2008年10月14日

公教育を盛り上げるには、4

cc425b61.JPG 本記事では、なおみさんの、私立中学校受験についての見解と、それに付随した問題提起に答えてみたい。それは至難のことのようにも思うが、あえて挑戦してみたい。

 そこには、根源的な、日本社会と公教育が抱えた矛盾、問題点が、具体的に表記されていると思うからだ。


 ところで、なおみさんが問題提起された内容は、多くの地域にみられることと思う。我が地域とて、決して例外ではない。しかし、よそは、こうした公教育の矛盾、問題点と、それとは逆の成果とを、合わせもっているのではないか。

 だが、なおみさんからいただくコメントには、そうした感じがないので、矛盾、問題点が明確なのである。

 だから、なおみさんの問題提起に対し真剣に答えることは、わたしが最近よく言うところの、教員の指導力アップ策の視点も明確にみえてくると思う。


 さて、

 なおみさんは、現在の受験システムがなくなることに対しては、強い危機感をいだかれている。いただいたコメントから引用させていただくと、


〇公立の一番の問題点は、生徒たちの、夢中になって読書をしたり好きな趣味に取り組んだりすることへのしらけた態度です。「前向きにがんばること」「まじめなこと」「友達同士で高め合うこと」を恥ずかしいこととして捉える雰囲気があるのです。

〇(それに対し、私立の子は、)我慢を自分に課すことができた子たちで、最低限の大人の指示に従える子ではあるので、短絡的にいじめに走ったり、気分で友達をからかったりする姿はありませんでした。

〇また、2つの私立を経験した息子は、どちらの学校でも趣味のプログラミングや音楽などをいっしょに楽しみ互いを尊重して高めあえる良い友達をたくさん得る事ができました。

〇(だから、)受験というひとつの真剣に自分に向き合う時期がなければ、日本で暮らしている限り「我慢すること」「誘惑に負けないこと」「失敗を恐れないこと」といった精神的なことを学ばせる機会はほとんどなかった気がします。情報のあふれかえった世界で、地に足がついたリアルな経験と言えば、受験くらいだったからです。

〇受験でもないと、嫌なことにはまったく手をつけないまま成長したりするのです。

となる。



 わたしは、以上のコメントを拝見して、当初は誤解していたようだ。申し訳なかったと思う。


 どういうことかと言うと、


 『そりゃあ、一部の選抜された子どもたちだもの。いいに決まっている。それを、選抜とは無縁な子どもたちが通う公教育とストレートにくらべられてもこまる。』

といったものだった。


 しかし、なおみさんの思いはそれとは違う。勝手なわたしの解釈だったようで、ごめんなさい。

〇なおみさんは、公教育を別に批判しているわけではない。が、現状に対し、あきらめの気持ちをもたれているのではないか。

〇公教育は社会の縮図。別に教員がなまけているからそうなったわけではない。したがって、公教育が種々の問題を抱えているのは、今の日本社会が続く限り、やむをえない。

〇ただそうした社会のムードに、やる気のある子どもたちまで染まってしまうのはかなわない。そのためにも受験は必要だ。

そうなるのではないか。


 だから、そうした公教育に携わるわたしのブログを読まれて、 

〇私(なおみさん)は、いつもtoshi先生のブログの中で、公立の学校なのに子どもの心に配慮した教育をしていることに驚きを感じるのです。

〇(我が地域では、)先生のまなざしが学級運営と生徒の成績にばかり向かっているのがわかるです。

ということになる。

 なお、ここでなおみさんのおっしゃる『学級運営』は、わたしたちが日常使用する、『学級経営』とは概念が異なる。それは明確だ。

 わたしが想像するに、学級を指導者の都合のいいようにまとめようとしたり、能率を上げることばかりを考え、子ども無視の経営をしたりすることを指すのではなかろうか。

 そして、これもまた、教員の資質の問題とするのではなく、公教育である限り、宿命ととらえられていらっしゃるのではなかろうか。

 だからこそ、拙ブログに驚きの念をもたれるのだと思う。わたしにとっては、きわめて当たり前の実践なのだが・・・、



 そして、受験がなくなった場合、いろいろな能力の子どもが一緒に学ぶことについて、

〇周囲の意識に自分を合わさなくてはならない…と感じる日本の子がさまざまな学力の子といっしょに過した時、どうするのかな?という心配も感じています。
 バーチャルな世界や物に囲まれて育つ子供達、本当に自分の好奇心を満たすために学ぶとなるのか疑問です。

