2009年01月05日

『学力競争』は悪!?4

0b3a849e.JPG わたしはブログ開設以前からパソコン教室に通っているが、そこの先生はわたしのブログを読んでくださっていて、ある日、ズバッと質問された。

 「子どもを競争させるのは、そんなにいけないですか。」

 
 わたしは、一瞬声がつまった。

 こうした考えは、素朴な想いとして、市民の皆さんが一様に抱かれているのではないか。


 わたしは、ちょっと考えた末、次のように答えた。

「うん。それはやっぱりまずいでしょう。・・・。

 競争しようとするのは人間の本能だと思うので、それ自体はいけないことではないのですが・・・、

 だから、子ども自らが進んでやろうとする競争は大いにけっこうだし、認めてやりたい。学級経営においても、うまくその思いをとり込んで指導すれば、それも人間性豊かな子どもを育む上で有効となるでしょう。

 しかし、今わたしがブログに書いていることは、受験のことや、全国学力調査のことで、

 これは、もう、大人が競争をシステム化してしまって、子どもを追い込んでいるのですからね。子どもの意志とは関係ないわけで、やはり、まずいですよ。」


 まあ、とっさの答えとしては、うまく答えられたと思ったけれど、それからしばらく、わたしの頭からこの問いかけが離れなくなった。



 子どもは元来競争することを好む。勝てば喜び、負ければくやしがる。それは確かだ。

 そのこと自体に罪はない。いや、むしろ、これは、人間の本能的な部分ではないだろうか。


 そこで、人間が集団を形成すれば、競争は自然発生的に起きることになる。

 そして、それはときにはうるわしい部分をみせるかもしれないが、醜い部分を露呈する場合だって多いことだろう。

 その場合、集団の指導者に何の手だてもなく、本能のおもむくままにゆだねるのであれば、勢力の強い子はますます強く、弱い子はますます弱くなっていく。

 だから、そうならないように、学級の場合なら、担任がその本能をうまく生かす方向で学級経営にとり入れ、大いなる成果を上げるように、子どもの心を育んでいかなければならない。


 自分ごとで大変恐縮してしまうが、わたしはかつて、自分の学級を例に、記事にさせていただいたことがある。

    健全な競争心

 競争だから、勝ち負けはある。しかし、それを超越したところにある、競争できる喜び、むきになれる喜び、勝負し合ったことを通しての仲間意識。そういった心情を養いたいと思う。
 

 この、Aちゃんは書いている。

 『4年生まで男の子と話したことがありませんでした。たまに話しても、それは、必ず口げんかでした。』

 こういう学級集団だったら、競争しようとする気持ちは起きなかったに違いない。

『負けたらバカにされそう。何言われるか分からない。』

そう思えば、競争の場から逃げようとしたであろう。



 もう一つ例にあげた、

『一人の子が伸びる。その子の伸びを称賛しながらも、その子に負けたくないという思いが、学級全体を盛り上げる。』

 これも、仲間意識を盛り上げたうえで、競争本能をうまく刺激しているからこそ、功を奏するのであって、

 そうでなければ、伸びようとする友達の足を引っ張ることだって起きるし、うらやみ、やっかみ、劣等感など、そこには、心中、もやもやとした、鬱積したものが残るに違いない。


 
 それでは、受験、全国学力調査などをみてみよう。

 これは、子どもの競争本能とは無縁なところで大人がつくり上げた、『競争システム』である。子どもにしてみれば、無理やりやらされる競争である。


 ましてや、今、全国学力調査においては、大人が、『学力狂騒状態』なのを、子どもたちは知ってしまっている。

 だから、

・机をたたくことによって、正答を示唆してしまったり、特定の子を休ませてしまったりすれば、

 子どもは、『大人ってずるいなあ。』ということを学ぶことになる。

・どこかの教育委員のように、『目的のためには手段を選ばず。』となれば、

 子どもは、『ぼくたち、わたしたちは、大人の学力競争のモルモットにされてしまっている。』思考力のある子なら、当然そう思うであろう。


 わたしは、現職当時、若い教員Bさんを叱ったことがある。

 必ずしも競争といえる事例ではないが、テスト実施中、子どもたちにこう言った。

「さあ。残り時間は少ないわよ。やり残しが多い子や分からない問題のある子は、エンピツを転がしてでも何でもいいから、とりあえず答えを書いてしまいなさい。そうすれば、まぐれで当たるかもしれないでしょう。」

