2009年01月14日

学習指導要録改訂に向けての願い!4

1805173e.JPG 前記事『教えない指導。でも、?』は、2枚の写真を使っての記事だった。

 が、当初、2枚の写真はぜんぜん違う内容で使うことを考えていた。

 しかし、それでは、どうもうまく記事がまとめられず、そちらの方は、一時掲載を断念した。


 しかし、(二つ連続の『しかし、』で申し訳ありません。)

 今回は、『断念した理由』を記事のテーマにし、その内容を生かすことにした。



 いきなり、2枚の写真とは違う話題になってしまうが、


 保護者の皆様には、お子さんの、通信票を通してなじみがあると思う。

 一人ひとりの子どもの学習状況を分析したものとして、いわゆる『観点別評価』なるものがある。ほとんどの教科は、『関心・意欲・態度』『思考・判断』『技能・表現』『知識・理解』の4観点に分けられる。

 学校によっては、上記4観点をそのまま表記しているだろうし、また、それを文章表記にしているところもあるだろう。(たとえば、『関心・意欲・態度』なら、『国語に関心をもって、意欲的に学習に取り組んでいる。』など)


 観点ごとに、学習指導要領に示された目標に照らし、到達度が十分満足できると判断した場合Aまたは◎。おおむね満足できると判断した場合Bまたは〇。努力を要すると判断した場合Cまたは△がつくことになる。

 そして、学年末には、それらがまとめられて、学習指導要録に記入される。

 以上は、国によって決められたものである。(3年生以上は、『教科ごとの評定』も記入)


 ただし、通信票については、学校が学校の責任において作成するものであるから、必ずしも、指導要録通りになるとは限らないはずのものである。

 しかし、いろいろな事情があって、ほとんどの学校は指導要録どおりに作成しているものと思う。


 この辺の事情については、かつて記事にさせていただいたことがあるので、そちらをご覧いただけたらと思う。

    いわゆる『観点別評価』について   


 さて、上記4観点のうち、教員にとって一番悩ましいのが、4観点の先頭にくる『関心・意欲・態度』ではなかろうか。

 とらえどころがないというか、主観的な見方になりがちというか、

 他の観点は、いずれもペーパーテストで測ることも可能だが、こればかりは、それもなじまないように思われる。

 かつて、どこかの中学校では、授業中の挙手の回数も一つの評価手段としてとり入れたようだが、これはどう考えてもナンセンスだ。挙手の回数が少ないから、関心なしとは必ずしも言えない。

 したがって、保護者から説明を求められた場合、一番こまるのがこの観点。

 そう言えなくもない。


 以上、『関心・意欲・態度』の評価は、大変悩ましいのだが、

 『本リンク先の写真は、まさに、その評価にかかわって、有効にはたらくな。』と感じた。


 つまり、こういうことだ。前記事の言葉を借りれば、

『初めはDチームの子は誰もが、サッカーゴールのところに一列にすわっていたのだった。しかし、だんだん試合にのめりこんでいく。夢中になってきた。

 すると、2人が思わず立ち上がった。『顔は、』と見ると、2人とも必死の形相をしている。 

 身体が前かがみになっているのも、試合をしているチームと一心同体になっているように感じ、ほれぼれとしてしまった。』

 このような2人は、この瞬間、まさに、『関心・意欲・態度はA』とみていいのではないか。そして、すわって見つめている子たちはBということになる。

 さらに言えば、この2枚の写真の2クラスに、そういう子はいないのだが、『試合を見ることなく、勝手に遊びまわっている子』がいたとすれば、そういう子はCということになる。


 よかった。

 単なる印象でなく、また、主観でもなく、しっかりと(?)評価の尺度を決めることができたのだから。

 特に初任者の皆さんには、ぜひ、参考にしていただきたいと思う。



 しかし、教職でない、多くの市民の皆さんは、どうだろう。納得していただけただろうか。なかには、『ええっ。そんなことで、決めちゃっていいの。』と思われる方も、いらっしゃるのではないか。

 特に、AとBの違いについては微妙だ。



 そこで、言い訳だが、
 
 別な言い方をしたら、こうなる。

 ただ単に、『達成したな。』と思われるものはBとする。そのうえで、『その達成の仕方に感動を伴う。』ものはAとする。そのように考えたらいいのではないか。


 しかし、こういうのって、いくら客観的になったとは言いながらも、あらかじめ、『こうだったらこう。』と、評価の尺度を決めておくことはむずかしい。感動って、予測不可能なことが多いからだ。あくまで、真剣に学ぶ子どもの姿から、にじみ出てくるものだ。

