2009年01月29日

ことは教育観にかかわる。3

4539bbce.JPG 今、初任者指導とは別に、A小学校の6年生の教室へ、学級経営補助として、毎週1日入っている。

 その教室で、社会科の政治単元の授業をわたしが行った。


 さて、本日の記事のテーマは、『思考力を養う授業において、指導者の教え込みは有効か。』ということである。



 それでは、授業の様子をどうぞ。



 授業のテーマは、『税金の意味について考える。』ということだった。

 導入は、『この教室の中に見られる憲法』とした。


 そのまえに、お断りだが、この学習も、先の記事、『校長先生の授業(2)TOSSとくらべて』同様に、とび込みの授業だから、子どもの問題意識に根ざす学習問題とはならない。ただ、この教室に入るようになって、数ヶ月はたつので、子どもたちと初対面というわけではない。



 それでは、授業に戻ることにしよう。



 子どもたちは、次々に発言した。


・男女平等がみられる。明治憲法下では、男女は別けられていた。一つの教室の中に、男女がいることは、基本的にはなかった。

・教科書が無償で配布される。これは義務教育だからだ。義務というのは、親が子どもを学校に通わせる義務ということで、子どもにとって、教育を受けるのは権利である。

・学校給食がある。その給食費は、食材費のみ親が支払うので安くなっている。人件費や調理施設にかかる費用などは、親は払っていない。これも、義務教育だからだ。


 以上はすべて子どもから出てきた。

 『よく知っているな。』という思いをもった。特に、第三項などは、人件費や調理施設のことまで子どもから出てくるとは思っていなかったので、感心させられた。



 第二項については、物議をかもした。問題解決学習において、意見が対立することは、いいことだ。学習が深まる契機となる。


「教科書はただだよね。」
「そうだよ。義務教育だから、お金を取ってはいけない。」
「でも、そんなに高くはないと思う。薄いから。」

 これは、『だから、お金をとってもとらなくても、たいした問題ではない。』という気持ちだったのだろうか。その辺は聞いてみればよかったと、あとで反省した。

「でもさ。毎年使うのだし、それに、中学校の教科書は厚いよ。」
「おじいさんが言っていた。『今の教科書はきれいだな。カラーの写真がいっぱい使われていて、とてもいい。』って。だから、買ったら安くはないと思う。」
「うん。うちもおじいさんが言っていたよ。むかしは、貧しいのに、親が教科書代を払っていたから、買えないうちもあって、そういう場合は、兄弟で一冊の教科書を使ったのだって。だから、一番上のお兄さんやお姉さんは、親から、『大事に使いなさい。』って言われたんだって。」
「じゃあ、教科書へ書き込むなんてできないね。」

 ここで、わたしが補足した。

 そう。わたしの子ども時代も、教科書は有償だった。

「うん。だいたい、教科書は、書き込むようにはできていなかったよ。教科書は、読むもの、見るものであって、書くのはノートって思っていたもの。だから、今のAさんの発言のように、教科書は、弟や妹も使うのだということをいつも意識していて、大切に大切に使ったものだよ。
 わたしは、自分が教員になって、教科書が書き込むようになっているのを見たとき、ほんとうにびっくりしたものだ。『豊かな時代になったな。』ってね。」


 続けてBさんが言う。

「でもさ。おかしいよね。toshi先生が子どもだったころ、日本は貧しかったのでしょう。兄弟で一冊の教科書を使うのも、貧しいからでしょう。それなら、よけい無償じゃなきゃダメじゃん。憲法は今の憲法だったのだし。」

 でも、これは、むずかし過ぎたようで、後に続く意見は出なかった。


 そこで、わたしの方から、視点を変える発問をした。

「みんなは、無償、無償って言うけれど、それじゃあ、教科書会社は損しちゃうね。お金が入ってこないじゃん。」


 ううんと考え込む子どもたち。

 どこからか、小さな声で、『税金。』『税金じゃないの。』という声がした。

 それを受けて、Cさんが言う。

「教科書の後ろに書いてあるよ。『この教科書は、これからの日本を担う皆さんへの期待をこめ、国民の税金によって無償で支給されています。大切に使いましょう。』って。」

「そうか。ただじゃないんだ。」
「税金で払っているのなら、やっぱり、親は払っていることになるのではないの。」

いいところに目をつけた。


 そこで、わたしから質問。

「親は税金というかたちで、やっぱり払っているという意見が出たね。だったら、けっきょく、無償ではないということか。」

「そう。そうだよ。税金は、国民が払ったお金だもの。無償とは言えない。」
「でも、そんなのは当たり前で、教科書会社が損するわけにはいかないのだから、そのようなことをしたら、教科書会社はつぶれちゃって、次の教科書が出なくなっちゃうでしょう。だから、誰かが払わなければいけないとしたら、やっぱり無償だったら、国民が払うしかないのではないの。税金で。」

