2008年11月14日

鉄は熱いうちに打て(6)4

65bf12ee.jpg 久しぶりの本シリーズである。まずは、これまでの記事に、リンクさせていただこう。

   鉄は熱いうちに打て(1)


 さて、

 先日の初任者指導教員同士の研修会でのことだ。

 ある指導教員が、次のような話をされた。

「これは、初任者に限らず、ベテラン教員でも、あると思うが、日ごろ、話しやすい子、よく言うことを聞く子しか、相手にしていない教員がいる。問題行動の多い子、思い通りにならない子に対しては、頭ごなしに叱るだけで、それ以外のかかわりをもとうとしない。

 初任者は中学年を受け持つことが多いが、中学年だと、それでも、何とかなってしまう。そして、よくまとまったいいクラスのように見えることもある。

 しかし、中学年で、こういう学級経営をやられると、高学年の担任は、とても苦労することになる。それまでうっ積していたものが噴出するからだ。

 もう、高学年になると、幼かったころのように、何をしてもかわいいというわけにはいかない。いい意味でも悪い意味でも自我が形成され、それが色濃くでるようになる。そして、一部の子どもは担任の営みを妨害するようになり、そうなると、いくら努力しても、学級のまとまりは図れなくなりがちだ。」


 それに付随して、高学年担任の初任者をみている方が、

「わたしもそう思います。一人ひとりを見ると、感情のコントロールのできない子がふえているように思います。また、集団としてみた場合は、ルールとか規範とかいった意識が低いように思います。

 もう一つ、これは、むかしからなのかもしれませんが、自己肯定感や、やればできるというように、可能性を信じる気持ちが薄いというのが実感です。

 こういうのって、低学年から、しっかり育んでいかないと、高学年になってからでは、なかなかむずかしいですよね。」


 わたしは、それに対し、こう言った。

「それは、よく分かる。

 高学年になると、子どもの傍若無人な振る舞いがふえ、担任はそれに対応することに追われてしまったり、対応し切れなかったりする状況がありますよね。

 こういうのって、やっぱり、まだ指導がゆきわたる低、中学年のうちから、心を育む学級経営をしていかないといけないですね。

 小さいうちは、子どもの心を考慮せず、指示や叱責を繰り返しても、子どもはその通りになっていきますから、安易になりがちなのですね。そのつけが、高学年にまわるということではないでしょうか。先ほどの、扱いやすい子だけに対応するというのも、やはり安易ですよね。

 その点は、初任者指導でも、きっちり指導しなければいけないことのように思います。

 ただ、そうであっても、やっぱり、高学年担任は、そういう実態があることを覚悟し、全エネルギーを傾注して、学級づくりにまい進しなければいけない。それは確かだと思うのですよ。

 現に、高学年で大変だというのなら、もう、中学校はさらに大変ということでしょうからね。」



 ところで、話は変わるが、前号末尾において、わたしが、『一日担任』を務めたことを述べた。

 このとき、まさに、上記、『鉄は熱いうちに打て』的なことを思わせる事例があった。



 ここでは、初任者の学級(3年生)の問題的な場面を書くので、まず初めにお断りしておきたいのだが、初任者のクラスは、ずいぶん子どもが成長してきて、学級としてのまとまり、子どもたちの柔和な表情、おもいやり、やさしさのある行動が、顕著に見られるようになった。

 また、授業中の勝手な私語や手いたずら、担任を軽くみるような言動は減って、担任や発言している友達をしっかり見つめるようになった。

 とてもいい状態になっているので、担任をほめることがふえているのだが、たった一つ、二つ、今も気になることはあるのだ。

 
 そのうちの一つにかかわることが、わたしの指導中に起きた。


 それは、4月からみられたことで、Aちゃんが、Bちゃんを、いつもきびしく注意したり責めたりするのである。

「何、後ろ向いているのだよ。今、授業中だぞ。」
「B。うるさいぞ。静かにしろよ。」
「何、歩き回っているのだよ。席に着けよ。」

など。など。

 他の子の方がひどくても、常に、Bちゃんにきびしく言う。また、わたしが見ていて、まったく気にならないようなときでも、そういうことが多かった。


 これは、両名とも、地域が主宰する少年サッカーチームに所属しているので、そちらでの関係が、教室に及んでいるとみることもできよう。力関係が明らかにあるのだ。

 大体、Bは素直に反応して、『しまった。』というような表情を浮かべ、Aに言われたように直すのだが、ときに不満が爆発して、Aに文句を言ったり、体が小さいにもかかわらず、挑んでいくようなこともある。



