2009年02月01日

絵をかいて文章題を解く。4

867f1ce5.jpg 今、わたしは、初任者指導のほかに、学級経営の支援として、A小学校の6年生、及び、B小学校の3年生の学級に、週1日ずつ入っている。

 A小学校の6年生については、前記事に書かせていただいた。

 本日は、もう一つの、B小学校3年生の授業をとりあげてみたい。なお、この授業は、学級担任で教職2年目のCさんが行った。算数の『重さ』の単元である。また、本授業は学級を二分割しての少人数指導(習熟度別ではない。)によって行われた。

 はかりを使って量ったり、目盛りの読み方を学んだりする学習のあとで、本時初めて、『重さ』の文章題に取り組むことになった。



 この授業を後ろで見ていて、わたしには、ある種、感慨深いものがあった。

 それは次のようなことだ。



 話は急に変わってしまうが、わたしは拙ブログを開設して以来、こだま先生の『道草学習のすすめ』に、大変お世話になっている。今、こだま先生は、ブログを休止されているが、その実践と考え方から、多くのものを学ばせていただいている。


 同氏のブログに、『ほんとうにそうだよなあ。』とばかり納得してしまった記事はたくさんあるが、


 たとえば、次のようなものがある。

 大変長いことを覚悟の上、お読みいただければと思う。

    娘の日々の楽習 〜算数文章題〜



 この記事に、次のような文章がある。

 うちの塾生の多くは、学校の算数の時間に図を描いて問題を解いていると、『こんなにまわりくどい解き方をしなくても公式にあてはめた方が早いよ。』と指摘されるか、または、『公式にあてはめて解きなさい。』と言われているようなのです。

 
 わたしは、折にふれて、教員の意識改革の必要性にふれているが、そのなかには、この部分も含めているつもりだ。

 どうも、全国的に見れば、多くの教員が、『知識を教え込めばいい。』『算数なら解ければいい。』といった授業を行っているようなのである。

 さらに、最近の、『全国学力調査結果の公表』『学力競争』の騒動が、それに拍車をかけているのではないか。



 さて、

 今日、ご紹介させていただく授業は、公立小学校における、同氏の『絵で解く算数』に似た実践と言えよう。そういう意味で、冒頭述べたように、感慨深いものがあった。

 ただ、あらかじめお断りしておきたいが、公教育のそれと、塾の指導とでは、自ずと異なる点があり、そのことは、記事のなかで明らかになっていくと思う。




 大分、前置きが長くなった。それでは、よろしくお願いします。


 
 問題は、次のようである。

「バナナ1本の重さをはかったら、180gでした。中身を食べてバナナの皮の重さをはかったら、55gでした。バナナの中身の重さは、何gですか。」


 子どもたちは思い思いに解き出した。

 みんなのノートを見ると、

・式と答えだけで満足している子。

・絵を描いて、その絵を見ただけで、どう考えたかが分かる子。

・教科書には線分図があるのだが、その線分図を使っている子。

などがいた。

 少人数指導のため13人しかいないが、どう解いたらいいか分からないという子はいないようだった。


 ころあいをみて、Cさんは、式と答えだけを書いた子1人と、それぞれ解き方が特徴的な、3人の子を指名。Dちゃんは式と答、EちゃんとFちゃんは絵、Gちゃんは線分図というように、4名が黒板に出て、自分の『解き方』をかき出した。


 4人が書き終えて着席すると、みんなが思い思いに話し出す。

 なお、以下の話し合いは、本記事冒頭の写真を参照していただけたらありがたい。一番左がEちゃん。真ん中がFちゃん。そして、右がGちゃんだ。


「おもしろいね。Fちゃんの絵。バナナが、はかりの上に乗っている。」
「バナナを食べている絵もあるね。楽しい。それでそのあと、皮だけをはかったのだね。」
「ほんとう。はかりにめもりがなくて、(そのかわりに)180gって書いてあるよ。」
 
「Eちゃんの絵は、バナナの皮(の重さ)を引いているよ。」

 それを受けて、担任のCさんは、Eちゃん、Fちゃんに説明を促す。

 まず、Eちゃんだ。

「バナナは180gでしょう。だから、バナナの上に180gって書きました。それから皮を引けば、中身の重さになるから、皮を引いて、これは55gだから、55g(黒板に55gと書いたところを指しながら、)を引いて、そして、中身だけ(やはり、中身の絵を指しながら、)になりました。だから、中身は125gになりました。」

