2008年12月26日

英語教育のあるべき姿は、4

5761b9bd.jpg 2013年度より実施予定の高校学習指導要領改訂案が発表された。

 わたしは、これを論評するものを持ち合わせていないが、

 『英語は、文法・訳読中心の指導からの脱却を強調。』
『コミュニケーション能力重視へ方針転換し、授業を英語で行うことを基本とする。』
の2項めが物議をかもしている。

 わたしは、しろうと判断ながら、社会へ出てから役に立つ実用的学力の涵養という観点から、これを好意的にみたいと思っているが、もっと大事な点があるという思いもしている。

 また、学習内容過密の方向にあることは、心配な点がないでもない。




 話は大きく変わるが、わたしには、今もなお、現職校長数名から、学校だよりが送られてくる。

 それを読ませてもらうのは、楽しみなものだ。現職校長の活躍や成果のほどが分かると、うれしくなる。


 ところで、

 今月初め、B校長から届いた学校だよりには、小学校の英語教育をめぐって、ほほえましくも、ちょっと考えさせられる記事が載っていた。



 B校長先生のご了解もいただいたので、今、ここに掲載させていただく。


 それでは、さっそくですが、どうぞ、ご覧ください。
 
 




Well-done!(ウェルダン!)          A小学校長   B


 焼き加減はウェルダン!?


 ひと月に一週間くらいの割合で、AET(アシスタント・イングリッシュ・ティーチャー)のC先生が、このA小学校に来ています。C先生は生まれも育ちもロンドン近郊、生粋のイギリス人です。

 英語活動の授業だけでなく、休み時間や放課後に子どもたちとサッカーをしたり、一緒に給食を食べたりと、すらりとした容貌もあいまって、子どもたちには、「C先生。」として、大人気です。

 C先生のしゃべる英語は、ブリティッシュ・イングリッシュです。我々が学んできた感情表現が派手なアメリカ英語と違い、どちらかと言えば抑揚をおさえた、淡々とした英語で、なるほど、『紳士の国』の英語だなあと思います。


 授業で使う言葉も、アメリカ系の先生の英語とは微妙に違います。

 たとえば、授業の最後に子どもたちをほめるとき、通常はグッド(Good!)、エクセレント(Excellent!)を使うことが多いのですが、C先生の場合は、ウェルダン(Well-done!)です。

 はじめ、「ウェルダン」と聞いたとき、レストランでステーキを注文する場面を思い出してしまいました。

「ステーキの焼き加減はいかがしますか?」
「ウェルダンでお願いします。(中までしっかり焼いてね。)」
などと使いますね。

 ところがあらためて辞書をひいてみると、『Well-done:立派に行われた。』とでていました。わたしたちがよく使う言葉、「よくできました。」に近いニュアンスです。


 先日、C先生に、D町のバス停で会いました。

 その日、わたしは、E公会堂での児童音楽会に出演した3年生の子どもたち48人と帰りのバスに乗っていました。みんなバスに乗っても、音楽会の余韻にひたっているようでした。D町バス停に近づいてきたので、わたしは席を立ち降車の準備をしました。

 ふと窓からバス停を見ると、そこには、20人くらいの高校生の集団がずらりと並んでいました。

 ただ、ふしぎなことに、その列の真ん中あたりがとぎれているのです。そのとぎれたところの真ん中にいたのが、C先生でした。人数が多いので、高校生たちは間をつめて並んでいるのですが、なぜか、C先生の左右だけ空間ができ、そこだけよそよそしい空気が流れているようでした。


 バスが停車し、出口から子どもたちはどっとバスを降ります。

 すると、子どもたちは、目の前にC先生を発見。口々に、
「C先生。ハロー。」
「もう帰るの?グッバイ。」
などと声をかけます。なかには、駆け寄って握手をしたり、音楽会の報告をしたりしている子もいます。48人みんなが親しく交流し合ったので、その場の空気は一変しました。

「C先生だってよ。」
「なんだ。小学校の英語の先生だったのか。」
などと言い合う高校生もおり、彼らのよそよそしかった表情が、安堵と羨望のまじった笑顔に一変しました。


 子どもたちとC先生。

 伝えたい人がいて、伝えたい気持ちがあるからこそ、コミュニケーションが成立するのです。これがほんとうのコミュニケーションですね。先に発音や文法があるわけではないのです。


 〜。


 英語はファッションではありません。道具です。

 子どもたちが、将来、国際社会で活躍していくための大事なツールです。

 先進国中、これまで初等教育の正課のなかに英語がなかったのは日本だけです。

 新しく始まる『英語』が、「Well-done!」でありますように。



学校だよりの引用は以上である。

 ここには、最近の日本の英語教育の成果と課題が見えているように思った。



〇まず、成果から。

 冒頭掲載させていただいたのは、高校の学習指導要領だけれど、先に、小学校も発表され、これからは、小学校5年生以上で、おもに、積極的にコミュニケーションを図ることを目的としての英語教育が始まる。