と心配をされる。



 さて、わたしはこれまで、現在の受験システムを廃止し、貧富の差に関係なく、どの子も能力さえあれば、上の学校へ進めるシステムにすべきと、拙ブログを通し、訴えてきた。

 そのためには、どの子も通っている公教育の充実を図るしかない。

 小、中、高、大学ともに、その段階における教育を充実させる。高校、大学に関しては、能力さえあればどの子も入学できるが、卒業はきびしいというようにして、学ぶことに生きがいを感じるような学校生活を送れるようにする。


 そう訴えてきたが、たぶんに理念にはしりすぎたきらいがあったかもしれない。



 そこで、本記事では、ストレートに、上記のなおみさんの疑問、問題意識に答えてみたいと思う。 
 


その1 バーチャルな世界との共存

 わたしが、学級担任最後のころ、ちょうど昭和から平成に移るころだったが、子どもを取り巻く環境が激変した。いわゆるテレビゲームがもてはやされ、子どもたちがそのとりこになる姿が多くみられた。

 このころ、学級懇談会などでも、『テレビゲームのためにちっとも勉強しない。』などと嘆く姿は、けっこう多くみられたのではないか。子どもが集まっていても、お互いにテレビゲームに夢中になったり、その順番待ちだったりして、そこに会話はないなどという話も聞いたことがある。

 現在のバーチャルな世界の勃興期だったかもしれない。


 わたしは、学級懇談会で言ったことがある。

「わたしは、自分の学級経営とテレビゲームとの勝負だと思って、がんばっています。」


 わたしが低学年担任だったとき、子どもに言ったことがある。なお、当時はまだ、放課後学童クラブのようなものはなかった。

「わたしが出張するとき、いつも思うのだが、みんなのうち誰かが、必ずA公園で遊んでいるね。誰もいないということがない。」

すると、こんな答えが返ってきた。

「そうだよ。だって、あの公園に行けば絶対誰かがいるから、行くんだもん。」
「そうだよな。みんなと遊んでいると楽しいもん。」


 わたしが、テレビゲームとの勝負というのは、そういうことだ。

 別に、『今日遊ぼうな。』などと約束して集まるわけではない。あくまで自然発生的に集まるのだ。

 学級のみんなと一緒に過ごすのが何よりも楽しい。そういう学級集団にしてしまえば、あとは子どもたちが過ごし方を自分で決めてくれる。

 自然発生的だから、あくまで集まるのは不特定多数。そして、その雰囲気は、やがて、他学級、他の学校の子どもたちをも巻き込んでいく。



 高学年の事例は、過去記事から、3つ紹介させていただこう。上記、低学年の事例とほぼ同時期のことを書いている。


〇最初の事例は、いかにしてそういう学級集団をつくったか、担任として努力した点を述べている。
   意味づけ、価値づけ(2) 学級経営から

〇二点目は、子ども同士仲よく一つにまとまった学級集団となった場合の、心の通い合いを述べる。
   健全なる競争心

〇三点目は、『健全なる競争心』の記事の最後にもリンクしているが、仲よく一つにまとまった学級集団をつくれた場合、受験は必然的に減るという事例を書いている。

   心の教育(2)


 いずれも、テレビゲーム全盛期、バーチャルな世界の勃興期といっていいだろう。

 そうであっても、バーチャルはバーチャル。仮想世界のことだ。現実の友人と密なる関係を構築した喜びの前では、たいして気にする必要はないのではないか。



その2 『がんばること、まじめなこと』を軽蔑する雰囲気について

 もう、『その1』とすべて重なる。仲よく一つにまとまった学級集団は、『がんばること、まじめなこと』に対し、まったく問題ない。見事にそれに向かっていく。挑戦意欲もあるといっていい。