 わたしは、このことについては、これまで次のように、初任者に話した。

「これは、早く解決しておかないと、高学年になってからでは、ますます指導がむずかしくなる。Aは、専横なふるまいが強まるだろうし、Bはますます萎縮するか、逆に反発して、かえって荒れてしまうことも考えられる。


 一番安直で効果のないやり方は、頭ごなしに注意したり叱りつけることだ。それでは、そのときは確かにやめるだろうけれど、心が養われることはないから、また、別な場所で同じことを繰り返すだろう。基本的な解決にはならない。

 ここは、やはり、Aの心を耕すやり方でないとまずい。

 どうやるかというと、たとえば、時間はかかるが、
『当然、AちゃんがBちゃんにきびしく言ってもふしぎのない場面で、そういうことを言わなかった。』とか、
『言うことは言ったがその言い方がやさしかった。』とか、
まったく別な場面で、Bちゃんをかばってやっていた。』とか、

そういう場面を見つけて、うんとほめることだ。


 たとえば、『今、すごくBちゃんにやさしく言えたね。先生、うれしかったよ。』などと言うのがいい。


 また、いくらそう言っても、緊急避難的に、そのきびしい言動を注意しなければいけないときもあるだろう。

 そういうとき、頭ごなしに叱るのではなく、
『Aちゃん。それは先生が言うことだよ。友達同士だと、けんかになることもあるから、そこは、先生に任せてね。』
と言うのがいいのではないか。」


 しかし、なかなか、そういう場面を見つけることはむずかしいらしく、指導の効果は上がっていないようだった。


 それは分かるのだ。

 今、目の前でやっている問題行動はすぐ気づくが、

 『当然、AちゃんがBちゃんにきびしく言ってもふしぎのない場面で、そういうことを言わなかった。』というのは、今、目の前では何もしていないわけだから、なかなか気づくのはむずかしい。



 さあ。それでは、わたしの『一日担任』だったとき起きたことにふれよう。



 この日、出勤すると、心うきうきしながら、教室に向かった。

 教室で、子どもたちと挨拶をかわしながら、
「今日は、全校朝会があるのだね。」
と言うと、子どもたちは、
「そうだ。廊下へ並ばなきゃ。」

そんな調子で、並び始めた。しかし、まだ、登校してきたばかりの子もいるので、ゆっくり廊下で待っていたら、やっと全員並んだ気配。人数を数えると1人いないが、欠席かもしれないから、『さあ、出発』と思ったところへ、Bちゃんが、廊下の角からやってきた。

「ああ。Bちゃん。おはよう。トイレでも行っていたのかな。じゃあ、これで全員並んだね。それでは体育館へ出発しよう。Bちゃん、間に合ってよかったね。」

 途中、まだ、廊下へ並んでもいない教室などを横目に、前の方の子に話しかける。
「これなら、体育館へ一番早く着くかもしれないね。」
「うん。これまでも、一回、一番だったことがある。」
「そうか。じゃあ、今日は二回目になるかな。」

 そのような話をしながら、体育館に到着。

「うわあ。やっぱり、一番だった。」

 みんなで一番到着を喜び合っていると、最後尾のAちゃんがやってきて、

「先生。Bちゃんが来ていないよ。廊下で泣いちゃって、まだ、教室にいると思うよ。」

とのこと。わたしはものすごく不可解な思いに襲われた。さっき、『Bちゃん、間に合ってよかったね。』と言ったばかりではないか。それから、ほとんど間をおかず出発したはずなのに、そんな短い時間に何が起きたというのか。

 『また、Aがよけいな一言を言ったかな。』

 でも、Aちゃんは、Bが来ていないことをとても心配しているように見えた。


 そんな思いをもちながら、

「ようし。分かった。教えてくれてありがとう。じゃあ、わたしはもう一度教室へ戻って、Bちゃんを連れてくるから、それまで、すわって静かに待っていてね。」


 そして、教室に向かおうと体育館を出かかると、なんと、Bちゃんがやってくるのに出っくわした。わたしは、それだけでものすごくうれしい気持ちになった。Bちゃんは泣き止んではいなかったが、足取りや態度は実にしっかりしていた。

 Bちゃんは、このようなとき、なかなか再起できない子だった。それがすぐ、気持ちを切り替え、体育館へくることができたのだもの。何があったかは分からないが、それこそ、『自律心が芽生えてきたのではないか。』そんな気持ちになった。