 しかし、我が地域においては、

・すでに、20年くらい前から、

・全校で実施するようになったのは、10年ちょっと前くらいからだったかな。

・外国人講師による

・児童一人ひとりは、年間5時間くらいではあるが、

・小学校1年生から、

 英語教育(?)が行われてきている。


 英語教育(?)と、『(?)付き』にしたのは、当初は、国から、小学校における英語教育を批判されたからである。

くわしくは、過去記事をご覧いただきたい。

    英語教育導入は、異文化理解のために

 この記事では、国際理解教育、異文化理解としか書かなかったけれど、記事をお読みいただければ、外国人とのコミュニケーション能力を養っていたことも、容易にご理解いただけることと思う。

 だから、B校長の学校だよりのように、子どもたちは、生活に融合させて、自然体で英語をとり入れてきた。


 いや。バス停での会話の中心はおそらく、日本語であろう。

 しかし、かまわないではないか。

 外国人講師も日本人教員も関係なく、まったく同じ態度で、コミュニケーションが交わせるということ。それこそが、将来、世界に雄飛する日本人として、大切な資質を養っていることになるのではないか。



〇しかし、課題も多いなと思わざるを得ない。

 それは、おもに、このたよりに出てくる高校生のことだ。

・彼らの大部分は、我が地域出身に違いない。したがって、小学生時代は、本たよりに出てくるA小学校の子どもたち同様、国際理解教室で、英語による会話に親しみ、コミュニケーション能力を養ったはずである。

・そして、それに加えて、中学校、高校と、英語を週数時間学んできたはずではないか。

・それなのに、なぜ、外国人を避けるような、不思議な空間をつくってしまうのだろう。小学生では、あれだけ無邪気にふるまえる子どもたちが、なぜ、急によそよそしくなってしまうのだろう。



 ここから先は、想像になってしまうが、

・中学校、高校と、外国人講師に恵まれなかったのかもしれない。やはり、英語の読み書きなら別だが、会話、コミュニケーション能力となると、外国人とのふれ合いが日常化していないといけないのかな。

・そういう意味では、中一から英語を学んできたとはいえ、読み書きしかしてこなかったのではないか。


 いや。待てよ。

 そうとばかりも、言えないか。

 彼らのなかにも、外国人と英語で話してみたいと思った子はいるのではないか。それだけの力のある子だっているのではないか。

 ただ、小学生時代のように、無邪気にはふるまえなくなってしまった。それだけのことではないのか。


 いや。まだあるな。

 思い出すのは、本ブログでも過去に書かせていただいた、KYの思想。あれが邪魔しているのかもしれない。

 自分だけ目だつのはいや。自分だけかっこつけているように思われるのはいや。不思議な空間をつくってしまったのは、それが原因か。



 冒頭に書かせてもらった、高校の新学習指導要領にある、『コミュニケーション能力重視へ方針転換し、授業を英語で行うことを基本とする。』については、

 コミュニケーション能力重視は賛成だ。

 しかし、それは授業を英語で行えばいいというものではないのではないか。

 一人ひとり、違いを認め、あるがままを大事にし、個性を育み、人間性豊かな人格の育成を目指す教育。それを推し進めることが肝要だ。真の国際人の養成は行き着くところ、それしかないように思える。


 不思議な空間の意味するところは、実に大きい。


 B校長の言葉を借りれば、

『伝えたい人がいて、伝えたい気持ちがあるからこそ、コミュニケーションが成立するの』だ。


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 我が地域で、外国人講師による国際理解教室が始まったころ、ちょうど平成三年度のことです。

 わたしは、次女を連れて、その講師にお会いしたことがあります。

 そのとき、次女は中三でした。

 帰りの電車の中、講師と次女は楽しそうに談笑していました。わたしは、電車の騒音もあり(言い訳かな。)、話している内容はあまり理解できませんでした。


 あとで、娘に聞きました。
「なにか、びっくりしていたことがあったようだけれど、どんな話だったのよ。」
「ええとね。・・・。ああ。あれね。・・・。F先生は、アメリカのG州出身なのだって。それで、G州っていうと、ロッキー山脈の方でしょう。それで、鉄道はまったくないのだって。だから、今乗っているこういう電車に初めて乗ったのは、大人になってからだっておっしゃっていたわ。」

