2008年12月21日

子どもの心が見えますか。3

c7de212c.JPG これまでも、子どもの内面をさぐり、その思いを把握し、心を育んでいくことの大切さは、折にふれて記事にしてきた。

 これは、教員にとって、永遠の課題である。

 『これでいい。もう、わたしは、十分子どもの心を把握することができる。』

 そのようなことは、まず、ありえない。

 しかし、『ありえないから、あきらめる。』というのでは、わたしたちの仕事は成り立たない。そうではなく、少しでも子どもの心が把握できるよう、限りない努力を積み重ねる必要がある。



 話は変わるが、

 我が地域では、一般の小学校とその小学校の学区に居住し養護学校に通う児童との交流を進めている。もう、10年近いあゆみがある。これまでも折にふれて拙ブログで記事にしてきた。

 それへのリンクは、後に譲らせていただいて、

 


 本日とり上げる話題は、わたしが、ある養護学校長からうかがった話である。


 その学校も、地域の小学校との交流を進めていた。

 何度目かの養護学校訪問をうけたとき、その小学校の担任が、養護学校の教員に話しかけたという。

「Aちゃんは、わたしたちが訪問するようになった初めのころと比べると、とても明るい表情になりましたね。いいなあと思います。」


話しかけられたAちゃんの担任は次のように答えた。

「そうですか。わたしにはとてもいいようには思えないのです。なぜ、Aちゃんが明るく振舞うようになったかと言いますとね。

 そのようにすると、訪問してくるお友達みんなが、自分をかわいがってくれる。自分にやさしくしてくれる。それが分かったのです。ですから、みんなの気をひくために、無理して明るく振舞うようになったのです。

 これまでのAちゃんのことをいろいろ知っていますのでね。Aちゃんがそうしているのを見ると、わたしは、悲しくなってしまうのですよ。

 今度、お友達みんなが他の場所へ行ってしまって、Aちゃん一人とり残されたときのAちゃんの表情を見てご覧なさい。Aちゃんのほんとうの心が分かると思いますよ。

 これは、Aちゃんの担任であるわたしにとって、重い課題なのです。」


 そして、そう言われた教員は、Aちゃんが、ほんとうに楽しくて明るくなったのではないことを、痛烈に感じさせられることになる。

 さびしそうな、疲れたような、ともかく、恐ろしいくらいの無表情に戻ってしまったのだ。



 養護学校の子どもに、無理して笑顔を振りまかせる。そのような交流であっていいわけはない。

 その教員は、あらためて、交流のあり方について、考えさせられた。



 わたしが養護学校長からうかがった話は以上である。



 でも、その話をうかがったわたしは、思う。

 一般の小学校の子どもたちが養護学校を訪問し、交流しようとするとき、無表情の子より、明るく愛想を振りまく子のそばに寄っていくのは、別にいけないことではない。きわめて自然なことだ。

 出発点としては、それでいいと思う。

 しかし、交流を重ねていくうちには、

『無表情でちっとも楽しそうじゃないから、その子のそばには誰も寄っていかない。それではいけないのではないか。どの子にも、交流の楽しさを味わってほしい。』

 そう気づき、そう思うようになる子どもたちであってほしい。

『無理する必要はないよ。あなたはあなたのままでいい。わたしたちは、そんなあなたが好きなのだから。』

そのようなメッセージが送れたらすばらしい。

子どもたち自らが、それに気づいてほしい。


 しかし、それには、教員の、さりげない支援の手が必要になるだろう。子ども自らの気づきを促す支援だ。

 決して、簡単に、『養護学校の、どの子とも仲良くしなさい。』と言って聞かせることではないだろう。



 それでは、その支援の手がどういうものであったらよいか。拙ブログの過去記事にリンクさせていただこう。

    しかけどころ(3)

 この記事の後半、3年生の実践が、支援の手についての一つのヒントを与えてくれると思う。

 一言で言えば、教員が、交流し合う子どもたちのコーディネーター役を務めるということだ。



 もう一つ。

 これはかなり長い記事で、申し訳ないけれど、まだ、お読みでない方がいらしたら、ぜひ、全部お読みいただけたらと思う。


   人権教育(15)交流をテーマの総合的な学習の時間

 地域にある養護学校に通う重度重複障害児との交流を、どのように進めていったらいいか、5年生が真剣に話し合う。なお、この学級の担任は、この授業の2年前、わたしが担当した初任者だった。
   
