2009年02月23日

発達障害児と問題解決学習と、 (3)3

a30ea645.JPG なおみさんから、コメントをいただいた。

 読ませていただき、何とも恐縮してしまう。なんか、無用の混乱をさせてしまいそうだ。ごめんなさい。


 と言うのは、

 後出しジャンケンのようで申し訳ないのだが、わたしは、ふつう級で、発達障害の子を受け持ったことがあるのだ。子どもが起こすパニックも経験している。

 もっとも、数十年教職にあれば、その経験のない教員の方が少ないかもしれない。



 これまで、それを具体的に書かなかったことを、お詫びしたい。

 わたしのなかに、それをちゅうちょする、何かがあったのだ。あまり赤裸々に書きたくはなかった。だから、理屈を中心に書いてきた。

 
 でも、今日は、つたない実践だったが、概括的に書かせていただこうと思う。



 その前に、

 わたしが、『重たい課題』と言わせてもらったその背景を、もう少し書かせていただくと、


 学級担任時代のかなりの期間、わたしは、問題解決学習を標榜し、学校が一丸となってその研究に取り組む、そのような環境のなかにいた。もちろん、わたしも、それを恵まれた環境と思い、がんばったつもりだ。

 子どもたちは主体的に学び、自己を確立し、生きる力を自分のものにしていった。

 わたしは、この授業研究に自信をもっていた。


国は、『生きる力』として、

〇〜。自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力

〇自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性

をあげているが、

 わたしたちは、昭和の時代から、これを先取りするかたちで実践してきたのだ。


 本ブログでも、そのころの授業を、いくつも記事にしてきたが、ここでは、一つだけ紹介させていただこう。本記事にかかわる内容ではないが、ご覧いただければ幸いである。

   学習問題とは(2)


 ここでは、国の言う『生きる力』の第二項に着目していただきたい。

 わたしとしては、自分のクラスに発達障害のある子どもが在籍しているならば、その子とクラスのみんなとのかかわりを大切にしながら、この資質を養っていくことが肝要だという思いがあった。


 概括的な実践の様子は後述するが、子どもたちは、まさにこの力を養い育てたと思う。



 しかし、今になって思うのだ。『発達障害児のAちゃんにとっては、どうだったのだろう。』と。


 当時はもちろん、自信をもっていた。Aちゃんだって確実に育ってきた。

 卒業直前の時期、パニックを起こすことはまずなかったし、中学校へ進んでも、おだやかな生活を送ることができたという。

 保護者からも、感謝とお礼の言葉をいただいた。


 しかし、退職し、ブログを始めさせていただいて、前々記事のように、はるえもんさんの記事やなおみさんのコメントなどの、

「発達障害のある子どもにとって、どういう指導が望ましいか、〜。」

という内容を読ませていただいてからというもの、わたしには、『重たい課題』となってしまったというわけだ。

 はたして、数十年前の、あの指導は、あれでよかったのか。

〇『Aちゃんのいたあの学級でも、不規則発言はいっぱいあったなあ。』とか、

〇『授業の秩序か。あったとは思うが、そのような観点で自分の授業を見ることはなかったなあ。むしろ、授業が活性化していることは喜びに感じた。あの瞬間、つまり、子どもが、『ああでもない。』『こうでもない。』と言い合っていたときは、Aちゃんにとっては無秩序状態だったのかなあ。

 そうか。でも、今になってふり返れば、心当たりはあるなあ。


 そうした思いが重くのしかかり、ここ2・3年、何かというと、そのことが頭をよぎるようになっていた。


 そして、今回のクローズアップ現代だったわけだ。

〇イラストや映像など、視覚的な手がかりを活用すること。

 これは問題ない。ちゃんとやっていた。ビデオや写真などを多用した。

 当時のビデオは白黒、カセットはまだなく、オープンリールのテープだった。写真も四つ切に伸ばすと一枚千円こえてしまうから、全部自分たちで焼いた。

 そんなふうだったから、子どもたちも自作の資料は、絵とか写真を多用していた。

 
〇授業の冒頭に、本時の学習の流れを示すこと。

 これは、していなかった。

 第一、子ども主体の学習だから、前々記事にも書かせていただいたように、

《頂上は一つであるにしても、登山口はいろいろあり、どの登山口から登るかは、子どもの手にゆだねられているようなものである。》
から、どだい、示すことは無理だった。

 前述のビデオテープにしても、子どもたちがこれを問題にし出したらこのテープ、別な問題を気にし出したらあちらのテープというように、複線型の構えで授業に臨むことが多かった。


