2008年12月06日

授業の『達人』、『鉄人』、『名人』に物申す。3

2235d1b5.JPG 近年、授業の達人、鉄人、名人などという言葉を、よく聞く。

 何となく、違和感を感じていたら、最近、ある読者の方から、ネットのニュースを紹介いただいた。2005年とあるから、もう3年前の記事だが、今のニュースとみてもいいくらい、ホットな感じがする。

   教育ルネサンス 教師力 (1) 広がる技量向上作戦

 
 わたしとしては、どうも、この、達人とか、鉄人とか、名人などという言葉に、違和感がある。
 まして、この新聞記事のような、授業技量検定とか、表彰制度などと聞くと、『ちょっと待ってよ。それでいいの。』と言いたくなる。


 モヤモヤしているわけは、

 いったい、達人とか、鉄人とか、名人などと認定する、その評価は、どのような内容をもって行われているのか、それが、ほとんど分からないからである。


 ただ一つの例外。

 上記引用記事には、冒頭に、TOSSの例が紹介されているが、同サークルのそれは、よく分かるつもりだ。リンクすることはできないが、授業技量検定の様子などはネットで知ることができる。

 また、わたし自身も、TOSSの授業を見たことはある。

 今、ここで、TOSSにふれた拙ブログ記事にリンクさせていただこう。

   校長先生の授業(2) TOSSとくらべて

 同サークルの指導法は、

・指導者の指示、発問で授業が進み、子どもはその指示の通りに活動したり、発問に答えたりする授業であること。つまり、受身の姿勢が養われてしまうこと。

 また、授業技量検定なるものは、
・大人が子ども役になって、受験者の授業を受けるようになっていること。
のようだ。


 さて、そうした検定にどれだけの意味があるのだろう。

 確かに、子どもがいきいきしていれば、感動することもあるだろう。子どもにとっての分かりやすさをねらう。教材の提示の仕方を工夫する。
 その結果、子どもがノルことはあるだろう。達人、鉄人、名人の授業なら、学力調査の成績はよくなるだろう。

 それは認める。しかし、それだけのことだ。


 子どもが受身であることに変わりはない。子ども自身が、自ら問題意識をもち、問題解決していこうとする、そういう学習が行われることはない。それでは、社会に出てから有効に機能する、実用的学力を養うことはできない。

 もっと言わせていただこう。

 上記、拙ブログ記事に寄せられたドラゴンさんのコメントをお借りすれば、

  ・社会一般でも、子どもは大人の不完全な形であり、大人が知識を持っていて、子どもは持っていないので与えてやろう、そのような子ども観、教育観が根強いと思っています。そしてTOSSは、その典型なんだろう考えています。

  ・学力調査で、同じ問題を小学生と中学生に出したところ、小学生の方がよい結果が出ました。〜、決して小学生の学力が高いわけではなく、小学生は習ったばかりだから覚えていただけの話です。つまり、ほとんどが覚えるだけの学習をしていたので、中学では残っていなかったのです。
 おそらく、TOSSの授業では、このような結果になるでしょう。
ということになる。わたしもまったく同感である。
 

 要するに、

 右の耳から入ったとすれば、左の耳から抜けていく学力。

 国のいうところの、『生きる力』。『創造力、企画力、人間関係調整力』などは、養われないと言っていいだろう。


 さて、
 一昨日、わたしが担当する初任者の授業で、次のような場面があった。

 3年生の国語、『すがたをかえる大豆』である。

 Aちゃんが言う。

「小さな生物の力を借りて、それで、食べ物ができるなんて、おかしい。変。大豆はもともと食べ物なのだから、小さな生物の力を借りなくったっていいじゃん。」

 これは意味不明の発言だ。

 『小さな生物の力を借りなくったっていい。』と言ったって、教科書には、ナットウキンの力を借りてできたのがナットウ、コウジカビの力を借りたのが、みそやしょうゆと書いてある。

 これを聞いたら、多くの教員は、
『Aちゃんは、ナットウやみそやしょうゆはなくてもいいと思っているのだろうか。大豆は大豆のまま食べればいい。そう思っているのだろうか。そんなばかな。』
と思うのではないか。

