2008年11月01日

学校教育の復権を!4

bf4e513e.JPG わたしは、今、拙ブログにおいて、『受験システム廃止論』を展開しているが、多くの方からいただくコメントやリンクのおかげで、さらに多面的な見方ができるようになった。感謝の思いでいっぱいである。

 今日は、helipilot777 @ YouTubeさんがご紹介くださったホームページやブログ、及び皆さんからいただいたコメントなどを引用させていただきながら、新たな視点から、この問題を考えてみたいと思う。


 最初は、藤森修一氏の『新説、受験戦争は解決可能である!』から。

 平成11年とあるから、もう約10年ほど前の記事である。


 『受験戦争』という言葉がなつかしい。

 そうだよね。一時期、あまりにも過熱だったのであろう。こういう言葉が使われていた。わたしは、今、そこまでは思っていないから、『受験システム』という言葉を使わせていただいているが、これとそれとは、ちょっと意味するところが違っていそうだ。

 その後、少しでも、いい方向へ向かっているのなら、幸いである。


 同氏は、『国家が学習指導要領なるものを規定し、子どもの学習内容を独占的に決めて拘束しているところに受験戦争を招く根本原因があるのであり、日本は、学習内容についても、その自由を保障すべきである。』とする。

 さらに、同氏は、こと、『受験戦争』にとどまらず、日本の学歴社会に象徴されるような、社会構造にまでメスを入れていらっしゃる。

 また、その学歴社会についてだが、『学歴社会が受験戦争をもたらしたのではない。受験戦争同様、学歴社会も、国による、子どもの学習内容の独占的支配がもたらした結果なのである。』とする。

 くわしくは、同氏の論文をお読みいただきたいと思う。


 さて、

 わたしは、同氏の論文に、目を開かせていただいた思いはあるが、その主張に全面的に組するものではない。同調したい部分と、異論を唱えたい部分とがある。

 異論の部分とは、

 国による学習内容の支配、つまり学習指導要領の法的拘束性については、国だけに責任があるのではない。教員も自らこの呪縛にはまってしまっている部分があり、そうした意味においては、教員側にも問題があると言いたいのだ。


 まず、異論の部分から書かせていただくが、通説とはあまりに違うので、読者の皆さんは驚かれるかもしれない。


〇同氏は、学習指導要領の法的拘束性を主張されるが、わたしは、退職までの35年間、及び、その後現在に至るまで、小学校に勤務していて、この、法的拘束性を感じたことはほとんどないのである。

 その点は、拙ブログの『学習指導要領の課題を現場の努力で、』なる記事にくわしい。

・同記事にも書かせていただいたが、国は、教員の意欲的な取組に対しては、けっこう寛大である。学習指導要領にないものを学習内容にしても、子どもが主体的、意欲的に学ぶ姿がある限り、とやかく言われたことは一回もない。少なくとも授業実践に関する限り、これはわたしが確信しているところだ。
 
・また、前記事、『学校選択制はどうなる?』において、我が地域では、『特色ある教育実践を積み重ねている小学校はいくらもある。』と述べた。これも、自由度が高いことの証明となるのではないか。拘束性が高ければ、特色など、出しようがないものね。

・さらに、これは、わたしが社会科を専門としてきたことにかかわるだろうが、中学年社会科は、自分たちの住む地域で学習する。だから、これは、学習内容を学校ごとに決めざるを得ない。


 余談だが、

 低学年の生活科。それと、今、海外に多数存在する日本人学校。

 おもしろい話を聞いたことがある。

 海外の日本人学校でも、当然生活科を学んでいる。しかし、子どもを取り巻く自然環境、社会環境は、日本のそれとは大きく異なることが多い。

 教科書には、日本の自然が描かれるが、四季がなければ、教科書どおりの生活科は不可能だ。それとはまったく異なる、その土地、土地に合った学習計画で学ばざるをえない。


 ちなみに、戦前はそうではなかった。

 有名な、さくら読本。

 『サイタ サイタ サクラガサイタ』

 たとえ、今、さくらが咲いていなくても、また、もう散ってしまったとしても、全国一斉に、子どもたちは、音読の声を張り上げたはずである。

・ホットなところでは、総合的な学習の時間なるものがある。これはもう、まったく学校の独創性、創意工夫が認められた時間である。国は、学習内容の例示こそしているものの、何をとり上げようとまったく自由な時間である。『子どもの主体的な学習』を国が保障しているのである。これほど拘束性を感じさせない時間はないであろう。

