2009年01月12日

教えない指導。でも、?4

53edd873.JPG 教員だから、子どもにいろいろ教えようと思う。

 親だから、子どもをしっかりしつけようと思う。

 それは自然だし、その心は大切だろう。

 しかし、それが行き過ぎて、子どもの個性伸長のじゃまになっていることが、あまりにも多い。おせっかいだったり、干渉だったり、強制的だったりしてしまう。

 教員や親の指導性と、子どもの主体性との兼ね合い。

 本記事が、そのあたりの理解につながればうれしい。



 まず、2枚の写真をご覧いただきたい。

 それは、本記事冒頭の写真と、前記事に掲載した写真の2枚だ。

 本記事の写真は昨年度、前記事のは今年度のものだ。わたしは今、1年ごとに異動となるので、双方の写真の小学校は異なるが、どちらも3年生。もちろん、初任者のクラスである。


 体育。どちらもタワーボールの授業である。

 タワーボールと言っても、お分かりいただけないかもしれない。今の保護者世代の方が小学生だったころは、ポートボールと言っていた。

 ポートボールでは、ゴール役になる子どもの運動量がないということから、タワーボールに移行したのではないかと思う。

 上学年では、バスケットボールとなるわけだ。


 タワーとはゴールのこと。今日の写真で、白くかごのように写っているものがご覧になれると思うが、それだ。

 かなり大きいことにお気づきだろうか。バスケットボールよりは、ゴールしやすくなっていると言えるだろう。



 さて、2枚ご覧になって、いかがお感じだろう。

「どちらもいっしょうけんめいやっている。意欲的だ。」
「みんな、いい態度だな。」
「学級の秩序が保たれている。勝手なことをしている子どもはいなさそうだ。」


 その通り。わたしも、授業を見ながら、それを一番感じた。

 初任者指導教員としては、まずは、ホッとし、初任者と子どもの成長をうれしく思う。


 
 このタワーボールは、今、この時期にやっている学校が多いのではないか。

 最初は緊張と不安な思いだったであろう初任者も、この時期となると落ち着きをまし、子どもとの一体感も生まれるようになる。

 子どもたちも、そうした初任者の落ち着きで、安心感が出てくるのであろう。はつらつとした感じになり、学級は安定してくる。


 そのようなこの時期、毎年初任者に言うことは、

「ここで安心して気を緩めてはいけないよ。学級経営に横ばいはない。上昇するか、下降するかのどちらかだ。だから、学級としての盛り上がりをみせるようになったら、よりいっそう目標を高いところにおいて、さらなる成長を目指さないとな。」

 

 そして、今年の初任者のAさんにはこう言った。

「変な奇声を発する子は、まずいなくなったね。朝もAさんが教室へ向かうころは、もうすでに、みんな席に着くようになっている。教室は静かで落ち着いた雰囲気になった。

 すごいなと思うのは、最近、朝の会がAさんなしで始まっていることもあるよね。けんかもまず最近はまったくと言っていいほど見ないし、友達同士のかかわりも密になっているように感じる。

 だから、4月のころ、目つきの険しかった子たちも、今はとても柔和なやさしい表情を見せている。


 それは、Aさんが子どもにかける言葉が、年度当初と比べてみると、一変したからだ。

 当初は、『〜しなさい。』とか、『〜してはダメ。』とか、一方的な指示がとても多かった。また、子どもをほめることがまったくと言っていいほどなかった。できて当然、やって当然という感じだった。逆に、子どもたちを叱る場面は多かったよね。

 あのころのAさんは、子ども一人ひとりをよく見ていなかったと思う。


 でも、今は、学習問題を子どもの問題意識から拾うようになってきたし、

 『うわあ。Bちゃん。すごい。よくこれだけやったね。』とか、『うん。うん。なるほどねえ。Cちゃん、よく気づいたね。』とか言って、子どもを実によく見てほめるようになった。

 だから、子どもはもう、安心して学級生活を送っている感じだ。


 そこで、次なる目標だが、わたしが見る限り、まだ、子どもたちの実態は、『自分の得にならなくても、人のためにがんばろう。』とか、『創意工夫して新しい何かを学級内に作ろう。』とか、『学級のみんなと一緒になって、一つのことをすることが何よりも楽しい。』とか、そういう気運にはなっていないと思う。