 また、選抜された集団と違い、いろいろな能力の子どもがいるから、その挑戦意欲は、実にダイナミックである。


 わたしは思う。担任の、子どもの心を耕す営みがないと、気の強い子はますます強く、気の弱い子はますます弱くなっていく。そして、どうしても人間は、楽ができる環境なら楽をしたいという、本能に近い欲求があるから、やすきに流れる傾向が出てしまう。

 そうなると、まじめな子、努力する子の足を引っ張るようになりがちというわけだ。 
   

 もとより、それにはいろいろな要因があり、学校の努力のたりなさと決め付けるわけにはいかない。また、仲よく一つにまとまった学級づくりと言ったって、それが相対的に簡単である場合もあれば、実に困難を伴う場合だってあるだろう。

 でも、困難を伴えば伴うほど、学校が一致団結して取り組み、実らせた成果は、価値があるものと思う。現実にそういう実践も、数多く紹介されている。



その3 私立の子の、いきいきとした学び

 これは、そうとも言えるし、言えないケースだってあるとしか、言いようがない。

 わたしが知っているのは、わずかの事例でしかないが、

 現実に、私立におけるいじめも聞いたことはあるし、学期ごとの能力別学級編成により、子どもたちがギスギスした関係になっているという話も聞いたことがある。決して学級としてのまとまりなど、ないようだった。


 実際、うまく機能した場合は、能力も、個性も多様な公立校の方が、よりみんなが持てる力を発揮できるように思う。



 以上で、なおみさんの思いへのわたしの考察を終えるが、


 しかし、なおみさんが心配されるような現実があるのも事実だ。



 そこで、教員の指導力アップの問題がクローズアップされる。



 PISA調査報告でも(リンク記事の最後が本日の記事にかかわります。)

 受験、習熟度別など、能力によって分けてしまうシステムの国と、そういうもののないシステムをとっている国とでは、後者のほうが、より成果を上げているとしている。

 ただし、条件があって、前者は、一般的に教員は楽をしているようだ。後者のほうが大変。

 だから、能力別にしてしまう教育効果と、教員の指導力アップのための研修等に力を入れる教育効果とをくらべると、後者のほうが、より成果を上げているということになる。


 それなら、どういう指導力アップ策が望まれるか。


 もう、なおみさんへの答えで十分論じてきたと思う。

 まず、一点目。

 授業等、指導法の研究が大切だ。子どもが学校生活ですごす時間の大部分は授業なのだから、その授業が充実しているか、子どもの学ぶ意欲を育んでいるか、子どもの知的好奇心を満たしているかなどなど、実践的にそうした研究が行われなければならない。

 教員は、個性も能力も多様な子どもたちの所属する学級で、どの子の能力も引き上げなければいけない。少なくとも、『どのレベルに合わせて授業を行ったらいいでしょうか。』と言うのではダメで、どのレベルの子にも合った授業を展開しなければいけない。

 二点目。

 バーチャルな世界に負けない、いかにまとまり、いかに向上欲のある学級集団をつくるか、それには一人ひとりの子どもの心をみとり、受容力、共感力、感動する心などを発揮することにより、どの子も伸ばすという、そういう経営力を身につけなければいけない。子どもたちの心を耕す営みがなければいけない。これも実践的に行われるべきだろう。


 以上、現場での実践的な研修が大事で、

 どうだろう。今、日本がやろうとしている、大学での教員免許更新のための研修など、むなしさを覚えないか。それでは、とても成果を期待できない。

 これは時間のムダ。即刻取り下げてほしい。
 


 最後に、これまでふれてこなかったが、三点目がある。

 それは、校長のリーダーシップだ。これについては、また、後日、記事を起こさせていただこうと思う。


 受験システム廃止は、こうした教員の指導力アップ策と同時進行でなければならないだろう。


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 なおみさんは、学校の問題以外に、保護者の子育ての問題にも、数多くふれていらっしゃいます。下記のようになるでしょうか。

