2008年11月12日

亡父の『歩こう会』4

36a5f8a0.JPG 今回は、久しぶりに、亡父の話題をとり上げたい。

 亡父は、昭和20年代がちょうど30代。戦後初期の社会科研究に励み、意欲的に実践をつんできた。そのあたりは、過去記事の、

   『温故知新(5) 父の実践から』

にくわしい。


 しかし、その父も、退職後は、教育現場から去り、そこにかかわることはなかった。その辺は、当時としての、けじめをつけたと言えよう。

 それにくらべると、わたしは、現職のときとは違ったかたちではあるものの、今も、教育現場にかかわっている。

 その辺の思いは、

   『時代というもの』

でふれている。


 その記事にも書かせてもらったが、父は、

『何で退職したものが、現場の指導などやっているのだ。退職したら、さっさと身を引かなければだめではないか。現職が萎縮してしまうぞ。』

が口癖だった。


 さて、同記事、『時代というもの』の末尾でもふれているが、

 退職後の父は、校長時代から始めていた、『〇△歩こう会』を主宰することが仕事となった。

 なぜ、そういうことになったか、本記事では、その辺にふれてみたい。



 話は、現職時代にさかのぼる。

 父の校長時代は、昭和40年代である。

 以下は、父から聞いた話であるが、


 定例のPTAの会合のとき、

 用件が済み、雑談に入ると、PTAの皆さんの話題は、いつも、我が子のことだったという。
『学校であったことをまったく話してくれない。』とか、
『宿題がどう。』とか、
『遊んでばかりいてちっとも勉強しない。』とか、
『塾へ通わせようか。』とか、

まあ、そういうことばかりが話題となったようだ。


 あるとき、父は言ったらしい。

「なんで、いつも、子どもの話ばかりになってしまうのだ。親が、そんなことばかり気にしていたら、子どもは窮屈で、のびのびできないだろう。それでは、子どもがかわいそうだ。

 皆さんには、ご自分の趣味といったものがないのか。自分自身が打ち込めるものがないのか。そういうものがあれば、子どもへの関心は、二番目、三番目になって、家庭はいつもなごやかで、窮屈でない、子どもにとっては、なごめる場となるだろう。きっといい親子関係がきずけるに違いない。」

「そう、言われても、『趣味をもつ、打ち込むものをもつ。』ことなど、急には思いつきません。」

「そのようなことはないだろう。何だっていいのだよ。さしあたって、景色のすばらしいところへハイキングにいくなど、身体を動かしてみたらどうだ。やれることはいくらでもある。」

「そんなハイキングと言われても、どこへ行ったらいいか、まったく分かりません。」

「そうか。それなら、今度、いいところへ案内してやろう。そういうところはいくらでもある。」

「うわあ。校長先生が案内してくださるのですか。ぜひお願いします。」

ということになったらしい。
 

 そして、休日、PTA行事として、歴史探訪とハイキングを兼ねたかたちで行うことになった。親だけでなく、お子さんの参加もOK。また、同校の教職員の参加もOKということにした。

 父の、訪問地における歴史解説や案内は、ことのほか、好評だったらしい。

 それで、『楽しかったです。また、お願いします。』ということになり、2度、3度と続くようになった。

 やがて、開催は定例化し、毎月行われるようになった。


 そのうわさが広がると、近隣校の保護者も参加するようになった。もちろん、大歓迎である。

 先にもふれたが、良好な親子関係を構築することが目的の一つだったから、お子さんの参加もOKだった。

 そこで、
『子どもがわがままで、親へ命令するような態度、親も子どもの言いなり。』とか、

逆に、『親の子どもへの態度が高圧的で、子どもが萎縮している。』などという姿がみられると、

 けっこう、『そんな子どもへの接し方ではダメだ。』など、口うるさいこともあったらしい。

 もちろん、子どものいる前ではないですよ。休憩場所へくると、子どもは子どもで遊びだすから、親だけと話す機会はいくらもあるのだった。

(それにしても、陰の声だが、当時の校長はえばっていたよね。うちの父だけだったのかな、・・・。今、このような校長はいるかな。)