 それに、何に感動するかも、人それぞれだものね。


 だから、より客観性をもたせるためには、日ごろから、教員同士、情報交換する必要がある。たとえば、
「今日、〇〇の授業で、Aちゃんの、〜のような姿が見られたわ。すっごく感動したの。こういうのって、Aをつけていいのではないかしら。」

 特に、初任者に対しては、こういう情報提供を活発に行ってほしいと思う。


 そして、通信票や指導要録には、日々のそうした評価の蓄積で、記入することになる。

 もちろん、ペーパーテストやノートのチェックなどとは違い、全時間、全児童について、記入することは不可能だ。空欄の方が多くなるに違いない。

 でも、『関心・意欲・態度』の評価は、それでいいと思う。『まったくずっと空欄だった。』などという児童がいてはいけないけれどね。



 さて、それでは、冒頭の話に戻るが、なぜ、これをボツにしようとしたか。そして、それにもかかわらず、なぜ、ボツにした経過を記事にしようとしたか。

 そこへ論を進めることにする。


 わたしには、自分で書いていて、どうも、すっきりしないものがあったのだ。


 いつも主張しているように、日々の評価は、『通信票や指導要録記入(これは『評定』と言う。)のため』が主目的ではないはずだ。

 あくまで、自分の、日々の指導の反省をしたり、

 明日の指導に役立てたり、

するものであろう。


 そして、一人ひとりの子どもたちに対しては、

そうした日々の評価をよりどころとして、ほめたり、共感したり、寄り添ったりすることによって、日々の成長を願う。

 また、Aちゃん、Bちゃんへの賞賛や励ましの言葉が、輪を広げ、多くの子にひびいていくことによって、学級の盛り上がりへとつなげていく。

 そういうものであろう。



 さあ。こまった。


 わたしは、ここで、以上述べてきたことが、これまで何回も記事にしてきた全国学力調査騒動と、ダブって見えてしまったのだ。


 全国学力調査を正しく使用するとは、

 それは、日々の指導の反省をし、明日の指導に生かすためであった。

 それに対し、今の学力騒動。それは、あくまで結果重視、序列化への道ではないか。

 そうなると、日々の、4観点による評価も、同じことが言えよう。

 『明日の指導のため』と、『通信票、指導要録記入のため』。その両面がある。


 となると、通信票や学習指導要録は何のためにあるのだろう。『なくてもいいではないか。』とならないか。

 『法令で決められているため。』

 それでは、理由にもならない。あらためて、考えることを迫られる気分になった。

 
 ここで、記事を終わりにすることはできないよね。すっきりしないままとなってしまう。そこで、一時はボツとすることにしたのだった。



 そこに救いの手が現れた。

 前記事に、こだま先生から、コメントをいただいたのだ(リンク先コメントの3番)。大変ご多用中のなかのようで、ありがたく、感謝申し上げたい。

 ほんとうにありがとうございました。おひさしぶりで、なつかしかったです。



 そんな思いとともに、はたと思い出したことがある。


 こだま先生は、ご自分のブログ、『道草学習のすすめ』に、本日の記事内容である、いわゆる『観点別評価』をとり上げられたことがある。

    観点別評価の落とし穴

 お子さんが持ち帰った『通信票』をもとに、『今の通信票は、よく分からない。興味もわかない。』という思いから、記事をまとめられた。

 そのとき、わたしは、こだま先生の思いに共感しながらも、現場のものとして、よりご理解いただこうという立場で記事をまとめさせていただいた。それが、先ほどリンクさせていただいた、いわゆる『観点別評価』についてとなる。



 こだま先生のコメントから、そのような過去を思い出すことができた。

 そうか。あの2枚の写真は、こだま先生の、『通信票へのモヤモヤとした思い』を少しでも、納得してもらえるようになる、そういう方向性をもっているのではないか。そう思われた。 

 つまり、『2枚の写真の存在』がイメージできるような通信票にすることが大切ではないか。

 また、

 通信票に記載される『評定』が、学習の結果そのものというよりも、日々の学習の様子がよく分かるようなもの、そして、明日への展望のもてるもの。そうみてもらえるような、分かりやすさをねらった具体性。それも必要だろう。

