2009年02月06日

子どもの自己認識力を、より確かなものに。3

49891055.JPG 学級担任なら、子どもの姿を日々記録することだ。もちろん、すべての子を毎日記録することは不可能。

 でも、『一週間たったら全員の子を記録していた。』というくらいにはがんばってもらいたい。


 そして、それを時々は見直す。

 すると、『今』とくらべ、子どもの変容、子どもの成長に驚かされることはよくある。


 ちょっと、今、わたしが担当しているBさんにかかわる過去記事を読み返してみた。

 あらためて驚いたことがある。

 記事は、『初任者の成長(8)』だ。

 ここに登場するAちゃん。

 今はまったくふつうの子だ。あまったれたところなど、みじんも見せない。そして、発表力は今もすばらしいものがある。


 わたしが驚いたのは、わたしがかつてのAちゃんの甘えん坊の姿を、もう忘れていたことだ。わずか半年ちょっと前なのに。


 そう。わたしのことで、すべてを論じてはいけないが、人間て、忘れっぽいものだよね。


 今、目の前にある子どもの問題行動。気になること。

 それはいやおうもなく気づかされる。

 しかし、それがなくなり、気にならなくなると、『目の前では、もう何もしていないので、忘れてしまう。』というわけだ。

 そして、その場合は、まったく別なことが気になっていることも多い。


 今、記録を読み返すことにより、そんな自分を反省するのだ。過去のAちゃんを思い出すと、今の成長した姿にいとおしさすら感じる。


さて、さらに、考察の目を加えてみると、

 先のリンク記事における結論は、『初任者の変容と、子どもの成長とは、同時進行。』ということだった。

 そうなのだ。

 今、とり上げたAちゃんの変容にしても、やっぱり、初任のB先生の変容ぬきにしては語れない。

 子どもへの声かけに調子の合わない感じを覚えたり、

 子どもをぐいぐい引っ張ったり、『これは重要ですよ。しっかり覚えようね。』などと言ったりしたことは、もうまるっきり過去のことで、

 『子どもの発言をよく聞き、子どもの思いを引き出そうとする姿』は、すっかり定着した。


 そうなると、

 子どもの何気ない言動のなかに、感動のタネの芽吹きを感じるようになる。このクラスに、春は早くもやってきた。


 今日は、一つ、その感動のタネの芽吹きをお伝えしたい。



 ある日、朝の会で、B先生は、子どもをほめた。

 そうだ。この『ほめる。』も、すっかり定着してきたね。

「昨日ね。とってもうれしいことがあった。Dちゃんが、わたしに、『B先生。最近、このクラス、ずいぶん変わったね。』って言ったのだ。わたしも、すごく変わったと思っていたから、とってもうれしかった。・・・。みんなは、どう思うかな。」

 そうすると、口々に言う。

「変わってないよ。」
「そう。ぜんぜん変わってない。」
「おおんなじ。おなじだよ。」


 これは、意外な声。わたしは、教室の後ろにいたが、ズッコケテしまった。

 わたしも、このクラスの変容はいろいろ感じていたし、折にふれて、Bさんにも話してきたから、『何だろう。この声は。・・・。テレているのかな。・・・。それとも、自分で自分のクラスの状態を認識する力がないのかな。』

 そう思った。

 それで、放課後、Bさんに言った。

「Dちゃんの気づきを、ともに喜んだのはすごくよかった。それを学級全体に返したこともよかったよ。でも、その後の、子どもたちの反応は意外だったね。

 それで、これは結果論だが、

 子どもに聞くのではなくて、Bさんの思いを子どもたちに話してやったほうがよかったな。『みんなは、こう、こう、こういう点で、Dちゃんの言うとおり、ずいぶん変わったと思うよ。だから、とても感心しているのだ。』というようにね。

 そういうことを通しても、子どもたちは、自分で自分たちのクラスを客観的に見る力が養われるだろう。」


 でも、後日、このわたしの言葉は、まったく、当たっていなかったことを知る。子どもたちの意外な反応は、やはり、『テレ』だったようだ。

 まじめに、真剣に考える場面では、まったくそのような反応はなかった。



 さて、その、『後日』のこと。


もう今年度も残りわずかとなり、若い先生を中心に、『toshi先生の授業を見せてください。』という声が聞こえてくるようになった。校長先生のご理解もいただいたので、先日道徳の授業を行うことになった。

