2008年11月26日

教えるか、教えないか、4

b140eab3.JPG 『教えて考えさせる授業』と『教えず考えさせる授業』とを対比させての教育論があるらしい。newKamerさんからいただいたコメント(リンク先の11番以降)で知った。

 以下、それにかかわっての、わたしの思いを書かせていただくのであるが、同教育論をくわしく知るわけではないので、おそらくそれと概念を異にする部分もあるだろうとは思う。その点、あらかじめお断りしておきたい。

 

 先に、『toshiの学級だより論(2)』の記事において、とても楽しく充実した学年経営をすることができたことにふれた。

 この学校においては、何人もの教員と学級だよりを交換し合う仲になったから、自然に議論も活発に行うようになった。そのなかでも、同学年だったA先生との議論がなつかしい。

 いろいろ議論し合ったなかに、冒頭の、教えて考えさせるか、教えず考えさせるかにかかわる議論があった。


 わたしは、問題解決学習を標榜する以上、教えず考えさせる授業という考え方だ。それに対し、A先生は、「いつも教えず考えさせる授業をすることはできない。教材によっては、教えて考えさせる授業となることもある。」という考えだった。



 それでは、再現の議論を、どうぞ。


「いつも教えず考えさせる授業をするのでないと、気分で、教えたり教えなかったりするのでは、子どもの、自ら問題発見し、自ら追求し、自ら解決しようとする姿勢は中途半端になってしまい、育たないのではないか。」

「それは、確かに、気分しだいではダメね。・・・。でも、子ども自らが問題発見しようがない教材だってあるわよ。」

「それは、教材とするのに、そもそも無理があったのだ。子どもが問題発見しようがないものなどは、とり上げるべきではない。」

「そのようなことを言ったって、教科書にある内容は、やらないわけにはいかないじゃない。」

「教科書に載っているのなら、子どもたちはそれにふれることができるのだから、子ども自ら問題発見することは可能だろう。

 それは、いくら教科書に載っていても、こどもたちをほおっておいて、ただ、『さあ、問題発見しろ。』と言ったって、無理な場合は多い。そこは、教員側の『しかけ』が必要となる。」

「ほら。やっぱり、教えるのじゃない。・・・。そうよ。そうしなければ無理よ。」

「いや。『しかける。』ことは教えることとは違う。・・・。子どもがどう受け止めているかが違うのだ。『教える。』とは、『教えられることが子どもに見えてしまっていて、子どもからすれば、先生が質問したから、今の学習をしている。』となってしまう場合だ。

 それに対し、『しかける。』とは、『しかけられたことが子どもに見えていないので、子どもは、自分たちで学習したいから、今の学習をしている。』と思っている場合だ。」

「なんでそんなに、子どもたちの思いにこだわるの。自分たちで発見した問題しか学習できないとしたら、思うように子どもを育てられないことだってあるし、・・・、

 それに、子どもへのしかけには時間をとられることだってあるわ。いつも、教えて考えさせると言っているわけではないのだから、教材によっては、教えてもいいのではないかしら。」

「いや。学習というのは、学校生活卒業とともに、終わりではないのだ。永遠に続く。わたしたちは、生涯を通じて学び続けようとする意志の形成をねらっている。

 それなら、徹底して自ら学ぼうとする資質の形成をねらわないと、『大人が与えてくれるから学習する。』という習慣をつけてしまったのでは、学習は学校生活終了とともに、終えてしまうのではないかと、それを恐れる。」

「たまに教えられたからと言って、終わってしまうと決めてかかる必要はないわよ。第一、大人になったって、教えられることってあるわよ。教えられて、『よかったなあ。ありがたかったな。』って、素直に思うものよ。」

「それは、そもそも、『教えてもらおう。』とする気持ちがA先生にあったからだろう。

 学ぶ必要性を感じていなければ、『教えてもらってよかった。』とは思わないのではないか。もっと言えば、時間がムダと思うことだってあるかもしれない。」

「それなら、『教えてもらおう。』っていう気持ちにさせれば、教えてもいいの。」

「それはそうだ。子どもに、『先生。これ、分からないのだけれど、どうやったらいいの。』と聞かれて、教えない先生はいないのではないかな。」

「うううん。そうか。それなら、分かる気がするけれど。・・・。

 でも、やっぱり、『聞きにこないと教えてはいけない。』というのも不便ね。

 たとえば、今、うちの学校は、図工の校内研究をやっているじゃない。それで、マーブリングを教えたくなったとするわね。でも、子どもはそんな技法があることは知らないから、まず、聞いてくることはないわね。