 なつかしい思い出です。

rve83253 at 11:22│Comments(33)TrackBack(0)教育観 | 英語の指導

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この記事へのコメント

1. Posted by 牛印牛乳   2008年12月26日 21:34
初めまして。

これって、中学、高校の英語の授業で行う訳読で英語が嫌いになってしまうからではないでしょうか。

私も学生の頃は苦手でしたが多読を始めてから外国の人への興味が増したと思います。

今回の文科省の方針転換がうまく行くと良いと思います。
2. Posted by toshi   2008年12月27日 09:40
牛印牛乳さん
 今朝のテレビで言っていました。
 『入試が変わらなければ、何も変わらないだろう。』と。
 『そうだよなあ。』と思いました。
 わたし過去に、受験システムの廃止を訴えながら、この点について今回書いていませんでした。確かに、入試が変わらない限り、訳文、文法中心の高校英語は変わらないだろうなと思いました。
 この改革は、教員の問題、子どもたちの学力の問題などもあり、非常に難しい点がありそうです。
 やはり、子どもの切実感、必然性を大切にし、興味・関心をつちかうという教育本来の姿を取り戻すことが大切ですね。
3. Posted by 牛印牛乳   2008年12月27日 14:32
5 http://www.yourdictionary.com/education
の education の定義が次になります。

the process of training and developing the knowledge, skill, mind, character, etc., esp. by formal schooling; teaching; training

日本語の教育では教えて育てる上から目線ですが、元になった言葉の本来の意味は知識、技能、心などの才能を開発することだそうです。

日本の教育がeducation 本来の意味、才能開発で使われると良いともいます。
4. Posted by kawa   2008年12月27日 19:26
toshi先生、始めまして。

中国は天津の南開大学で日本語を教えている、kawaと申します。このブログは、東京のイノッチ先生にご紹介いただき、読むようになりました。

さて、早速ですが、今回の英語教育の記事についてお聞きしたいことがあります。

国際人というのは「英語が話せる人」のことでしょうか。小学校から英語を学んだ高校生が、「日本へはお仕事で、それとも観光でいらっしゃったのですか」と聞くこともできない、しないのは、英語力の問題ではないと私も思います。また、仮にこのように話しかけられたとしても、その後、相手の興味を引くような話ができるのかは、これもまた英語力の問題ではないと思います。つまり、英語力のアップ=国際人の養成ではないと思います。

また、私は中国で仕事をしているのですが、英語の必要性は低いです。これからの日本にとって国際化とは、アジアの人たちを理解するということも含まれると思うのですが、学校教育では「欧米」一辺倒なのでしょうか。

そして、やはり、日本人全員が流暢に英語を話す必要はどこにあるのかと思ってしまいます。

外国語を学び、外国の人と接することはいいことだと思いますが、それが英語に偏っていては、日本はアジアでやっていくのは難しいのではないかと思うのです。

自分が中国にいるので、やや偏った見方になっているかもしれません。

日本におられるtoshi先生のご意見をお伺いできればと思いますので、宜しくお願いいたします。
5. Posted by toshi   2008年12月28日 16:40
kawaさん
 すごいですね。kawaさんは、何事にも挑戦的、意欲的な生活を送られていることでしょう。国際人としてご活躍されていることと思います。

 おっしゃるように、国際人とは、単に外国語が話せる人ということではないですね。
 国際人の概念について、わたしは、記事中のYKの思想ともかかわりますが、人間愛に満ち、多様性を認められる人という思いをもちます。

 英語については、わたし、よく分かりませんが、2つほど、紹介させてください。

 一点目

 本記事中のB校長の文章ですが、省略した部分には、次のようなことが書かれていました。

 10年ほど前、教育視察団の一員として、中国を訪れたそうです。そのとき現地の教育関係者と交歓会をもちました。
 最初は通訳つきで話していたそうです。しかし、それでは話がまどろっこしいということで、お互いに英語ならしゃべれることから、英語で会話することにしました。そうしたら、話はスムースに進み、とても楽しい雰囲気になったとのことでした。

 二点目

 わたしの姪がフランス人と結婚し、今、パリ郊外に住んでいますが、ときどき、メールを送信してくれます。

 そのメールを記事にしたことがあります。本コメントのHN欄に、そのURLを貼り付けましたので、よろしかったらご覧ください。

 kawaさんのご活躍を祈念しています。
6. Posted by kawa   2008年12月28日 18:01
toshi先生

突然の書き込みに丁寧にお返事を下さり、ありがとうございました。

さっそく、姪御さんのメールを読ませていただきましたが、私の思っていることとほとんど同じでありました。

ただ、日本の文化や伝統、近現代史をきちんと学ぼうとすると、今のカリキュラムでは時間が足りなくなってしまうのではないか、英語より国語、自分の国のことを勉強するほうが先だというカリキュラムは作れないのか、という思いはやはり残ります。