 指導内容は、『愛校心』。


 それでは、授業の様子を要点のみだが、書かせていただこう。
 
 初めに、

「このクラスがいいなあ、楽しいなあと思うことは、どんなことですか。」

と問いかけた。


 すると、次々に、発言した。

C「おもしろいクラス。」
C「騒がしいクラス。」
C「ええっ。騒がしいっていうのは変だよ。それじゃあ、いいところじゃなくて、悪いところみたい。」
C「じゃあ、にぎやかなクラス。」

 これなら異議ないみたいで、みんな納得した。

C「けんかが少ない。」
T「ほう。そうか。わたしもそう思っていたけれど、みんなもそう思うか。」
C「4月からくらべれば、けんかが減ったよ。」

 おお。これは、本記事冒頭に書いた『人間は忘れっぽい。』の反対で、記録などないにもかかわらず、まして、子どもなのに(いや。失礼!)、よくとらえているものだ。わたしは、舌を巻く思いだった。


 もう一つ。すてきな表現があった。

C「スマイルの多いクラスだよ。」
T「うわあ。しゃれた言い方だね。・・・。スマイルってみんな分かるかな。」
C「うん。分かるよ。笑うっていうこと。」
T「そうだね。笑顔が多いっていうことだな。」


 わたしは、うっかりした。これは、学級目標の一つだったのだ。

 それと関係づけることができれば、ああ、すてきな意味づけ、価値づけができたのに。Bさん。ごめんなさい。


 まだ、言いたそうな子もいたが、それは最後に言ってもらうことにして、副読本の教材文を読むことにした。


 お話には、

『学校をもっと楽しくするためには、』ということで、3年生のある学級の話し合いの場面が登場してくる。

 『もっと楽しく』の話し合いのはずなのに、上学年のよくないことばかり出てしまう。それで、議長役の子が、『もっと楽しくなるようなことも言ってください。』と投げかけると、やっと、いいことも出てきて、学級がなごやかな雰囲気になったという話。


 ところが、このお話をめぐっての話し合いになると、急に、学級の雰囲気がかたくなり、発言はあまりでなくなってしまった。

 これは意外だった。

 『発問はできるだけしない』主義のわたしとしては、授業が進めにくくなった。

 それでも、子どもから出たのは、

「最初、お話に出てくるEやFはえばっていていけないけれど、あとで反省したから、それはよかった。」
「4年生は、3年生に、『1年生が遊んでいるのに、遊び場を横取りしていいのか。』って言うけれど、その4年生だって、別なときは横取りしているのだから、人のことは言えない。」

 それで、また、シーンとしてしまった。


 わたしとしては、後ろで数人の若い教員が見ているから、ちょっと、その意外な感じに、内心、とまどいを覚えた。『なんだろう。このクラスで、このようなことは初めてだ。いつももっと発言するのに。』と思いながらも、それはおくびにも出さないようにして、努めてふだんどおり、明るく振舞うようにした。


 再び、元気よく発言するようになったのは、

C「ぼくたちのG小学校は、こんなことはないよ。上級生はみんなやさしい。」
C「そう。『ぼくたちが遊ぶのだから、どけ。』なんて言う人はいない。」
C「うん。えばってないよな。」
C「ぼくたちが遊んでいると、『ああ。ここは、3年生が遊んでいるのだな。じゃあ、ぼくたちは向こうで遊ぼう。』っていう感じで、なんか自然に、遊ぶ場所が決まっていくよ。」

 わたしは、『こういう流れなら、もっと上級生のすばらしさを出させよう。』と思って、次々出る子どもたちの発言を聞いていた。


 ころあいを見て、投げ返す。

T「分かった。このG小学校の上級生はみんなやさしいんだ。じゃあ、この副読本のお話の学校より、このG小学校のほうがすばらしいっていうことだね。」

 うなづく子どもたち。


 それで、わたしは続ける。

T「そうか。分かった。そのように、上級生がやさしいから、このクラスのみんなもやさしくなって、それで、けんかが減った(冒頭の発言で板書したところを指しながら、)のかな。」