 そういうことを感じた。


 そうか。今は、ちょうど、学習指導要領の改訂期だ。それなら、指導要録も遠からず改訂になる。そして、自動的に(?)、多くの学校の通信票も改訂されるだろう。

 それなら、学校だけに要望してもダメだ。要録改訂にあたる国へも要望しないとね。

 少なくとも、『知識・技能』の習得に傾斜をかけた要録にはしてほしくない。『ゆとり教育』の看板は下ろさないとも言っている。それを反映した要録にしてほしい。

 そう思う。



 もう一つ、全国学力調査も似たことが言えないか。

 もう何回も記事にさせていただいているが、我が地域には、50年以上にわたる学力調査実施の実績がある。それは、ランキング化とか、学力競争になるのを避けて、あくまで、明日の指導に役立てるという目的に徹したからこそ、積み重ねることができた。

 そうした我が地域では、調査結果の公表も当然のごとく、長い歴史を経て行われてきている。

 こまかくは、

全国学力検査の結果公表で(4) 大人の狂奏曲(2)

の記事を参照願いたい。この記事の末尾近く、かなりの空白行のあと、

『それでは、最後に我が地域のことをご紹介したい。これまで述べてきた『毒薬』の部分を、大幅にひっくり返してしまう論述になるであろう。』から始まる。


 記事をご覧いただければお分かりのように、

 我が地域における『公表』は、今、全国的に騒動となっているような、調査結果の平均点の公表、ランキング化の動きとはまったく別な公表の仕方である。あくまで、明日の指導に生かす目的での公表だからね。



 結論はこうだ。

 通信票にしろ、全国学力調査にしろ、おざなりではダメだ。知識偏重でもダメだ。

 また、後者は、単純な結果の公表であってはならない。

 子どもの意欲に結びつくような、励みになるような、そして、保護者の方々が分かりやすいと言ってくださるような、そういうものであってほしい。


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 これまで何度も記事にしてきていますが、『関心・意欲・態度』は、4つの観点別評価に入っているように、これはこれのみ単独で、立派な学力の一つです。わたしはそうしたとらえに賛成です。

 たとえ、とらえどころがないにしても、重視してほしい観点です。子ども主体の学習を標榜するなら、これなしの、学力向上策など考えられません。

 本音を言わせてもらえれば、今度の指導要領改訂で、この点がどうなるか、心配でもあります。あまりにも、『知識・技能』重視の風潮がありますからね。

関連記事、『関心・意欲・態度』について、に続く。  

rve83253 at 10:37│Comments(6)TrackBack(0)教育観 | 評価観

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この記事へのコメント

1. Posted by まい   2009年01月14日 17:02
こんにちは。小学生の保護者予備軍として少々複雑な思いで読ませていただきました。「関心・意欲・態度」・・・私もこれこそが学校教育の大きな目標であり、重点だと思います。しかし、どう言えばいいのでしょう。通知票での評価になじむのでしょうか?例えば憲法論的(?)に言えば内心の自由や良心を数値化したり第三者が評価し難いのと似たニュアンスで、個人的で繊細な項目であるためにそこまで立ち入っていいのかな?という気持ちを持ちます。ベテランの先生には見抜けるのかもしれませんが、そういう観点で評価されるとなると「装う」ことを子どもたちが覚えてしまうのではと危惧します。
2. Posted by そら   2009年01月15日 00:22
はじめまして。小学生の母です。
通知表では、いつも納得いかない思いを感じています。

うちの子が通う小学校では、4つの観点がきちんと評価されていないと思っています。
授業態度が悪いという理由で知識・理解の部分が悪い評価になっていたり(軽度発達障害のため、どうしても態度が悪く見えることがあります)、技能・表現の部分が悪くなっていたりするからです。
そういう場合は、意欲・関心・態度ではないのか?と思うのですが、今までに納得いく答えをいただけたことはありません。

ですが、今日、もう少し視点を変えて考えてみようと思うようになりました。
サッカーゴールで一列に座って見ていた子達への、先生の評価の考え方を読んだからです。

わたしは読んでいて、サッカーゴールの所に一列で座っていたのは、担任の先生の指示のためだと思ったので、立ち上がって必死で応援している子と指示に従って座って応援している子の評価に違いがあるのはおかしいと感じました。
しかし、先生は、立ち上がって応援している子の方によい評価をつけられました。