 初任者で担任のBさんもこまったようだ。そこで、上記2行のような質問をAちゃんにした。『そんなばかな。』までは言わなかったけれどね。

 すると、Aちゃんが答える。

「ううん。大豆のままで食べればいいというわけではないのだけれどね。・・・。何て言ったらいいのかな。もう少し考えてみる。」

 わたしも不可解な思いはぬぐえなかったが、でも、最後の、『もう少し考えてみる。』にはシビレた。
 いいなあ。Bさんは、『主体的に学ぼうとする、いい子どもを育てているな。』という思いだった。

 だって、Bさんは、特別な発問はしていないのである。子どもたちが自分の思いを出し合うなかで、学習を深めているのである。


 次の、Cちゃんの発言が、またシビレた。シビレっぱなしになった。
「先生。Aちゃんが言いたいことはさ、
 ナットウキンのキンて言うと、なんだかバイキンみたいでしょう。それと、コウジカビのカビって言うと、なんか、きたなくて、カビなんか食べようって思わないでしょう。
 両方とも、いやな感じがしちゃうからね。

 それで、ナットウやみそやしょうゆって言えば、食べられるけれど、カビやキンて言われると食べたくなくなっちゃうって言いたいのではないの。」
 
 助けを得て、ニコニコっとほほえむAちゃん。『そう。そう。その通り。』と言いたそうだ。
 意味が分かって、うれしそうな顔をする担任のBさん。わたしまでガッテンし、うれしくなってしまった。


 さらにつけたしをしたのは、Dちゃんたちだ。
「そんなことないよ。カビやキンは、きたないものばかりではないのだよ。だって、乳酸菌とか、ビフィズス菌とか言うじゃん。」
「そうだよ。食べ物の中に入っている、いいキンやカビだってあるのだよ。」

 おかげで、こちらは、Aちゃんの心の奥にあった思いを知ることができた。

 そして、思う。

 よかった。そのように思っている子は、Aちゃんだけではないだろう。その子たちの不可解な思いは、これで氷解したのではないかと。


 こうした授業の様子は、以前も記事にさせていただいたことがある。
 有名な金子みすゞさんの作品『わたしと小鳥とすずと』の授業だ。この授業では、『すずも、わたしも、たくさんな歌は知らない。』と読み取っていた子が、少なからずいたのだっけ。


 子どもが学びの主体者ということはどういうことだろう。

 こういう子どもの思い、意識、葛藤。それらに、学びの足場をおくことではないのか。

 ところが、多くの教員は、こういう場合、不可解な発言、意味不明な発言として、まともにとり上げないのではないか。子どもにしてみれば、無視された思いになる。


 TOSSの授業でも、同様のことが起きる。

 いや。その種の発言は、初めっから出ないか。だって、どの授業記録を見たって、子どもは、まくしたてられるような授業者の発問に答えるだけなのだから、
 彼ら授業者は、効率的に考えさせたり、覚えさせたりすることしか眼中にない。
 その結果、もしAちゃんのように思う子がいたら、子どもの方に不可解な思いが残る。

 そういう授業における、『達人』『鉄人』『名人』なのだ。
 

 ここで、亡父の言葉を紹介しよう。昭和20年代、父がコアカリキュラムの研究と実践に、もえていたころのことを、晩年に思い出して言う。

 「全国から、教員が授業を見に来た。毎日が研究授業のようだった。ほとんどの人は、『よかった。勉強になった。これからの、日本の民主主義教育のあり方を学ばせていただいた。』と、喜んで帰っていったのだが、なかにはそうでない人もいたな。
 『よく子どもの発言をあんなにとり上げながら、学習を深めていけるものだ。あんな授業は名人でないとできない。誰でもできる授業ではない。』とな。

 そう言われると、よく言い返したものだ。
 『そうではないでしょう。子どもの学びたいという思い、ぼくは、わたしは、今これを学びたいのだという、そういう思いを無視し、知ろうともしないで、指導者が一方的に授業を進めたら、子どもをお客さんにしておくわけで、
 それで、子どもに価値ある学びをさせることができるのなら、そっちの方がよほど、名人だ。』とな。」


 ああ。そうか。

 それなら、同サークルの目指す授業のできる人は、『達人』『鉄人』『名人』でいいのだね。

 でも、わたしたち、子ども主体の学習を標榜するものは違う。

 第一、どんな教員だって、子どもの調子のよくないときは、いい授業にならないもの。それに、先ほど、『すがたをかえる大豆』と、『わたしと小鳥とすずと』の実践を紹介させていただいたけれど、いつも、あのように、うまく『氷解する』とは限らないもの。