〇園児の親もそこそこ教育熱心な方以外は、テレビを見せっぱなしで、外に遊びに連れて行くのもめんどう…と言ったりします。

〇幼児というのは発達の課題があって、親に受容され、強い愛着関係を結べないと、情緒が不安定で問題行動が多い子に育っていきます。

(しかし、教育熱心と思われる親にしても、)しつけようという態度が(行き過ぎて)、子どもの問題行動を増やしている現実もあります。

 (また、逆に、)ヤンママという言葉が社会で受け入れられていて、しつけをまったくしないし、自分も社会のルールに従わない事をモットーに子育てしている方も、少数ではありません。

 引用は以上です。



 これらは、過去の教育の結果といえなくもありません。そういう意味では、わたしたち教員退職者は、おおいに反省しなければなりません。

 さあ、どうしたらいいか。


 やはり、学校教育としての成果を上げることにより、我が子の変容を通して、親の自己改革を図ってもらうしかないように思います。


 話は変わりますが、なおみさんのご指摘には、

〇家業の手伝いとか、地域の手伝いとか、昔のように子どもに課せられる厳しいものがない今、受験がなくなったら、辛いことに耐えたり、我慢したりして社会人になる心の準備をする機会があるのか…むずかしいなと思います。

というのもあります。これも、思うところがあり、後日、記事にさせていただきたいと思っています。

rve83253 at 11:58│Comments(7)TrackBack(0)教員の指導力 | 教育風土

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この記事へのコメント

1. Posted by なおみ   2008年10月14日 20:37
toshi先生へ
私の質問をていねいに記事にしてくださってありがとうございます。公立校に不信感がある…といっても、小学校には(わが子のときは)何も問題は感じなかったので、大阪の公立の中学の現状がひどすぎることから、気にかけてしまうのかな…とも思います。私がtoshi先生のブログで驚いたというのは、娘と息子の小学校の間と娘の公立の中高を通して、先生方に子どもの長所も見るとか褒めるとかいう発想はほとんどなかったからなんです。1人くらいはいましたが…。うちの子が問題児だからというのではなく、どの子も褒めたり長所を見ている姿は見た事がないし、懇談会は欠点を聞きにいく時間ときまっているんです。といって、先生の指摘は100マス計算でミスがあるとか、体操服を着替えるのが遅いとかささいなことばかり…。そんな小さなことしか欠点がないならしっかりしてるんだな…と問題を指摘されて考える状態です。個人的には良い先生方なので、おそらく先生方に子供達の良いところに目を向ける、それを言葉にするという考えが共有されてないのではないかと思います。
toshi先生の授業のあり方は素晴らしいと思うのですが、他の先生がそうした授業をしようと思うと、どの子にも合う授業を作っていこう、子どもの良いところに目を向けていこう…という最低限の一般人よりは「高い精神性」が必要だと思うのですが、こうした言葉を私のブログで使ったとたん忙しい先生に
道徳的なものまで求めるのか…といった内容のコメントがきました。↑URLです。私の表現もまずかったのでしょうが、先生に子どもの長所を見てほしい…といった心の面まで求めるのは抵抗があるのかな?とも思えました。
2. Posted by なおみ   2008年10月14日 20:38
受験については、私は良いと思っているわけではなく↑のURLのような問題を感じています。ある分野では学者レベルに能力のある発達障害の子が、受験のシステムのために、得意分野の研究どころか勉強すらできないのも残念に感じています。しかし、日本で受験システムが大きく変るのは、かなり限定したさまざまな条件の下でないと、問題が多い気がしています。入る時に楽で、卒業するのが厳しいというシステムは、成熟した自立した考えを持っていて自己責任の意味が理解できる親と子が多い事が条件になると思うからです。また高い専門性のある勉強の場合は、大学ともなると、さまざまな学力の人といっしょに学ぶのは難しい気もします。それらをひとつひとつ検討しつつ、もっと柔軟な学びの形が生まれていったらいいな…と願っています。
3. Posted by toshi   2008年10月15日 05:19
なおみさん
 いつもほんとうにお世話になっております。
《先生方に子どもの長所も見るとか褒めるとかいう発想はほとんどなかったからなんです。》《懇談会は欠点を聞きにいく時間ときまっているんです。》