 次は、Fちゃん。

「はかりの上にバナナを乗せてはかったら、180gでした。それで食べてから、皮を乗せたら、55gでした。だから、中身は125gです。」

 おもしろいのは、中身は、点々々で書いているところ。

 それでも、その中身ははかりの上に乗っていて、125gと書いてある。食べてしまって、もうないはずなのに、125gと書いてある。

 でも、これは、みな納得しているのであろう。特に質問はなかった。


 最後は、線分図のGちゃんだ。

「この線全体が、バナナの重さです。だから、ここからここまでで180gになります。それで、この黄色にぬったところが、バナナの皮の重さです。これは、55gです。ここは残りで中身になります。125gです。」


 そこで、みんなが席についてから、担任のCさん、子どもに問いかける。

「おもしろいね。Eちゃんの書いた中身は白い線でかかれているけれど、Fちゃんのは点線でかかれているのだね。」

 すると、子どもたちが口々に言う。

「Fちゃんのは、もう食べてしまって、ないから、点線にしたのではないの。あるつもりって言うことだよ。」

「それだったら、Dちゃんの絵だって、最初のバナナとバナナの皮は、黄色くぬってあるけれど、中身はぬってないから、やっぱり食べてなくなっちゃったっていうことではないの。同じだよ。」


 すると、担任のCさんは、

「そうか。書き表し方は違うけれど、思っていることは同じということだね。どちらも、中身は工夫して書いている。」

そう言いながら、両者を線で結んだ。


 すると、Gちゃんである。

「だったら、今、先生が線で結んだのは、中身っていうことでしょう。それなら、わたしが書いた線分図の、色をぬってないところは中身なのだから、それも同じだよ。」

「そうか。そうだね。なるほど。じゃあ、こっちも線でつなごう。」

 Eさんは、そうして、3つを線で結んだ。

 すると、

「Dちゃんの式なら、答えの125gだ。」

の声。

 けっきょく、式の答えと、Eちゃん、Fちゃんの絵の中身と、Gちゃんの線分図とが、一つの線で結ばれることになった。



 さあ。それでは、授業の様子はこのくらいにして、こうした学びのどこに価値があるか考えてみよう。



〇絵を使うことの意味は、こだま氏のブログにくわしい。

 わたしは、思考の具体化、イメージ化だと思う。その証拠に、公式を覚え、式をすぐ立てようとする子は、覚えていることを機械的にノートに書くだけだから、思考を求められると、とまどいが多く、

『解けたのだからいいジャン。』
『何を書いていいのか分からない。』

そうなりがちだ。これは思考していないのだから、考えてみれば無理もない。

 だから、このクラスの子どもたちが、何の抵抗もなく、絵をかき出しているということは、日ごろから、『数学的な思考力』を豊かに育むべく、担任が努力している結果だと思う。

 そう。絵は、思考の筋道を示す。

 ただし、それだけではない。式・絵が2つ・線分図というように、それぞれ表記は違っても、こことこことここと、『けっきょく概念は同じ。』ということに気づくのも、りっぱに数学的思考力だと考える。

 
〇こだま氏のブログ記事を読ませていただいて思うことだが、

・こだま氏の指導は、塾ということもあり、個別指導が中心ではないだろうか。指導者が子ども一人ひとりを見守り、要所要所で助言したり、質問を受けたりする指導が中心ではないかと思う。(もし違っていたらごめんなさい。)

 そして、小2のお嬢さんが問題を解くにあたってかいた絵が掲載されているが、解こうとする文章題も高度だし、お嬢さんの絵もびっくりするほどすごいものだ。その数学的な思考力の確かさに驚かされる。圧倒される。