 それに対し、あぜんとしたわたしは、

「Bさんがやったテストは、何のためのテストなのだ。

 これは受験問題か。受験なら点数を上げる必要があるから、Bさんの言った通りでいいだろう。そうすれば、合格に近づく。担任として親切だということにもなる。子どもへの愛情も感じられる。

 しかし、子どもたちが今やっているテストはそうではないはずだ。

 子どもたちの学習到達度をみるためのものだろう。つまづいている子がいれば、どこでどのくらいつまづいているかみるためのものだろう。そして、それが分かれば、あらためてどう指導する必要があるのかも分かる。

 それなのに、Bさんのようにやっていたら、そのつまづきが分からなくなってしまうではないか。それでは、子どもへの愛情など、認められないね。」


 いかがだろう。

 全国学力調査は、子どもの到達度をみるためのものであったはずだ。今日の指導を反省し、明日の指導に役立てるものであったはずだ。

 全国悉皆でやったのは、そうした教育効果を全国悉皆でねらったからではないのか。

 そういう意味で、従来よりは、よく吟味されたいい問題がとり入れられている。


 しかし、これを学力競争にしてしまったら、その目的ははかなくも消え去り、まったく受験同様の位置づけになってしまうではないか。


 今、わたしは、この若かった教員に感謝する。

 これほど、『学力』を競争にしてしまってはいけないという、分かりやすい事例はないであろう。


 真の学力、

 『心の豊かさ』とか、『生きてはたらく知識・技能』とか、『人生は永遠の学び』とか、

 本来は、そういうものを学ぶ必要があるのに、それと並行して、あるいはそれに先行して、あるいは、『真の学力』を学ぶことなく、学力競争(狂騒)に身をおくことを余儀なくされるとしたら、

 これは、日本の子どもの悲劇ばかりではなく、将来の日本に悔やんでも悔やみきれない禍根を残すことになる。



 今回の『狂騒』のなかで、府知事の次のような言葉があった。

「できる子どもにはやはり競争してもらわないといけない。できない子どもは必ず救います。」

 
 ここにも、この、『競争』の本質がある。

・『できる子』は、上記のような、学力競争(狂騒)の場へ引きずり込まれる。

・『できる子』と『できない子』とが分断されている。もうその時点で、ある種の競争があったわけだ。

・『できない子』が救われるわけがないではないか。もし本気でそう言うなら、具体策を見せてもらいたいものだ。現に、子どもは、『バカばかりで楽しい。』などと言っている。

・だいたい、『できる子』『できない子』などと、演説してしまっていることが許せない。わたしはそのような概念を抱いたことがない。


 『世界に一つだけの花』(この歌にリンクしました。)

 その思いを大事にして、教育にあたっているのだ。


 どの子も生きる価値がある。

 どの子も個性的で豊かな学力をもっている。


 瀬見井犬山市教育長が言った。

 「競争でなく、学び合いだ。」

 これが正しい。

 
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 受験について、大人は言うかもしれません。

「子どもは喜んで挑戦しています。」
「子どもがやりたいって言ったのです。」

 そうでしょう。

 その言葉にうそがあるとは思いません。

 しかし、明らかに、それは、子どもの内面からほとばしりでた思いではありません。


 やはり、大人がそう言わせているのです。

 保護者かもしれません。担任かもしれません。社会かもしれません。


 少なくとも、本能が言わせている言葉とは思えないのです。

 だって、繰り返しますが、受験にしろ、学力調査にしろ、それは、大人がつくり上げたシステムですものね。本能であるわけがありません。

rve83253 at 12:02│Comments(22)TrackBack(0)教育観 | 児童観

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この記事へのコメント

1. Posted by KG   2009年01月05日 16:16
教育を語る時に使われる「競争」という言葉には2通りの意味があるのではないでしょうか?

1つは人間自身の本能に根ざす、子供本人の思いから発せられる「競争心」。
もう1つは、ある目的(学力向上など)を達成する為に、子供一人一人に競争心を沸き立たせようとする「競争原理」。

