2009年02月14日

小中一貫教育のあやうさ でも、がんばって。(2)3

a027d4a5.JPG 本記事では、約50年以上も前、わたしが経験した、『中1プロブレム』をとり上げさせていただこうと思う。

 読者の皆さんのなかには、

『ええっ。そんなむかしから、中1プロブレムってあったの。』とか、
『そんなむかしのことを読んでも、今の教育改革の役にはたたないのではないの。』とか、
『わたしはもっと若いけれど、中1プロブレムなど、記憶にないわ。』
などと思われる方がいらっしゃるかもしれない。


 でも、それが、

 こわいほど、現在と共通する部分があるのだ。だから、『うっそう。』とはおっしゃらずに、お読みいただければ幸いである。

 また、上記第三項のように、わたしより若い方で、もし中1プロブレムの記憶のない方がいらっしゃれば、その理由も分かるような気がするので、そのことにもふれさせていただこうと思う。


 もちろん、わたしの子ども時代、中1プロブレムなどという言葉があったわけではない。でも、本シリーズ前記事の末尾に書かせていただいたように、これは、古くて新しい課題なのである。

 わたしの中学生時代、小中間の接続の悪さからくるストレスはかなりのものであった。


  
 さて、接続というからには、まずは、小学校のときから述べないといけないね。

 それは、過去記事にある。

    社会科学習への誤解(3)


 小学校でこのような授業を経験してきたわたしが、中学校に入ると、次のようになってしまう。 


 一番典型的だったのは、理科の授業だった。

 先生は、冒頭、礼が終わると、何もしゃべらず生徒に背中を向けてしまうのだ。そして、ただひたすら黒板に学習内容を書き出す。いつも黒板びっしりになるまで書き続ける。生徒であるわたしたちは、それを必死になってノートに書き写す。

 先生は、わたしたちが写し終わるのを待って、やおら説明を始める。わたしたちが発言するのは、ときどきある、先生からの質問のときだけだった。



 わたしはカルチャーショックに襲われた。そして、その無機質で味気ない授業に、胃が痛くなるような経験もした。


 父に、この驚くべき授業の現実を話したことがある。

 父の答えは、

「それは、toshi。当たり前だろう。中学生と言ったらもう子どもではないのだ。中学校の先生は、生徒を大人扱いしているのだよ。しっかり自立して、自分で取り組んでいかないとな。」

 そのようなものだった。


 しかし、これは大人になってから聞いた話だが、

 父は、戦後初期、子どもの生活を軸に子ども主体の授業を進める研究と実践に取り組んでいたから、中学校の新教育への熱意のなさには、いきどおりすら覚えていたようだ。


 もっとも、これは、中学校の立場になれば、無理もない側面がある。どうしても教科担任制のもとでは、学校が一丸となって指導法の研究に取り組むような土壌はできにくい。

 たとえば、『走れメロス』を子どもがどう読むか。子どもの問題意識、葛藤などから、授業を組み立てれば、子どもにとっては必然性のある学びができる。子ども同士で議論し合う余地もかなりありそうだ。

 しかし、そうは言っても、数学の教員が、その研究で口をはさむことは事実上できないものね。


 かくして、接続の悪さの原因が、それだけであるとは言わないが・・・、

 しかし、今、『教育課程のなめらかな接続、一本化』が叫ばれているのをみると、このことも、『中1プロブレム』の大きな要因となっていることは確かで、その芽は、戦後初期、新制中学発足と同時に始まったとみて、間違いないだろう。



 さて、それでは、今の小学生の保護者の皆さんの子ども時代は、どうだったのだろう。

 僭越ながら、想像させていただくに、わたしの子ども時代ほどのギャップはなかったのではあるまいか。
 

 なぜか。

 その辺の事情は、過去記事の、社会科学習への誤解(2)にくわしい。

 要するに、戦後初期の新進気鋭の先達がおし進めた、子ども主体の学習などに象徴される民主主義教育は、当時の学力低下論などの前についえ去り、時代は、学習内容過密のつめ込み時代へと移っていったからである。