また、とても言いにくいのですが、「視察団」
という一過性のことではなく、中国やアジアと長く付き合っていこうという人にとっては、やはり中国語や韓国語、その他の言語が必要になるのではないでしょうか。

そして、言語学的に英語よりも中国語のほうが日本語に近いと私は思います。(どちらかといえば、という程度のものかもしれませんが)

中国では英語はもちろん学びますが、その上で日本語を学ぶ学生はとても多いのです。どうして日本では英語だけが外国語となってしまうのでしょうか。


最後になりますが、私自身は国際人であるなどと露にも思っておりません。ただ1人の日本人として恥ずかしくない言動をとることしか頭にありません。

願わくば、外国というのが欧米だけのことではない、という多様性が日本の学校にも自然に取り込まれるようになれば、と思っています。
7. Posted by kawa   2008年12月29日 01:59
toshi先生

もう一度自分の投稿を読み返して、ポイントがずれている投稿だったと反省いたしました。

「英語に熱を上げること」の是非と、「英語教育を何とか少しでもまとなものに」ということは、別の問題でした。また、現状では世界の共通語は英語であることも事実です。日本はもっとアジアに目を向けてほしい、という私個人の希望と、世界の現状に現実的に対処するということも、また別の問題でした。
この問題については、今一度良く考えて見ます。
8. Posted by YK   2008年12月29日 02:05
私は言語学を学んだ事はないですが、中国語と韓国語は勉強したので、アジア言語の重要性は感じます。ただ、私の経験から言えば、北京大学や上海復旦大学の学生の英語は大変流暢なので、中国人学生が英語の必要性が低いと感じているとは思えないですね。それはソウル大学や延世大学の学生も同様です。では言語が出来ればいいかと言えば、中国であれば孫文、宋教仁、張学良、梁啓超、魯迅などが語れない人が、日本語を教えて意味があるのかどうか、私にはわからないですね。同様に、日本語を教える人が、福沢諭吉、徳富蘇峰、漱石などを熟読しなくてもいいのかどうか、これも私にはわからない。私はおそらくダメだろうと思うのですが。このように、文化的背景を抜きにして、言語を教えることは不可能だと思います。
9. Posted by YK   2008年12月29日 02:14
では英語はどうか、と言えば、英語はある特定の文化であり、今日の世界的な文明である、という側面があります。文明というのは、ツールとしての言語という意味です。文化としての英語というのは聖書をベースとしたキリスト教ですから、聖書と関わる文学などをセットで教えるのが良いであろうと思われます(例えば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、スタンダールの『赤と黒』)。これは、国際競争力の為にビジネス用の英語力を付けようとする今日の教育とは、微妙にずれると思います。私の考える限り、日本のみならず、中国、韓国の若者も、ツールとしての英語には熱心ですが、文化としての英語にはどのくらい熱心なのか、不明瞭なところがあります。クリスチャンの割合が低い日本の場合は、更にその傾向が強いと思われます。
10. Posted by YK   2008年12月29日 02:39
例えば、英語で「頑張れ」に該当するのは、「You can do it(あなたならできる)」だと聞いたことがあります。それに対する答えは、「Yes, I Can(私にはできる)」。このような簡単な言葉のやり取りでも、微妙な文化的差異が見てとれると思います。「頑張れ」とは無責任な立場にも言えますが、「You can do it」という言葉には、相手を信じるという心の働きが必要だということです。そして、信じるからには、言葉に責任を持つ必要が生まれるということです。このように考えれば、信じるという心の働きの表現は英語のほうが明瞭であるが、逆に、日本にはキリスト教がなくとも、信じることは可能だ、という日本文化を再発見する契機になるであろうと思います。このように、英語教育の方法を変えたところで、生徒と教師の根本的な関係性が重要であることに変化はない、というよりも、信頼があれば英語力は伸び、無ければ伸びないという結果になると思われます。
11. Posted by toshi   2008年12月29日 08:14
kawaさん
《中国では英語はもちろん学びますが、その上で日本語を学ぶ学生はとても多いのです。どうして日本では英語だけが外国語となってしまうのでしょうか。》
 そうですか。それは知りませんでした。何となく、そういう人は少ないだろうと思っていたものですから、いい勉強になりました。ありがとうございました。
 
 どうぞ、ポイントがずれているなどとはおっしゃらず、これからも、気軽に、コメントをいただけたらと思います。よろしくお願いします。

 
12. Posted by toshi   2008年12月29日 08:45
YKさん 
 なるほど。文化としての言語と、ツールとしての言語とあるわけですね。こうして具体的にコメントをいただけて、よく理解することができました。
 日本語の『がんばれ。』にあたる言葉は、英語にはないと聞いたことがあります。『ない。』とするなら、それこそ、まさに、文化の違いなのですね。YKさんのコメントを拝見して、そのことがよく理解できました。
 ありがとうございました。
13. Posted by 生涯英語学習中の社会人   2008年12月29日 23:56
3 高校で米国短期留学し
発音の違いに愕然!

