2008年11月04日

命の授業 ブタを飼って食べる!?3

6de6778c.JPG 標題で、何をとり上げようとしているか、すでにお分かりの方も大勢いらっしゃると思う。

 これは、90年代のはじめ、大阪府の、ある小学校で実践された授業だ。

 小学校の、ある4年生のクラスで、食用にする目的で、ブタを飼って育てる話である。ところが、育てているうちに、子どもたちはブタに情が移り、いざ食用にしようとすると、反対する者が続出。涙、涙で、収拾がつかなくなる。

 数年前、テレビを見て、とにかく感動した。子どもたちの姿に、涙を禁じえなかった。その真摯な話し合いには、素直に心打たれるものがあった。



 しかし、待てよ。

 何かが変だ。感動で涙した後のとまどい。

 それが何なのか。テレビを見た瞬間は分からなかった。しかし、間をおくと、曇り空に晴れ間がのぞくように、徐々に見えてくるものがあった。


 ところで、
 近くこれが映画となり、上映されるという。映画でも、多くの感動を呼ぶであろう。

 それだけに、今、このとまどいを記事にさせていただきたいと思った。感動を伴うだけに、心しておきたいことがあるのだ。


 
 では、まずは、感動した部分にふれさせていただきたい。


 初めに、なぜ、このクラスが、ブタを飼うことになったか。


 ある日、若い担任が、子どもたちに呼びかけた。文字通り下記のように言ったわけではないが、担任の思いは、

「今、わたしたちは、自分たちが食べている食肉と生きている動物とがまったく結びつかなくなってきている。そのつながりが見えない。動物は動物。パック詰めの食肉は食肉というように、まったく別個なもの。そういう意識だ。

 それでいいのだろうか。ぜひそのつながりが見えるようにしたい。そのためには、自分たちで飼育して、その飼育した動物を食肉にし、みんなでそれを食べるという、そういう体験をさせたい。

 その過程では、何事にも責任ある姿勢で立ち向かっていく資質をも養いたい。」

 おそらく、食べ残しても平気でいること。食べ物をムダに捨ててしまうこと。食肉一つにしても、動物の命をいただいているのだということ。飼育からわたしたちの食卓にのるまで、多くの人の努力がかかわっていること。

 そういうことをつかませたいと思ったのではないか。


 そして、子どもたちは、3年間、立派に責任をもって飼育し続けた。それは、すばらしい体験だったに違いない。その様子は、リンクさせていただいたテレビ画面を見れば、ひしひしと伝わってくるであろう。


 しかし、このすごい体験が、当初の担任のもくろみをつきくずすことになる。


 飼育が一生懸命だっただけに、子どもたちは、その動物に情が移っていったのだ。『殺すのはかわいそう。』『最初の約束が食肉にして食べるということだったのだから、その通りにしたほうがいい。』双方で、激しい意見の対立が起きた。


 あらすじはこのくらいにして、それでは、感動した部分から。



〇この実践は、総合的な学習の時間がもうけられる前に行われた。しかし、まさに、これは、総合的な学習としてとり上げるのにふさわしい、そういう意味では、すばらしい実践だ。


 ちょっと余談だが、前記事にかかわる記述をお許しいただきたい。

 もし、学習指導要領の法的拘束性が強かったなら、総合的な学習の時間の設けられる前、このような学習は不可能だったに違いない。扱う時間がないものね。弾力的な運用が許されればこそ成立した学習と言えよう。


 もう一つ。

 かつて、拙ブログに、書かせていただいたことがある。総合的な学習の時間とは、どのような時間か。それにふれさせていただきたい。すでに、過去記事があるので、リンクさせていただく。

    総合的な学習の時間とは、(1)


 それでは、実践に話を戻して、 

・ブタを飼うという、そのこと自体は、担任の提案だった。しかし、子どもたちは、その期待に応えてよくがんばった。それは先に述べた通りである。

・ブタの成長に伴う飼育小屋の改造。

 設計図づくりには、算数が関連する。
 資金集めのための呼びかけ文書作成は、国語が関連する。
 飼育小屋の改造そのものは、図工。
 そして、豚肉料理は、家庭科というように、それぞれが関連し合う。

 これはまさに、子どもの生活経験のまとまりで単元が構成されていると言えよう。また、必然性、切実性に基づき学習の流れが決まるので、教科の枠にとらわれない学習の構造をもっている。
 その点では、拙ブログ記事の、コアカリキュラムを想起させる。
 
・子どもが真剣に学び、問題解決に迫ろうとしているからこそ、そこに生まれる葛藤、悩み、対立。それは、それは、もう真剣で、まさに、問題解決学習、あるいは、総合的な学習の時間の真骨頂をみる思いだ。見る人の心をも揺さぶらずにはいられないだろう。

・本映画では、実話の『ブタを食肉工場に送るか。』『3年生に引き継いで飼ってもらうか。』の話し合いではなく、『食べるか。』『食べないか。』の話し合いになるようだ。

 そして、子どもに配られた脚本には、この場面の記述がないのだという。『子どもたちのナマの話し合いにゆだねよう。』脚本家はそう考えたようだ。

 これはもう、それぞれの子どもたちが、演ずるのではなく、実際の授業同様の話し合いをすることを意味する。

 つまり、映画のためとは言え、演技(?)する子どもたちは、20年近いむかしの子ども同様、ブタを飼う体験学習(?)を日々積み重ねたわけだ。そうであるが故に、『子どもたちの本音のみえる話し合いの方が、迫真に迫っていい。』と考えたのであろう。