 やがて、異動となる。

 しかし、この会は続いた。会員は、父親の勤務校の保護者に限定していなかったから、着任校の保護者にも、この会のことはすぐ伝わった。

「そのような会があるのなら、わたしたちも参加させてください。」

 こうして、着任校でも、PTA行事として、行われることになった。新旧PTAが合同で行うようになった。



 この会は、父の退職後も、持続発展していった。父は、『もうやめてもいいだろう。子どもも大きくなったことだし。』と思ったようだが、会員がやめさせてくれなかった。

 それどころか、会はだんだんふくらみ、世帯数300弱、会員数は、子どももまじえて1,000人弱という組織となった。



 そこで、再出発に際し、規約を定めることにした。

 この規約は、ちょっとおもしろい。他に例を見ないような、ユニークなものだった。かたちは、会員の承認を得たようになっているが、実質は父の一存で決まったようなものだった。

・三度連続で無断不参加したものは、除名する。以後会報は送らない。
・案内はするが、引率はしない。会員はそれぞれ自己の責任において参加する。
・いちいち人数確認はしない。途中から参加してもかまわないし、途中で抜けてもかまわない。
・子どもの参加はかまわないが、必ず保護者の同伴を必要とするし、保護者の責任において参加する。 

といったものだった。



 退職後は、それだけでなく、『山歩きの会』を始めたり、数多くのPTAからハイキングや歴史探訪の講師依頼を受けたり、自分一人だけでも出かけるなどして、それなりに、けっこう忙しく過ごしていた。


 我が家も、娘2人が小さいうちは、けっこう毎月のように参加した。

 また、父は車が嫌いだったが、夏など、どこかの川原でバーベキューをするときは、道具などの運搬のため、わたしに、車を出すことをたのむこともあった。
 
 

 この会は、ちょうど30年続いた。80歳を過ぎ、体が自由に動かなくなると、リーダーは会員の有志にたのみ、どこか一箇所だけで合流するというようなこともした。


 このころになると、毎月の会報作成は、わたしの仕事になった。父の原稿をもとに、わたしがワープロで作成した。



 父がいよいよ体の自由がきかなくなったとき、

「toshiが、この会を引き継いでくれると、ありがたいのだが・・・。」

 そう言われることもあった。


 しかし、申し訳ないが、これは、固く辞退させてもらった。当時、わたしは、退職後のことが決まっていたわけではなかったが、やはり、わたしの将来はわたしのやりたいようにやらせてもらいたかった。



 なお、わたしのことについては、かつて記事にさせていただいたことがある。

    わたしの初任者指導遍歴

 この記事のなかで、『自ら求めず、くるものは拒まず』の処世訓をもって生きてきたと書かせてもらった。むかしの歌ではないけれど、『時の流れに身をまかせ』ということだね。



 今、思う。

 これは父の生き方でもあったなと。

 時代が違うから、やっていることは違うけれど、自分で言うのも変だが、やはり、親子だ。生き方は自然に似てしまったと思われる。



 わたしの今の仕事は、とても、80代までとはいかないだろうと思う。けれど、体と意欲が続く限りは続けたいと思っている。


 あっ。もちろん、このブログもね。


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ninki



 昨日は、わたしの担当する初任者が、一日、校外で研修でした。

 そこで、わたしが、『一日担任』を務めさせていただきました。むかしに返ったようで、授業や子どもとのふれ合い等、とても楽しかったです。

 いやになってしまうのは、むかしは毎日やっていたことなのに、今は、身体がものすごく疲れてしまうこと。

 でも、心地よい疲れです。一晩寝れば、どうということはないですしね。  

rve83253 at 00:40│Comments(0)TrackBack(0)むかし | 保護者

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