 上記Aちゃんのような子が不可解な思いのままで授業が進行してしまい、あとで、大反省を迫られることだってあるもの。とても、『達人』『鉄人』『名人』などと自認できるものではない。


 授業者は目立ってはいけないのだ。

 あくまで、学ぶ主体は子どもである。授業者は縁の下の力持ちでなければならない。


 さて、冒頭の新聞記事にまた戻るが、

 同記事には、川崎市のある学校の例として、PTA役員が、教員の授業力を評価する事例が載っている。

 わたしは、これにも違和感を覚える。
・PTA役員という、一部の選ばれた人だけが特別扱いされていいのか。
・保護者は、学校評価の際、アンケートに答えるかたちで教員評価もしているであろう。屋上屋を重ねる必要があるのか。
・記事にある、「指示が明確で分かりやすいか。」「児童が積極的に発言しているか。」程度のことは、日ごろ校長や先輩教員が見て、指導すれば十分ではないのか。

 なお、記事には、校長の言葉として、『C』や『D』の評価があると、すぐ校長が見に行き、指導するとあるが、

わたしは、折々に、全教員の授業を見て、それぞれが目指す授業向上策について、わたしも意見を言える機会をもたせてもらった。『A』や『B』がつく教員だって、その教員なりに伸びていってほしいもの。また、教員にしてみれば、伸ばしてもらう権利がある。


 最後に、TOSSの方が次のように言うのを聞いたことがある。

 「未熟な子どもたちの発言など、分かりづらく、意味不明なことが多い。そういう子どもたちに長々と発言させておくことは時間のムダである。そこは、指導者である教員が、要領よく語って聞かせた方が、子どもはよく理解できるのだ。」

 わたしは思う。やっぱり、子どもより指導者主体なのだね。

 まじめに真剣に発言している子どもではないか。その言葉がたとえ未熟であっても、それが、時間のムダであるはずがない。そこを土台として、子どもが育っていくのだ。真剣に学んでいる子どもに対し、失礼だ。


 そうではない。

 上記、大豆の授業のように、子どもの話は、子ども同士ではよく分かる。大人が、理解不能になるなのだ。

 逆も真なり。大人の話は子どもがよく理解できない。そういうことが多い。

 見よ。長々と、指導者が説明している間の、子どものつまらなそうな表情を。まるで聞いていない。
 まあ、達人、鉄人、名人の授業なら、そういうことはないだろうけれどね。

 今、各地で行われているという、『達人』『鉄人』『名人』を目指す動き。これが同サークルと同じようなものでなければ幸いだ。


にほんブログ村 教育ブログへ

ninki



 技量向上を図ることは当然です。教員は、そのための不断の努力を積まなければなりません。

 しかし、それは、級とか、段とかとは無縁です。目の前にいるのは、試験官ではなく、子どもです。子どもから学ぶのです。
 研究会の講師は、その、『子どもから学ぶ。』ことについての講師でなければなりません。

 新聞記事には、『学校で授業を見せ合う機会はめったにない。』とありました。

 ほんとうにそうなのでしょうか。それだったら、問題です。少なくとも、我が地域では、そういう機会は豊富にあります。それこそが、技量を高める機会なのです。 

rve83253 at 14:35│Comments(30)TrackBack(1)教育観 | 指導観

トラックバックURL

この記事へのトラックバック

1. 何のために勉強するのか? WEB対話のまとめ  [ 一歩いっぽ・・・前に前に!(マインドマップ教育フェロー・辰巳ジャンプ監督) ]   2008年12月22日 23:30
このブログに登校してくださる中国の南開大学・kawa先生とのやりとり。今回もまた記事にして再アップした方が良い内容となりました。 話題は『何のために勉強するのか?』という教育の根本とも言える内容でした。 長文ですが、皆さん、ぜひご一読下さい。 *******...