 そこで、何でもいいのだ。わたしが今言ったことにはとらわれず、Aさんと子どもたちとで話し合って、新たな、より深みのあるめあてを設定したらいいのではないかな。」


 その具体例として、冒頭述べた写真をAさんに見せた。ただし、一枚ではない。子どもたちの顔の写った写真も数枚ある。

 新たな目標設定の手がかりになるかなと思った。



 そこで、

 前記事に掲載した写真を説明させていただこう。


 手前に大きく写っている子たちは皆Dチーム。今、Eチーム対Fチームの試合を見学している。

 Dチームの子たちはよく試合を見ている。応援の声もかわいらしくて実にほほえましい。


 初めはDチームの子は誰もが、サッカーゴールのところに一列にすわっていたのだった。

 しかし、だんだん試合にのめりこんでいく。夢中になってきた。

 すると、2人が思わず立ち上がってしまった。顔はと見ると、2人とも必死の形相をしている。 
 
 身体が前かがみになっているのも、試合をしているチームと一心同体になっているように感じ、ほれぼれとしてしまった。


 Aさんは、これら数枚を印刷した。

 1月。学級のめあてをみんなで決める際の資料にするとのことだった。

 どのような目標ができたか。わたしは、明日が今年の初出勤だが、楽しみだ。



 実は、この話には続きがある。

 立って応援している向こう側のGちゃん。試合と試合の間の短い時間に、わたしに質問してきた。

「toshi先生。なかなか点が入らないのだけれど、どうやったらもっと点が入るのかなあ。」

 いい質問だ。確かにゴールはあんなに大きいのに、思うように点が入らない。


 わたしが見る限り、

 みんなは、夢中なあまり、ボールを真剣に投げる。強いボールが多い。

 パスならそれでもいいのだが、ゴールに向かっても、つい強いボールを投げてしまい、したがってほとんど、ゴールポストに当たって跳ね返ってしまうのだ。もったいない話だ。



 そこで、つい・・・、

 ほんとうなら、『どうやったら点数がいっぱい入るか、みんなで考えてごらん。』というのが正解だろう。

 しかし、もうすぐ、試合が始まってしまうのと、あまりに、Gちゃんが真剣で、悩んでいるようにみえたのとで、つい、答えてしまった。


「このように(『山なりに、』実際はジェスチャーで示した。)投げれば、よく入るのではないかな。」

「そうかあ。分かった。上から入るようにすればいいのだね。」



 ああ。わたしとしたことが、

 初任者に日ごろ言っていることと違うことをしてしまった。後でお詫びしたけれどね。


 教えない指導。やはりむずかしいものだ。


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 記事の末尾の件は、これでいいのだという見方も成り立つと思います。

 子どもが問題意識をしっかりもち、それで聞かずにはいられないとして、聞いてきたことに関しては、教えてもいいのではないかという考え方です。子どもは十分主体的だからです。

 でも、違う見方も成り立ちます。

 この場合、3年生の子どもなら、チームのみんなで話し合って、自分たちで解決できるはずのこととも思えるのです。

 それに第一、いくら聞いてきたこととは言え、1チームだけに教えたのではね。 

rve83253 at 11:00│Comments(8)TrackBack(0)教育観 | 体育科指導

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この記事へのコメント

1. Posted by kawa   2009年01月12日 18:46
toshi先生
「教えない指導」、性善説、性悪説とも関連がありますか。といいますのも、この指導は、生徒を信じていないとできないことだと思うのです。
そして、どんなに小さい子供でも自分の意志(感情)があるのだということを、そしてその意志に、教師である自分の意志と同じぐらいの価値を認めることができるのかということが、分かれ道になるような気がしています。
あるいは、自分と違う(考え方)の存在を許容できるかどうかということになるのでしょうか。

ひとつお聞きしたいことがあります。

学生が何かを本当に身につけたとしたら、それは教師が教えたのでしょうか、それとも最終的には本人が自分の努力によって身につけたのでしょうか。
2. Posted by toshi   2009年01月12日 23:11
kawaさん
 ええ。関係大ありです。『子どもを信じ、』というよりも、『人間を信じ』と言った方がいいでしょうか。自然体の子どもは、自ら伸びようとする意欲があると信じることだと思います。そして、自己肯定感をもたせることができれば、子どもは指導者が予期しないところまで成長を示すことが多いし、逆に指導者が学ばされることまで起きるものです。
《その意志に、教師である自分の意志と同じぐらいの価値を認めることができるのか》
 もうほんとうにおっしゃるとおり。もう、上述のように、『価値はあるのですから、認めなければなりません。』と言いたいくらいです。

 学生ということは、大学生と思えばいいでしょうか。それでしたら、もう、学生が、学ぶ必要性、切実感をもっているかどうかで決まるように思います。そうでなければ身につかないと言ってもいいと思います。
 あえて言うなら、『本人が自分の努力によって身につけたもの。』それであるはずです。
 でも、もう大人ですから、講義であっても、切実性、必要感つきなら、身につくものと思います。
3. Posted by こだま   2009年01月12日 23:30
ご無沙汰しています。
現在、塾の仕事の方にかかりきりでブログの世界から遠ざかっていますが、toshi先生の記事は時折拝読して勉強しています。
某知事と某校長が頓珍漢な教育政策を主張して、世間を混乱させているようですね。
まことに困った方たちですが、そろそろ化けの皮がはがれる時期も近いのではないかとのんびり眺めています。

今回のテーマ、面白いですね。
最後の子どもへのアドバイスの場面、私はどちらでもOKだと思います。
大切なのは、われわれがいかに真剣にこどもたちに向き合っているかだけだと思います。
誤解を招く表現かもしれませんが、真剣に向き合っていれば、そこでは失敗しようが成功しようが、子どもが何かを学ぶ(同時に教師も)はずだという確信があります。常日頃「教えない教育」を標榜している私がこんなことを言うのもおかしいですが、教えない教育」を原理主義的にとらえると必ず破綻すると思います。