結局、社会人になり
海外旅行や長期滞在で
沢山の海外の人々と話す機会を設け係わる中で
英語の会話力の必要性を強く感じました

現地の人々とコミュニケーションを取り
英会話力も上がりました
言語習得は、体験を通じ同じ言葉を何度も使ってこそ身につくと思います
また英語で授業を受けるという必至な状況も私の上達には役立ちました

日本の授業の参考にして欲しいです
14. Posted by 社会人   2008年12月30日 00:29
3 続きますが…

見知らぬ人々の中で
どれだけ意思疎通を
できるかが海外旅行では問われます

道を尋る、相手や相手の国について尋ねるなど…
だから海外では誤解を招く発音や文法を使ってはいけないと思います

さらに…
相手の国を知らなくても言ってはいけない事を察して会話する

その為に英会話の力を上げる必要があると強く感じます

海外のユースホステル滞在での
修学旅行ならば国際交流が体験できます
15. Posted by kawa   2008年12月30日 04:01
toshi先生

温かいお言葉をありがとうございます。

それでは、お言葉に甘えまして、私が引っかかっている点について書かせていただきます。

日本語を学ぶ学生が一番多いのは韓国ですが、その次に中国がきます。

日本で中国語を学ぶ学生(大学の中国語学科やそのレベル)が、数から言っても、中国で日本語を学ぶ学生とどのぐらいまともに交流できるのか、こちらで見ている限りでは心もとないものがあります。

日本人は、アジアの国をどう捉えているのだろうか、と考えざるを得ないということです。
16. Posted by kawa   2008年12月30日 04:04
YKさま (一部、社会人さま)へ

私の投稿への言及がありましたので、少しだけ述べさせていただきたいと思います。

文化としての言語、これは本当にその通りだと思います。そのように教えられていたら、「言語」に興味・関心がある学生はもちろん食いついたでしょうし、そうじゃない学生も興味をそそられたかもしれません。特に、高学年はそうだと思います。
中国のいくつかの大学名を上げておられましたが、いずれも中国でも韓国でも一流の大学です。それ以外の人たちの英語力は、もしかしたら日本人の主婦(英語愛好家)に劣るかもしれません。
いずれにせよ、将来、国際舞台で活躍する人物なら、必死に英語を勉強するのは必要なことでしょうけれど、それ以外の人は、他に勉強するべきことはたくさんあるのではないでしょうか。
また、へんな言い方ですが、大学で「あいうえお」から始めた学生も、きちんと練習をしている学生は、3年生までには「海外旅行で交流できる」ぐらいの日本語力は身につきます。
日本人の英語も、「小学生から始めないとだめ」というのではなく、授業のあり方そのものに問題があるのではないでしょうか。
この点、授業改革には賛成ですが、それは「授業を英語で行う」といったことでは変わらないと思います。教授法そのものを見直す必要があるということですが、これは「日本語教育」の知見が役に立つかもしれないと、こちらの学会では言われています。
また、問題は英語の授業そのものより、学校・家庭教育における国際交流の考え方に原因があるのかもしれません。このあたりについては、toshi先生にお伺いするほうが、的確な分析をしてもらえると思います。
それにしても、「がんばれ」を例にした文化としての言語の説明は、とてもよく分かりました。
私自身、「学生を電子辞書にはしない」をモットーに教えていますので、いい勉強になりました。
ありがとうございました
17. Posted by 社会人   2008年12月30日 09:20
日本人全員が世界に目を向けられる学校教育が求められています