 ただし、これだけは言える。

 基本的に、学習問題は、前時の最後に、子どもの手によってできている。

 そうしているからこそ、子どもたちは本時に備えた調べ学習が可能になるのだし、本時に臨む姿勢もしっかりもつことができる。

 毎時間、どの教科もとはいかなかったけれどね。


 そのようなわけで、数十年前のことをふり返り、

 自分は、あの学級経営でよかったと思っていたが、いささか、その自信がぐらついたというわけだ。『もっとよい指導法があったのかもしれない。』そういう思いになってきた。

 矛盾するが、他方では、

『いや。あれでよかったのだ。生きる力を育むには、指導者が、先走って、あれもこれもとお膳立てすることはない。試行錯誤はあるけれど、子どもの自ら伸びようとする思いにゆだねた方がいい。第一、障害のある子と、ない子で、指導法を変えるなどということは、差別につながるのではないか。』

そういう思いもあった。



 さて、それでは、当時の学級の様子を、概括的にではあるが述べてみよう。  


 受け持った当初、Aちゃんは、かなりパニックを起こしていた。

 もう、大声でわめくし、あばれるし、手のつけようがなかった。授業中、休み時間、掃除の時間など、突然、そうなるのだった。わたしたちにとっては、何の前ぶれもなく、理由もなく、・・・、ほんとうにそういう感じだった。

 学級のみんなは遠巻きにしてそれを見ている。対処のしようもないといった感じ。また、そういうときは、『先生にお任せ。』といった気運もあった。そして、当然のように、保健室で休ませるという対応になった。


 そうしたなかで、わたしは、心配そうに見つめる子、にやにや笑ってその事態を見ている子、我関せずの子などを、しっかり観察していた。

 そして、心配そうに見つめているだけでも、関心をもとうとしていることは確かなので、そうした観点でほめるようにした。


 わたしの児童対応のスタンスについては、下記リンク記事を参照していただきたい。これは、わたしの姿勢にかかわることなので、本記事にかかわる内容ではないが、お読みでない方はぜひご覧いただければと思う。

    コンパス事件 Aさん(本記事のAさんとは別な子)はわるくない。


 そのうちだんだん、関心をもつ子がふえていく。なかには、Aちゃんがあばれるのを見て押さえようとする子も出てくるし、『どうしたの。ダメでしょう。』などと強く叱責する子も現れる。しかし、そんなことが何にも功を奏さないことも分かっていく。


 だんだん、Aちゃんとのかかわり方に変化がみられるようになっていく。Bちゃんが言う。

「toshi先生。Aちゃんは、〜のようなとき、パニックを起こすのではないかなあ。」

 もちろんこれは、例外があまりに多すぎるし、逆に、〜のようなときいつも起こすというわけでもない。

 しかし、『Aちゃんにかかわっていこう。』『Aちゃんのことを心に留めよう。』『Aちゃんとともにこのクラスをつくっていくのだ。』

 そういう態度であることは確かで、そうした観点で絶賛した。


 授業中も、問題解決学習が定着するまでは、パニックを起こすことがあった。

 そういうときは、授業はもちろん中断だ。


 でも、子どもたちの成長とともに・・・、

 これは、Cちゃんだ。

「ねえ。みんな。話が飛びすぎるよ。もう少し、整理して話すようにしようよ。『今、話し合っているのは、〜です。』ってよく分かるようにしないと、Aちゃんはうまく話し合いに参加できないと思うよ。」