 ドラマのようで、ドラマでない、すなわち、ドキュメンタリータッチをねらったのではないか。これはもう、映画の子どもたちも、問題解決学習をしているのだと言えるのではないか。

・映画の解説に、次のような言葉があった。

『食べるか、食べないかの結論を出すことが重要なのではなく、食べるということはどういうことなのかを、観る者一人ひとりに問いかけ、考えさせてくれるのだ。』

 また、実話の方の、この若い担任も、大学准教授となった今という時点でおっしゃる。

『むかしの、(食肉工場に送る)結論がよかったのかよくなかったのか、いまだに分からない。』

 未解決の解決。これは、子どもだけではない。大人にとってもやはり解決できない問題なのだ。まさに、問題解決学習の真骨頂と言えよう。

 感動の部分は以上だ。



 それでは、次に、『感動の後のとまどい』の話に移る。


〇冒頭の担任の思い。

「今、わたしたちは、自分たちが食べている食肉と生きている動物とがまったく結びつかなくなってきている。〜。
 それでいいのだろうか。ぜひそのつながりが見えるようにしたい。〜。
 そうして、〜、何事にも責任ある姿勢で立ち向かっていく資質を養いたい。」

 これは正しい。

 それなら、それで、学習を一貫させるべきであった。

 飼育する過程で、目的がまったく変わってしまった。食肉目的だったのがペットを飼うこと同然になってしまったのだから。これでは、学習目標や責任の放棄と言われても仕方あるまい。

 この辺、現代という時代は、大人でもむずかしい。子ども同様、ごっちゃにしてしまう。

 生産するものと消費するものが見事に分離してしまい、そこに心情的につながるものが何もない。その結果と言えよう。一言で言って、若い担任の言うとおり、スーパーにあるパック詰めの食肉は、あくまで、『食品』であり、『物』なのだ。そこに『命』を連想することは、通常、まずない。
 

 いつだったか、他ブログで拝見したコメントに、次のようなものがあった。もちろん大人の方である。

 『私は前から疑問に思っているのですが、生き物で食べられる生き物と、別にペットや動物園で幸せに暮らしている生き物がいる。この差は一体どこからどの基準で選ばれるのでしょうか?動物愛護団体っていうのは、ベジタリアンなのでしょうか?私は、鳥や魚や肉を食べる時いつも疑問に思っています。

 そして、今だに、魚をさばくことができません。かわいそうだから、、、本当にそう思います。それでいて、外食する時は美味しくいただいています。卑怯ですよね、、、。また、次の日には、外にいる鳩やスズメに食パンなどあげて、かわいいな、なんて思ったりする。そして、夜にはから揚げを食べたりします、、、。自分勝手なんです、、、。そんな自分だから、、、知らず知らず差別をしているから、〜』

 この方は、ほんとうにいい方なのであろう。正直で、まじめで、ふつう悩まないようなことで悩んでいらっしゃる。

 しかし、ここに出てくる、『かわいそう』『卑怯』『自分勝手』『差別』。これらは、すべて、看過できないものをもっている。

 考えてもみよう。我々、人間は・・・、ではない。我々、生物は、皆、他の生物の命をいただいて、生きながらえている。それなくしては、一時も生き続けることができない。

 一方、ペットの存在は、人間にうるおいをもたらす。生きがいをもたらすこともある。さらに言えば、人間が人間として生きていくにあたり、他の生物と共存し合わないと、生き抜くことは無理であるという、そういうケースだってあるよね。

 これは矛盾でもなんでもない。人間世界をはなれ、動植物の世界だって、人間のように意識化されたものではないけれど、その両者が共存する。双方を抱え込みながら、生物は生き続けているのだ。


 先のコメントを入れた方は、『基準』という言葉を使った。

 厳密に言えば、基準なんてないよね。生物界共通の宿命としての部分と、人間は感情の動物なだけに、人間の感情が決める部分と、その両方で決まるとしか、言いようがない。

 そして、混同してはならないのが、『命の尊厳』にかかわる部分だ。どちらが、命の尊厳を大事にし、どちらが軽視しているというものではないということだ。どちらも、『尊厳』は大事にされている。


 食事の前に、『いただきます。』と言う。

 これは、通例、おいしいお料理を作ってくれた方、あるいは、食材を生産してくれた方への、感謝の思いをこめて言っているという理解だと思う。

 しかし、ほんとうのところは、また別にあるのではないか。それもあるけれど、食材となった命あるものへ、『あなたの命をいただきます。それによって、今日もわたしは生きながらえさせていただきます。』そういう意味なのではないか。


 さあ。そこまで述べて、冒頭の授業や映画の話に戻ろう。

 食肉目的で飼い始めた動物が、飼っている経過のなかで、ペット化してしまった。これはどういう意味をもつのだろう。

 先のコメントをふり返ってみよう。『かわいそう』『卑怯』『自分勝手』『差別』。そういう言葉が使われていたよね。

 子どもたちはそういう意識にさいなまれるようになってしまったのではないか。簡単に言えば、そういうことだ。

 子どもたちは、決していい加減に飼ったのではない。真剣に、いろいろなことを学びながら、飼い続けた。それだけに、ああ、それだけに、このさいなまれ方というのは、尋常なものではなかったと思われる。