余談ですが、上記のkawaさんの最後の質問から、禅の「啐啄同時」という言葉を思い出しました。
<参考サイト>
http://www.rinnou.net/cont_04/myoshin/2007-06a.html
4. Posted by toshi   2009年01月13日 06:36
こだまさん 
 うわあ。ほんとうにお久しぶりです。
 ご多用中のところ、コメントをいただき、ありがとうございます。
《そろそろ化けの皮がはがれる時期も近いのではないかとのんびり眺めています。》
 ほんとうにそうなるといいですね。
《「教えない教育」を原理主義的にとらえると必ず破綻すると思います。》
 なるほど。よく分かります。
 人間同士の関係は、理屈どおりにはいかないということですね。
 でも、理屈も大事なのですよね。大事だが、もっと大事なのは、《真剣に子どもと向き合っているか。》なのですね。

 リンクで、いい記事をご紹介いただき、ありがとうございました。
 『いるようでいて、いない親の話』は、教員にも当てはまるなあと思いました。子どもの前にはいるのですが、心は自分だけという教員です。『教育とは、子どもとは、こうあるべき』という自分の思いだけしかない教員です。
 初任者は、拙記事のように成長していくからいいのですが、ベテラン教員のそれには、辟易してしまいます。 
5. Posted by Fumi in Bahrain   2009年01月13日 19:50
本当にそうですね。
教えること、教えないで学生に考えさせること、この2つのバランスはとても難しいです。特に中学生の場合は、それを痛感させられます。(高校生なら、多少は自立してくれますが)

私事ですが、来年度からドバイに転勤になります。今度はアラブ人ではなく、アメリカ人中学生を相手に数学を教えることになりました。コメント欄での報告、誠に申し訳ございません。
6. Posted by toshi   2009年01月14日 11:17
Fumiさん
 時代というものが大きいと思います。だんだん、意欲付けをすることから考えなければならないようになっていると思うのです。
 これは、日本だけの傾向ではないのかもしれないなと思いました。
 そういう意味で、世界に雄飛するFumiさんからコメントをいただけるのはとてもうれしいです。
 
 今度はドバイですか。すごいですね。
 ドバイはバブルがはじけたばかり。大変なことになっていると、ニュースが日本にも伝わってきています。ちょっと前は、日本から農業団体が売り込みのために、ドバイを訪れているというニュースを聞いたばかりでしたのに、世の中の変化はあまりにも急です。
 教育にもいろいろな影響がでてくるかもしれませんが、どうか、がんばってほしいと思います。
 祈。ご健闘。
7. Posted by 中田   2009年03月11日 09:44
子供は昨年からレゴエデュケーションの習い事に週1で通っています。

生徒達は、レゴおたくとも言うべき子供ばかりで、息子もDSなどは持っていません。
ですので、第一段階の教える側が、
いかに子供に興味を抱かせるかという点はクリアしています。
現カリキュラムは、ギアを使ってモノを動かしたり、支点力点作用点や滑車など、楽しいプログラムで自然に、身につけていきます。
どうやったら、もっとスムースに動くかな、距離をだすことが出来るかななど、作りながら改善するため、家でも同じ教材で作り、レポートを書いていきます。教室は計4名の少人数で、2人1組でチームを組み、課題に取り組みます。


教えない教育を原理主義的に捉えると必ず破綻する…確かにそうだと思います。
もし、このレゴおたくの生徒達が、毎週好き勝手に作品を作っているだけとしたら、1年後、ここまでの成長はありませんでした。
やはり、大人の導きも必要ですよね、最小限度で。
導きすぎても、結局、子供を近道させるだけになるし、バランスがとても難しいですね。

様々な家庭環境を持ち、能力もそれぞれの公立小学校の子供達を、45分の中で、いかにまとめていくか、本当に難しいと思います。
ただ、そんな環境だからこそ、うまくいかないことも、子供は何か学ぶことがありますね。
社会に出たら、それこそ色んな人間の集まりですし。
能力があっても、人が好きでなければ、うまくやっていけませんから。


8. Posted by toshi   2009年03月12日 05:48
中田さん
《大人の導きも必要ですよね、最小限度で。導きすぎても、結局、子供を近道させるだけになるし、バランスがとても難しいですね。》
 そうですね。わたしの今の仕事である初任者指導でも、そのことは大事な指導内容となっています。
《様々な家庭環境を持ち、能力もそれぞれの公立小学校の子供達を、45分の中で、いかにまとめていくか、本当に難しいと思います。》
 教え込もうとすれば、確かに、いろいろな性格、能力に対応するのは大変だと思います。しかし、子どものもっているものを引き出そうとするなら、違いはむしろ、多様な思考力というかたちにつながり、実にいきいきとした学習になっていくのです。ですから、むずかしいというよりも、充実した楽しい学習になりそうな気がします。
社会に出たら、それこそ色んな人間の集まりですし。
《能力があっても、人が好きでなければ、うまくやっていけませんから。》
 おっしゃるとおりですね。記事のような指導は、社会にでてから役立つ、人間関係調整力を養っているとも言えそうです。

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