 これも、一つは、こだま氏が思考力がしっかり育まれるように、段階を踏み、初めは単純な計算で解ける問題から始められたからだと思う。

 ふつうなら、試行錯誤等あるだろうから、途中で面倒くさがったり、手間を惜しんだりしてしまう子も多いだろうに・・・、


 それなのに、

 自ら主体的に思考し、意欲的に挑戦しようとすると、むしろその面倒くささが、喜びになっていくという・・・、

 そうか。ここでは、子どもに、数理発見の喜びがあるのではないか。達成感もあるのではないか。そして、その喜び、達成感は、強い感動を伴うと思われる。

 指導よろしきを得れば、こんなにも力を発揮するのかと驚かされる。


 その実例が書かれているだけに、公教育に携わる教員も、『このような指導は、公教育ではできないよ。』というのではなく、ぜひ、読まれたらいいと思う。

 また、本ブログには、絵解き「お話」文章題と題し、何問も文章題が掲載されているので、それをお読みになるのも、直接指導にいきるのではないか。

 
〇さて、上記実践は、公教育における、絵を使った問題の解き方を述べたわけだが、


 公教育においては、原則、学習指導要領により学習内容が決められているから、『本単元で押さえるべき学習内容は、これこれ。』ということになり、それをはずすことは基本的にはありえない。また、一人二人の子どもの思いのままに先行学習に取り組むこともできない。

 また、一般的には、学級やグループでの一斉学習という利点を生かし、集団により思考をねりあげるようにする。子どもたちは、お互いに自分の考えを出し合いながら、相互に思考を深め合うこととなる。

 
 本記事においても、友達同士、意見を出し合いながら、思考を深めていく経過がお分かりいただけると思う。公教育のよさはここにあると言えよう。
『友達の解き方から、いろいろな解き方があるのだということが分かった。』
『友達と力を合わせたから解くことができたし、より深いところまで追求することができた。』
といった心情を養うことができる。

  
〇初任者に限らず、よく、『どのレベルに合わせて授業をやったらいいですか。』という質問を受ける。

 そういうとき、わたしは、『どのレベルにも合わせた授業でなければいけませんよ。』と答える。


 本授業のように、絵をふんだんに使うことが、そうした学習を可能にするのではないか。


 大人は、

 『何も、はかりの絵まで書かなくてもいいではないか。時間がもったいない。』と思うかもしれないが、それでは、一部の子にしか合わせていないことになる。

 どうしても具体的思考は必要なのだ。それをふまえ、自分自身の力で段階を踏むことによって、抽象的思考へと進むことができる。


 それでは、理解力のある子にとっては、時間のムダになっているか。

 とんでもない。具体的思考と抽象的思考を結びつけたり、いろいろな思考の筋道を関係づけたりする力は、かなり高度なもので、

 多様な学力の子が、お互いに力を合わせながら練り上げていくのだから、どの子にとっても充実感のある授業になるはずだ。


〇上記文章だけだと、誤解を招きそうだ。

 『絵を描く子はなかなか理解できない子で、線分図を描く子は理解力のある子』という誤解だ。そういうこともあるだろうけれど、そう決め付けるわけにはいかない。

 本授業で線分図を描いた子だって、それまでいくらも絵による思考を重ねているわけで、問題が高度になれば、また絵を描いて考えるだろう。

 
〇こだま氏のブログ記事には、『解き方を教えない先行学習』なる言葉が登場する。

 子どもが自分自身の力で、先行学習を意識することなく、先に進んでいるわけだから、これはすばらしいことだ。


 本授業でも、そうした場面は見られた。


 はかりのめもりの読み取りを学習しているときだったが、Hちゃんがいう。

『0から100gまでの間が20めもりだから、100÷20で、1めもりは5gだ。だから、針の位置はここだから20g。』と発言した子がいた。

 しかし、3年生のこの段階では、割り算は学習しているものの、まだ、かけ算九九の確かめ算のような割り算しかやっていないので、多くの子にとっては、未習である。

 こうした発言が出てきたときは、
「すごいことを知っているね。びっくりしちゃった。」
などと言って敬意は表しながらも、それを全体に返すということは避けなければいけない。みんなで思考し合う場面では、一部の子しか理解できないことになってしまうからだ。

 もし、『割り算で解けたからもういい。』としてしまったら、以下の学習はできないこととなってしまうし、仮にやったとしても、解けて満足してしまう子どもたちだったら、もう関心すら示さないということになってしまうだろう。


 ここでは、『2の4の6の・・』とか、『5・10・15・・・』というようにめもりを数えていく学習が欠かせない。

 そして、『ああ。5・10・15・・・って数えたら、ちょうど100になった。だから、1めもりは5でいいんだ。』というように考え合っていくべきなのである。もちろん、数えたらちょうど100にならないので、もう一回別な数で数え直すということはあっていい。当然だ。