 それでは、この学習は、小学生の子どもには無理だったか。

 わたしは、そうは思わない。

 ちゃんと、手順を踏み、心配りをして、飼い続ければ、当初の食肉目的の飼い方は持続できたものと思う。第一、同じ『飼育』と言っても、食肉目的とペット目的とでは、飼育の仕方は大きく違うではないか。


 わたしの子ども時代、今と同じ、都会のど真ん中に住んでいたのに、両親の教育方針だったか、数羽のニワトリを飼い続けたことがある。今じゃ、考えられないよね。『コケコッコー』の鳴き声は非常にうるさいものがあるし。

 このとき、『ちょうどいい時期になったら、ニワトリは鶏肉店に出してさばいてもらう。』ということは、前もって聞かされていた。

 当時は非常に貧しかったし、鶏肉は大のごちそうだったから、わたしには何の抵抗感もなかった。しかし、妹2人は、それに大反対した。けっきょく、トリは出す。しかし、それに見合った鶏肉は別なものをもらうということで、妹たちは納得した。

 もっとも、それ以前だったら、農家の庭先で、こういうことはふつうに行われていたのではないか。それは、子どもの目の前でも行われたに違いない。

 まあ、現代はそこまではしないにしても、たとえ子どもであれ、そういうことを意識させるのは、わたしは、いい教育だと思う。




〇職業差別へ

 もう一つ。

 これも大問題なのだが、上記の、『かわいそう』『卑怯』『自分勝手』『差別』。これが、生産と食の分離という現在において、食肉工場で働く人への職業差別につながっている実態がある。

 自分はおいしい食肉をいただいている。

 それなのに、食材を作っている人に対し、『あの人達は、生き物を大量に殺していて残酷だ。』という、とんでもない職業差別があるのだ。

 これが、学校によっては、そのお子さんへの差別につながる実態まである。


 繰り返して言わせていただく。食材の生産も、ペットも、『命の尊厳』を大切にしていることになんら変わりはない。

 また、わたしたちにとって貴重な食材を提供してくださる方々に対し、感謝の思いをもつのが当然ではないか。


 ほんとうに問題をはらんでいるのは、わたしたちの食生活への態度である。

 『いただきます。』

 それは、『他の生物の命をいただきます。』ということだと述べた。それなのに、いただかないで、大量の食物を生ゴミとしてしまっている。これでは、ムダに命をとっていることになる。10分の1ゴミにしているとしたら、本来なら、10分の1の命は守らなければいけなかったのではないか。

 ここにこそ、『命の尊厳』が軽んじられている実態がある。


 わたしは聞いたことがある。

 肉食動物のライオンも、自分が生きるために小動物を襲うのであり、自分が今満腹であれば、いくら小動物が目の前を横切っても襲うことはないのだそうだ。


 以上、こういう実態がある以上、

 冒頭の授業、それに近日中に上映されるであろう映画について、確かに感動的であるだけに、わたしは一抹の不安ももつのである。


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 わたしとて、完璧主義者ではありませんから、宴会などで、大量の料理が残ってしまう場合、それは、もったいないなと思いますし、近代生活はムダが多いなとも思います。しかし、それ以上の意識は正直、ありません。

 いろいろ言ってきましたが、『一切食べ物を残すな。』では、生きにくくなりますね。『残さないように心がける。』という気持ちが大切と思っています。

 最後に、畜産農家の方が書かれたブログがあります。リンクさせていただきましょう。
 コメント欄まで含め、ぜひ、お読みください。本記事の内容が、さらに深まると思います。

   はざまの庵 「命の授業」に疑問。    

rve83253 at 14:03│Comments(27)TrackBack(0)問題解決学習 | 総合的な学習の時間の指導

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この記事へのコメント

1. Posted by yoko   2008年11月05日 15:50
テレビ映像を見て、子供達の気持ちに胸がつまる気がしました。toshi先生と同様な感想を持ちました。そして、畜産農家の方のブログのコメントを読んで、教えることの難しさもとても感じました。
色々な問題点があるにしても、こんな風に子供達が話し合える授業って素晴らしいですね。実践された先生の「子供たちをキチッと自立させる事のできる先生がいい先生だと思っています。」の言葉が印象的でした。
2. Posted by toshi   2008年11月06日 01:49
yokoさん
 わたしたち、授業研究をしていてよく口にする言葉に、『学級経営はすばらしいが、授業としてはいろいろ問題がある。』があります。
 この授業もまさにそうで、子どもたちの真摯な取組に思わず感動してしまうのですが、食と生産との分離は、分離したままとなってしまったのですね。
 また、これがいったんマスコミや映画によって、世の中に影響を与えるようになると、今度は、生産活動に携わる方々に、不安を感じさせてしまうわけです。
 《実践された先生の「子供たちをキチッと自立させる事のできる先生がいい先生だと思っています。」の言葉が印象的でした。》
 これは、ほんとうにその通りですね。わたしも強く支持します。言葉を変えれば、『自己教育力』『生涯学習力』の基礎を培うことのできる教員ですね。
3. Posted by P   2008年11月06日 12:27
「食肉工場に売る」という結論は
「命を頂く」という教育とは違うと思います。