 この学級の子どもたちは、実に率直に自分の思いを語る。それが、養護学校に通うお友達の身になっての、すごい発言につながっていくのだと思う。




 最後に、

 わたしは、Aちゃんの、いわゆる『明るさ』から、交流教育のあり方を問い直した、その先生はすばらしいと思う。

 子どもの内面を把握しようとする教員なら、誰もが、通る道とも言えよう。これを契機として、さらに、子どもの内面を知る努力は深みを増していったことだろう。
 

 そして、忘れてほしくないこと。

 それは、やはり、基本的には、明るいにしろ、くらいにしろ、『自分を素直に表現できているかどうか。』その観点は大切にしたい。


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 本記事は、拙ブログの、『子どもの見方が変わるかな。』シリーズにも、深く関連すると思います。

 そこで、今、同シリーズにもリンクさせてください。よろしくお願いします。

   子どもの見方が変わるかな。(1)  

rve83253 at 15:45│Comments(6)TrackBack(1)児童観 | 交流教育

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1. 見えそうで見えない子どもの心  [ たけやのしごと ]   2008年12月21日 18:07
 教職に就いて20年を過ぎ、若い頃よりだいぶ子どものことが見えるようになってきたと思っていたのですが、昨年、そんなことはないということを思い知らされたできごとがありました。子どもの心の中がわかったと思い込んでしまうと、見えなくなってしまうものなのです。ちっ

この記事へのコメント

1. Posted by たけや   2008年12月21日 18:12
こんにちは。記事にトラックバックさせていただきました。楽しそうな子どもの表情からは見えない(見せない)心情もあり得るのだということを常に忘れてはいけないと考えさせられました。それは、目に見えるものを疑うということではなく、さらに深く理解しようとすること、子どもの心がもつ多様性を考慮するというこのなのでしょうね。
2. Posted by 子育て支援ブログ   2008年12月22日 00:10
非常に考えさせられる内容でした。

確かに無理してあわせることは、良くないことだと思います。

そして本当の意味で心を触れあわせる交流ができることがなにより大切ですよね。。。
3. Posted by toshi   2008年12月22日 04:53
たけやさん
 TB、ありがとうございました。
 基本的には、表情が豊かになれば、それは、すばらしいことという認識で、いいのだと思います。ただし、表面的な部分しかみていないということが問題になるのではないでしょうか。
《それは、目に見えるものを疑うということではなく、さらに深く理解しようとすること、子どもの心がもつ多様性を考慮するというこのなのでしょうね。》
 いやあ。ほんとうにその通りと思いました。わたしの言い足りない部分を補足していただいたという思いです。ありがとうございました。
4. Posted by toshi   2008年12月22日 05:01
子育て支援ブログさん
 コメントをありがとうございました。
 今後ともよろしくお願いします。
 なお、『生活単元学習とは』にも、コメントをいただいたようですが、こちらは、コメントの表記がなく、書き込みもできないようになっています。このようなことは初めてで驚いています。
 
 申し訳ありません。
5. Posted by yoko   2008年12月22日 15:23
toshi先生
『生活単元学習とは』のコメントですが、
コメントの画面をずーっと下にスクロールさせてみてください。
1番のコメントと2番のコメントの間になぜか空白行が沢山挿入されてしまっているので
2番以降のコメントがあたかもないように感じられます。
下にスクロールさせれば、2番のコメントが見られると思いますがどうでしょうか。
6. Posted by toshi   2008年12月22日 16:13
yokoさん
 ほんとうだ。お教えいただき、ありがとうございました。
 ああ。はずかしい。日ごろ、問題解決学習の大切さを書かせていただきながら、頭が固いですね。こんなことに気づかないとは。もう、コメント記入欄が消えてなくなったという固定観念に固まってしまっていました。
 さっそく、空白をなくすことにしました。

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