 それで、指導する側が、『ああ。おしいな。ここはマーブリングの技法を使えば、すごくいい作品になるのに。』と思ったとき、わたしなら、やっぱり、『こういうやり方があるわよ。』って教えちゃうな。

 それで、それをとり入れるかどうかは、子どもの判断でいいと思うけれど。」

「そうだな。でも、マーブリングを教えたくなるのであれば、わたしなら、『先生。教えて。』と言ってくるようにしかけるよ。どこか廊下にそうした作品を掲示しておくとかして。」

「ううん。やっぱり時間がかかるわね。わたしはそんなに待ってはいられない。確かに、子どもが受け入れるかどうかの判断は必要だろうけれど。」

「そうだね。受け入れそうな子、受け入れなさそうな子、それは、日ごろ接していれば、かなり判断はつくよね。・・・。もっと言えば、ここで教えたからと言って、この子の生涯学習力形成はびくともしない。そう思えるのであれば、それは、たとえ、気づいていなくても、求めてこなくても、その子にとっての学びの必然性はあるとみなし、教えてもいいかもしれないね。

 ただね。図工のすばらしい先生に教わると、そのクラスの子は、確かにすばらしい絵を描く。その絵には、ダイナミックで躍動的な子どもの姿が描かれる。しかし、どの子もみんなそうした絵を描くようになると、そこに個性が感じられなくなってしまうのだな。それはやっぱり、教えすぎなのではないかと思うよ。」

「それはそうとばかりは言えないのではないかしら。だって、一人の子がそうした絵を描いて、それがすばらしいとみんなが思えば、ぼくも、わたしも描きたいなって思うでしょう。それこそ、自ら、教えてもらいたいと思うわけ。そうしたら教えていいのでしょう。だったら、みんなが似たような絵を描くことだって起こりうるわよ。」



 以上、そういう話し合いが延々と続いた。なつかしい思い出だ。
 

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 わたしは、そんなに、原理主義者ではありません。

 したがって、教え込むことは一切なかったと言ったらうそになります。
 
 しかし、教え込んでしまったときは、常に、それを悔やむ気持ちがありましたし、『それでよかったのか。教えず、子どもの気づきを促す手だてはなかったのか。』そうした思いでいつも考え込みました。

 でも、それでよかったのだと思います。


 初任者指導でも、そうしたことは、常に話しています。

「『いつも無反省に教え込んでしまっているか。』あるいは、たとえ教え込んだとしても、『どうすれば、子ども自身の気づきを促すことができたか。』と振り返る習慣をつけているかは、長い目で見れば、大きな差となって現れる。」

 初任者は、いくらかホッとする思いになるようです。

rve83253 at 06:21│Comments(6)TrackBack(0)教育観 | 指導観

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この記事へのコメント

1. Posted by newKamer   2008年11月26日 09:40
 エントリで扱っていただき、ありがとうございます。時間ができたときに、市川さんの授業例(算数でした)の概要を書き込ませていただこうかと思います。
 toshi先生の推進する手法との違いがはっきりすると、色々と考えを深めることができるのではないかと思っています。

(以下、自己紹介です)

 私は、親として自分の子供の教育に取り組む立場です(これから、ですけれど)。しかし、それ以外に「ジュニア・スケプティック」という活動に興味を持っています。この活動には、問題解決学習の手法が最も適切ではないか?と思っているため、問題解決学習をきちんと理解したいと思いtoshi先生のブログを購読しています。
http://asios-blog.seesaa.net/category/5583930-1.html