この記事へのコメント

1. Posted by たけや   2008年12月06日 18:48
こんにちは。
学校の現場は、数値による目標を設けて、それをどこまで達成できたかということばかりで評価していく流れが中心になってきています。
効率化そのものを否定するわけではなく、場合によっては必要なこともありますが、効率ばかりが重視されて、数値化による基準を設けて授業評価をするようになると、子どもたちの話し合いの豊かさは失われていく恐れがあります。
学校というところは、もっとじたばたしたり、うろうろしたりすることが許されていいのではないかと思うのですが。スマートに行くことだけを考えると教師も子どもも苦しくなるだけではないでしょうか。
一見遠回りに思えるようなやりとりが、子どもたちの理解を深めさせるということを、私たちは広く示していかなければならないのかなと思います。
効率ばかりを追う視点ではなく、子どもたちのやりとりの豊かさで授業評価を進めることを研究していく必要を感じました。
2. Posted by フルタ   2008年12月07日 02:16
今回のtoshi先生の記事を読んで、マスコミの報道のあり方にも疑問を持ちました。
紹介されている記事の数年前には不適格教師という言葉も出回っていたような気がします。この解決策として、2、3年前は現場の先生方の技量を表彰する制度が出てきたのでしょうか?
そして、今は保護者がモンスターとして問題視されています。
話題性のありそうな問題や特効薬を見つけては、飛びついて報道をし、自信がない教育者がそれに振り回され、現場に混乱をもたらしているようにさえ感じます。
子どもも巻き込むことなので、報道等は慎重にして欲しいし、報道を取り込む側もよく考えなければならないように思います。
3. Posted by kei   2008年12月07日 07:35
「学ぶ主体は子ども。授業者は縁の下の力持ちでなくてはならない。」
 子どもたちがそれぞれ持っている力を十分に発現できるように、課題を子どもたちと共に作ったり、環境を整えるたりするのが、大きな仕事であると今思っています。
 もうじき、授業研究会があり、普段の授業を公開する予定ですが、この言葉を胸にしてのぞみたいと思います。この記事はタイムリーでした。ありがとうございます。
 
4. Posted by フルタ   2008年12月07日 08:34
今朝、起きてから、上に「自信がない教育者がそれに振り回され、」と書き過ぎたことが、心に引っかかって思い出されていました。私も「自信のない親」で、いろいろな報道に振り回されているからです。
中学生の我が子は、そんな母親のことも認識しており、矛盾することを言う母親に、時折、厳しい言葉を投げかけます。
小学生の下の子も、感づいてはいるのだと思います。おかしいな?、何でだろう?と思いつつも、損得勘定で身の置き方も学習しているのかもしれません。
上手く表現できないのですが、「主体は子ども」とするtoshi先生のお考えは、主体が大人となる「子どものために」とは違うんだなぁとも感じました。
この点も意識して、子育てをしていきたいなぁと思いました。ありがとうございます。
5. Posted by toshi   2008年12月07日 14:33
たけやさん
 わたしが言いたいことを、端的に表してくださいました。
《効率ばかりを追う視点ではなく、子どもたちのやりとりの豊かさで授業評価を進めることを研究していく必要を感じました。》
 まさにその通り。わたしの言い足りなかった点を補足していただいた思いです。ほんとうにありがとうございます。
 授業では、ゆとりと張りが大切と、どこかで書いたのですが、今は、張りと張り。それが忘れられそうな気配です。
 たけやさんのブログ、拝見させていただきました。ちょうど、『菌類のふしぎ』なる記事があり、驚きました。かかわりますので、紹介させてくださいね。
http://d.hatena.ne.jp/takeya_masaaki/20081124/
 
6. Posted by toshi   2008年12月07日 15:03
フルタさん
 以前、国は無定見という記事を書かせていただきましたが、マスコミも同様なものが多いですね。どんな教育観であっても、そのときそのときウケのいい内容をとり上げているだけといった感があります。なかには、『定見あり』のすばらしい報道もあるのですがね。
 記事にも書かせていただきましたが、わたしは表彰制度そのものに反対なわけではないのです。問題はどういう教員を表彰するのかということです。不適格教員については、はっきりとした概念があるのに対し、こちらの方は、どうもあいまいなまま制度がスタートしているように思います。
 『主体が子ども』についてですが、TOSSにしても、子どものために日々努力するという意識であるのは、間違いないでしょう。問題なのは、『何が子どものためになるのか。』の思いがまるで違うということだと思います。
 人は、どんな年齢であっても、自ら生き抜く人として認められ、尊重されなければなりません。どんなに未熟な存在でも、その思い、考え、能力が尊重されなければ、たとえ、指導内容は民主主義でも、指導法は、戦前となんら変わりはないということになりそうです。
 親は矛盾だらけです。言っていることが時として食い違ってくる矛盾、言っていることと行動との矛盾。わたしだって同じです。つい最近も、娘から指摘されてしまいました。
 矛盾を恐れず、しかし、謙虚さも併せ持ち、矛盾を包み込んでしまうくらいの愛情があれば、問題はないのではないかと思うのですが・・・、
 ああ、また、娘になんて言われるかな。
7. Posted by ドラゴン   2008年12月07日 16:10
拙コメントを引用いただき、大変恐縮です。
私もこれらの点で考えていることがあります。
ここのところのtoshi先生の記事ともかかわるので少々長くなりますがご容赦ください。