・さらに言えば、国は、『各学校の自主性、主体性』にエールすら贈っているのである。


・あっ。一つ。例外(?)があった。それは、過去記事にあった。

 『英語教育導入は、異文化理解のために』

 この記事では、国が、我が地域の教育実践に苦言を呈してきたことを述べた。

 しかし、それも、我が地域の指導主事が説明すると、国は、それ以上は言わなかったのである。事実上、『学習内容を規定するうえでの地方分権』は守られたのである。(『事実上』と言ったのは、建て前では、『国の方針に従っている。』としたことを意味する。)


・だから、わたしは、OECDのシュライシャー氏が、講演で、『(日本は、学習)内容に関してはとても自由です。何を教えるかや、クラスでどのように教えるかに関してはとても自由です。』とおっしゃるのを(ホームページで)読んでも、まったく違和感はなかった。



〇しかし、しかしだ。

 一般的には、藤森氏が主張するように、学習指導要領の法的拘束性が強く言われているし、前記、『学習内容を規定するうえでの地方分権』などないも同然と信じられている。

 そして、上記のように、自由度が高いことを主張してきたわたしとしても、それをまったく否定することはできない。


・たとえば、

 6年生社会科は、日本の歴史学習が中心である。(縄文)弥生から始まって、現在に至るまで、長丁場の学習を行う。しかし、今、これを、戦後初期の社会科のように、各時代を網羅的に扱うのではなく、エポックになる時代のみ、地域の歴史事象に密着したかたちでとり上げるという、そこまでの自由はないであろう。(戦後初期の社会科の学習内容を過去記事に書いたことがあります。よろしければ、『温故知新(9) 歴史的、地理的な学習は?』をご覧ください。)


・ここで、helipilot777 @ YouTubeさんがご紹介くださった、もう一つのブログにリンクさせていただこう。

 大前研一氏の『独自性を出そうとすると立ちはだかる“規制”』である。これに、『北海道の高校生ならロシア語、九州だったら中国語、韓国語を学ばせたっていいのではないか。』とある。

 確かにおっしゃる通りだ。わたしは、大前氏の、この主張に共感する。

 しかし、これも、前記同様、そこまでの自由はないと思われる。


 さあ。国の拘束性にかかわる記述は以上だ。国は、『とても弾力的でソフトな拘束性』をもたせていると言ったら、読者の皆さんはどうお感じになるだろう。



 それなら、どうして、藤森氏の指摘する、『受験戦争、学歴社会』が進んでしまったのだろう。全国画一の学習内容といわれるようになってしまったのだろう。

 どうも、国だけの責任ではなさそうだ。


〇私見だが、この点に関しては、わたしは教員側の問題も大きいと思っている。

 一言で言えば、教員も、受験戦争、学歴社会温存に貢献してきた。

 そのようなことを言うと、今度は、教員の皆さんが、びっくりされるかな。

・どうだろう。

 教員の最大組織である日教組(わたしも組合員だったが、)は、『教え子を戦場に送るな。』『高校全入運動を推進しよう。』『カリキュラムの自主編成を進めよう。』とは言ってきたが、『受験システムのない、子どもが子どもらしさを発揮できる、自主的、主体的な学びの場としての学校を構築しよう。』ということを運動し、呼びかけ、実践してきただろうか。

 高校全入運動当時、わたしは若かったが、これに賛成してきた。そういう意味では、今、自責の念をもち続けている。

 その一方で、

 『カリキュラム(学校の教育目標を達成するために、児童・生徒の発達段階や学習能力に応じて、順序だてて編成した教育内容の計画。教育課程)の自主編成。』

 これは、自信をもって言える。間違いなく推進してきた。

 
 しかし、わたしの言う、自主編成は、組合の言うそれとは意味合いがかなり違う。わたしたちは、文字通り、3行上のカリキュラムの定義どおり、子どもの生活、興味・関心などを拠り所としたカリの作成にあたってきた。

 それに対し、組合は、『いわゆる平和教育』(『いわゆる』をつけさせていただいたことには意味がある。くわしくは、上記リンク記事をご覧いただければと思う。)にしか関心がなかったと思う。

・カリキュラムの自主編成については、もう一言。

 今、多くの市民の皆さんは、信じられない思いになるかもしれないが、カリキュラムとは、上記『学校の教育目標を達成するために、児童・生徒の発達段階や学習能力に応じて、〜。』とあるように、

 学校が作成するものである。

 かつて、戦後初期の先輩教員の方々は、これに、ものすごい情熱を傾けた。これぞ、まさに、民主主義教育実践の花形だったのである。(これは、拙ブログの『温故知新シリーズ』にくわしい。)