Pちゃん、と名前をつけたブタを
育てた自らの手で「殺し」
「自分達の胃袋に入れる」ことでしか

本当には理解できないと思います。

Pちゃんが、食肉になる過程を
最後まで責任を持って見届けるべきです。

そして、
きちんと、己の胃袋で消化し
命の糧にすべき。

それをさせられない、
小学生の子供達に
この「授業」はするべきでは無かったと思います。
4. Posted by toshi   2008年11月06日 20:24
Pさん
 まず、お詫びをしなければなりません。
 Pさんの一部表記を、わたしの責任において、書き換えさせていただきました。
 理由は、
・今の食肉工場の現実と、表記のニュアンスが異なっていること。
・そのままの表記にしておくと、職業差別に加担する結果になりはしないかとわたしが判断したこと。以上の理由によります。申し訳ありません。ご理解いただければありがたく存じます。
《「食肉工場に売る」という結論は「命を頂く」という教育とは違うと思います。》
 これは、わたしもそう思います。ですから、わたしも、この授業は問題的部分もあったと思っています。担任の初期の目標は達成できなかったと判断しています。
 どのような学習にすべきだったか。わたしは、記事において、たった3行でしか示していませんでした。
《ちゃんと、手順を踏み、心配りをして、飼い続ければ、当初の食肉目的の飼い方は持続できたものと思う。第一、同じ『飼育』と言っても、食肉目的とペット目的とでは、飼育の仕方は大きく違うではないか。》
この3行です。
 これでは抽象的で、具体的に何を指導したらよいのかがあいまいで、申し訳なかったと思います。すみませんでした。
 
5. Posted by toshi   2008年11月06日 20:24
わたしは、最後にリンクさせていただいた、『はざまの庵』のaiwendilさんが、ご自分のブログのコメント欄に書かれた、
『子供たちと共に畜産農家へのリサーチ、食肉処理場の見学、関係法令などの『安全を守るための世の中のしくみ』の学習、等を済ませてから飼育を実践せねばならないと私は思います。
 豚のためにはどのように飼うのが良いか、良い肉質にするにはどのように飼うのが良いか、育てる上で気をつけることは何か、どのような時を経てどのようにして肉になるのか、肉にするために気をつけることは何か、食べるためにはどのような手順が必要か・・・・等々、学べることはたくさんあるはず。うまくすれば、生命と食品、生活全般についての大人顔負けの総合学習的な知識が身につくでしょうに。』
が、正解だと思いますし、ここまで具体的に書いていただいている点、わたしも大いに学ばせていただいたと思っております。

 
6. Posted by totoro   2008年11月08日 16:26
私は子どもの時、親戚からウサギをもらい飼っていました。毎日雑草をとってきて与え、年に2〜3度子どもを生ませ、それを大きく育てました。とても可愛がって育てます。しかし、大きく育つとそんなに何匹もは飼えません。そこで近所の豚小屋に売りに行くのです。その代金は私のお小遣いになります。その後、ウサギがどうなっているのか定かではありませんが、おそらく豚のえさになり、その豚は豚肉になり、私たちの食卓に載っていたことと思います。
もともと、いただいた親戚のお宅でも、そうした農家の小遣い稼ぎとしてウサギを飼っていたのです。

また、私の家では鶏を飼っていました。私の家は、田舎の一軒家なので雄鳥も1羽2羽混ざっていました。親鳥に卵を抱かせて、ひよこを孵したことがありました。(一度は、人工的に孵卵しようと行火で暖めましたが、予定日を過ぎても孵らないので中を見たら、ゆで卵になっていました。)孵ったばかりのひよこのかわいいこと。しかし、雌鳥は大人になっても飼えますが、雄鳥はそんなに何匹もいりません。近所の農家につぶしてもらい、鶏肉になって帰ってきました。母が、その鶏肉と卵で親子どんぶりを作ってくれました。が、涙があふれ、家族のだれもがその鶏肉を食べることができず、きれいに残してあったのを覚えています。

食用にする目的で、ブタを飼って育てる。ところが、育てているうちに、子どもたちはブタに情が移り、いざ食用にしようとすると、反対する者が続出。涙、涙で、収拾がつかなくなる。

私からすれば当たり前のことです。
7. Posted by totoro2   2008年11月08日 16:27
だって、子どもも先生も、養豚業として取り組んでいるのではないのです。最初の志はどうであれ、可愛がって育てた豚を喜んで食べたら、その方がおかしなことだと思います。

そして、ここから本当の学習が始まるのだと思います。農家は、我々のように情をもって家族として飼っているだけなのではなく、もちろん愛情を持って育てているがある程度商品と割り切って育てているのである。という、職業意識が少し見えてくるのではないのでしょうか。
自分の可愛がった生き物は殺せないけれど、知らない人が育て殺して肉にしてくれているから、我々が安心して肉を食うことができる、そうした職業があることは社会のシステムとして良いことであるなんて話し合うことだってできると思います。

何事も、やってみなければ、経験しなければ分からないのだと思います。

今、私は自分の子どもたちのために、庭に小屋を造ってかつて私が飼ったようにウサギを飼っています。ただし、もう私の近くには、豚小屋はなくなりました。個人経営の小さな養豚農家は成り立たないのです。だから、やたらとうさぎの子どもを増やすわけにはいきません。そこで、わざわざ獣医さんにつれてき、去勢をおこなって、つがいで飼っています。これも生きた教材になりそうです。