実際の様子をみておられる先生の評価が、きっと正しい評価なのだと思います。
けれども、やはり、わたしには納得がいきません。
座って応援している子の方が、態度がよいのでは?とまで思ってしまいます。

うちの子どもの通知表も、同じようなことなのではないか、と思いました。
もう少し、視点を変えて考えてみます。
ありがとうございました。

3. Posted by NANA   2009年01月15日 00:25
お久しぶりです。大変ご無沙汰しておりましたが、先生がお元気でその情熱が全く衰えていらっしゃらないご様子になんだかとてもほっとさせられてしまいました。

学力検査ですが、ご無沙汰の間に4年生になっている娘の学校では実施して公表(になるのかな?)してまいした。学校全体のものについては学校便りで「点数は平均より少し上ぐらい・浮かび上がった課題は持っている知識を活用して自ら創造したり…の解決力」のようなお知らせがあり、1学期末の懇談で個別の結果表をいただきました。娘は個別の結果も学校全体のものと全く同じだったので、校内では全く平均的(平凡)な子どもということでしょうか?
まあそれはそれとして…、懇談で先生と「日ごろの生活の様子を見ていて感じているさくらの姿と一緒ですね。感覚でとらえていたものが点数で出てくるとはビックリですね。すごい!さすが世間をお騒がせしたテストだけのことはあるかも…(笑)。」と話してきました。

そんな娘の成績表ですが、『よくできる』に○がつくものはいつも必ず『…に関心を持ち意欲的に…』の項目です。5教科くらいでそこが『よくできる』で、他全項目が『できる』に○。という好成績で、べた褒め(本人は○の数が気になり褒めてもあんまり効かなくなってきていますが…)してきましたが、それで良かったのか…。(ホッ

『評価』を見通して装うくらいの活用力は持ち合わせていないようですが、よかったことにしておこう。。。
4. Posted by toshi   2009年01月15日 05:51
まいさん
 おっしゃること、すごくよく分かります。人として、きわめて自然な声と思います。子どもの内面まで評価するのかという思いは、『道徳まで評価するのか。』(教育再生会議にそういう考え方もあったが、今はまだ、それは却下されている。)にも通じると思います。
 しかし、ことは学力観にかかわり、重要です。ゆとり教育否定、百ます計算、漢字暗記学習が横行しようとしている今、もし、『関心・意欲・態度』の評価をなくしてしまったら、彼らの思う壺になるでしょう。知識注入教育に戻ってしまいそうです。『これは戦前の指導法と同じ、』というのが、わたしの思いです。
 ただ、まいさんのおっしゃることもよく分かりますし、『装い』の問題、また、そらさんやNANAさんがおっしゃることもありますので、あらためて、記事にさせていただこうと思います。
 よろしくお願いします。
5. Posted by toshi   2009年01月15日 06:05
そらさん 
 なるほど。そらさんのおっしゃることもよく分かります。そして、《サッカーゴールの所に一列で座っていたのは、担任の先生の指示のため》という状況は、現実、すごく多く見られる姿でしょう。
 わたしは、そういう指導をしませんでしたし、初任者にも、そのようなことは言っていません。そこまで指示してしまったら、子どもたちの『関心、意欲、態度』をみるというよりも、『指示に従ったかどうか。』をみることになってしまうという考え方です。
 もちろん、友達の試合を見ることなく、勝手に行動している子がいれば、それは注意しますけれどね。
《授業態度が悪いという理由で知識・理解の部分が悪い評価になっていた》これは明らかにおかしいですね。もう、おっしゃる通りだと思います。
 この点も、もう少し核心に迫りたいので、次の記事に譲らせていただきますね。
 よろしくお願いします。
6. Posted by toshi   2009年01月15日 06:20
NANAさん
 うわあ。なつかしい。お嬢さんも4年生ですか。なんか、保育園や小1だったころの記事が焼きついていて、ただただなつかしさを覚えます。
 これからもよろしくお願いしますね。
 学力検査の結果の公表については、読ませていただいて、『ああ。我が地域と同じだな。』と、うれしい思いになりました。たぶん、教委による一律ランキング化につながるような公表はなかったのでしょうね。もっともこれは、小6のことなのですが。
 平均的というのも、立派に個性です。むしろ今、いろいろな意味で二極化が目立つ方向ですから、平均的な姿の子って少なくなっているとも言えそうです。平均的や平凡が少なくなったら、なんか変だなという気もしますけれど。

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