一見似ているようですが、私は前者と後者は全く違い、競争心と競争原理の混同が教育手法を巡る混乱にもつながっているのではないかと思っています。

ある目的を達成する上で、副次的に競争心を持つ子は確かに目的を達成するのが早くなります。
しかしそれはあくまで本人の自発的な思いから発せられるからこそ機能するわけですよね。
これは本人にとって、目的(目標)が魅力的であればある程機能します。
一流のプロスポーツマンは等しく激しい競争心を持っていますよね。
2. Posted by KG   2009年01月05日 16:24
(つづき)
競争原理は競争心の効果に目をつけ、外部から競争心が生まれるよう働きかけるわけですが、肝心の目的が本人にとって魅力的かどうかという視点に欠けています。
教育においての目的は何らかの学力、もっというとテストの点数向上になる事が多いわけですが、その科目、内容に対して興味がない子がそれに対して競争心を働かせるのは非常に難しいと思います。

競争心を激しく持っているプロスポーツ選手だって、では学校の勉強に対して競争心を働かせたか?と問われれば、多くは否でしょう。
人間は本能として自分がこだわりを持つ分野に対しては競争心を働かせますが、全方位に競争心を向けるのは、これまた無理な話しです。

日本の義務教育に競争はタブー、と聞くことがありますが、それは私は迷信だと思います。現実に高校受験という競争システムが存在し、高校進学率が100%に近い日本では必然的に義務教育も競争システムに巻き込まれています。
しかし、高校において学力底辺校が存在するという事は、必ずしも競争システムが全員の学力を保証するシステムではない証左だと思うわけです。
3. Posted by KG   2009年01月05日 17:04
(つづきです。長くなりましてすいません)
まとめると、
・子供自身が自分の思いで競争するのは別に悪くはない

・教師が日常の指導の一局面で子供同士に競争させるのは、クラスの実態を踏まえた上であれば特に悪くないのでは?

・システムとして継続的に競争を強いる競争原理は悪い

という事でしょうか。
長々と書きましたが、教育学者の佐藤学先生は著書の中で、教育において「競争か協同か?」をメタ分析した結果、競争より協同が有効と結論づけています。

今の社会は「競争社会」とよく言われます。それは社会の一側面ではあると思いますが、社会の根っこは異なる人間同士の協同的な営みだと思います。
教育の目的が、子供たちを社会に送り出すことならば、他者との協同を妨げる競争よりも協同にシフトするのが当たり前なのではないでしょうか?
4. Posted by ドラゴン   2009年01月05日 20:31
toshi先生、今年もよろしくお願いします。

KGさん
>教育学者の佐藤学先生は著書の中で、教育において「競争か協同か?」をメタ分析した結果、競争より協同が有効と結論づけています。

私もそう思います。
以前、プロ野球を目指して努力する子どもは賞賛されて、受験を目指す子どもは否定されている、ということを書きましたが、すべての基本は目標だと考えます。
通常、教育の目標では、子どもができること(能力)や知ること(理解)、興味をもつこと(関心・態度)が目標になります。
これらの目標を達成するためには、やはり協同はよいと思います。ノーベル賞を取った方々も、最後は協同研究ですね。知りたい、解決したいという目標を達成するには、競争よりも協同が効果的だったと言えるのではないでしょうか。
ただ、東大に入るとなると、どうしても競争がつきまといます。定員ではなく、絶対評価で入学させてもらえると、競争より、自分との戦いということになるんでしょうか。