 そこで、Dさん、Eさんが発言する。

「親が教科書代を払うのと、税金で払うのは違うと思う。税金は、親だけが払っているのではないもの。」
「そうか。そうだよ。税金は、子どものいない人だって働いていれば払っている。」



 ここでまた、話し合いはつっとる。

 そこで、わたしから発問した。

「無償って言うけれど、けっきょく、みんなの教科書代は払っているわけだ。違いは、子どもを産み育てている保護者が支払うべきか、子どものいるいないに関係なく、国民全体で支払うべきか。そういうことなのだね。

 みんなはどう思う。

 子どものいない人まで負担させるのは気の毒だよ。

 そう思うか、

 いや、いや、国民全体で支払うのでいいのではないの。

 そう思うか、

 どちらかかな。」


 今のように、国民全体でいいというのが、大多数。あとは、分からないが若干名で、保護者が払うべきというのは、0名だった。

 
 このあと、発言は続かなくなった。

 先ほどの、Eさんの、『そうか。そうだよ。〜。』の声には、ストンと胸に落ちる理解というか、心から、『分かった。』『発見した。』という意味での喜びを感じた。

 それだけに、国民全体で支払うべきと考えるかどうか、ぜひ意見を言ってほしいところだったが、やはり挙手はなかった。

 
 わたしが期待したのは、

 たとえば、

 教科書の後ろに書いてある、『これからの日本を担う皆さんへの期待をこめ、〜。』の言葉にあるように、

 『次世代を担う子どもへの投資』はどうあるべきかの議論だ。

・やはり、子どもを産み、育てている保護者が支払うことでいいのではないか。

・いや。現状のように、義務教育にかかる経費は国民全体の負担でいい。

・いや。もっと国民全体で支払う部分を拡大すべきだ。たとえば、給食費についても、食材にかかる費用まで無償でいいのではないか。

 そうした議論を展開してほしかった。

 
 挙手がないので、ノートに書かせることにしたが、そこまで考えをめぐらせたものはなかった。



 さあ。ここからは、読者の皆さんの意見も分かれることだろう。子ども自身で自力解決が不十分だったときの、指導する側の態度についてだ。

 
 問題解決学習を標榜するわたしとしては、

 必要最低限の知識・理解は、おさえるとしても、

 このような抽象的概念は、たとえ、教員ではあっても、語って聞かせるべきではない。子ども自らがつかみ取るべきものだ。

 教員が語って聞かせても、それがストンと胸に落ちる理解につながることはないであろう。むしろ、自主的、主体的に考える力を奪い、受身の姿勢を育ててしまう点、弊害が多い。

 思考力、判断力を養う場面はここだけではないのだから、また別な学習内容のときに、それこそ、豊かな思考力、判断力を育むべく、教材研究、授業展開の工夫をしていけばよい。


 それに対し、次のような考えも、有力なものがあると思われる。

 いや。教員にそこまでの思いがあるのなら、語って聞かせるべきではないか。ストンと胸に落ちなくても、分かる子どもはいるはずだ。

 それに、『こんな考えもある。』『あんな考えもある。』と語って聞かせることは、思考力養成にもつながるのではないか。受身云々をそれほど気にする必要はない。

 
 ことは、教育観、指導観にかかわる問題だ。


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 上記、ディスカッションのテーマには、別な問題もあります。

 どれが正しいという問題ではないということです。国としてどれを選択するかの問題でしょう。


 読者の皆さんのなかには、お気づきの方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 これぞ、まさに、PISA型調査にうってつけの問題になりますね。

『Fさんはこう考えました。Gさんはこうです。それをふまえ、あなたの意見を書きなさい。』 


 もう一つ。

 『教科書が無償では、教科書会社が損してしまう。』という話題になったとき、『それなら、国が作れば安くできる。』という意見が出たら、おもしろいなと思いました。

 戦前は国定教科書で、まさに国が作っていたからです。

rve83253 at 06:04│Comments(14)TrackBack(0)教育観 | 問題解決学習

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この記事へのコメント

1. Posted by みっきーまま   2009年01月29日 10:24
こんにちは。
この授業で初めて気付いたんですが、私は毎日のように子ども達とこのようなやりとりをしていました。
お風呂で、夕飯のとき、テレビのニュースを見たとき、寝るとき・・・そうだ・・・あらゆる場所で・・・
この事は、子ども達が自主的に物事を考えたり、飛躍して言うと、政治に参加していたり、社会の一員としての自覚が自然に身につくようになっている気がしました・・・
ただ、ただ、子どもと毎日ディスカッションするだけで・・・
これは私にとって大きな気付きでした。
ありがとうございました。そして、これからも是非是非、子ども達にこのような授業をし続けてあげてください。それが、他の先生方にいい影響を与えられていくこと・・・その輪が全国に広がっていくこと・・・期待しています〜
2. Posted by shipay   2009年01月29日 13:41
いつも拝読させていただいております。
初めてコメントさせていただきます。