 そこで、一緒に歩きながら、『体育館で出会えたこと』を、まずほめた。


 まだ、時間はあったから、列に並んだBちゃんに、事情を聞くことにした。すぐ、Bちゃんは、起きたことを話し始めた。

 これも、うれしかった。

 このようなとき、なかなか話すことができない子は多い。Bちゃんも、今までなら、話しだすまでにすごく時間がかかった。そこで、すぐ話してくれたこともほめた。


 原因は、Cちゃんで、やはり、Aちゃんではなかった。これはホッとしたが、胸に秘めておくことにする。Aちゃんに失礼だものね。

 Cちゃんが、『遅いじゃない。』と言って、けってきたのだと言う。それだけ。


 でも、ここは、これまでになく素早く気持ちを切り替え、体育館へくることができたのだから、そのことだけをとり上げ、ほめることに徹する。


 そして、付け加えた。

「どうだ。Cちゃんにけられたということだが、『痛い。』というくらいにけられたのか。それとも、『ちょっとさわった。』というくらいのけられ方だったのか。」

 すると、『ちょっと』の方だと言う。

「分かった。Bちゃんは、えらいよ。正直だ。ふつうこういうときは、たいして痛くなくても、すごく痛かったように言う子が多いのだよ。だって、くやしいものな。Bちゃんは正直で、わたしはうれしい。

 じゃあ、どうかな。Cちゃんには、このことでは、何も言わなくていいかな。」

 そうしたら、『うん。』とうなづく。またまた、そのやさしさをほめた。


 そのとき、ちょうど、タイミングよく、全校朝会が始まった。



 以上のことをやって、教室へ戻ってから、みんなの前で、冒頭2つの点でのBちゃんのすばらしさにふれたあと、ここが、本指導の最大の眼目なのだが、



 「Bちゃん。わたしはすごくうれしかったのだが、Bちゃんが来ないことを心配して、わたしに教えてくれたのは、Aちゃんだったのだよ。Aちゃんて、ふだん、いろいろ言うことがあるけれど、ほんとうはすごくやさしいのだなって思ったよ。」

 Bちゃんの、『ほう。』といった顔、Aちゃんの、てれたような顔が印象的だった。


 この日、一日、Aちゃんのきびしい言葉は一回もなかった。



 最後に、

 こういう、人間関係の構造的な部分は、一朝一夕に解決するとは思わない。

 しかし、担任の不断の営みによって、解決は可能である。

 それも、子どもが小さいほど、たやすく解決できる。

 高学年、もっと言えば、中学校に尾を引くことのないようにするためにも、気をつけていきたいと思うのである。


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 上記の事件では、もう一つ、Bちゃんにお詫びしたことがあります。

「Cちゃんに、『遅い。』って言われたことだけれど、これは、別に、Bちゃんが遅かったわけではない。全体の出発がいつもより早すぎたのだよな。これは、わたしのせいだ。ごめんね。」

 わたしの、『一番になるかも、』という思いが、わざわいしたのでした。

 でも、これは、Cちゃんのことにはふれないと約束した以上、こっそりBちゃんに言うしかありませんでした。


 さて、以上の話は、後日、もちろん、初任の担任に話しました。ここから先は、担任に努力してもらいましょう。きっと、AちゃんとBちゃんのかかわりは、変容していくことでしょう。  

rve83253 at 12:10│Comments(4)TrackBack(0)学級経営 | 児童指導

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この記事へのコメント

1. Posted by いちみ   2008年11月15日 16:14
こんにちは。
「いちみの教室」の一美です。

どんなときも子どもの様子をよく観て、先生や周りの人が出来事を解決するのではなく、子どもが自分で考えていけるように引き出すことが私たちの役目ですね。

2. Posted by toshi   2008年11月15日 22:47
いちみさん
『子どもが自分で考えていけるように引き出す。』ほんとうに大切なことだと思います。
 『子どもは自ら伸びようとする存在』であることを信じられるか、そういうことでもあると思います。信じられない大人が多すぎるようです。
 
3. Posted by 今日   2009年01月03日 12:43
そうです。

教育とは、そういうものですよね。

そうならないと子どもは、あれますね。
4. Posted by toshi   2009年01月04日 06:37
今日さん
 子どもがあれない学級経営、それは、心の豊かさを育む学級経営と同義だと思うのですが、
 陰山氏などは、大きな誤解をしているようですね。知識上の基礎・基本を身につけさせれば、その場合、身につけさせ方は手段を選ばないようですが、そうすれば、あれなくなると思っているようです。
 非常にあらっぽい考え方ですね。

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