5. Posted by ドラゴン   2009年01月05日 20:40
連投すみません。
本当は、「ああ。どうなってしまうのだろう。(3)」にコメントしようと思ったことですが、重なりますので、ここで。
前のコメントと重なりますが、蔭山さんも、橋本知事も子どもをどう育てたいと考えているのかにつきると思います。
今回の発言を見ると、結局は目の前の学力テストに答えられる子どもを育てることしかないように思います。
10年後にどう育っているかを考えるのが本来の教育と考えます。そういう理想を議論して、そのために何が必要かを議論すれば、こういう結論にはならないのではないでしょうか。
私は、社会全体で、そうする必要があると思いますし、可能ならば、東大が(その責任において)、こういう学生がほしい、と示してもらうと、それだけで変わるのではないでしょうか。
そうありたいと願っております。
6. Posted by ドラゴン   2009年01月05日 20:47
余談です。
「教育とは、学校で習ったことを忘れたあとに残っているもの」(アインシュタイン)
すみません、出典を忘れました。しかもうろ覚えです。
でも、蔭山さん、橋本知事への強烈なアンチテーゼのように思いました。
ご参考までに。
7. Posted by toshi   2009年01月06日 06:53
KGさん
 『競争心』と『競争原理』
 なるほどなと思いました。いい言葉ですね。このあたりをごっちゃにしての言動が多いように思いました。
 あと、『子どもの競争心をあおるのがよくない。』という部分については、公教育の場合という条件がつくケースも多いだろうと思います。
 公教育というのは、子どもが、無目的、無関心のまま通ってくるということが、前提としてあるからです。習い事や少年スポーツ、塾などでしたら、話は別かもしれません。
 全部そうだとは言いませんがね。考えてみる余地はありそうだという意味です。

 『競争と協同』については、ほんとうにおっしゃる通りと思います。どちらも人間にとって本能にかかわる部分ではないでしょうか。

 人類の歴史を200万年と見ると、199万年は狩猟採取生活です。その生活のなかで、『競争と協同』の心理が培われたのだと思います。
 
 したがて、『そこから、ことを考える姿勢もあっていいかな。』とも思っています。 
8. Posted by toshi   2009年01月06日 07:19
ドラゴンさん
 そもそも、学習指導要領で示されているところの学力は、競争にはなじまないだろうというのが、わたしの見解です。
 先の記事、『一人ひとりを見つめて!』(本コメントのHN欄にURL貼り付け)に示したように、どの子も個性的な存在であり、どの子にもよさがあり、どの子も自分の力に応じて伸ばしてもらう権利があるという立場からは、システム化された競争原理を容認することができません。
 わたしは、教育汚染の大きな要因として受験があると思っていますが、その一番の理由が、『一人ひとりを見つめて!』のような教育を否定してしまいかねないからです。
 まあ、現状では、矛盾を感じながら『協同』の心を養うことになる場面が多いだろうと思います。
9. Posted by YK   2009年01月06日 15:48
私は学力競争について善か悪かという枠組みで見たことがないのです。何を信じるか、という世界観の問題に過ぎないと思います。ダーウィンの適者生存説のように、優勝劣敗(敗者には価値が無い)の世界観を信じるか、あるいは、誰にでも特別な価値があるという世界観を信じるか、その2択に過ぎないと思うのです。今日、前者を信じ、後者を信じない日本人が多いのです。しかしながら、少なくとも、少子高齢社会の今日には後者の世界観の方が適合すると思うのでそちらの世界観を重視して教育にあたろうとしているのです。ちなみに競争したいという本能と、学問をしたいという本能は同一視できないと思います。まず、学力競争が報われるかどうかは知りませんが、学問は必ず報われます。コラボレート(協同)しなくても学問は報われます。なぜ報われると断言できるかは、此処では書きませんが、これは珍しく確信を持って言えることです。
10. Posted by kawa   2009年01月07日 14:05
競争か協同か、という問題は、どちらか一つに絞らなければいけないということはないと思います。
しかし、「受験のときにわざと筆箱を落とし、周りをびっくりさせる」というようなことを教える塾もあるのは問題だと思います。(全国的に有名な進学塾でそう教わったと私の生徒が言っていました)
それは、道徳的な問題もありますが、そんなことに気をとられていたら自分自身の能力が伸びていかないのだと思うからです。つまり、他人を蹴落とすことに気をとられていては、自分を高めることはできないということです。

日本語教師としての立場で言えるのは、クラスの中での人間関係をばらばらにして競争させるより、「協同」で進めたほうが語学力が伸びるという面は否定できません。少なくとも、教室に座っているときに、他人との比較に気を取られている学生より、学習に集中している(集中できる心理状態にある)学生のほうが得るものが多いことは明白です。(これが、斉藤先生のおっしゃっていた「競争より協同」の意味だと思うのですが)