C「うううん。そうじゃない。このクラスのみんながやさしくなったから、けんかが減ったのだと思う。」

T「そうか。同じ、『やさしい。』なんだけれど、それは、上級生がやさしいおかげっていうのではなくて、自分たちは自分たちでやさしくなった。そう言いたいのだね。」

 うなづく子どもたち。


 そうか。

 この場合、わたしの『関係づけ』は、ちょっと無理があったようだ。

 関係づけできなかったり、逆に、無理に関係づけようとしてしまったり、この日のわたしは、反省だらけになってしまった。


 
 以下、途中は省略させていただいて、

 終末の場面に移ろう。

 
T「みんなが、『このG小学校の上級生は、えばっていないよ。やさしいよ。』って言ってくれたことは、わたしもすごくうれしかった。その声はね。4年生、5年生、6年生の先生方に伝えよう。すると、各クラスで、子どもたちに言ってくれると思う。みんなの声をね。

 ところで、このクラスのDちゃんが、B先生に、『最近、このクラス、ずいぶん変わったね。』って言ったのだったね。それを聞いて、わたしもすごくうれしかった。

 そこで聞きたいのだけれど、変わったっていうのはどのようなことがあるのか、言える子はいるかな。さっき、やさしいからけんかが減ったというのは出たね。それと同じでもいいし、違うことでもいいから、言える子は手を上げてね。」

 すると、ふだんあまり発表しないDちゃんを含め、7人手を上げた。Dちゃんは、変わったと言った張本人(?)だから、最後に指名することにした。


C「やさしくなったに付け足しで、少しずつやさしくなった。」

 おもしろい言い方だなと思ったわたしは、
T「そうか。少しずつか。いっぺんにやさしくなったのではないよって言いたいのかな。」
C「そう。だんだんだんだん、ゆっくりゆっくり変わっていったの。」


 ここで、授業の流れを中断させていただいて、わたしの独り言。

 この発言をしたHちゃんは、わたしが着任した初日。もうその日は、4月20日近かったが、担任のBさんの言葉にものすごく腹を立て、

 それこそ、そんなに腹を立てるようなことではないとわたしは思ったのだが、

 とにかく腹を立て、それからしばらく机に突っ伏していた。そこには、『絶対顔を上げまい。』といった意志を感じ、いささか、驚かされたのだった。


 今となれば、なつかしい思い出だ。

 そのGちゃんが、『ゆっくりゆっくり、〜。』などと言うものだから、実に感慨深いものがあった。

 あっ。そうだ。この、Gちゃん。

 先に述べた、「変わってないよ。」「そう。ぜんぜん変わってない。」「おおんなじ。おなじだよ。」の一人でもあった。

 それが、この場面では、こんなにも緻密、繊細に、クラスの変容を語る。なんかジーンとしてしまうな。やはり、『ぜんぜん変わっていない。』はテレが言わせた言葉だったのかな。

 独り言、終わり。授業に戻ろう。


C「泣く人がいなくなった。」
という発言もあった。

 ごめんなさい。またまた、独り言です。

 そうなのだ。よく泣く子がいたっけ。過去記事にある

 この記事に登場するIちゃん。リンク先記事では、Bちゃんのことだが、このIちゃんはもう、ここ数ヶ月。まったく泣いていないのだそうだ。

 でも、この、「泣く人がいなくなった。」は、留意点あり。それは最後にふれる。



 また、授業に戻ります。

C「係の仕事をよくやるようになった。」
C「つけたしで、お掃除もしっかりやるようになった。」


 
 すみません。もう一人、Dちゃんの発言はあとまわしにさせてください。


 ここで、わたしから話をすることにした。

 道徳は、最後、『先生のお話』で終わるのが一つのパターンとしてある。

 もちろん、お説教するためではない。子どもたちのやる気、意欲を培うため、そして、自己肯定感を抱かせたり自己認識をより確かなものにしたりするために話す。

T「そうか。ようく分かった。みんな、このクラスの子たちはすばらしく成長したと思っているわけだ。自分で自分たちのことをそのように思えるということがすばらしい。それが、どれだけ自信となるか分からない。