 しかし、その後、

 国は学習指導要領の拘束性を強め、

 教員の多くも子どもへの知識注入に走り、

 双方相まって、今のような学校教育になってしまった。


 今、教員の、カリキュラム作成能力は、ものすごく落ちたと言われる。わたしもそれを認めるところである。

 『ああ。戦後初期のような、教員の熱気が持続していたら、』

 そう思うと、悔やんでも悔やみきれないものがある。全国画一化教育の前では、その必要すらないものね。

 長い間の、旧文部省と日教組との対立を思えば、これを、国だけの責任というわけにはいかないだろう。われら教員も、その責任の一端を担わなければいけない。


・今となっては、もう、笑い話だが、教員自らが、学習指導要領の法的拘束性があると思いこみ、実際は、自分で自分を拘束してしまっているケースもありそうだ。

 それも過去記事にある。

 これなど、拘束されてしまっていると思い込んでいるのが指導主事なのだから、もう何をかいわんや。

 しつっこいようだが、国は絶対このようなことまで拘束しない。そこが、全国有数の米どころなのであれば、日本の米作地域の具体的事例の取り扱いについては、教科書と違って自分の地域をとり上げても、国は絶対それを認めるはずだ。

・さらには、『特色ある学校づくり』について、本記事でも、前記事でも述べたが、我が地域において、これが進んでいるのは、小学校だけである。わずかに、小中一貫教育の研究のみが、中学校もかかわる事例だろうが、これも、本音で言わせてもらえれば、中学校は、小学校にくっついてくるというかたちであるらしい。

 中学校、高校は、『特色』を出そうにも、受験システムのインパクトが強すぎて、とても、そのような研究をする余地はないのだと思われる。

・総合的な学習の時間が設けられたとき、本来なら、学校の自主性、主体性が、全面的に認められるのだから、それこそ、カリキュラムの自主編成。教員は、生きがいをもって、これに果敢に挑戦していいはずであった。しかし、カリ編成能力を失った多くの現場からは、とまどいの声が聞こえてきた。


〇こうして、国民も、受験システム、学歴社会の進行を、空気みたいに受け止め、何の疑問も抱かなくなってしまった。全国画一化教育、全国の学校の学習内容が同一であっても、それは当然のこととするし、第一、各学校が特色をもち、重点化はまちまちで、学習内容もバラバラだったら、受験にこまるということで、抗議すら受けかねない時代になってしまった。

 かくして、個性のない教育が進行する。



 さて、最後に、


 そのような思いをもっていただけに、冒頭の藤森氏の論文、『新説、受験戦争は解決可能である!』には、おおいに勇気づけられた。

 これまで、さんざん、受験システム廃止論を訴えても、心では、絵空事、夢物語、そんな意識しかなかったのだが、急に現実味を帯びて感じられるようになってきた。


 その、現実味という意味では、いただいたコメントのなかに、今マスコミ等でさんざんとり上げられる、天下り、利権構造等の問題を指摘されたものがあった。

 わたしはこういうことに無知で、よく分からないのだが、あれだけ言われているのだから、受験教育界をも取り巻いているとしても不思議はない。そんな思いになった。

 これが、諸悪の根源。

 もし、政治が変われば、この利権構造にメスが入ることも期待できる。さらには、受験システムにも。

 現段階ではあくまで、『期待』にとどまるけれどね。でも、ここからも、現実味を帯びる予感がしてきた。


 
 さあ。そうなると、教員の指導力アップも、差し迫った問題となるだろう。


 ある意味、受験システムは、教員に楽をさせてきた。それではダメだ。戦後初期の熱気を取り戻さなければならない。

・自分の勤務する学校の子どもたちの実態はどうか。
・それをふまえて、どういう子どもの育成をねらうか。
・そのためには、自校のカリキュラムはどうあるべきか。また、一人ひとりの子どもへの対応はどうあるべきか。
・何に重点をかけて指導すべきか。

 それに、これからの時代は、

・保護者との連携をいかに進めるか。

も含めて、学校教育の復権を成し遂げなければいけない。


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 現実味を帯びてきたら、拙速は避けたいですね。国民全体のコンセンサスを得るべく努力しなければいけないですし、教員の指導力アップ策も現場主義、実践中心主義で、地道に臨みたいものです。

 フィンランドは、かつてのソビエト連邦時代、教え込みの教育だったようです。それが今は、教員の指導力アップに力を入れ、子ども主体の教育に転換することができたと思われます。