韓国や中国の学生も英語を習ってますし彼らの実力は相当です

話せる様にならなきゃ今迄の英語学習と変わらないと思います

日本で道に迷う海外旅行者に声をかけ教えるのが当たり前の英語であって欲しいです

民間外交にもなります
国際平和に活用できます
スモールステップは大切ですが、実践的な英語力を目指す事は真の国際交流に繋がると思います
18. Posted by toshi   2008年12月30日 11:04
社会人さん
 海外での貴重な体験を、ありがとうございました。やはり、人それぞれの体験によって、いろいろな考えがあるものだなと思いました。やはり、情報を受け取る者としては、いろいろな方から、いろいろな考え方をうかがうことは大切なことだと、あらためて思いました。
 つけたしですが、海外から日本へ来て、日本語を話す外国人とは、わたしたちもお付き合いがあるわけで、その裏返しと思えばいいわけですよね。
《また英語で授業を受けるという必至な状況も私の上達には役立ちました。日本の授業の参考にして欲しいです。》
 日本では、外国人に教わるのならともかく、日本人の英語教員にしても、英会話にはとまどいもあるらしく、どれだけ成果を上げられるか疑問視する声もあるようです。
 なかなかむずかしい問題があるようです。その辺の話になると、わたしには何とも、論評できないのですが・・・、すみません。
19. Posted by toshi   2008年12月30日 11:16
kawaさん
 そうですね。わたしのせまい知見でも、やはり、文化の違いを感じることは多いです。それに気づいたら、それを尊重しなければいけないと思います。それは迎合とは違いますね。やはり、違い八が意図してはっきりさせながらも、認め合い、尊重し合う姿勢が望まれるのではないでしょうか。
 それとやっぱり、歴史をしっかり学ぶことでしょうね。唯我独尊的歴史観では、外国人とつき合うことはできないと思われます。わたしは言語そのものも大切ですが、それより、こうしたものの考え方の方がもっと大切という感じがしています。
20. Posted by 社会人(何度も失礼します)   2008年12月30日 22:58
英語教育の話になると
アジアに目を向け中国語を学んだ方がいいとか、日本や諸外国の歴史、文化などを学ばせた方が良いと言う様な話を耳にしますが…それらも大切です。しかし英語は話せて分かってこそ本領を発揮するので、別に考えないと、いつまで経っても英会話のできない日本人のままだと思います。
けれど英語の教職免許を持たない小学校の教諭が忙しい合間に研修を受けながら下手な発音で英語を教えるのは酷です
21. Posted by YK   2008年12月31日 02:23
toshi先生

>>日本語の『がんばれ。』にあたる言葉は、英語にはないと聞いたことがあります。『ない。』とするなら、それこそ、まさに、文化の違いなのですね。

私は何となくですが、そう思っております。相変わらず、確信持って言えるわけではないのですが。例えば、『もののあわれ』とは英語で何というのだろうと和英辞典を調べてみると、「Pathos(ペーソス:哀感)」とあります。でも、ペーソスと『もののあわれ』では大分違うような気がします。日中辞典では「深沈的感触」とあります。やはり中国語にも直訳はないのだろうと思います。広辞苑によれば、「もののあわれ」とは「‖仂鬱甸僉覆發痢砲抜蕎霄膣僉覆△錣譟砲琉戝廚垢觸蠅棒犬困訥艦妥情趣の世界。優美・繊細・沈静・観照的の理念。⊃誉犬竜“やはかなさなどに触れた時に感ずる、しみじみとした情趣。」らしいです。日本語にはこういう文化が確かにあるわけで、このような心持ちを忘れなければ、外国人にもおそらく日本人の心は伝わるものと考えています。
22. Posted by YK   2008年12月31日 02:56
kawa様

コメントありがとうございます。天津の南開大学で日本語を教えていらっしゃるというのはすごいです。南開大学もとても有名な大学ですから。でも、大学の名前の問題ではなく、現地で日本語を教えているとしたらそれ自体素晴らしいことだと思います。日本語教授と言えば、以前、ボランティアのような形で黒人の女の子に日本語を教えたことがあります(駅伝の留学生みたいなもので、日本語能力は0に近かったです)。その時、やはり日本語教授は専門的なトレーニングが必要だな、と思いました。初級レベルでも素人では教えるのが難しいです。それでも、あと1年も教えられたら、ずっと日本語能力は向上したろうと思うと、その職場を離れた今でも残念に思っています。私は治安の問題などがありますから、短期的にはわかりませんが、中長期的に見れば、外国人労働者の受け入れの規制を緩めなければならない時が来ると思います。その時には中国人が多く来ると思いますので、単純労働者としてではなく、日本のことを理解している人材が増えないと良くないと思います。だから、日本語教育の重要性は高いのだろうと思います。
23. Posted by YK   2008年12月31日 03:31
(続きです)私も中国・韓国について教えるときには、教え子には「私の国も素晴らしいが、あなたの国も素晴らしい」というのが、これからの愛国心になるのではないか、と言っています。これは、中国・韓国に限らず、タイでも何処でもそうですね。実際、歴史認識問題を超えて交流するための文化的素地はかなり準備されていると思います。たぶん、南開大学の学生も、浜崎歩とかが好きで日本語の勉強を始めようとしている子も少なくないのではないかと思います。概ね、日本人は歴史意識が薄いですし、中国人や韓国人はそれをもどかしく思っているのだと思いますが、私は、日本人の若い学生に対しては、敢えて反省しろとか言わずに、この文化的素地を大切に使うように、と言っています。国と国と言えど、最後には、人格と人格の結びつきしかないのですから・・。