私は「学びの主体は子ども」以前に、「子どもは学ぶ」主体であると思っております。どんなに勉強が嫌いな子どもでも、日々、一瞬々、学んでおります。
「機嫌の悪いお母さんからおやつをもらう方法」から、「宿題で楽をする方法」、「たくさん釣れる方法」から「ボールの巧い打ち方」、実にたくさんのことを学んでいます。
つまり、子どもは、関心と環境を与えれば、自然と学ぶ存在です。
私もたくさんの研究授業を見ましたが、本当に授業の巧い方がいらっしゃいます。そして、みなさん、このような子ども観に立っていると思います。
8. Posted by ドラゴン   2008年12月07日 16:23
 もちろん、私たち大人も学ぶ主体です。私たちが学ぶときは、どのようにして学ぶのでしょうか。ここのブログのように、話し合うということもあるでしょう。ネットや書籍で調べるということもあるでしょう。私たちは、知りたいことがあったとき、問題を解決しなければならないとき、様々な方法を駆使して解決していきます。
 でも、子どもには、全く違う方法が採られることが実に多くあります。教師が教えて、そして覚えるというような方法です。
 「教師の指導力」という課題について、権威者が、「○○であるから、そのように覚えなさい」と言われて、みなさん理解できるでしょうか。そして納得できるでしょうか。
 そのような状況が、教室で起きているのです。子どもは理解しないし、納得していないけど、先に進んでいく、だから授業がつまらない、ということもあるでしょう。
9. Posted by ドラゴン   2008年12月07日 16:31
 私たちが問題解決学習を進めるのも、それが目的ではなく、問題解決学習を通して学習することが、より自然な学びの姿でもあるからだと思っております。
 ただ、問題解決学習への問題として、これが形式に陥っているということも指摘されています。教科書にある学習問題を、よくある手順で追究して、発表してまとめる。それで終わり、深まりがないということです。
 ここで、授業の上手い下手が出るように思います。
 小学校は、学級担任ですから、子どもの興味関心、得手不得手がよく分かりますね。きっとこの子はこう考えるだろうというのが予測もできます。
 例えば、農業の学習でも、田舎のお祖父ちゃんが米作りをしている子どもがいると、その子は社会科が苦手でも、うまく投げかけると、どんどん追究して発表してくれるでしょう。
10. Posted by ドラゴン   2008年12月07日 16:36
 教科書には無い、生の課題が出てくるかもしれません。こういう学習は、TOSSの手順だけでは絶対に出てきません。

 また、誤答を生かすのがすごく上手な先生がいました。よく「間違えてもいいよ」というのはあります。ただ、実際に間違えても、「そうか、もう少し考えよう」ということで流す先生もいます。
 速度の授業で、分を換算し忘れて計算した子どもがいました。その先生は、なぜ間違えたのかをクラスで議論させました。その結果、時速の計算には分を時間に換算する必要があることの理解を深めることができました。こういうことは、教えればすぐに教えることができますが、なかなか残りません。テストでうっかりということが繰り返されます。クラスで議論することで、しっかりと子どもの中に残りました。それでその先生が「君の間違いのおかげで、クラス全員が間違わなくなったよ。ありがとう」と子どもに伝えました。こういうことがあれば、子どもは間違うことを恐れません。すばらしい授業です。
11. Posted by ドラゴン   2008年12月07日 16:48
 話題が拡散しそうで恐縮ですが、もう少ご容赦ください。

 問題解決学習では「オープンエンド」と言う考え方があります。学習の最後に結論を出して終わりというのではなく、発展できるように学習を終えることです。社会科や総合でもよくあるかと思います。
 算数でも答えを出して終わりではなく、さらに考えさせるようすることがよくあります。
 例えば、台形の面積の求め方を考え、さらにその後に他の四角形でも応用できるか、さらに他の多角形でも応用できるか、などです。