なお、一般論としては、レベルの低い支配者は部下が一致団結するのは望ましくないと考えるのではないでしょうか。(支配者が教師に、部下が生徒に変換不可能であってほしいです)
11. Posted by KG   2009年01月09日 09:48
>ドラゴンさん

初等〜中等教育と高等教育は教育の目標・性質が随分違いますから、入試を行うのは当たり前の事ですし、入試を行う以上は必然的に競争が生まれてしまうのは仕方がないのではないでしょうか?

5番のコメントはまさしくその通りだと思います。
初等〜中等教育の目標は文科の言葉を借りれば「生きる力」。その力の大部分が学力にせよ、学力は生きる力をつける為の手段の1つに過ぎません。
でも大阪府知事や蔭山氏は学力そのものが目的化してしまい、それもテストによって評価可能な学力の部分に絞って目的化しているので本末転倒な事になっているのだと思います。
そうやって育てられた子たちが社会に出た時、どういった社会人になっているのか、イメージが非常に貧困なのでしょうね。
12. Posted by toshi   2009年01月09日 16:52
YKさん
 ううん。むずかしい。
《ダーウィンの適者生存説のように、優勝劣敗(敗者には価値が無い)の世界観を信じるか、あるいは、誰にでも特別な価値があるという世界観を信じるか、その2択に過ぎないと思うのです。》
 ダーウィンの適者生存説を読んだわけではないので、あてずっぽうですが、これは現代における人間社会においては、『悪』とみていいのではないかと思いました。
 生物界においては、これは間違いなくあるでしょう。しかし、これだけ医学、科学が進歩し、人権意識が大事にされているなかでは、人間社会はすでにもうその姿を克服したと思います。
 繰り返しますが、読んでいないので、もし的外れのことを言っていたらごめんなさい。
 《競争したいという本能と、学問をしたいという本能は同一視できないと思います。》
 これは賛成です。ただし、往々にして、それは大人の場合となっていて、子どもの場合は、ごっちゃにしている場合が多いですね。やはり、それではいけないと思うのです。
13. Posted by toshi   2009年01月09日 17:13
kawaさん
《「受験のときにわざと筆箱を落とし、周りをびっくりさせる」というようなことを教える塾もあるのは問題だと思います。》
 そんな塾があるのですか。驚きました。初耳です。みんなわざと落としたら、大変なことになるでしょうね。そのようなことを指導していたら、今に大問題になりますよ。論評の他ですね。
《クラスの中での人間関係をばらばらにして競争させるより、「協同」で進めたほうが語学力が伸びるという面は否定できません。》
 これはもう、語学力に限らず、学校教育全般に言えることですね。
《レベルの低い支配者は部下が一致団結するのは望ましくないと考えるのではないでしょうか。》
なるほど。よく分かります。そして、業績が上がらなくなっていくのでしょうね。
 
 
14. Posted by YK   2009年01月11日 06:43
>>生物界においては、これは間違いなくあるでしょう。しかし、これだけ医学、科学が進歩し、人権意識が大事にされているなかでは、人間社会はすでにもうその姿を克服したと思います。

19世紀後半、社会進化論というのが流行ったのですが、私は日本の近代国家形成の上でこの思想の影響が大きかったのではないかと思ってます。たぶん、受験=東大文機甦盈宗∪賁膕藩楡というのは、明治時代の学制以来、今日も根本的には変わっていないのではないかと思っています。現実の社会は先生のおっしゃる通りで、戦後の60年で克服した面も多いと思いますが、受験システムという面では、当時の観念−東大信奉のようなものが根強くあるようにも思います。例えば、私が競争論者に聞きたいのは、経済についてだけ言っても、ゆとり教育から競争教育に方向を転換すれば、再び高度経済成長が見込めるのか。ビジネスの競争と学校の競争がどのくらい直接的な関係にあるのか。逆に、ただ学力競争のために学力競争をやるのであれば、何の意味があるのか。規制緩和の結果、無節操になった今では、競争だけではなく、倫理について教える必要があるのではないか。こういう根本的な問いがいまいち見えてこないです。そんなの考える暇はないというのなら、それは一つの立場でしょうが、それが教育と言えるのかどうか、という疑問は残りますね。
15. Posted by toshi   2009年01月11日 09:48
YKさん
 受験システムに限っての話だったのですね。胸にストンと落ちるくらいよく分かりました。
 何の本だか忘れてしまったのですが、高度経済成長期の真っ只中、
『終身雇用制や年功序列は、日本固有のよさのように言う人が多いが、そんなものは幻想だ。高度成長期だからやっていられるに過ぎない。』
 まさにその通りでしたね。