色々とご指摘有難うございました。天津は寒い事と存じますが、体調に気を付けて年末年始をお過ごし下さい。

toshi先生 色々とお邪魔しましたが、今年はこのブログで大変勉強になりました。また来年も勉強させて頂ければと思います。それでは、お体にお気を付けて、善い年末年始をお過ごし下さい。
24. Posted by kawa   2008年12月31日 09:25
toshi先生

アメリカ人にとっては、日本語はアラビア語と並ぶ難しい言語のトップにランクされると聞いたことがあります。ということは、日本人にとっても、英語というのは言語学的に距離があるということにはなりませんでしょうか。
同じ事を日本語と英語で話すと結論が違ってくると言った人もいます。
そうなると、日本人が英語を身につけるのに要する時間で、どれぐらい国語や自分の国のこと、人間的な成長に必要なことを勉強できるのか、というのが私の持っている疑問でした。

他の、学級通信や子供への働きかけについての記事も読ませていただくと、なおさら「片言の英語でも人間的に立派だったら外国人からも尊重される」と思います。少なくともその逆より何倍もましではないでしょうか。

これからもこのブログを読ませていただき、「日本語も上手だけれど、人間的にも尊重できる」学生を育てたいと思います。

いよいよ大晦日、そしてお正月です。

お体にお気をつけて、良い年をお迎えください。
25. Posted by kawa   2008年12月31日 09:26
YK様

本当にいい勉強になりました。

日本語にあって中国語にないもの、中国語にあって日本語にないもの、あるいは同じ漢字でも意味が違うものを探っていくと、両者の文化の違いに触れることができるということですね。「日本語を教える」ことばかりに気をとられると、このように(学生にとっての)足元をおろそかにしてしまうということがよく分かりました。

また、愛国心(こちらではまだまだ気軽に口にはできません)についても、同感です。日本語を勉強していると、どうしても「日本はすばらしい」となりがちですが、「私は日本のいいところを紹介します、君たちは中国のいいところを私に紹介してください。よその国の人に向かって自分の国の悪口を言う人は、私は信用できないのです」と、折に触れて伝えています。

そして、「お互いのいいところを認め」、さらに、「お互いの足りないところも受け入れられる」関係に、日本とアジア諸国がなっていったらと思っています。

若い人同士がつながっていく文化的素地、大切にしていきたいですね。それがあれば、歴史問題もお互いに歩み寄れるかもしれません。

天津は気持ちのいい青空が広がり、よい年越しになりそうです。

YKさまも、よい年をお迎えください。
26. Posted by toshi   2009年01月02日 07:04
社会人さん

 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
《英語の教職免許を持たない小学校の教諭が忙しい合間に研修を受けながら下手な発音で英語を教えるのは酷です。》
 我が地域では、外国人講師による授業が従来から、年間5時間程度ありますので、それと学級担任の授業との併用となると思います。
 それでもやはり、『これからの先生は、大変だなあ。』という思いは、どうしてもあります。
27. Posted by toshi   2009年01月02日 07:13
YKさん
 あけましておめでとうございます。昨年はほんとうにお世話になりました。多いに学ばせていただきました。本年もどうぞ、よろしくお願いします。

 言語を通して、その国の文化、感性などを知るということ、ほんとうにこれが一番むずかしいのかもしれませんね。
 こんな話を聞いたことがあります。日本人が囲碁を習うとして、まったく囲碁を知らない人でも、最初からある程度の級はつくのだそうです。
 なぜかと言うと、『囲碁を知らない、できない。』という人でも、『黒と白があること、交互に打つこと、相手の石を囲めは取ることができる。』くらいのことは知っているからです。
 これと似ている部分があるのではないでしょうか。しかし、文化の理解となると、目に見えているものではないだけに、よけい困難さを伴うのでしょうね。
28. Posted by toshi   2009年01月02日 07:24
kawaさん
 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 
 アラビア語といえば、思い出したことがあります。子どものころでしたが、とても、文字とは思えませんでした。
 日本語は、それと同じくらいむずかしいのですか。驚きです。
 『日本語はむずかしい。』それは、むかし聞いたことがありますが、日本にいて感じるのは、今、日本語が話せる外国人があまりにも多いので、忘れていました。
 姪の話によれば、英語はやさしい言語なのだそうです。だから、日本人はもっともっと英語が話せないといけないのではないかと思っていました。そんなことを申しても、わたしはほとんどダメなのですけれどね。すみません。
《「日本語も上手だけれど、人間的にも尊重できる」学生を育てたいと思います。》
 究極はやはりここなのでしょうね。そして、その部分はそれほど困難なこともなく、伝わるようにも思います。
 今年もまた、ブログを通し、学ばせていただこうと思っています。どうぞ、よろしくお願いします。
29. Posted by 消耗品   2011年07月31日 05:40
不思議な空間を作ってしまった原因・・・さらに加えるならば自分たちと違う者、異質の者に対して壁をつくってしまう心理も関係ありそうですね。個性を認められないまま高校生になっている子を多く見受けられます。イジメの原因にも深く結び付いております。何かとファッションなど自己主張が強い割には、他人の個性や主張を受け入れられない人、これは大人子供問わず、日本人に多くみられる特徴ではないでしょうか?だからこそKYなどという言葉が流行語になってしまうのだと思います。「空気を読むのは構わないが、空気を無視してでも主張しなければならないことがある。敢えて空気を読まない勇気も必要だと思う。ただし相手の人権を無視したり傷つけるようなことはあったりしてはダメだけれど、そういったことを踏まえたうえで自己主張はすべきだし、他者の主張や個性も認めるべき。嫌なもの認めたく無い物、価値観の違う者に対してウザイ、キモイ、アリエナイシで逃げるな!」と生徒に言ったことがあります。