 たぶん、toshi先生もご存じの先生かと思いますが、附属小学校から大学へ出られて名誉教授となられた社会科の大先生の実践です。その先生の附属小学校時代の教え子で、現在、小学校の先生になられた方が書籍の中で述懐されいました。
 その先生の授業では、5年生の産業学習で、子どもたちに議論させましたが、結論は出しませんでした。それがずっと引っかかっていて、大人になって、ようやく自分なりの結論が出たということです。
 上手く説明できませんが、今で言うならば、食料は輸入すべきかどうかみたいなことでしょうか。成長するにしたがって、いろいろな知識が増え、またそのときの時代によって変化していきますね。些末な知識を与えるのではなく、「オープンエンド」として、子どもの中に考え方を残した、とでも言いましょうか。そのように感じました。
12. Posted by ドラゴン   2008年12月07日 17:05
 ここで、最初の例は、関心をもとにすること、次は、「間違い」から学ぶこと、3つ目は、オープンエンドでさらに発展させること、を考えてみました。これも実は、私たち大人の学びでもあります。
 今、巷では雇用問題が大きく取り上げられていますが、私たちがそのような問題に取り組むときには、まずその問題に関心をもち、今までの間違いから学び、そして拙速な結論を出さずに、さらに検討を重ねるのではないでしょうか。
 そうした本来の学びの姿を子どもたちにも身につけさせたい思うのです。
 そのためには、やはり教師の力量は必要でしょう。そういう意味では、名人の教師もたくさんいらっしゃいますし、名人の教師が管理職に進むのではなく、授業の名人として、評価されるようになってほしいとも思います。
 ただ、そのための基準が決して「発問が明確」とかではないことは、実はみなさんが知っていることだと思います。
 
13. Posted by ドラゴン   2008年12月07日 17:14
 すみません、読み返すととりとめもなく、恥ずかしくなりました。これらのことはtoshi先生も自明のことと思いますが、先生のブログを読まれている一般の方々にもご理解いただきたいと思い、書かせていただきました。

 もう一つ。
 問題解決学習は、勉強の得意な子しかできないとの議論もあるようですが、先に書きましたように、子どもの興味・関心に即してできれば、勉強の苦手な子どもでもどんどん参加できます。
 また、すでに塾で習っている子どもでも、オープンエンドのような学習で、さらに発展もできます。
知識の獲得という単純な物差しでないぶん、苦手な子ども得意な子ども、それぞれの学習で進めることができます。
 市川氏の「教えて考えさせる」については不勉強で、あまり理解しておりませんが、おそらくスタンスは同じかと思います。到達させるのは、単なる知識ではない、その過程も重視して、考える力もつけようということだと思います。そこで何を教え、何を考えさせるのかが、重要な議論になると思います。


14. Posted by YK   2008年12月07日 18:40
私はよく教え子に授業の感想を書かせますが、ちょっと引用してみます。「今日はとても大事なことを教えられた気がします」、「深く考えさせられました」、「ハッとしました」、「心の底にある考えを引き出すのが難しくて色々な考えが頭をぐるぐるしてます」、「今まで当たり前に考えていたことがわからなくなりました」、「いろいろ勉強になりました」、「今日も楽しかったです」、「無知を知って落ち込むこともありますが、知ることのできる自分はとても幸せだと思います」・・・まあ、50人以上いるので一つの事象について教えるだけでもリアクションはさまざまですが、皮肉的な意見は一つもないですね。ちなみに、偏差値で言えばエリートとはかけ離れた子たちです。こういう言葉や「なぜ?」に対して、私は私の言葉で返していく、というのが、私の教育の形式です。前にも書いた対話ですね。私は、教え子と10歳も年は離れていないけれど、「もっと先生の知識を私たちに伝えて下さい」と言うのを聞くと、少しは教師らしくなろうという気がします。だから、正直、リンク先の記事などを読んでも、何を言っているのかよく理解できないというのが本音です。
15. Posted by toshi   2008年12月07日 21:28
keiさん
 お久しぶりです。いつも真摯な実践をブログに書かれるkeiさん。子どもたちとkeiさんとの日々のあたたかな記録は、そのままで貴重な財産ですね。
 もうすぐ、授業研究会があるとのこと。一人ひとりの子どもを見つめ、どの子も伸ばす取組が見られることでしょう。この子たち、このクラスだからこそ、この授業になるという、そういう授業が見られることと思います。
 ご健闘をお祈りしています。
 