また、かつて私が孵ったばかりのひよこのかわいさを感じたように、我が子にも孵ったばかりのひよこを見せてやりたいと思います。そこで、孵卵器を作り、受精卵を購入し卵を孵しています。あと数時間で生まれる卵からは、中から「ピヨピヨ」声がします。まるで、卵が鳴いているように感じます。そこから、割れ目ができ、数時間かかって最後に、エイッと殻を足で蹴り割って誕生する瞬間は感動的です。生き物を飼うと、とかく死に立ち会うことが多いのです。誕生する瞬間を見るって、一緒に感動できいいなあと思います。
8. Posted by toshi   2008年11月09日 17:25
totoroさん
 2年生の初任者のクラスの生活科で、まちたんけんを学習したとき、『お肉屋さんには、生きた牛が運ばれてくる。』と思っている子がいました。
 『ええっ。お肉屋さんに牛は来ないのじゃないの。』
『そんなの見たことないよ。』
などと友達から言われて、お肉屋さんに聞きにいったことがありました。
 また、むかし、3年生のまちの生産活動の単元では、学区にあるハム工場兼店舗をとり上げて学習しました。ここには数多くの枝肉が搬入され、それが吊り下げられて工場内に運ばれていくところも見学しました。
 そのような学習を通しても、問題解決学習がうまくいっていれば、『命ある動物が食肉となって、わたしたちの食卓にのるのだ。』ということは、理解できると思うのですがね。
 また、たとえ、植物の学習であっても、小さなタネから、根や茎や葉が出てくるという、命の神秘さというか、尊厳さが扱われれば、命と食物とがつながらないと決めてかかる必要はないようにも思われます。
 ただ、動物と共存していたというような、むかしの生活を再現するわけにはいきませんので、その点での努力、配慮は必要ですね。

 記事に書かせていただいた我が家でニワトリを飼っていた件ですが、これはずっと飼い続けたということではなく、数年間、飼っていたことがあったということです。
 わたしが小学校高学年のときでした。
 わたしの記憶では、『これはやがて肉になり、家族で食べるのだ。』という意識で飼っていたと思います。作物の収穫と同じような感覚でいたと思います。
 ですから、むしろ、我が家で飼っていたのとは違う肉だということの方に、確かにホッとする思いもありましたが、味気なさも同時にもったような、双方の複雑な思いがあったように記憶しています。
 妹2人は、低学年でしたから、これはまた、違った感覚になったのでしょう。
9. Posted by 柴田勝征   2008年11月15日 16:15
toshi先生、
「ブタを飼って食べる!?」の授業の話、私もいろいろ複雑な気持ちを抱きながら、本文および皆さんの投稿を読ませていただきました。その感想を私のホームページに「殺生(せっしょう)について」というタイトルで載せました。
(1)いわしのとむらい(金子みすず)
(2)葉っぱをちぎっていた学生をとがめた話
(3)85万匹のクラゲの解剖
(4)ジョーン・バエズの反戦歌「ドナ、ドナ、ドーナ」
(5)「ミノタウロスの皿」(藤子不二雄)
という小見だしを付けています。
http://www1.rsp.fukuoka-u.ac.jp/kototoi/2008_11.html#395go

 興味が湧いたら眺めてみて下さい。
10. Posted by toshi   2008年11月15日 23:24
柴田勝征さん
 本記事を引用していただき、ありがとうございました。
 金子みすゞさんの詩は、ほんとうにみすゞさんの感性あふれた詩ですね。
 学生をとがめた話は、そういうところからも、命の存在を意識させることのできるすばらしさを感じました。小学校からこういう教育は大切にしないといけないなと思いました。
 クラゲの話は、これはこれで、食用ではないけれど、命の尊厳を大切にしている事例だろうと理解しました。
 ジョーンバエズは、ほんとうになつかしいです。わたしも、当時、レコードを買いました。ケネディ大統領と同じ時期だったでしょうか。当時の人種差別撤廃の動きと連動していますよね。
 ミノタウロスの皿は、これは、もう、すごい話ですね。でも、やはり、人間の論理によって書かれた話ですね。
11. Posted by newKamer   2008年11月21日 14:54
 こんにちは。問題解決学習についてtoshi先生の考えを聞きたくてコメントいたします。

 toshi先生は市川伸一さんの提案している「教えて考えさせる授業」をご存知でしょうか?まだ、私自身がtoshi先生の問題解決学習の具体的な方法についてきちんと把握していない状態なので(いくつか実践例は拝見しました)、誤解かもしれませんが、toshi先生の方法は市川さんの言う「教えず考えさせる授業」であるように思います。

 市川さんの「教えて考えさせる授業」は、簡単に言うと教科書に書いてあることは先生から教えて、その先を問題解決学習の手法で考えさせるというものです。(細かいことを言えば、教えた後の理解度確認にも、問題解決学習の手法が使われているように思えますが)

 対して、「教えず考えさせる授業」は、教科書に書いてあることも、生徒による発見のプロセスによって学ぶ方法だとされています。
12. Posted by newKamer   2008年11月21日 14:55
 私は、市川さんの『「教えて考えさせる授業」を創る』という本を読んで、いい方法だと納得したのですが、toshi先生の意見も聞きたいと思いました。ごく率直な感想を聞きたいと思っています。

 市川さんの指摘する「教えず考えさせる授業」=従来の問題解決学習の問題は以下のようなものになると思います(あくまで私の解釈です)。

・(塾や予習などで)教科書の知識を既に知っている生徒がしらける
・発見プロセスは本質的に難しいのでついていけない子供も多い
・なかなか学習が進まない

 toshi先生の実践例を見る限り、優れた教師であればこういった問題をものともしない良い教育ができるように思えます。が、そのために教師に要求するスキルが高すぎるように感じるのも事実です。そういった気持ちから、「教えず考えさせる授業」よりも「教えて考えさせる授業」に説得力を感じた次第です。