 
 Cさんのクラスでも、楽しいことがあった。

 前述のように、Gちゃんが、『5・10・15・・・って数え、ちょうど100になり、1めもりは5だ。』と言ったときである。

 Iちゃんが、『大、小、大、小、大、小・・・』と言い始めた。すると、どこからか、『10・20・30・・・』という声も聞こえてくる。

 わたしは、すぐピンときたが、読者の皆さんは、何を言っているのか分かるかな。


 そう。めもりは、大だけ数えれば、『10・20・30・・・』といくから、早く数えられるのだよね。子どもたちは、考えを出し合うことによって、どの子も便利な数え方をとらえることができた。

 繰り返すが、こうした学習こそが、どのレベルの子にも合わせた授業ということになる。


〇その他、こだま氏のブログへのリンク記事から思ったことは、

・あらためて、実感したのだが、

 めもりを読む学習で、100÷20を思い浮かべることができるということは、すごいことなのだなと実感した。同氏のブログによれば、こうした学習場面で、割り算を使えると判断できることが、もう、大変な学力を身につけたということになる。

・同氏のブログには、『絵を描いて考える方法を知っている子は、習っているかどうかは関係ありません。とことん粘ることができます。』ともある。

 そうならば、絵をかいて考えている子どもたちは、線分図の子も含め、とことん粘り強く問題解決に取り組む心情を養われているに違いない。

・『問題を効率的に早く解くことが本当に良いことなのでしょうか。問題を解くという行為の目的は答を出すことなのでしょうか。』ともある。

 本授業においても、たった今書かせていただいためもりを読む学習などは、もう、ほんとうにその通りということになるだろう。


 


 最後に、こだま氏は特にふれていないが、

 わたしは思う。


 進化の歴史のなかで、サルが人間になっていったわけだが、

 人間となった最初から、今子どもたちが学んでいる算数、数学の知識をもっていたわけではあるまい。狩猟採取生活のなかで、その必要感、切実性から、さまざまな数理を発見していったに違いない。

 そのなかでは、試行錯誤も数多くあったことだろう。

 それだけに、数理を発見したときの喜び、感動は大きかったに違いない。

 今、わたしたち教員は、その先人の営みを、教室の中で、子どもたちに味わわせてやりたいと、そう願っているのだと言えるのではないか。


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 もうくどくど言わないことにしましょう。

 今の全国学力調査騒動。学力競争騒動。それが、こうした、『解ければいい。』『答えが出ればいい。』『効率的に身につけさせればいい。』そうした表面的でうすっぺらな学力観を蔓延させてしまわなければ幸いです。