《例えば、私が競争論者に聞きたいのは、〜。》
 これはすばらしい問題提起ですね。わたしは、競争論者ではないけれど、考えてみたい問題だと思いました。いつか記事にさせていただければうれしいなと思いました。
 ありがとうございました。
16. Posted by kawa   2009年01月11日 11:47
YKさん、toshi先生

昨年の暮れ、元経済企画庁長官の宮崎先生が、天津の学生を相手に講演をしてくださいました。その講演の一番最後におっしゃったのが、「経済と倫理」についてでした。そして、学校と家庭での倫理教育の必要性を述べておられました。
二宮金次郎も「倫理なき経済は罪悪、経済なき倫理は寝言だ」と言っていたとの事。健全な競争、向上につながる競争と倫理は両立させようというのが全うな方向だと思います。
そして、YKさんの問題提起については、「工場での単純作業従事者育成」を主眼にする教育(棒暗記を主眼とする教育)がこれからも必要なのかどうか、そういう人間が必要とされているのかどうか、教育に携わるものとして、きちんと考えていきたいと思います。
17. Posted by toshi   2009年01月11日 15:54
kawaさん
 二宮金次郎のお話は、興味深く拝見しました。
 わたしはこれまで、『経済と倫理』というとらえをあまりしていませんでした。
 でも、かつて記事にさせてもらった松下幸之助さんの会社経営とか、
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/726349.html
 つい最近、みっきーままさんからいただいたコメント
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/1197121.html#comments
の1番ですが、
 これだけ、会社経営上の犯罪がとりざたされている今でも、りっぱな会社経営をなさっている方は大勢いらっしゃるのだという確信をもつことができました。
 「倫理なき経済は罪悪」ほんとうに今の世相を現していますね。
 また、健全な競争は、つい最近記事にしましたので、強い共感の念をもちました。
《YKさんの問題提起については、「工場での単純作業従事者育成」を主眼にする教育(棒暗記を主眼とする教育)がこれからも必要なのかどうか、》
 なるほど。kawaさんの問題提起も、あわせて考えていきたいと思います。
 今後の教育のあり方を考える上での問題提起をいただき、ありがとうございました。
18. Posted by YK   2009年01月12日 19:25
kawaさん、toshi先生

>>「倫理なき経済は罪悪、経済なき倫理は寝言だ」

なるほど、二宮金次郎は良いことをいいますね。マックス・ウェーバーも「プロテスタンティズムと資本主義の精神」という本も書いていますし、本来は倫理と経済は不可分だと思いますね。ビル・ゲイツも「クリエイティブ・キャピタリズム(創造的資本主義)」といって、企業は社会を良くするためにあるのだから、社会貢献の精神を持たなければならないと言っていますね。松下さんも自然にそういう考えを持っていましたし、そういう点は見直されるべきでしょう。ただ、やはり、倫理というのは教えるものではなくて、喚起するものだと思うのです。これは、会社の役割ではなくて、教師の役割だと思います。基本的には会社は利益を追求しなければならないですからね。
19. Posted by YK   2009年01月12日 19:41
>>YKさんの問題提起については、「工場での単純作業従事者育成」を主眼にする教育(棒暗記を主眼とする教育)がこれからも必要なのかどうか、そういう人間が必要とされているのかどうか、教育に携わるものとして、きちんと考えていきたいと思います。