 もしかしたら、私の理解が単なる誤解で、toshi先生と市川さんは同じ授業方法について語っているのではないかという気もしますが、toshi先生の授業では「教える」ところが出てこないように思ったため、質問することにしました。


 ちなみに市川さんもPISA型の学力を向上させることを視野に入れているようです。この点ではtoshi先生と同じだと思います。
13. Posted by toshi   2008年11月23日 22:43
newKamerさん
市川伸一さんの提案している「教えて考えさせる授業」なるものは知りませんでした。
しかし、「教えて考えさせる授業」は現実には、いくらも見られるでしょう。
 何をかくそう。このわたしも、初任時代は、そういう研究テーマの学校に勤めていました。その学校では、「学習問題を子どもがつくるのは無理だ。これは指導者が与えるしかない。それを子どもたちに考えさせるのだ。」そういう考えでした。

 市川先生のお考えについては、
http://www.soka-stm.ed.jp/shinei-jh/top/komoku/kenkyu/ichikawa.pdf
を読ませていただきました。

 まず、伝統的教育の復活を恐れていることは伝わってきました。『考える学習が大切』ということでもありますよね。この部分では共感できると思いました。

 市川先生のおっしゃる、「教えず考えさせる授業」は、わたしも問題解決学習のことだろうと思います。そうだとすれば、やはりこれへの誤解があると思いました。

・「教えず考えさせる授業」とされた授業の流れを見ると、まず、『問題提示』とあります。提示とあれば、提示するのは、指導者でしょう。そうだとすれば、わたしの初任校と同じということになります。
 問題解決学習においては、『問題発見』ですね。『一つの問題を解決すると、そこから、新たな学習問題が生まれてくる。』ということです。つまり、発見も追求も解決も、子どもということになります。
 子どもの『問題発見』については、亀@渋研Xさんが、すてきな記事をまとめられていらっしゃいますので、そのURLを貼らせていただきます。
http://shibuken.seesaa.net/article/49502347.html
14. Posted by toshi   2008年11月23日 22:44
・次に、先取りの子の退屈、学力の低い子がついていけないということについては、
 一番系統がしっかりしていて、多くの方が問題解決学習になじまないとされている算数で申し上げたいと思います。
 算数においては、どの単元も、導入に当たっては、既習の内容を駆使して、どの子も解けるようになっています。教科書もそういう指導観で書かれています。
 遅れている子については、指導者が一人ひとりの学力の実態を把握し、ヒントカードを用意するなどして、どの子も自力解決できるような配慮をするはずです。
・また、単なる知識・技能の理解にとどまった授業ならば、確かに、すでに知っている子は退屈するでしょうが、Aちゃんの解き方、Bちゃんの解き方を比較検討する学習では、それぞれの解き方のよさや課題を浮き彫りにすることができ、これはけっこうみんな考え込んで真剣になりますよ。また、これこそが、数学的思考力を育むことになるのだと思っています。
 次に、「教えて考えさせる授業」についての記述ですが、
・問題解決学習を否定されているわけではないのですね。ということは、教えることも、教えないこともあるが、考える学習を大切にしているという理解でいいのでしょうか。
・『問題解決や討論は、基礎知識を共有してから』とありました。これは、根本的に理解が異なります。わたしたちは同時進行だと思っています。これについては、
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/1130662.html
に具体的に記述しました。
 と思ったら、この記事に関しては、もうすでに、newKamerさんからコメントをいただいているのですね。失礼しました。でも、多くの読者の皆さんのために、リンクはさせてください。
15. Posted by toshi   2008年11月23日 22:45
 最後に、2点。
・これを読ませていただく限り、「教えて考えさせる授業」における基礎学力とは、知識・技能に限定してとらえているように感じます。ゆとり教育の中核だった『生きる力』を育む点に関しては、どうとらえているのでしょうか。不明としか言えないようでした。
 わたしたちは、子どもにとっての学びの必然性、切実感を大切にしますので、興味・関心、意欲・態度からすべて学力というとらえです。
・また、『予習・復習の習慣と方法』とあるように、家庭の協力がなければ成り立たない理論のように思います。これは、現代という時代においては、むずかしい現実が多かろうと思います。
・もう1点は、『教師がていねいに説明する時間がなくなる。』これは基本的に、認識が異なります。子どもが学びの必然性を持ち、子どもの言葉で語るようになると、子どもの言葉の方が、子ども同士はよく理解できるのです。
 ほんとうに子どもの語彙力とか、具体的な言葉かけとか、よく理解している教員なら別でしょうが、多くの教員がふつうに語る言葉は、学力の高い子しか理解できないことが多いです。これは、初任者指導をしていても、よく実感するところです。くわしくは、
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/1155687.html
をご覧いただければと思います。
・中ほどに金子みすゞさんの詩の授業をとり上げていますが、教える学習では、いかに子どもの内面を把握することがむずかしいかを述べているつもりです。そんなに簡単には、『教師の説明』などという言葉は使えないはずなのです。
16. Posted by toshi   2008年11月23日 23:00
ごめんなさい。最後がもう一つ増えてしまいました。
 newKamerさんご指摘の『教師に要求するスキルが高すぎる。』という点に関してですが、これは、主観の問題だと思いますから、的確な反論はできないかもしれませんが、
 わたしは初任者指導が今の仕事ですし、初任者にも、この指導法を指導しています。それに、以前、ドラゴンさんがコメントされていたと思いますが、現実、教科書などは、問題解決学習を想定して書かれていると思います。
 スキルというよりも、いかに一人ひとりの子どもの思いや知識を把握するか、把握した上で、それをもとにどう授業を組み立てていくか、そうしたことを大切にして初任者指導をしております。
 特に高すぎるなどということを感じたことはありません。大部分の初任者は、右肩上がりではありませんが、そして、紆余曲折はありますが、がんばって実践力を身につけていると思います。
 
