠いけれど、仕事帰りのついでに買い物ができる。』などの意見が出た。

 次回は、こうした発言をめぐって授業が展開することになるだろう。



 さあ。子どもたちは、うちへ帰ってから、いろいろ調べようとするのではないか。

 宿題などと言わなくったって、多くの子どもは、親に質問したり、スーパーへ行って調べたりするであろう。



 それによって、次の授業が展開する。深まる。



 言いたいことはこういうことだ。

 授業のあり方が、家庭学習の成否を決定する。授業が、子どもの知識欲、探究心、そういったものを刺激する。『調べずにはいられない。』という思いをもたらす。

 宿題などと言わなくても、子どもたちは、家庭学習に取り組むようになる。

 もちろん、全員がやる状態にはならないだろう。強制はしないからだ。

 しかし、わたしの経験からすれば、『大部分の子が主体的にやってくる。』状態にすることは可能だ。


 開き直るわけではないが、宿題だって、全員がやってくることはほとんどないのではないか。宿題忘れはいるものだ。

 それに、こちらは、知識欲の飢餓状態などないだろうから、忘れても平然としている。したがって、罰を加えなければならなくなることもある。


 それに対して、自らやる方は、やらなくてもそれが当然。だって、自主的、主体的な学習だものね。それに罰などということはありえない。やった子がほめられる。『授業の殊勲者だ。』などと言ってもらえる。

 それによって、やる子がまたふえる。好循環が始まる。



 高学年になると、やりたかったけれど、『塾があってやれなかった。』と悔やむ子も出てくる。

 わたしは、

「それは仕方ないだろう。時間もなかっただろうしな。

 でも、大丈夫だよ。お友達のAちゃんが、Bちゃんの調べたかったことを調べてくれている。だから、それをもとに考えれば、今日の授業も盛り上がると思うよ。」

などと言って慰めることもあった。



 こういう子どもの姿勢は、当然保護者にも伝わる。すると、次のようなことが起きる。もちろん、しょっちゅう起きるというものではないが、

〇保護者が子どもの調べ学習に協力する。
〇子どもに内緒で、担任であるわたしに資料提供をしてくれる。
〇『我が子がどのような発言をするのか。また、クラスのみんなはどのような話し合いをするのか、すごく関心があるので、授業参観ではないが、お邪魔してもいいか。』というような電話が入る。

