2008年11月20日

亡父、作詞の校歌4

5ae3b46e.JPG 先日、勤務校そばのA小学校で、社会科の研究発表会が行われた。

 今、わたしが担当している初任者は、『社会科を専門としたい。』と言っているし、わたしも、社会科を専門としてきたから、

 ちょうどいい。近隣校の授業を2人で見て、それをネタに、研究会終了後、2人で初任者研修をやるのも一興と思い、校長の許可をいただいて、出かけることにした。


 4年生の授業を見た。郷土の開発単元だった。

 ちょっと、いきなり、わき道へそれて、恐縮してしまうが、

 これは長く、『開発単元』と言われてきた。しかし、今は、開発に尽くした人をとり上げてもいいが、郷土の発展に尽くした人でもオーケーということで、とり上げる事象の幅が広げられている。



 話を本筋に戻す。

 わたしは、A校にうかがい、いただいた指導案を見て、驚いてしまった。

 なんと、同校の校歌が、資料として活用されるようになっていた。



 驚いてしまったのには、わけがある。


 わたしは、もちろん、A校が、亡父のかつての勤務校であることを知っている。昭和29年から36年まで、教頭として勤務した。さらに、同校の校歌は、父が作詞したものであることも、よく承知していた。

 その校歌が、社会科の開発単元の資料として、活用されるとは。

 新鮮な驚きであった。


 でも、指導案を読ませていただくと、それもよく理解できた。

 この地域は、大正時代の工業地帯の開発によって、発展した町なのだ。そして、父も長年社会科研究会に所属していたからであろう。地域の歴史や、工業地帯の開発が、子どもに分かりやすく、親しみやすい言葉で、詠みこまれていた。


 授業のなかで、担任が言う。

「〜。それではね。みんなで校歌の3番を歌ってみましょう。今、みんなが発言した内容が、校歌に入っているよね。校歌を歌うと、そこから、新たな学習問題が生まれてくるかもしれないよ。」


 わたしは、歌詞はうろ覚えで知っていたが、歌を聞くのは初めてだ。

 もう、亡父に出会えたような気がして、感動のあまり、目頭が熱くなってしまった。

 
 授業終了後、担任のところへ行って、挨拶とお礼を述べた。

 それはもう、担任の教員もえらく驚かれて、

「ええっ。作詞された先生のお子様が、授業をご覧になっていたのですか。それは、それは、・・・、うわあ。今になって緊張してしまいます。」


 研究討議の場では、わたしは、一番後ろの席に座り、黙っていた。本研究会においては、後輩の現職校長が講師を務めているので、でしゃばってはいけないという思いだった。


 ところが、

 校歌が話題となったとき、授業者から、突然、指名されてしまった。


 わたしは、ここでも、お礼の気持ちを述べるとともに、皆さんがおっしゃるように、校歌が授業の資料として見事に生きていたことを述べ、ついでに、一つ、記憶していることを話した。




 それは次のようなことだ。


 父の作詞では当時、眼下に見える工場地帯からたち上っていたであろう『煙』が歌いこまれていた。

 校歌が作られたのは、昭和30年である。この年はどういう年か。

 まだ、公害という言葉はなかった。人々にそういう意識はなかった。もうすでに、公害の被害はあっただろうけれど、それらは、まったく別なやまいと思われていた。



 一方、昭和20年の敗戦から10年。

 日本が焼土と化し、何もなかった昭和20年。敗戦後の日本。それは、それは、空気はきれいだったことだろう。しかし、それは同時に、貧しさの極致でもあった。

 人々は、早期復興を願い、やがて、高度成長期へと向かうことになる。


 10年たち、工場地帯は復興した。そこから、もくもくとたち上る煙。それは、A校のすぐそばでも見られたはずである。その煙は、まさに繁栄につながる、一つの象徴とみられたに違いない。

 わたしも、このとき、もちろん違う学校ではあるものの、小学5年生。確か、工業地帯の学習では、そのような意識で学んだ記憶がある。


 このころの人々の意識について、関連する記事を書かせていただいたことがあります。よろしければご覧ください。

   地球温暖化をめぐって、


 工場から出る煙が、公害として人々の意識に上ったのは、四日市ゼンソクからではないか。今、ウィキぺディアで調べてみると、公害病と認定し、市費で治療費を補償したのは、昭和40年からとある。

 そして、同市コンビナート近くの小学校校歌では、「科学の誇る工場」と歌われていたとある。ああ。A校と同じだったのだなと、また、新たな感慨をもった。

 ただし、『同校校歌は保護者の抗議を受けて変えられた。』とある。


 A校では、保護者の抗議はなかったようだが、同校の当時の教員によって、『煙』の部分だけが変えられた。


 父がそれを知っていたか。あるいは、部分的な改変を承知したのか、それは、今となっては分からない。

 しかし、これでよかったと思う。父も、もちろん、賛意を表したことだろう。


 わたしの記憶でも、当時、この地域の学校には、空気清浄機が各教室に取り付けられていたものね。



 上記研究会で、以上の話を紹介したあと、さらに次のように続けた。

「4年生のこの単元だけでなく、3年生では、郷土のむかしの学習をしますね。わたしはかねがね、校歌は、こうした学習の資料として使えるケースが多いのではないかと思っています。地域の特長、人々の願いなどが、子どもに分かる言葉で書かれていることも多いのではないでしょうか。ですから、ご自分の学校の校歌を、そうした目で、再点検していただければと思います。

 また、これは、A小学校に限定しての話ですが、校歌がなぜ一部改変されたか。それを追求することは、とり上げた時代の時代相に迫ることになると思います。

 今とはまったく人々の生活が違っていたこと。そして、人々の願いも異なっていたこと。さらには、公害に苦しんだり、公害を克服しようとしたりする先人の営みや努力があったことに迫れるのではないでしょうか。」


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 わたしは、自分がかつて勤務した、すべての学校の校歌を歌うことができます。ただし、一番だけですけれどね。

 校歌を思い出すことが、そのまま、そのころの子どもたち、教育実践を思い出すことに直結しているようです。

 それに比べると、今の勤務は、週2日。しかも、一年単位ですから、聞くチャンスもあまりないし、とても覚えられません。それがさびしくもあります。

rve83253 at 23:58│Comments(0)TrackBack(0)むかし | 学校経営

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