17. Posted by newKamer   2008年11月23日 23:32
 toshi先生、詳しい説明ありがとうございます。聞けば聞くほど、toshi先生のやり方と市川さんのやり方はそんなに違いがないように思えてきました(笑)

> 「学習問題を子どもがつくるのは無理だ。これは指導者が与えるしかない。それを子どもたちに考えさせるのだ。」

 こういった考えには、市川さんも同意しないと思います。「教えて考えさせる授業」でも、教科書に書いてあること以外の学習問題は子供が主体でつくるように進めているようです。

 「教えて考えさせる授業」については授業の最初に「教科書の内容(未習内容)を教師から教える」または「教科書を読ませる時間を5分つくる(予習タイム)」というプロセス以外は、かなり強力に問題解決学習を志向していると思います。そういう意味では、プレゼンテーションファイルから受ける印象よりも、かなり問題解決学習よりの方法です。

 きちんと自分の考えが煮詰まるには時間がかかりそうですが、ひとまずアプローチの違いが理解できたと思います。

 「教えて考えさせる授業」では、発見プロセスの省略によって学習に必要な時間の短縮を狙い、「問題解決学習」では、子供の切実感によって、学習に必要な時間の短縮を狙っているというところだけが違うのかな?といったところです。
18. Posted by toshi   2008年11月24日 08:20
newKamerさん
《「教えて考えさせる授業」では、発見プロセスの省略によって学習に必要な時間の短縮を狙い、「問題解決学習」では、子供の切実感によって、学習に必要な時間の短縮を狙っているというところだけが違うのかな?》
 ううん。そうだと思いますよ。ようするに、問題解決学習においては、学ぶ主体者としての子どもを大切にすることにより、学ぼうとする意欲を育み、そこから、自己教育力、生涯学習力の形成を願うわけです。
 反対論者は、『そんな身につくか身につかないか子どもしだいというようなたよりないことで、どうする。確実に、知識・技能を身につけさせないといけないよ。』となるのでしょうけれど、支持者は、『学ぼうとする主体を育てないで、どうする。そのような知識・技能では、生きて働く力にはならないよ。』となるのだと思いました。 
19. Posted by 大阪在住のものです   2011年06月17日 21:54
はじめまして。
地元にいながら、この授業は知りませんでした。
この豚を育てて食べるという授業は
本来、畜濃系の学校では普通に教わる事だと思います。
普通の学校で、このような授業は
思いきったな!の一言です。
ですが、非難はしません。
私達が生きるために、必要な糧。
それが、どういったものか。
私もこの授業受けたかった。
20. Posted by toshi   2011年06月18日 06:23
大阪在住のものですさん
 そうですね。わたしも、実践に取り組んだ勇気と言いますか、その決断はすごかったと思います。
 ただ、取り組む姿勢の甘さといったものは感じざるをえませんでした。
 教員と子どもとの関係は申し分ないのですが、やはり食肉のための飼育と愛玩動物のそれとは飼い方がおのずと違うのですから、その点、小学生段階は未分化なので、検討、吟味が十分でなかったとは言えそうです。
21. Posted by 大阪在住のものです   2011年06月18日 11:05
再びすみません。
確かに、おっしゃる通りだと思います。
この先生の発想は確かに命がなんたるか、生きると言うことはなんなのかを
ストレートに子供たちに訴求するには、インパクトがあったと思います。
ただ、その先に起きるだろう事態に教師自身が、結論に揺らいでるのは
どうかと思いました。
私は、今だから言いたい。
道徳の授業を復活すべきだと。
もっと、常日頃から子供たちと向きああい、話すべきです。
22. Posted by toshi   2011年06月21日 06:04
大阪在住のものですさん
《もっと、常日頃から子供たちと向きあい、話すべきです。》
 いやあ。もう、おっしゃる通りです。上記、授業をされた方は十分子どもとつながっていたと思いますが、一般的にはもうおっしゃる通りと思います。
 道徳教育の重要なことについては、拙ブログでも
主張しています。道徳カテゴリーのなかから、ご覧いただければ幸いです。 
 