 これはほんとうに驚きです。学校が荒廃するのもむべなるかなと思うくらいです。
《道徳的なものまで求めるのか。》
 URL。読ませていただきました。何が言いたいのか、よく分かりませんでした。教員に対し、道徳的なことを求めるのは、きわめて自然なことです。それが仕事といってもいいくらいですからね。それを、『民族浄化運動』と結び付けるなど、ちょっとひどいですね。なおみさんの、『醜いものは排除』を問題視しているようですが、それは、矛盾、悩みの一つの姿として言っているだけですのにね。
 『教員の高い精神性を求める。』ことについては、校長のリーダーシップのところで書こうと思っていたのですが、子ども同様、教員も、『今ある姿より一歩向上すれば、それでよし。その代わり不断の努力が必要。』という姿勢が大切と思っています。校長としても、保護者には、それをお願いしようということです。
 保護者が教員に、『子どもの長所を見てほしい。』というのは、きわめてふつう、当たり前のことで、何の問題もありません。
4. Posted by toshi   2008年10月15日 05:19
《自己責任の意味が理解できる親と子》
 そんなに大変なことでしょうか。卒業のきびしさが一般に理解できるようになれば(数年間は確かに混乱はあるでしょうが、)、それだけがんばらざるを得ないのは、簡単に理解できることのように思います。『自己責任』は、きわめて自然に理解されていくと思いますが。
《大学だとさまざまな学力の人と一緒に〜》
 これも、卒業を目指すうえでは、一定の学力はあるはずで(これも上記同様、数年間は混乱するでしょうが、)、第一みんなが真剣に学ぶ場になるわけですから、今よりは絶対いい状態になると思いますよ。
5. Posted by YK   2008年10月16日 21:23
なおみさんのURL先を拝読しましたが、相手の方の論立てが微妙に思えました。まず、民族浄化運動という語についてですが、利害関係の一致しない文化・宗教・民族的背景の異なる集団が存在しない場合には、民族浄化という言葉は適切ではないように思います。日本で例えれば、最終的に「在日韓国・朝鮮人やアイヌ人を追放せよ」というスローガンが教室に貼られるような可能性があれば、私も民族浄化の傾向と批判しましょうが、現状、日本の教育はそこまでナショナリズムは強くなかろうと思います。そもそも、こうした民族浄化運動などにおける排外的なスローガンとは、日本人を一体化させ、高揚させるために政治的に行われるものですが、なおみさんの文章の論点は、個性の問題であって、政治を論じているわけではない、ここにギャップがあるように思われます。
6. Posted by YK   2008年10月16日 21:59
また、精神性の問題ですが、「高い道徳性=高い精神性と言えるかどうか」、この点についての吟味がこの方には足りないように思います。道徳とは、基本的には社会共同体からの強制です。この意味で、道徳意識が高ければ高いほど、潔癖になり、道を踏み外した行為は許せなくなる、これはそれなりに理解できます。その意味で、道徳的である人は窮屈である、よい教師はもっと清濁合わせ飲む人である、これも理解ができます。問題は、この方のロジックでは、「高い精神性を持った人物は、清濁合わせ飲むことができない」という結論になることです。この点に関して、私は全く同意できない。教育者としての私は、清も濁も含んだ最も普遍的な精神を伝えることが仕事だと自覚しているからです。これは、教育基本法への信頼ではなく、相手の潜在能力に対する信頼だからです。私が高い精神を持っているかどうかは、相手が判断することであって、私にはわからない。しかし、自分自身が精神的であろうとすることを止めたら、私には伝えることが無くなってしまう。そのとき、私は教壇に立つ資格も無くすだろうと考えています。
7. Posted by なおみ   2008年10月16日 22:12
YKさんへ
ていねいに解説してくださってありがとうございます。私は読む分には、不自由はないのですが、表現するとなると稚拙で、正確に言葉の意味を表せないんです。それとYKさんのようにきちんとひとつひとつの言葉と言葉の違いを認識していません。こうして説明していただくと、とてもわかりやすくて、本当に助かります。
<自分自身が精神的であろうとすることを止めたら、私には伝えることが無くなってしまう。そのとき、私は教壇に立つ資格も無くすだろうと考えています。>という言葉、とてもうれしく響きました。私が先生方に求めているもの、自分が子どもと接する時に自分に求めるものは、こういうことだなと思いました。

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