 国の大きさはかなり違いますが、そこからも勇気づけられる何かがありそうです。
 

rve83253 at 16:39│Comments(26)TrackBack(0)教育制度・政策 | 教員の指導力

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この記事へのコメント

1. Posted by フルタ   2008年11月03日 21:33
藤森修一さんの提言、すごいですね。読解不足か、理解できなかった箇所もありますが、なんかしら、私も目の前が開けてきたような気がします。
私も常々、若いころの2、3年でその後の半世紀近くが決まってしまいそうな取り返しの効きにくい社会に疑問を持っていました。また、子どもの塾にかなりの費用を払っていますが、公立学校にみんなの塾代を回し、先生などの数を増やし、より良い授業を子ども達が受けることができたらとも思っていました。それによって、うちの子が得意とする科目について、より優れた子がたくさん出現するかもしれません。でも、その子達の出現によって、うちの子の絶対能力は伸ばせるでしょうし、あるいは別のことに興味が広がるかもしれないと思っていたためです。
2. Posted by toshi   2008年11月04日 07:48
フルタさん
《若いころの2、3年でその後の半世紀近くが決まってしまいそうな取り返しの効きにくい社会》
 これこそ、学歴社会の矛盾の最たるものですね。今は、だんだんその矛盾が露呈し、それを許さなくなりつつあるのではないでしょうか。そして、受験社会が崩壊し、ひいては国による学習内容の管理がついえ去っていくのだと思いました。
 《公立学校にみんなの塾代を回し、先生などの数を増やし、より良い授業を子ども達が受けることができたら、》
 ああ。すごい発想ですね。わたしが考えることもできなかった発想です。ほんとうにその通りだなと思いました。さらに、塾の先生を公立校にとり込んでいくようになればいいですね。
 そのとき受験システムはないのですから、子どもの生活重視、一人ひとりをしっかりみとる授業の創造をしていただかなければなりませんがね。
 フルタさんのコメントから、たくさんのことを学ばせていただきました。ありがとうございました。
3. Posted by フルタ   2008年11月04日 09:04
調子にのって加えますが、ウチの子ども(中学生)の話を聞いていると、授業中に騒がしくなる子達でも、何をすればいいか具体的に分かると静かにしている子が多いようです。たとえば、音楽の時間、先生の説明はじっと聞いていることができないけど、歌は一緒に歌い、国語の時間に辞書で熟語調べをしたときも、作業としては分かっているので静かにしていたそうです。
それまでの学習で理解しきれなかったことを回復できれば、状況は変わるのではと思いました。そのために、人手は必要となるので、もっと公教育にかけるお金も必要となると思います。
4. Posted by フルタ   2008年11月04日 09:06
もちろん、<<公立学校にみんなの塾代を回し>>が現実的でないことも分かっています。ただ、楽な生活でないにしろ、高額の塾代を数年間にわたりなんとか払えるだろう家庭があることを考えると、その費用を税金か何か別の形に変えて公教育にかけることもできると思います。それによって、平日の日中にたっぷりと、いろいろな子が様々な能力を互いに高め合えそうに思います。
5. Posted by フルタ   2008年11月04日 09:07
塾に通い、夜遅くまで訓練を受けているウチの子は、教科によっては全国レベルの模試などでもかなり良い成績をとりますが、それが子どもの本来持っている能力なのかが分からないのです。友達や先生から信頼されているように思うウチの子は、何か別のことに時間を費やした方が良いのではないかと思うこともあります。
ただ、そんなことを考える余裕がなく、動く歩道に乗ったように、迂回もせず目先の目的地に急いでいます。社会のせいにしてはいけないのでしょうが、私自身が強い信念で子どもにゆっくりと考える環境を提供しなければならないのでしょうが、なかなかその勇気がでません。
6. Posted by YK   2008年11月04日 15:55
今日の日本を見ると、ジャーナリズムは基本的に精神を消費し、すり減らすものだ、という基本的なことを理解している人は多くありません。精神を生産する役割を担うジャーナリズムは極めて稀です。スピード重視のジャーナリズムに流されることは、その度に人生を空費することだと考えている人はほとんどいません。このような風潮に乗せられる子どもは可哀そうです。しかし、教育は年齢に関わらず、精神を生産する役割を負わなければならない、というのが私の考えです。「金融危機で世界も、日本も、地元も苦しんでいるけど、あなたたちの人生は一過性のものではないのだから、今日は本当に大事な仕事とは何かについて話そう」と言えば、子どもは静かに話を聞いてくれます。
7. Posted by YK   2008年11月04日 16:15
「あなたたちが将来子どもに言うべきことは、"勉強しろ"ではなく、"世界ではこんなことが起こっている"、ということなんだよ、そういう大人になろう」と語りかけ、アメリカ大統領選挙について説明すれば、彼らなりの問題意識を持ちはじめます。それは社会科学と言う学問分野には限定されない、精神に関わる問題であって、一度生産されれば、簡単には崩れないものです。そういう問題意識なり、自分の可能性なりを彼らが自己のうちに発見すれば、私は教師としての勤めを少しでも果たしたということになるのだと考えます。現代の教育についても、必要なのは、速度ではなくて熟慮だと考えるし、組織のイデオロギーよりも人格による結びつきだと考えています。
8. Posted by toshi   2008年11月05日 01:41
フルタさん
《授業中に騒がしくなる子達でも、何をすればいいか具体的に分かると静かにしている子が多いようです。》
 これは、わたしも実感しているところです。もう少し突っ込んで言わせてもらえれば、学習する意味が分からないと騒ぐのですね。だから、学ぶ必然性、切実感を大事にします。
 彼らが騒ぐ授業というのは、騒がない子どもにとっても、つまらない授業なのです。
『公立学校にみんなの塾代をまわし』というのは、あくまで比喩であり、本質は税金の問題だと理解しています。公教育にかける費用は、国民みんなで負担する性格を持っていますものね。
《動く歩道に乗ったように、》
 社会のせいにしていいと思いますよ。現状の日本では、そのようにレールに乗らざるを得ないのですから。そして、善良な市民に、『いったいこのままでいいのだろうか。』と、人間性の涵養に関する不安を抱かせています。
9. Posted by toshi   2008年11月05日 01:54
YKさん
 ほんとうに、社会も、教育も、精神性を大事にしていない世の中だなと思います。せつな的、衝動的で、今日もまた、ある音楽家について、昨日までは英雄のごとく、そして、今日はぼろぼろに言っています。手のひらを返すようです。
 経済のバブルとその崩壊も、本質は同じなのでしょうね。昨日までは信用していたものが、本質は何も変わっていないのに、不信のかたまりに一変してしまいます。
《現代の教育についても、必要なのは、速度ではなくて熟慮だと考えるし、組織のイデオロギーよりも人格による結びつきだと考えています。》
 よく熟読吟味したい言葉だと思いました。ありがとうございます。
 