rve83253 at 14:48│Comments(8)TrackBack(0)算数科指導 | 指導観

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この記事へのコメント

1. Posted by 社会人   2009年02月02日 06:56
先生のおっしゃる通りだと思いました

ある著名な先生の指導を受けてから

算数は
絵や図や数字
そして言葉を使って
ノートに自分の考えを
書く様に指導しています
また、そのノートの発表を基に同じ所、違う所を探して黒板に
まとめる様に
心がけています
2. Posted by みっきーまま   2009年02月02日 09:09
すてきな授業ですね!
私は授業に限らず、答えを一つ、また、考え方を一つっていうことが、人間を狭く、小さくしていってるように感じます。
答えが出ていても、他の人の考え方を聞いたり、それを認めたり、(時には「それはおかしいんじゃないか?」と話し合ったり)、そして、一つのものをいろんな角度から見れる人間になれることこそ、これからの日本の目指すところかもしれません・・・
いつも、子育てにおいて、自分の目指す方向を再確認させていただいているように感じます。
そして、日々具体的に私自身、前に進めている気がします。
本当にありがとうございます。
3. Posted by yoko   2009年02月02日 13:33
「絵を描いて解く」
私が中学生の時、塾の数学の先生から言われていた言葉です。
小学生の時、算数が苦手でよくわからない教科だったのですが、この先生に出会ってから数学が大好きになりました。文章題中の数字や言葉がイメージとしてはっきり理解できるようになったのです。そして、ただ「解ける」ではなく「わかる」ようになり、難解な問題を「理解できた」時の喜びがとても楽しく思えるようになったのです。toshi先生のおっしゃるように喜びと達成感があったのです。
公式にもちゃんとその式に至る道があってその意味を知っているか、そうでないかでは随分違ってきますね。そういえば、最近今日先生のブログに『こうして、イメージを浮かべて、詩を読解すると、以前、暗記・記憶で苦労したことは、何処へやら、歌詞の暗記は、ラクになり、楽しくなりました。』という記述がありました。イメージをもつということは、その意味を理解することにつながり、教科にかかわらず大事ですね。
4. Posted by toshi   2009年02月03日 04:09
社会人さん
《算数は、絵や図や数字、そして言葉を使って、ノートに自分の考えを書く様に指導しています。》
 記事にも書かせていただきましたが、きっとすばらしい『数学的な考え方』を、子どもたちは身につけていることでしょう。
 これこそが、算数の『命』とすら思うくらいです。
5. Posted by toshi   2009年02月03日 04:25
みっきーままさん
 ほんとうですね。
 ただ単に『解ければいい。』とした場合、算数においては、だいたい正解は一つとなります。
 しかし、正解にいたるまでの経過は多様です。これは、『考え方は多様』ということですね。友達の考え方を知ることによって、幅の広さを身につけることができます。
 社会人さんがおっしゃるように、《同じ所、違う所を探》すことによって、比較、関連思考を養うことができます。
《他の人の考え方を聞いたり、それを認めたり、(時には「それはおかしいんじゃないか?」と話し合ったり)、そして、一つのものをいろんな角度から見れる人間になれることこそ、これからの日本の目指すところかもしれません・・・》
 いやあ。もう、おっしゃる通りです。こういう授業は、主体的に学んでいますから、記憶にも残るのですね。
 そして、それはただ単に記憶だけではありません。『真理の追求』という、学びの態度まで身につけることができます。
 相手のよさを見つけるとともに、批判すべきは批判するが、批判し合うことによって、互いの価値が深まっていくという、そういう力を身につけていくように思います。
6. Posted by toshi   2009年02月03日 04:33
yokoさん
 こだま先生も塾の先生ですが、そういう、『考え方』を養うことを基本においた、すばらしい塾はいくらもあるのですね。
 yokoさんのおっしゃる、『イメージをもつ』ということは、学びの楽しさとともに、多くのものをもたらしてくれますね。解くことへの満足感とか、達成感、納得など、こだま先生の言葉で言わせていただければ、『お宝、ゲット』ですね。
 今日さんもおっしゃっているように、『暗記』も、強制的、機械的暗記では、心は育ちませんね。負担感、義務感が増すだけです。
 それに対し、気づいたら暗記していたという学びは、多くの、『お宝をゲットした』結果だからこそなのですね。
7. Posted by 中田   2009年03月10日 14:28
絵で書く文章題といえば、どんぐりが有名ですよね。(糸山氏の)
息子も公文式をしていたのですが、文章題を読まずに式を立てるクセがあったため、糸山氏のHPから、文章題をプリントアウトして、1週間に1問の時もあれば、2日で1問の時と、まちまちでしたが、絵だけで答えを導き出す作業をさせてみました。
もともと、絵のとても得意な子供なので、楽しかったようで、1か月目あたりから、テストなどで絵をかくスペースがあまりなかったとしても、じっくり読むクセがつき、飛躍的に正答率が上がったのを見て、驚きました。
それを、担任や副担任の先生にも、お伝えしたのですが、全く通じず、ノートは相変わらず、文章題を黒板から写し、式と答えを書くことのみでした。
45分の授業の中で、理解度もマチマチなクラスで教えるというのは、難しいことなのかもしれないですね。
しかし、子供は未だに家庭でのドリルなどは、チラシの裏など使って絵を描いて式を立てています。
ずっと、プリント学習の某習い事に洗脳されていたのですが、糸山氏をきっかけに、辞める決心がつき、結果、良い方向に向かうことができました。

こだま先生のブログにも辿りつき、そこからtoshi
先生のところへ来ました。
もう2年も前のことです。
「鉄は熱いうちに打て!」は実は、初めて読んだ記事です。
8. Posted by toshi   2009年03月11日 04:50
中田さん
 そうでしたか。中田さんも、どんぐり、そして、道草学習のすすめのこだまさんからのご訪問なのですね。
 拙ブログ記事をご愛読賜り、厚くお礼申し上げます。
 さて、絵で解くことですが、
 我が地域では、それも、問題解決学習の大事な一つの手法として認知されています。絵で解いて終わりというようにはしていませんけれどね。やはり、最終的には、式とか筆算も重視します。絵で解くというのは、数学的思考力を養う上では、最大の効果があるように思います。
 

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