歳は私と大きく離れておりますが元特攻隊員の知人がおります。特攻は形式上、志願という方法をとっていたそうですが、実際は、志願しないという選択など不可能だったそうです。戦時中ですから、そういう空気が支配していたのです。空気を読まないで拒否すれば死なずに済んだ人がどれほどいたことでしょう。日本人は自分たちと違う者を避けたり排除する傾向が昔からあります。村八分などという言葉もありますが。そういった日本人特有の心理が多少なりとも関係している気がするのです。
30. Posted by 消耗品   2011年07月31日 06:06
well doneよくやった!は英米問わずよく使います。
good jobもそうです。
私はイギリス、アメリカ両方に留学経験がありますが、たしかに随分と異なりますね。イギリスに留学したのは高校生の時、最初に出逢ったアメリカ英語との違いは、日本語で言う「どういたしまして」でした。
それまで授業で習ったアメリカ英語では
You're welcome直訳すれば「あなたを歓迎するよ」です。
ですが、イギリスの人たちはThank youに対し、
My pleasure!直訳すれば「私の喜びです」でした。
いかにも王国といいますか紳士といいますか古くは騎士道精神などという言葉を思い起こさせるような、そんな印象を受けたことを覚えております。
国際理解だ何だ難しいことを子供たちに言ったところで理解できないことでしょう。単純に英語に興味を持たせるためには、どうふったらよいか、AETと共同して創意工夫されるとよいかと思います。
たとえば英語を習わずとも自然に使っているカタカナ語があります。本当にそれは正しい英語なの?と考えさせてみたり。「たとえば試合の応援でみんなは「ファイト!」って言う。でもファイトは確かに英語だけれども直訳すれば「闘え!」だよね?スポーツや運動会で闘え!闘え!っておかしくない?そうおかしい。正しい英語の使い方ではない。じゃあ英語でがんばれはなんて言うのか?」これはあくまで一例ですが、英語に興味を引かせる一手段にはなると思います。知りたいという関心は英語に限らず勉学には必要な要素だと思います。学習意欲の原点は「関心」ではないでしょうか?
31. Posted by 消耗品   2011年07月31日 06:10
ところで、、、

英国のMy pleasure「私の喜びです」

日本の「光栄です。」「ありがたき幸せ!」

武士道と騎士道

帝国

島国

何か共通するものを感じませんか?
32. Posted by 消耗品   2011年07月31日 06:33
書き忘れました。
「がんばれ」はGo for it!です。
別の言い方もあると思いますが、頻繁に使われる表現です。
33. Posted by toshi   2011年07月31日 12:41
Aさん
《自分たちと違う者、異質の者に対して壁をつくってしまう心理も関係ありそうですね。》
 そうなんです。鉄は熱いうちに打てというように、これはもう、小学校教育の課題です。どんなに英語を学び、会話しても、この心を何とかしないと、力は伸びないように思います。
 生徒さんに話した言葉、立派だと思います。確固たる信念は持ち大事にしながらも、相手の主張にも耳を傾け、受け入れようとする柔軟性、その双方が必要なのではないでしょうか。
 また、志願制をとりながらも、実質は強制であるということ、現在もたくさんあるように思います。これも日本人の特性かもしれません。
 英語と米語の違い、興味深く読ませていただきました。記事中の学校だよりを書かれた校長先生にも、お伝えしたいと思いました。
 ありがとうございました。

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