この授業で、先生はファシリテーター(触媒)という立場ですね。こういう授業は重要だと考えています。

子供達の生命力、成長力を信じて、その環境を整える、そして、大人達がちょっとの手をさしのべる、それだけで子供達は力強く育っていくのだと考えています。

現代は、大人達が子供達を直接的にいじりすぎているように感じています。

今後も楽しみにしております。
3. Posted by toshi   2009年01月29日 16:02
みっきーままさん
 いやあ。このわたしも気づかせていただきました。ありがとうございます。
 むかしから、『学校は、子どもたちに、社会に出てから役立つ実用的学力を身につけさせていないではないか。』と、よく言われていますね。
 それは断片的な知識の注入に走りすぎるということだと思います。
 それに対して、『生きる力』『思考・判断力』。それらはすぐにでも役立つ力ではないでしょうか。PISA型読解力も、そうした学力を重視しています。
 そして、それは、家庭も学校もないのだということ。
 また、《ただ、ただ、子どもと毎日ディスカッションするだけで・・・》
 まあ、学校の場合は、『だけ』ということはないのですが、しかし、そのあたりがいかに大切であるかということですね。それに気づかせていただいたり再確認させていただいたりしました。
《これからも是非是非、子ども達にこのような授業をし続けてあげてください。それが、他の先生方にいい影響を与えられていくこと・・・その輪が全国に広がっていくこと・・・期待しています〜》
 ほんとうにありがとうございます。力強い声をいただきました。初任者指導やこのブログを通し、おおいにがんばっていきたいと思います。
4. Posted by toshi   2009年01月29日 16:17
shipayさん
 わたしも同じ考えです。
 子どもの人格を認めていないですね。『未熟なのだから、しっかり手をかけないと。』という部分が多すぎると思います。
 そのようなことはないのですけれどね。
 また、ほんとうに子どもをじっと見守り、そこに意味や価値を見い出し、言葉は少なくても、子どもの心の琴線にふれる言葉かけができたときは、子どもも伸びますし、感動的な対応をしてくれるのですよね。
5. Posted by kawa   2009年01月29日 21:24
生徒たちが今いる教室からスタートしたというのが、私にはいい導入だと感じられました。
その気になれば、「考える材料」はもうあちこちに転がっているのだと思うのですが、私たちは「教科書」がないと勉強できないと思いすぎているのかもしれません。

toshi先生とのこれまでの対話をまとめてアップさせていただきましたが、最後の記事には「やる気」と「関連性」の2点がポイントだと書きました。

教室に落ちている紙くずからも、環境問題・道徳・仕事の種類・紙の歴史・物理・数学・地球の仕組み・物の見方(表と裏)などと、話題を広げることは可能なはずで、毎日ちゃんと考えながら生活している人には、いろいろなことが繋がって見えるのだと考えたからです。
生徒一人ひとりに対しても、自分が社会に繋がっていることをきちんと伝えることができたら、いやでもやる気になるのではないかと、(矢祭町の記事からも)思いました。

子供が詰まったときに教師が語るかどうかについては、、、難しいですね。
ここで話をしてしまうと、脳の中に自分で発見する回路ができないかもしれませんし、話し方によっては後のヒントになるかもしれません。

私も学生と接するときには、その判断を迫られることが多々ありますので、この問題は持ち越しにしたいと思います。
6. Posted by toshi   2009年01月31日 06:10
kawaさん
 貴ブログにおいて、わたしのコメントを大々的に取り上げていただき、まことにありがとうございます。

《教室に落ちている紙くずからも、環境問題・道徳・仕事の種類・紙の歴史・物理・数学・地球の仕組み・物の見方(表と裏)などと、話題を広げることは可能なはずで、》
 これこそ、総合的な学習の考え方と言っていいと思います。一人ひとりの頭のなかで、必然性、切実感をもってつながっていくのですね。
 授業の場合は、その思いをいかに、学級のみんなに共有させていくか、そこに、学級担任の大きな役割があるように思います。