10. Posted by YK   2008年11月05日 22:06
今日(正確には11月4日)は、世界史的に見て、おそらく、21世紀に入って、2つ目の歴史の転換点だったと思います。1つ目は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ、そして、2つ目は今日のバラク・オバマ大統領の誕生。前者は暗い時代の始まりだったけれど、今日は、アメリカ社会の成熟を祝う日になったと思います。もしも将来オバマの政策が成果を上げられなくとも、アメリカ合衆国史において、この当選は、独立記念日、奴隷解放宣言に続く重要な成果として記憶されるだろうと思います。だから、私が教えている子たちは、音楽家の逮捕については「本当につまらない問題」だと言っているし、馬鹿騒ぎしている小浜市に対しては「なぜあれだけ視野が狭いのかわからない」と言っています。そして、「どうして日本にはあの熱気がないのか」と選挙権も無いのに嘆いています。こういう光景を目の当たりにする度、現代の子どもや青少年が政治や社会に無関心などというのは、マスコミの偽装に過ぎないと思えてきます。
11. Posted by toshi   2008年11月06日 02:08
YKさん
 オバマ次期大統領の誕生。
 その若さといい、演説といい、わたしの高校時代のケネディ大統領の再来を思わせます。
『変革はワシントンからやってくるのではない。ワシントンへ向かっていくのだ。』
 わたしの教育改革論にしても、まさにこの精神でいかないとダメだと、また、日本の改革のほとんどは、永田町からやってきているのではないかと、そのようなことを思いました。
 ただ、いまだに、州の独立性を色濃く残している選挙制度と、銃社会は、何とかならないものかと、他国のことではありながら、世界に与える影響が大きいだけに、心からそう思います。
 福井県小浜市の例は、外国のマスコミが多数駆けつけているということもあって、観光面での盛り上がりが期待できるということではないかと思っています。
12. Posted by YK   2008年11月06日 21:41
toshi先生

ジョン・F・ケネディの時代に私は生まれていないのですが、バラク・オバマの個性は60年代の雰囲気を想起させます。彼を語るときには、どうしても、ケネディやキング牧師のカリスマ性と併せて話さなければならないと考えます。アメリカの銃社会については、私も反対です。しかし、アメリカは軍事目的の科学技術開発に国家予算を組み込むような国なので、その点は致し方ないのかもしれません。国民性で国を論じるのは危険かもしれませんが、日本が60年以上平和を保てたというのは、それが本来の日本人の心性に近かったからのではないかと思います。侵略を濡れ衣と言うつもりはありませんが。
13. Posted by YK   2008年11月06日 22:34
<<わたしの教育改革論にしても、まさにこの精神でいかないとダメだと、また、日本の改革のほとんどは、永田町からやってきているのではないかと、そのようなことを思いました。>>