 本意ではなく不躾な質問をしてしまうかもしれませんが、切実感の表れだと解釈していただき、大目にみて頂ければ幸いです。
2. Posted by こたろ   2008年11月26日 23:25
今日は、体育で初任研の授業をしました。
その中で、「体育は集団行動を体に染みこませるために最もやりやすい教科の1つだ」という話がありました。体育は、時数も限られていて、運動量確保にはキビキビ動かせてやる必要があることは理解できます。
ただ、それが習慣になってしまい、「なぜそうするのか」を考えられなくなったときに大きなマイナスではないか? と思ってどうしてもこうしろああしろと言えなかった私がいます。でも、小2では、どうしたってまだそこまで理解できない子もいるんですよね。
手を3回叩いたら立つとか、集団を動かす技術をどのあたりまで取り入れるべきなのか、悩んでます。研修でも、教育は技術ではなく人間で勝負というけれど、最低限の技術は必要とも言われます。その「最低限」とは?
教えられないことは、勇気をもって教えない。それも大切かと思うんですが、それがもとで、高学年になって規律が守れないといわれるかと思うと…。勇気が挫かれる思いです。 
3. Posted by toshi   2008年11月26日 23:26
newKamerさん
 こちらこそ、失礼があったかもしれないと、申し訳なく思っています。ただ、『教えて考えさせる授業』という言葉だけ見て、鮮明に思い出すことがあったものですから、記事にさせていただきました。
《問題解決学習をきちんと理解したいと思いtoshi先生のブログを購読しています。》
 ありがとうございます。
 なお、しかけについては、かつて記事にしております。よろしければご覧ください。本コメントのHNに、URLを貼り付けさせていただきました。
4. Posted by toshi   2008年11月27日 00:01
こたろさん
 よく分かります。体育に限らず、音楽、図工なども、どうしても、指示、教え込み、訓練が多くなりがちですよね。
《「体育は集団行動を体にしみ込ませるために最もやりやすい教科の1つだ。」》
 これはちょっと、わたしにはよく理解できません。もしかしたら、それと逆な考えになるかもしれませんが、わたしがかつて学ばせていただいた言葉には、
「ほとんどの子どもは、もともと身体を動かすことが大好きである。だから、たいして指導法など学ばなくても、子どもは張り切っていきいきと運動に取り組む。つまらない授業でもつまらない顔をしない。そういう意味では、安易になりがちな点、気をつけなければいけない。」
という講師の言葉がありました。
 どうでしょうか。2年生でしたら、『〜あそび』と称する単元が多いのではないですか。
 遊びを名称だけにしないことが大切だと思います。子どもは遊びの気分でいいのです。
・楽しく運動する。
・指導者は、子どものそうした活動から、すばらしい動き、すばらしくなった動きをほめる。
・ほめる言葉を学級全員に聞かせて、ひびき合っていくようにする。
 また、子どもが楽しく運動するための、場の設定なども、大切な要素となるでしょうね。
 また、低学年に、『なぜそうするのか。』は、必要ないと思うのですが、いかがでしょう。
 『集団を動かす技術』。これはやはり大切でしょうね。
・ただし、きびきび動くことや、そろった動きをすることの楽しさを感じさせることが大切でしょうね。
・そうしたなかで、約束の大切さにも気づかせることだと思います。
 ただ、どうしても、他教科にくらべ、指示が多くなってしまう傾向になるのはやむをえないと思います。要は、そうなってしまったら、振り返りを大切にし、それを次に生かすことではないでしょうか。
5. Posted by こたろ   2008年11月27日 20:55
大いに参考になりました。
「〜あそび」なわけですから、体を動かすことを楽しめて、そこにうまく価値付けしてあげるというスタンスにすればいいのかなと思いました。
体を動かす楽しみを最大の目的ととらえればよさそうですね。再考してがんばってみたいです。
ありがとうございました。
6. Posted by toshi   2008年11月28日 08:11
こたろさん
《体を動かす楽しみを最大の目的ととらえればよさそうですね。》
 その通りだと思います。
 そして、『身体を動かす楽しみを体感した子どもなら、技能も十分獲得するはずだ。』という信念ですね。
 そして、信念はもう一つ。
 しっかり教材研究した指導者が、その信念に従って、的確な支援、助言をすれば、ほんとうにそのとおりになっていくものだということです。
 このようなことを書くと、それは大変なことと思われるかもしれませんが、子どもの意欲、やる気を養えれば、大体は解決というのが、わたしの思いです。 

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