 最後の件はもちろん了承した。保護者にとっての、『心の飢餓状態』だね。



 わたしの家庭学習論は、そのようなものだ。



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 以上のように思うわたしが、やはり宿題は出していた。

 大いなる矛盾ですね。これについては、ほんとうに、申し開きできないように思います。

 まさに、矛盾を露呈した記述になってしまうと思います。

 ああ。多くの読者の皆さんに、『次回も読みたい。』という思いを萎えさせてしまっていますね。申し訳ありません。でも、お願い。次回も読んでくださいね。

(2)へ続く。

rve83253 at 00:27│Comments(5)TrackBack(0)教育観 | 問題解決学習

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この記事へのコメント

1. Posted by なおみ   2008年10月01日 07:13
toshi先生の家庭教育論、共感します。私も子どもにそのように接しますし、子どもは心の飢餓状態ができると主体的に学ぶのも、わが子達でも生徒の姿を見ても実感しています。toshi先生が矛盾とおっしゃることは、実はバランスなのかな?とも思えます。というのも、私はずっと学校の成績などにまったく関知せず、子どもの好奇心や楽しみを支える形で関わってきましたが、うちの子たちはずいぶん大きくなってから自分から受験したがったり検定試験を受けたがって、自分の能力を超えるものにチャレンジすることをとても好むようになりました。
教室の子達にも体験や好奇心重視で関わっていますが、小学校入試や中学入試の問題をクイズのように喜んで解いたり、検定試験を受けることも楽しんでいます。そうしたことを意図しているわけではないのですが、子ども自らバランスを取る様子を興味深く感じています。
2. Posted by フルタ   2008年10月01日 22:59
『大河ドラマ型』授業の場合、子どもは自発的に調べたりするのは分かります。実は先日、うちでも小学低学年の子が、昔と今の暮らしで家の中にあるものの違いを、親たちに尋ねて調べていました。
でも、漢字などは、どうなのでしょうか?宿題にならない限り、本人も積極的に書き取りの練習はしないので、必要なのかなぁとも思うのですが。
ただ、宿題で漢字をいっぱい書いたから、その読み書きが適切に修得できているわけでもないことも知っています。私が小学3年生のとき、毎日漢字100字を書く宿題がありました。字がきれいで褒められたので書くのは苦ではありませんでしたが、文章を書くとき適切に漢字を使用できていたわけでもないし、読むとき適切に読み、意味を分かっていたわけでもなく・・・
別の高校になった友達と手紙を交換するようになった頃から、書くことに気を遣いはじめ、漢字もよく使うようになったような気がします。
3. Posted by フルタ   2008年10月01日 23:01
<<〇『我が子がどのような発言をするのか。また、クラスのみんなはどのような話し合いをするのか、すごく関心があるので、授業参観ではないが、お邪魔してもいいか。』というような電話が入る。>>
授業の後で、子どもから話を聞き、参観したかたなぁという経験は何度かあります。
子どもが親に話たくなるほど、ぐっ興味を引かれたのでしょうね。
でも、この授業の前、そう言えば、うちの子も時折、主人や私に何か尋ねながら、戦争に関する調べものをしていました。
4. Posted by toshi   2008年10月02日 02:10
なおみさん
《toshi先生が矛盾とおっしゃることは、実はバランスなのかな?とも思えます。》
 このようにおっしゃっていただいて、ありがとうございます。
 バランス。確かにそういう見方もできますが、自分の頭のなかでは、問題解決学習が子どもの自主性、自発性で成り立つ以上、どうもすっきりしないのです。
 開き直るわけではないのですが、実際矛盾と思いながらやってきたので、率直なところを本シリーズの次回に書かせていただこうと思っています。
 ただ、できるだけ、担任による強制色を薄めようとする配慮はしてきたつもりですので、その点ではバランスとも言えるかなと、なおみさんのコメントを拝見して思うようにはなりました。

 一つ。お言葉を返すようで申し訳ありませんが、公教育が真に子どもを育むものになっていれば、受験などによらなくても、子どもはいくらも挑戦意欲をもつようになるので、そして、そういう公教育にしていかなければいけないという思いをもっています。
 
 なおみさんと目指すところは一緒ですね。そして、なおみさんのように、子どもを育むという観点からすれば、受験も大切な選択肢の一つとなることもよく分かります。

 でも、さんざんわたしが記事にしてきたように、社会的に見た場合、受験には毒もあります。

 ですから、日々の取組、実践では、受験を容認しながらも、そして、おおいに応援しながらも、ブログのようなところでは、『毒』の部分も認めていただければありがたいのですが・・・、でも、これは、なおみさんの考え方ですから、無理なものは無理ですね。ごめんなさい。 
5. Posted by toshi   2008年10月02日 02:20
フルタさん
《でも、漢字などは、どうなのでしょうか?宿題にならない限り、本人も積極的に書き取りの練習はしないので、必要なのかなぁとも思うのですが。》
 はい。その通りです。そして、わたしが一番葛藤してきたのがこの部分です。宿題としてやらせながらも、できるだけ強制色を薄めるようにしてきたということなのですが、これは、本シリーズの次回、書かせていただこうと思っています。
 ごめんなさい。次回は明日の記事になりますが、明日はまったく別な記事にさせていただこうと思っています。もう少しお待ちくださいね。

 《別の高校になった友達と手紙を交換するようになった頃から、書くことに気を遣いはじめ、漢字もよく使うようになったような気がします。》
 これでいいのではないでしょうか。どうしても習いたては、漢字そのものが学習の中心ですから、覚えることに神経が行ってしまい、それ以上に気を回すことは疲れてしまいます。完全に身につけた段階で、初めて生活化すると言ったらいいでしょうか。
二兎を追うのはやはり無理がありますね。できる子もいるでしょうけれど、あせる必要はないと思いました。

 《子どもが親に話たくなるほど、ぐっ興味を引かれたのでしょうね。》
 すばらしい授業だったのだと思います。それこそ、切実性、必然性があったのではないでしょうか。こうした学習が、なおみさんのおっしゃるような子どもを育むのだと思いました。
 

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