どうも昨今の教育に関する論調は、不徹底というか、根本問題に関する議論がなされていないように感じてしまいます。私は公務員ではありませんが、公立学校の先生でも「公務員であっても、官僚主義に陥ってはいけない」というのは基本原則ではないかと思います。官僚機構というのは、必ずと言っていいですが、技術を磨くことに専念することが美徳であり、最善の道だという発想が生まれるものです。どうも最近は教育現場においても、技術論に専念することが美徳だと考える風潮があるようです。この発想には大きな落とし穴がある、と自覚している人は多くないですね。だから、受験産業を中心とする産業教育が発達してきたわけですが、これが一般の教育現場に無批判か、あるいは無意識かに導入されていることについて十分な議論はされないし、必要だとも思われていないように感じます。
14. Posted by toshi   2008年11月08日 11:50
YKさん
 ケネディ大統領のときも、何か世の中がパッと明るくなるような気持ちがしました。それは、東西冷戦下での一触即発の危機もありましたが、何と言っても、人種差別に敢然と立ち向かった政治が、大きかったと思います。
《本来の日本人の心性》
 これはもう、全面的に賛成ですね。やはり国民性というのはあると思います。日本の歴史を振り返ると、戦国時代というのはありましたけれど、敵の皆殺しというのはほとんどないのですね。
 中国侵略のような歴史の方がめずらしいと思うくらいです。

 今、日本は、自己実現を図るに急なあまり、どうも、調和のとれないギスギスした感じが目立つように思います。自己実現そのものはいいことなのですが、それは他人の自己実現も、大切にしなければいけないという、そのあたりがうまくいっていない。それでは、けっきょく自分の自己実現もうまくいかないのではないでしょうか。
 不正の横行も目につきますよね。
 今は時代の変わり目なのでしょう。ちょっと長すぎる変わり目ではありますが。

 また、教育改革こそ、うまくいってほしいのですが、その点でも、今は、疑問符つきですね。
15. Posted by YK   2008年11月11日 20:58
toshi先生

<<今、日本は、自己実現を図るに急なあまり、どうも、調和のとれないギスギスした感じが目立つように思います。>>

 この点は私も気になりますね。そもそも、自己実現という言葉は、教育現場で頻繁に使われるが、どういうことなのか?私にはわからない点が多いです。ある特定の職業に就くことが、自己を実現するということなのか?どうもそうであることが多いようです。
 では、件の音楽家は、音楽によって自己を実現して成功的な地位を得たが、ならば、彼にとって、今の転落は、自己を実現していない、ということなのか?転落によって、成功のときまで否定されるならば、自己実現とは一体何であるのか?
 ここまで来ると、塵芥のようなジャーナリズムの言葉では、自己実現には決して辿りつけないことが明らかになると思います。なぜなら、一人の人間にとって、「自己」とは、7歳のときでも、70歳でも同じ「自己」です。実現されようと、されまいと、自己であることには変わりはない。本人が望むならば、70歳で自己を実現しようと構わない。自己実現という言葉が求めるのは、そういう類のことであって、決してスピードではないだろうと思います。必要なのは、時間と存在についての思索であり、経験です。
 そう考えれば、結局、自己実現という言葉を使うときには、逆説的ではありますが、その背後には自分を生んだ家族や自分を支える友人との関係、そういったものを大切にしなければならない、ということを教えなければならないことになると思います。
16. Posted by toshi   2008年11月14日 13:22
YKさん
 『自己実現』
 簡単に使ってしまいましたが、あらためて考えてみると、むずかしい概念ですね。考え込んでしまいました。
 簡単に言うと、『自分で自分の真にやりたいことが見つかり、それにまい進し、実現したこと。』となるでしょうか。
 でも、そんなに簡単な概念でもないですね。実現に向けてまい進しているとき、『まい進』そのものを自己実現という場合もありそうです。また、『自己表現』と同じ意味で使っていることもありそうです。
 さらには、『実現』したかどうかは、自分で決めることでしょうけれど、はたが感じるという部分もありそうです。