16. Posted by toshi   2008年12月07日 21:56
ドラゴンさん
 問題解決学習についての考察。大変勉強になりました。おっしゃるように、問題解決学習は人間の摂理に合った学習なのですよね。
 思い出したことがあります。学校管理職になる者は、あらかじめ、消防法に基づき、防火管理者講習というのを受けなければなりません。まるまる2日間ただひたすら話を聞くだけです。
 これが、ほんとうにつらいのですね。ただただ耐えなければなりません。『ああ。日々の授業で、子どもたちにこのような思いをさせてはいけないな。』と、つくづく思います。

《問題解決学習への問題として、これが形式に陥っているということも指摘されています。》
 ほんとうにその通りですね。子どもの問題のようでいて、ほんとうに子どもの問題になっていないのですね。
 学習問題とされているのを見て、『子どもがこのようなことを言うかな。』と思うようなものがありますが、そうした意味ではけっこう見抜けるものでもありますね。
 誤答の扱いについても、思うところがあります。よく、『教室は間違えるところだ。』と言いながら、誤答を大事にしていない教室がありますね。お題目だけになってしまっているという感じがします。
 わたしも、誤答だけでなく、反論を誘発するような意見に対しても、授業を活性化させる上での殊勲者という言い方を、よくしました。
 
17. Posted by toshi   2008年12月07日 22:08
《問題解決学習は、勉強の得意な子しかできない。》
 これは、やはり、そうした授業が、現実、行われているからでしょう。一部の子どもの発言だけで、大部分の子どもはただひたすら聞くだけという、そういう授業が横行していることも、事実ですね。
 教え込みの授業を受けているときは、問題行動の多かった子が、問題解決学習となると、一番活躍する子どもに変身するということは、実に多く見られることだと思います。
18. Posted by toshi   2008年12月08日 00:13
YKさん
 YKさんのコメントからは、教え子との一体感といったものを感じます。それが、子どもたちの成長にはかり知れない力をもたらすのだと思います。《ちなみに、偏差値で言えばエリートとはかけ離れた子たちです。》
 いつだったか、YKさんとのやり取りでしたっけ。それと重なりますが、問題解決学習をおし進めていると、問題行動の多い子の問題行動がなくなり、一番授業で活躍する子になるのですね。 
19. Posted by ドラゴン   2008年12月08日 18:21
すみません。勢いに任せて書いたので読み直すと、恥ずかしいくらいの乱文です。ご容赦ください。

「これが、ほんとうにつらいのですね。ただただ耐えなければなりません。『ああ。日々の授業で、子どもたちにこのような思いをさせてはいけないな。』と、つくづく思います。」

まさにtoshi先生が2行でまとめられた通りです。大人でも苦痛なことを、子どもに求めるのは、やはり間違っていますね。
そこで、本題ですが、どんなに「発問が明確」であっても、大本の子ども観、授業観が違っていたら、何の意味もないと思います。
20. Posted by YK   2008年12月09日 01:30
<<問題解決学習をおし進めていると、問題行動の多い子の問題行動がなくなり、一番授業で活躍する子になるのですね。>>