この辺は私にとって少し難しい問題なのですが、「工場の単純作業」というのは実際に従事している方がいますからね。実際、高度経済成長は、中小企業の努力の産物でしょう。その役割は極めて重要だったし、そうした人々の重要性は今でも変わらないと思うのです。ただ、今はまた簡単に仕事先を失う状況が出て来ているわけで、職業訓練とは別に、単純作業以外の労働の意味などを教える必要があるのではないかと感じています。それに、日本の場合、現実に差し迫った問題として、介護福祉の問題があるわけで、これは、単純作業ではなく、人間を相手する仕事なのだから、やはり倫理というか、人間性を育成するような教育を重視すべきではないかと思うのです。
20. Posted by toshi   2009年01月12日 23:24
YKさん、kawaさん
 だんだん分かってきたようなきがします。
 資本主義ですから、やはり、利潤追求が本質ですよね。
 しかし、その利潤追求の中身が時代とともに変化しているのですね。
 かつての日本は、義理と人情を欠かしたらもうからないという傾向だったと思います。内部告発などとんでもないことでした。
 しかし、今は、倫理と正義の時代になりつつあると言ったらいいでしょうか。それを欠いたら信用をなくし、もうからなくなる。内部告発も正義であると、そういう世に向かっているのではないでしょうか。まだなりきれていないので、苦しみもあるのだと思います。
 もう一つ。環境を大切にすることも、信用にかかわってくるでしょう。

 教育で大切なものも、自然に変化していくでしょう。いや。変化させなければいけませんね。
21. Posted by 中田   2009年03月10日 15:07
 受験について、大人は言うかもしれません。
「子どもは喜んで挑戦しています。」
「子どもがやりたいって言ったのです。」
 そうでしょう。
 その言葉にうそがあるとは思いません。
 しかし、明らかに、それは、子どもの内面からほとばしりでた思いではありません。

 全くそのとおりです。
なぜなら、私自身、中学受験をした者だからです。
当時は、なぜ小学校は、こんなに、ゆっくり、まったりしているのだろうと、子供ながらに生意気なコトを考えていました。
寝る間も惜しんで、勉強し、結果として、偏差値が上がっていけば、やはり子供は嬉しいもの。

ですが、今思うのです。
子供を持つ身になり、同じ事を我が子に強いるかどうか?
今になって、初めてプラスの面だけでなく、マイナスの面も見えるのです。
勉強は知識、理解力だと信じていたけれど、子育てをして、子供の成長を間近で日々見ていると、学校での生活、家庭での生活を通して、様々な体験をし、見て聞いて感じて、初めて、そこで知識が脳に入って留まるのではないかと。
その知識をインプットして、さらにアウトプットする力もつくのではないかと思うのです。


子供の二極化は深刻です。
参観で見ていても、明らかに全く理解出来てない子と、簡単すぎてつまらなそうな子に分かれています。
先生方も大変だと思います。
正直、保護者から見て、この二極化したプチ学級崩壊気味のクラスに、学ぶ楽しさや、理解度を深める、知識を増やすなど、どの要望も先生が叶えるのは難しいことだと気の毒に思います。


何が子供達にベスト、ベターなのか。
今の日本は迷走中ですよね。
だからこそ、家庭では、しっかり!
よく食べて、よく寝させて、心身共に健康な子供にするのが、結局は、手っ取り早く、今の現状を大きく変えることになるのかも。





22. Posted by toshi   2009年03月11日 05:05
中田さん
 おっしゃる通りと思います。
 子どもは、生活そのものから学んでいくのですね。学校の授業は、その学びを統合、深化させたものと言えるでしょうか。
 ですから、子どもから、『生活』を奪ってしまったら、単なる、ペーパー的な学力への比重が大きくなってしまい、それは、生きてはたらく力にはなかなかなりにくいように思います。
 中田さんのように、中学校の受験経験者の方のおっしゃることには、説得力があるなと思いました。

 学力の二極分化については、かつて記事にさせていただいたことがあります。『いじめ防止と算数の授業』とあるように、二極分化を正面からとり上げた記事ではありませんが、うかがい知ることはできるのではないかと思います。
 本コメントのHN欄に、そのURLを貼り付けましたので、よろしければごらんください。

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