《子供が詰まったときに教師が語るかどうかについては、、、難しいですね。》
 一つ。
 つまったときに、質問する子どもを育てたいですね。ちょっと前記事にさせていただいた『教えない指導。でも、?』(本コメントHN欄にURLを貼り付け)の後半部に、その実際例を書かせていただきました。
 でも、本記事のように、子どもに、意欲も切実感も感じられないときに無理することは、逆効果しかないと思うのです。

 
7. Posted by kawa   2009年01月31日 09:49
toshi先生

3つ、教えていただきたいことがあります。

『教えない指導。でも?』を読ませていただきました。あの場合の生徒の質問に答えるかどうか、またその答えの内容については、私もtoshi先生の書かれたことに賛成です。どなたかが書かれていましたが、「そっ啄同機」という言葉も、その根拠になると思います。
あの瞬間は、学生も内側から卵の殻をつついたので、toshi先生もつついたということですね。
そして、最後に書かれていた「チームで相談させる」ということが、ポイントだと思いました。何か困ったことがあったら、自分で頑張ることと、周囲に協力してもらうことのバランスが取れるようになるといいなと思いました。
それで、先生に助けを求めるのもいいのですが、お互いが自然に協力できるクラス作り、というのは理想でしょうか。

2つめです。
今までのことを整理すると、問題意識、切実感、意欲、共有…これが、キーワードになるのでしょうか。
以前、某国立大学で日本語教育を担当されている先生が、こちらで講演されたときに、「共有」「協同作業」「旧式の教育の弊害」を強調されておりました。「興味を持たせ、やる気にさせれば、語学教師の仕事の9割は終わり」と言った先達もいます。学校教育においてはなおさら、上記のことが求められる(もしかしたら一番大事)ということでしょうか。
8. Posted by kawa   2009年01月31日 09:50
3つめです。
これは、自分を振り返って思うのですが、学生・生徒を「自分が教えなければ成長しない」と思っている教師は意外に多いのではないでしょうか。
もしかしたら、そこを崩されたら、教師としての立場が無くなると恐れているのかもしれません。
脳科学では、「脳は自分の選んだ情報のみを処理する」そうですが、学生のいいところを探そうとしない限り、「やっぱり私が教えなければだめだ」と思い続ける(教師にとっては事実)しかないのかもしれません。

toshi先生はこのことについてどう思われますか。

たくさん書きましたが、宜しくお願いいたします
9. Posted by toshi   2009年02月01日 21:24
kawaさん
 拙ブログのテーマにかかわるご質問と思いました。どれだけお答えできるか分かりませんが、真剣にお答えしたいと思います。
その1
《お互いが自然に協力できるクラス作り、というのは理想でしょうか。》
 理想ではなく、そういう学級づくりをおし進めなければいけないと思います。そして、それはできることだと思います。
 わたしが常々初任者に言っていることも、『子どもたちの心の豊かさを育む学級経営』です。
 そう。『自然に』が大切ですね。どうも日本は、指導者の思いが出すぎて、子どもに強制する傾向が強いように思います。
その2
 その先達の方がおっしゃったことに全面的に賛成です。
 公教育においては、どのような生育歴かは関係なしに、その学区に住んでいれば、自動的に通ってくるわけですので、塾、習い事、クラブ等、一定の目的意識をもった集団とは、基本的にその性格を異にしています。ですから、意欲・やる気をいかに抱かせるかは、大変重要です。
 もちろん、このことは、塾、習い事、クラブ等では、意欲・やる気を育むことを軽視していいと言っているわけではありません。
10. Posted by toshi   2009年02月01日 21:25
その3
 kawaさんがおっしゃることもあるだろうと思います。でも、わたしは、多くは、自分の育った境遇しか知らないため、つまり、身の回りの大人から、強制されたり枠にはめられたりした経験しかないため、よその世界が分からないということではないかと思います。
 ほんとうに自分自身を大切にされて育てられた人は、その喜び、感激、充実感など、よく分かっているため、子どもを大切にすることができるのではないでしょうか。
 わたしが初任者指導をしていて強く感じることは、身のまわりの大人からほめられた記憶のない初任者は、やっぱり子どもをほめることができません。第一、何をほめたらいいかすら分からないのです。こういう人が子どもをほめるというのは、もうそれだけで、至難なことのようです。
 なお、9番のコメントのHN欄に、過去記事の、『教育の真髄』なる記事を貼り付けさせていただきました。その1の、『自然に』にかかわり、子どもたちが、『自分たちは自分の力で伸びてきた。』と思うような教育が大切と述べています。 
11. Posted by kawa   2009年02月07日 02:40
〈toshi先生〉