23. Posted by けろっぐ博士   2012年01月23日 00:51
人間心は倫理やモラルや常識に反して妙に正直な所があって、それが厄介だったりします。
たとえば妻の出産に立ち会う・・という、生命の誕生という崇高なシーンに立ち会うという感動的な体験であるはずなのに、男性はそのあまりにショッキングなシーンに思いっきり精神的なショックを受けて以後、妻を愛せなくなってしまった(不能になってしまった)という話も聞きます。
それが正しいとか正しくない・・という以前に正直に体がとらえてしまうのです。
そのシーンでショックを受けるのについては正しいとか正しくないという論議はナンセンスです。そう感じてしまったんだから仕方ありません。
可愛そうなのが、子供に悲惨な戦争の写真とか見せるとほとんどの子供が「感動した・・」とか「命の大切さを知った」とか言うんですよね。
例えば血まみれの女性の写真が有ったとして、それが惨殺された写真なら、除きももうとする子供の目を伏せて「見ちゃダメです!」と大人は言います。教育上悪いからです。ところがこれが崇高な出産シーンとか悲惨な戦争の記録だったりすると嫌がる子供の顔をこすり付けて見せようとしますよね。
なぜなら教育上良いからです。でも結果的にそこにある光景はほとんど同じだったりします。
そしてそれも見た子供もそれが惨殺死体なら「いやぁ酷いものを見ました。こりごりです」とかいうクセ、後者なら「感動した」とか言うのです。
すなわち多くの子供は実際自分の心がどう感じたか・・ではなく、「どう感じるべきか?」という事を狡賢く学んで行くのです。
また、響きの良い大義名分みたいなのがあると、何となく人は解ったみたいな気分になったりもしますそれより、きわめて微妙な一線で分かっている「食」と「死体」とのタブーを多感な少年期に越えて目の当たりにさせてしまうことは確実に心に何かのトラウマを植え付けてしまうと思います。
そういうのは嫌なんです。
24. Posted by けろっぐ博士   2012年01月23日 00:54

じゃあ例えば
「命とはどういう物なのかということをしっかりと認識する」とはいったいどういうことなのでしょうか?
なんか「命とはどういう物なのかということをしっかりと認識する」という言葉で何となく納得したみたいに感じてしまうのですが、じゃあその行動で何がどの様にしっかりとどう認識できたのか?に関して何の答にもなっていないのです。
私の子供の学級でもし上記のような授業があれば、私はなるべく参加させたくありません。
そこで「感動した・・」とか「命とはどういう物なのかということをしっかりと認識できた」なんて息子が言い出したらじゃあ命とはどうゆうものでどう認識できたのかきっちり説明させてみたくなります。
きっと狡賢くその言葉を知ってその響きの美しさに納得したつもりでいるだけですから。
そんなこと、本当に認識できたのは人類史上、釈迦かキリスト位ですから。
25. Posted by けろっぐ博士   2012年01月23日 01:05
人類が最も好きなのは「食べ物」です。
そして逆に最も忌み嫌うものは「死体」です。
所がその二つは実は限りなくイコールなのです。
ギリギリの心のせめぎ合いみたいな物で人はタブーとして折り合いを付けています。
ヒノキのまな板に柳葉包丁でスパっと切ったコイのアライは美味ですが、結果は同じでもスレンレス皿でメスで行なったのでは限りなく不愉快です。
そのことを「同じ」だと短絡させようとするムーブメントは逆に言うとあらゆる非生産的な芸術をも否定するモノです。
だから一度でも飼ったペットと食べ物は同じじゃ無いんです。
その折り合いが付けれるのが生物の中で人類だけなのです。他の動物は食べ物も死体も同じです。
人が人故の心の非常に微妙な機微を否定するようなこの授業は私は共感できませんでした。
そこに感じる不愉快感が正しいかどうか・・とかは関係ないのです。不愉快に感じるのはおかしい・・と攻めることは出来ても、感じるな・・とは言えません。感じるものは仕方ないんです。私自身、そのムーブメントはやっぱり不愉快です。
26. Posted by けろっぐ博士   2012年01月23日 01:22
もし生徒の中に
「私は絶対この豚は食べない(業者に渡さない・・)」と言い張り、あるいは豚共々命懸けで遁走し、挙句の果てに「もしどうしても食べたいのならこの豚のかわりに俺の右足でも切って食えばいい!」とまで言う少年が出てきたら、それはその授業は大成功でしょう。そこまで言い張る確固たる信念が少年に芽生えたからです。
でも皆が「感動した」とか「命の大切さが云々」なんて言ってるうちは、先生の期待どおりに動く結局ズル賢いだけの結果なんです。
それが正しいとか理屈がどうとかじゃ無いんです。
心はそう捉えてしまうんです。
たしかに現実に直視するのも大事ですよ。でも必ずしもそうじゃ無い場合も有るんです。だから人はそこをタブーと名付けて防御しているんです。
そこには触れてはいけないんです。
考えさせる・・なんて言って、何をどう考えさせるのか答えも無く少年たちにマルなげじゃダメなんです。「考えさせる」なんていう言葉に酔っていてはダメなんです。
命に対してこういう事を投げかけて人に云々出来るのは、そういうことにちゃんと答えを見出してる釈迦かキリストくらいなんですよ。
27. Posted by toshi   2012年01月25日 15:36
けろっぐ博士さん
 おっしゃることは分かる気もしますが、違和感を抱く部分もあります。《そう感じてしまったんだから仕方ありません。》ではすまされない問題も多々あります。妻の出産シーンを例に出されましたが、これなどもすごく問題になるケースではないでしょうか。
 『無知は偏見を生み、偏見は差別を生む。』と、我が先輩も言いました。やっぱり正しく理解するための学習は大切です。
 本記事でとり上げた授業に問題があったことは事実です。それは記事にも書かせていただきました。しかし、《先生の期待どおりに動く結局ズル賢いだけの結果》というような授業でなかったことは確かです。

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