 わたしがこの言葉を使う場合は、子どものことでいう場合が多いのですが(でも、上のコメントの場合は違いますね。これは大人のこと。すみません。)その場合は、心が開かれていて、意欲的で、問題解決学習が目指す子ども像といった感じです。
17. Posted by ドラゴン   2008年11月14日 18:31
いつも勉強させていただいております。
まず、私は藤森氏の考えに共感できません。詳しくは読んでおりませんので、誤解もあるかもしれませんが、ご容赦ください。
時々、文部科学省を擁護するようなことも書きますので、関係者かと誤解されますが、関係はありません。
私は、指導要領は必要だと考えております。また、作成された方々の理念は、まさにtoshi先生と同じです。公立学校のよさは、日本全国どこでも同じ学習内容が保証されていることでしょう。地方にまかせて九九を学ばない地域などが出ては困ります。
実際に、アメリカは州任せです。それで問題が出てきたので、全米数学教育者協議会でスタンダードを作りました。それは、日本の指導要領を参考にしていますし、日本の研究者もかかわっております。
18. Posted by ドラゴン   2008年11月14日 18:48
そもそも、受験という制度は問題があるのでしょうか。
受験を問題にする人たちは、また異なった教育観を持っているように思うのです。
プロ野球選手になりたいとして努力する子どもを、みなさんは偉いとして応援しますね。サッカー選手でもピアニストでもそうでしょう。しかし、東大をめざして努力する子どもはなかなか応援されません。なぜでしょうか。
私は、そこが問題だと思うのです。
東大で勉強するには、やはりそれなりの学力は必要です。野球をできないのに、プロになってから練習するわけにはいきません。やはりプロになる前に練習が必要です。
私は、テストとは何かについて、考え方を変えていきたいと思うのです。
今回の学力テストでも順位が問題になりました。しかしテストは順位を決めるものでしょうか。
そこが問題だと思うのです。
19. Posted by ドラゴン   2008年11月14日 18:53
私は、テストを今の状況を把握するもの、改善する点を見つけるためのものと考えます。だから順位は不要です。
藤森氏の論文を見ると最初に順位ありきに思えました。そこで共感できないと思ったのです。
受験についても、大学それぞれが、点数ではなく、こういう学力がある生徒に来てほしいことをもっと示せばよいと思います。大学によっては過去問がその主張にあたるでしょう。
慶應大学の文学部の英語は7頁の英文を読んで答えるものです。それを河合塾が悪問だと言いましたが、慶應大学は「これに答えられる生徒がほしいから出題したんだ」と主張しました。こういうことが必要だと思います。センター試験で何点以上ということではなく、例えば歴史についてこの程度の知識とか、具体的になれば、それぞれの大学を目指してそれぞれの学習ができるようになるのではないでしょうか。
20. Posted by ドラゴン   2008年11月14日 19:00
そして、学校の教育を受験から切り離したいとも考えます。
以前に読んだサッカーの指導者向けの本でおもしろいのがありました。中村俊介など一流選手は小学校で全国大会へ出ていないのです。それはなぜかというと、指導者が勝つためのサッカーではなく、育てるためのサッカーを目指したからだそうです。
勝つためのさっかーを小学生からすると、例えば練習がレギュラーばかりになります。それ以外の子どもは球拾いで成長できません。勝つためには、フリーキックやコーナーキックなどのシステムの練習ばかりします。それでは、個々の技術を高める練習ができません。
小学生では、体が大きい、足が速い、それだけで勝てることがあります。そうすると、本当に必要な技術がおろそかになります。
勝つためのサッカーを捨てて、子どもを伸ばすサッカーに取り組んだため、小学校では勝てなかったけれども、中学、高校と成長して一流選手になれたということだそうです。
21. Posted by ドラゴン   2008年11月14日 19:07
それを学校教育にも取り入れられないかなと思います。
大学はそれぞれ要求する学力を示しますが、小学校では、それと関係なく、子どもに必要な学力を身につけさせます。
算数でテストの成績を上げるだけならば、公式や解法の手順を覚えて、ひたすら練習すればいいでしょう。ただ、それでは子どもに考える力がみにつきません。すぐにはテストに反映しなくても、子どもに本当に身につけさせたいことを学習できるようにして、先生も保護者も社会もそれを理解できるようになるとよいと思うのです。
22. Posted by ドラゴン   2008年11月14日 19:17
そこで、最初の学習指導要領にもどりますが、指導要領をきちんと理解することが、そういうことにつながると思います。
例えば、算数の目標は引用すると長くなりますので割愛しますが、筋道立てて考え、表現することも教科の目標となっています。
そういうことを知らないで、計算ができることなど技能が目標だと思っている人が多いのです。教師でもそうです。
このような筋道立てて考え、表現する力などは一朝一夕には身に付きません。それだけに目の前のテストにとらわれない(勝つサッカーを捨てる)ことが必要だと思います。
TOSSは、向山型算数ですぐにテストの点数があがると主張しております。その事例を見ると「なぜそうなるのか」という教師の発問に「教科書に書いてある」と子どもが答えて、それでよしとしています。まさに勝つサッカーを目指す授業です。
そうではなく、すぐに結果がでないかもしれないけど、「なぜそうなるのか」を子どもと考え、工夫して解決していく、そういう授業が大事なのではないでしょうか。
そして、それは、学校教育だからこそできることなのではないでしょうか。
長くなりました。また、乱文、ご容赦ください。
23. Posted by toshi   2008年11月15日 12:09
ドラゴンさん