丁寧に、また分かりやすくお答えくださり、ありがとうございました。
『教育の真髄』読ませていただきましたが、教育は結局は人間観、あるいは人間というのをどれだけ知ろうとしているのかに行き着くように思いました。

>子どもたちが、『自分たちは自分の力で伸びてきた。』と思うような教育が大切…

それが自信につながり、次のチャレンジ・失敗したときの回復力などの生きていく力に繋がるとも思います。

「ほめられたことがない大人は、ほめ方が分からない」、とてもよく分かります。
以前にも、「経験したことが無いことを理解するのは難しい」とおっしゃられていましたが、そうなると、なおさら、社会に対する教育の影響は大きいということになります。

「教師は労働者だ」という言葉を、昔聞いたことがあり、すばらしいことだと思った記憶があります。世間一般の労働者は、自分がした労働の結果によって評価されます。不良品を出してしまったら、どんなにお金と手間がかかろうとも、リコールをするのが作った人の責任です。教師も自分の生徒がどんな人間に育っていくのかに責任を持とうという決意の表れだと思ったのです。
その後、その意図するところが判明し失望したのですが、テレビやDVDと違い、二度と作り直すことができない存在を相手にしているのだ、という気持ちが少しでもあれば、〈toshi先生〉のおっしゃる教育が可能になってくると考えました。
12. Posted by toshi   2009年02月08日 21:53
kawaさん
《教師も自分の生徒がどんな人間に育っていくのかに責任を持とうという決意の表れだと思ったのです。》
 いただいたコメントを拝見し、思い出したことがあります。ある意味では、僭越なことかもしれませんが、かつて、わたしは、『自分の教え子が刑務所に入るようなことがあったら、わたしは教員を続けられなくなるだろう。』と言ったことがあります。
 本コメントのHNらんに貼り付けましたので、よろしければご覧ください。
 ほんとうに子どもを育てるという仕事は、大変な仕事なのだなと思います。
 でも、矛盾するようですが、子どもとともに学んでいこうという気持ちがあれば、もうそれで十分なのではないかという思いもあります。
 すみません。はっきりしなくて。
 
13. Posted by 中田   2009年03月11日 12:24
公教育においては、どのような生育歴かは関係なしに、その学区に住んでいれば、自動的に通ってくるわけですので、塾、習い事、クラブ等、一定の目的意識をもった集団とは、基本的にその性格を異にしています。ですから、意欲・やる気をいかに抱かせるかは、大変重要です。

本当にそうですね〜。
やっぱり、なんでも最初が肝心なのではないかと。
もちろん、やり直しが効かないわけでは、ないけれど、家庭のような少人数でなく、沢山の子供が集まる大所帯なわけで、やっぱり、一度、破綻すると、
手遅れになると学級崩壊なんてことも現実として、あるわけです。


私達の時代は詰め込み教育と言われてきました。
教科書も暑く、低学年でもカラー刷りは最初だけでした。
でも先生によっては、とても楽しい、印象に残る授業をしてくださった方も沢山いました。
社会で、ナウマン象の歯の化石を班ごとに作りなさいとか、全くテストに関係ないので、図工みたいだなあ〜と思ったけれど、おかげで教科書は自然に頭に入っていましたし。
学校の鉄棒で、てこの原理を実験したりとか。

昔も今も、子供は好奇心旺盛な生き物で、いい意味で単純だから、働きかけによって、いくらでも才能を発揮するものだと思います。
迷走しているのは、国の教育の制度。

教科書が薄かろうが、厚かろうが、進度が遅かろうが早かろうが、あまり問題ではないと思うのです。
要は、学校では教師、家庭では親や親戚、ご近所の方達など、子供扱いしないで、一人の人間として、
声かけしてやれば、そこから興味やモチベーションが枝葉のように色んな方向に伸びて、大きな樹に成長していくのではないでしょうか。

14. Posted by toshi   2009年03月12日 06:09
中田さん
 至極当然のことですが、人類は、人類になった初めから今あるような知識をもち、それを子々孫々に伝えてきたわけではありません。
 猿から人類に進化したときから、いえ、それ以前から、遅々としたあゆみではあったけれど、また、試行錯誤の繰り返しだったけれど、工夫や発見を繰り返し、今のような文明、文化を築いてきたわけです。
 それは、思考力、判断力、推理力などに裏打ちされていると思うので、中田さんがおっしゃる、《(子どもの身の回りにいる大人が、)子供扱いしないで、一人の人間として声かけしてやれば、そこから興味やモチベーションが枝葉のように色んな方向に伸びて、大きな樹に成長していくのではないでしょうか。》
という考え方になってくると思うのです。

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