確かに、ずいぶん真面目に私の話を聞いているな、と思って、その子に話を聞いてみると、いじめられて挫折したことのあるような子はいますね。昨今の教育の状況を見ても感じますが、経済や財政と連動して変わるような教育は避けるべきではないかと思います。社会が不安になっているときに、不安を煽るような教育は避けるべきでしょう。社会が不安なときこそ、子供には希望の言葉をかけるべきであるし、社会が性急なときこそ、冷静になることの重要性を教えるべきであるし、社会の変化が激しいときほど、普遍的な真理を教えるべきであると思います。悲しんでいる子には、優しさを身に付ける機会があることをを教えるべきであるし、知性の発達した子には、社会に貢献するという責任感を与えるべきだと思います。そう考えると、私の教えることは、ことごとくマスコミの論調の逆を行くことになりますね。おそらく、技術と効率を追求するばかりの人は、「わからなくなりました」という子の言葉こそ、見逃すことのできない、知的な、深い問い掛けであることに気付くことはないでしょうね。
21. Posted by フルタ   2008年12月10日 20:34
上に書かれておられるAちゃん、Cちゃんには、本当にシビレちゃいますね。
こんな風な教室だと、発言はしないHちゃんやIちゃんも、なるほどと思って授業に真剣に入り込んでいるのでしょうね。
わかりやすく教える先生の技術よりも、Cちゃんの言葉は、Aちゃんも含め、分からないなと思っていた子たちには、優れた救命具だったことだと思います。
でも、AちゃんやCちゃんの言葉を遮らなかった大人「B先生」も素晴らしいなぁと思います。
TOSSのランクがどういうものか分かりませんが、高い評価を得るということが、先生方の目的になるのでは、本末転倒のような気がします。
22. Posted by Soba   2008年12月11日 19:44
Toshi先生、モヤモヤしていたことを、みごとに言葉にしてもらいました。授業の鉄人、達人、名人のこと、Tossのことなどです。ありがとうございました。
 優秀な先生を表彰する制度も、私は嫌いです。あれは、先生が生徒のひとりだけにご褒美を出して、「さあ、みんなも〜ちゃんのようになりましょう」と言っているのと同じです。なにか、人間性をバカにしている感じがします。
23. Posted by toshi   2008年12月12日 09:16
ドラゴンさん
 乱文なんて、とんでもない。とても読みやすかったですよ。
 『どんなに発問が明確であっても、〜。』これもおっしゃる通りです。発問が明確で分かりやすくても、ちっとも子どもがのらない授業というのは、いくらも見てきました。
 法則化に無理があるというのは、法則化の人でも、ちゃんと分かっているのですけれどね。
24. Posted by toshi   2008年12月12日 09:23
YKさん
《技術と効率を追求するばかりの人は、「わからなくなりました」という子の言葉こそ、見逃すことのできない、知的な、深い問い掛けであることに気付くことはないでしょうね。》
 これは名言だと思いました。深く追求すればするほど、『分からなくなった。』という言葉には価値がありますね。少子高齢化問題、食料の問題、地球温暖化の問題、どれも、大人が解決不能に陥っています。
 今書いた事例はどれも、小学生だって追求できるまさに総合的な学習の時間にふさわしいテーマだと思います。
 そういう奥の深い学習をさせたいですよね。

 
25. Posted by toshi   2008年12月12日 09:38
フルタさん
 彼らは、批判勢力のリンクを認めていませんので、ご紹介はできませんが、ライセンスを見ると、やはり、『子どもの思いや問題意識を探る。』ような項目はまったくありませんね。そういう項目が入ると、もう、法則化は無理なのだと、これは、わたしもそう思います。
 フルタさんのおっしゃるように、こういう授業だと、HちゃんやIちゃんたちも、ほんとうに真剣に考えています。
 そして、一人ひとりの気になる言動や、問題行動は影をひそめていくのです。逆に、温かでなごやかな学級集団になっていきます。
 もっとも、これ、どちらが先という話ではないですね。両者は同時進行だと思います。
26. Posted by toshi   2008年12月12日 09:43
Sobaさん
 わたしは表彰制度そのものに、必ずしも反対なのではないのですが、でも、Sobaさんのお気持ちはよく分かります。
 記事にもにおわせたつもりですが、子ども主体の学習を標榜する者にはなじまないように思います。
 これは不適格教員の問題から派生したのですよね。そういう意味でも、不純さを感じてしまいます。
27. Posted by 今日   2008年12月18日 09:29
以前、蔭山さんの批判をズバリされました。短い文章で、当たっていました。

今回のこの論文も、すばらしいです。
その切り込む力と勇気に脱帽です。

これは、教育における民主主義の問題ですね。
28. Posted by toshi   2008年12月19日 04:45
今日さん
 あのときは、大変お世話になりました。もう、3年近く前のことになりますね。なつかしく思い出します。

 おっしゃるように、まさに、民主主義教育の問題です。今の日本は、一応、民主主義体制ではありますが、こと、教育の『指導法』に限定すれば、ゆとり教育を否定し、いわゆる『学力』のつめ込みを策定している今、とても、民主主義と言えるものではありません。

 考えてみれば、『日本人は議論できない。』と言われたり、『政治の貧困』と言われたりしているわけで、いまだ、日本に真の民主主義は育っていないようです。

 教育の責任は大きいですね。
29. Posted by 2015年2月のつぶやき   2016年02月20日 21:55
5
勉強になりました!
30. Posted by toshi   2016年02月27日 16:11
2月のつぶやきさん
 ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。

コメントする

名前
URL
 
  絵文字