 皮肉なものだが、保護者の皆さんの世代は、つめ込み、教え込みという意味での小中一貫が、かなりうまくいっていた時代なのではあるまいか。


 わたしは、十年以上前、若い教員の集まりで聞いたことがある。

「皆さんは、ご自分が小学生、中学生のときの授業を覚えていますか。」

 つまらない(いや。失礼!)断片的なこと、エピソードなどは覚えていても、『何を学んだか。』については、ほとんど記憶がないようであった。

 そして、わたしが上記リンク記事のように、具体的に、自分が経験した授業を語ると、そちらの方が、よりむかしであるだけに、皆、一様に驚くのであった。

 したがって、『中1プロブレム』など、特に印象に残っていることはないようであった。



 もう、ご理解いただけただろう。

 それでは、その後、なぜ、『中1プロブレム』なる事象が、この言葉とともに生まれたか。

 それは、わたしが申すまでもなく、『ゆとり教育』の賜物(?)だろう。


 小学校の多くは、思考・判断力重視、子ども主体の授業、子どもがいきいきと活躍できる授業の創造に取り組んだ。

 中学校も、総合的な学習の時間がスタートしたし、『ゆとり教育』はある程度とり入れただろうけれど、それが授業改造につながることはまずなかったと言ってよい。


 
 ああ。繰り言になってしまうが、

 昭和30年代初頭、なんで、戦前の暗記教育、断片的な知識注入教育に戻してしまったのだろう。

 あの、20年代の教員先達の熱意が実っていれば、まさに、主体的に生き、主体的に学び、考え、判断するという、民主主義を背負ってたつ日本人の育成が、今以上に、なったのではあるまいか。


 これは国だけの責任ではない。国は確かに弾圧したけれど、我らの日教組も、これに抗議したり断固反対したりするようなことはなかった。

 思うに、大人の知識、価値観を子どもに注入しようとする意味では、国も日教組も歩調を合わせていたと言える。



 さて、今、全国各地で叫ばれ、地域によってはすでに実践に移されている小中一貫教育だが、これがかつての二の舞になることなく、真に子どもを育み、真に子どもにストレスを感じさせることのない、そういう、『なめらかな接続、一本化』であるよう、切に願わずにはいられない。



 さて、『小中一貫教育』が叫ばれる背景には、もう一つ、子どものストレスの解消という意味で、不登校の問題がある。中1で急増するといわれる不登校。

 本シリーズの次回は、この問題をとり上げてみたいと思う。


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 『中1プロブレム』と並び称される、『小1プロブレム』。この問題についても、過去記事にあります。よろしければご覧ください。

    テレビ報道番組から、(3) 家庭と学校と

rve83253 at 14:56│Comments(4)TrackBack(0)教育観 | 小中連携・一貫

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この記事へのコメント

1. Posted by きゃる   2009年02月14日 20:17
中1プロブレムもあるんですね。
小学校から中学校への接続で
よく話題にしていたのは中1ギャップでした。
また、幼稚園、保育園からの接続で、
小1プロブレムはよく取り上げています。
いずれにしても、
校種間の連携は今の時代、とても大事だと思います。
2. Posted by toshi   2009年02月15日 09:17
きゃるさん
 どういうわけか、サイドバーにはきゃるさんからいただいたコメントが表示されているにもかかわらず、本欄にはそれが表示されませんでした。
 わたしの方で、管理ページを使用して入稿させましたが、どうしてこうなったのかはまったく不明です。いずれにしても、ご迷惑、ご心配をおかけしました。申し訳ありませんでした。

 『中1プロブレム』という言葉は、『中1ギャップ』と同じ意味で使われていると思います。
《校種間の連携は今の時代、とても大事だと思います。》
 ほんとうにその通りだと思います。特に進学先の学校は、入学してきた子どもたちが、それまでどのような教育を受けてきたのか、よく把握していなければならないと思います。
 次回は、そのようなことも記事にさせていただきたいと思っています。よろしくお願いします。


 
頑張って下さい!!
応援、ポチ、ポチ。
また来ますね!!!
4. Posted by toshi   2009年02月16日 20:15
元塾講師中里さん

 応援、ありがとうございます。今後とも、どうぞ、よろしく。

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