 学習指導要領が、指針というか、ガイドブック的なものならいいと思うのですね。そして、意欲的な実践の前では、そうなっていると言いたいのです。 ただ、藤森氏の受験社会、学歴社会についての見方は、おおいに啓発された思いでおります。
 『日本全国どこでも同じ学習内容が保証されている。』ことについては、逆な見方をすれば、『学習内容の画一化』を招いているわけで、これは、新たに記事を起こさせてください。簡単に言えば、学習内容は、各地域特色を持ってかまわないが、子ども主体の学習、思考力、興味・関心をつちかう指導法こそ、全国的に、統一されたものを確立しなければいけないと思っています。PISA調査のような問題ならば、これでも、いっこうにこまらないし、むしろ教育は多大な成果を上げると思います。

 わたしは、受験と学校教育が完全に切り離され、中学は高校の、高校は大学の入学準備教育から解放されれば、そして、本来のその時期にしかできない教育にまい進することができれば、そのときの受験は、ドラゴンさんのおっしゃる野球やサッカーやピアニストと同じ位置づけになるでしょうから、これはもう、反対するものではありません。
同じ受験という言葉を使っていますが、そのときの受験は、今とはまったく異なる様相を示しているだろうからです。
24. Posted by toshi   2008年11月15日 12:10
ですから、慶応の入試問題を例示されましたが、これなどは、受験と学校教育が完全に切り離されている状況下ならば、そして、大学が特色ある教育をしようとしているのであれば、いい方向性をもっていると思います。

 すみません。わたしは、YKさんへのコメントで、『大学受験は、大学入試を廃止し、センター試験改良版のようなもののみでいくべきだ。』と述べました。このあたりは、再度考えさせてください。今回のドラゴンさんのコメントを拝見し、わたし自身の論理の再構築を余儀なくされた思いです。ありがとうございました。

《小学生では、体が大きい、足が速い、それだけで勝てることがあります。》
 これは、わたしも実感しているところです。また、
《テストを今の状況を把握するもの、改善する点を見つけるためのものと考えます。だから順位は不要です。》
 これも、全面的に賛成です。
 ただ、ドラゴンさんの主張される、促成栽培的な学力養成は、やはり、受験教育システムの弊害と無縁ではないと思うのです。
25. Posted by ドラゴン   2008年11月15日 18:09
乱筆にもかかわらず、意をくみ取っていただき恐縮です。
そうですね。受験の問題があるとしたら、受験のために促成栽培的な学力養成へと傾くことは、これは大問題です。
ただ、私はこれを制度の問題として、制度が変わることを待つことはできないと思うのです。
そこで意識の改革から始められないかなと思います。保護者や社会が、目の前のテストではなく、将来にわたって活用する力、いわゆる「生きる力」を子どもに身につけるためにどうすればよいのかを考え、理解できたらと思います。
例えば、学力テストの結果をみても、この学校では、計算を日常生活に生かす力が弱いから、そこを伸ばしてくださいとか、国語の読解力が弱いから家庭でも読書を進めましょうなどと、順位ではなく、子どものためになるような議論ができるようになれば、大きく前進できるのではないでしょうか。
そうすると、学校も先生も、もっと伸び伸びと教育活動ができるようになるのではないでしょうか。
26. Posted by toshi   2008年11月16日 00:58
ドラゴンさん
《私はこれを制度の問題として、制度が変わることを待つことはできないと思うのです。》
 これはもう、おっしゃるとおり、わたしも同じ思いです。ただ、本稿は、受験システム反対を訴えておりますので、その論旨と合わせておりますが、『待てない。』思いは一緒です。
 ただ、保護者や社会の、いえ、教員も含めて、受験システムを改革しないと、なかなか意識は変わっていかないだろうなという思いもしています。

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