 ところで、さっき、「泣く人がいなくなった。」というのがあったけれど、これはちょっと、お話するね。(かげの声だが、わたしには、Iちゃんの『よく泣いていた』ことが意識としてある。)

 確かにそうだと思う。ほんとうに、最近、このクラスで泣く人を見たことがない。でもな。このようなことが発言として出てくると、『ああ。もうこれからは、泣いちゃあいけないんだ。』って思う子がいるかもしれない。もしそうだったら、それは違うぞ。

 人間、泣きたくなるようなことは誰だってある。泣きたくなったら泣いていいよね。・・・。」

C「そうか。toshi先生。泣く子がいなくなったのではなくて、『泣きたくなるようなことが減った。』のだ。」

T「ああ。いいねえ。そうだね。それなら、いい。みんな仲良しだから、今は、泣きたくなるようなことがないんだね。・・・。うん。いいなあ。これなら、泣きたくなったら泣けるものね。」



 自己認識。

 自分で自分を客観視することができるということ。それもひとつの学力だ。

 自分に自信をもつことができるということ。

 友達も、自分と同じように、自分を客観視しているのだと認識できること。

 それが、Dちゃんの『みんな変わったね。』という言葉に現れているように思える。



 ただ、二つほど。子どもに見えていないこと。


その1

 それは、この子どもたちの変容は、担任であるB先生の変容と同時進行であったこと。これは、子どもの目に見えていない。

 でも、それはそれでいいのだ。

 『わたしたちが変容できたのは、B先生のおかげ。』と思っていたのでは、それは自己認識につながらないもの。

 やはり、『自分たちが成長したから、ゆっくりゆっくりではあるけれど、確実に成長したから、だから、変わったのだ。』そう思ってほしいし、そう思ってもらえるような指導を心がけたい。


その2

 これは、授業が終わってから気づいたことだが、この授業で、副読本の話をとり上げたら、急にシーンとなってしまったわけ。

 それに気づかされた。

 おそらく、子どもは、それに気づいていないだろう。『何となく、発言する気分ではなくなった。』そのような感じではないか。



 つまり、こういうことだ。

 自分たちは、仲良しだ。けんかもほとんどしない。わがままを言ったり、えばったりすることもほとんどない。それは、G小学校の上級生も同じ。

 それにくらべ、この副読本に出てくる小学校は、ちょっとひどい。下級生は上級生にえばられてかわいそうだ。

 そう思ったら、なんだか発表しにくくなってしまった。


 もし、それが当たっているなら、これも自己認識の現れと言えよう。ああ。そして、シーンとしたことだって、すばらしいことになるのではないか。



 最後に、お待たせ。

 張本人(?)のDちゃんにご登場願おう。

C「わたしはね。みんな、よく発表するようになったと思う。」

 そうなのだ。よく発表するようになったのに、本時はシーンとしてしまった。

 これは、わたしの教材文選択のミスと言えよう。問題行動の多いクラスの教材文などは、使うべきではなかった。


にほんブログ村 教育ブログへ

ninki



 本日の結論は、過去記事にも書いたことがあります。よろしかったらご覧ください。

    教育の真髄

 冒頭、子どもたちの日々の姿を記録するといいと書かせていただきました。それは貴重な思い出になるのですね。

 でも、思い出にとどめておいたのでは、ちょっともったいない。

 やはり、子どもの成長のカテに。そのための支援に。つまり、自ら伸びようとする心を支えてやるために、利用するといいですね。

 あれっ。最後は、なんか、保護者の方に言っているような感じになってしまいました。すみません。


 もう一つ。今日の記事は、初任者のBさんや子どもたちはすばらしくなっているのに、わたしは反省ばかりで、そういう意味でも、すみませんでした。

 まったくいくつになっても反省ばかりです。 

rve83253 at 13:53│Comments(0)TrackBack(0)初任者指導 | 道徳指導

トラックバックURL

コメントする

名前
URL
 
  絵文字