などという言葉も聞かれるようになる。


 Aちゃんも自分で、『これはまずい。パニックを起こしそうだ。』と思うと、静かに自分で教室を出て行くようになった。

 わたしは、この判断力を、みんなの前で絶賛した。


 そのうち、Dちゃんのように、

「toshi先生。Aちゃんね。〜が得意なんだって。だから、わたし、教わっちゃった。Aちゃんも、とってもうれしそうに教えてくれたよ。」

などという子も現れる。これももちろん、上記の観点からして、絶賛ものだ。



 しかし、学級、子どもの成長は、右肩上がりではない。どうしても紆余曲折はある。


 どのようなとき、Aちゃんはパニックを起こすか。

 それが分かるようになったころ、Eちゃんのように、わざと挑発してパニックを起こさせ、喜ぶという事件が起きた。


 これはもうとんでもないことだが、

 さいわい、わたしより早く、クラスのみんなが激怒してくれた。Eちゃんも、学級のけわしい雰囲気に、もう、反省せざるを得ない様子だ。


 わたしは黙っていればよかった。

 いや。先のリンク記事の『コンパス事件』ではないけれど、

「悪気はなかったのだよね。Eちゃんは、ちょっとからかってみたくなっただけなのかな。でも、いいよ。今のEちゃんの態度は、『もう、これからは絶対しません。』そういう決意が現れているもの。怒ってくれたみんなも、ありがとう。わたしは、すごくうれしい。」

そのような感じで済ませることができた。


 子どもたちの問題解決学習も、Aちゃんの存在を意識したものになっていった。前述のCちゃんの言葉もそうだが、

〇Aちゃんが黙って教室を抜けるようなことがあると、『ああ。今の議論は混乱していたな。』など、悔悟の表情を浮かべる子もいた。

〇「先生。わたし、〜の資料を作ってきたのだけれど、〜のように工夫したよ。Aちゃんも、よく分かってくれるのではないかなあ。」

のような言動もみられるようになった。


 こうして、Aちゃんが在籍してくれていることによって、子どもたちの問題解決学習はきたえられていったのだ。


 しかし、これはものすごく長い時間と根気の要る仕事だった。


 先に、『授業中も、問題解決学習が定着するまでは、パニックを起こすことがあった。』と述べた。

 そう。あったのだ。それは間違いない。

 
 しかし、わたしが定着させたのではない。子どもたちが自主的に定着させたのだった。

 そうしたなかで、教室を抜け出すこともなくなっていった。



 今、思えば、わたしも、子どもたちも、発達障害に関しては無知だったけれど、『あんがい的外れなことはやっていなかったな。』という思いはある。

 しかし、暗中模索、試行錯誤の期間が長すぎたという思いもある。


 無知なるがゆえに、Aちゃんの成長にとってよくないこともしていたに違いない。その辺のことは申し訳なく思う。


 たとえば、たった今、この記事を書きながら思ったのだが、


 先ほど述べた、クローズアップ現代で言っていた、

〇授業の冒頭に、本時の学習の流れを示すこと。

にしても、『問題解決学習においては、これはできない。』と決め付けるのではなく、

「今日の学習は、〜という学習問題です。Bちゃんはこういう考えをもっています。Cちゃんはこうです。ですから、〜か〜をめぐっての話し合いになると思います。」などという提示なら、できたのかもしれない。


 でも、これも、ケースバイケース。やはり、実践の過程で分かっていくことなのだろうね。



 Aちゃんの保護者は当初から理解があり、いつも感謝とお礼の言葉だった。他の保護者も、いつも温かな目で学級を見てくれた。これは、ほんとうに、ありがたいことだった。


 卒業が近づいたころ、Aちゃんのお母さんがおっしゃった。

「ほんとうにクラスの皆さんのあたたかな雰囲気に包まれ、うちの子は幸せでした。ありがとうございました。でも、中学校は心配です。他の小学校からも、何も知らない子たちが大勢入学してきますものね。大丈夫でしょうか。」

 わたしは子どもたちの言葉を伝えた。

「中学校へ行って、Aちゃんがこまるようなことがあったら、ぼくたち、わたしたちが絶対守ってみせる。」

 おかげで、中学校でパニックになるようなことは、ほとんどなかったようだった。

 まさに、Aちゃんも、クラスのみんなも、『生きる力』を身につけたといえよう。

 
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 今、試行錯誤の期間が長かったことは、申し訳ない思いがあります。

 矛盾していますが、その一方では、問題解決型学級経営(こんな言葉はありません。でも、本記事では、使ってみたくなりました。)にとって、試行錯誤は必要不可欠という思いもあります。

 
 しかし、無知でいいと言っているわけではありません。ぜったい、勉強は必要です。

 よく知っていれば、

 それを子どもたちに話しても有効なことはたくさんあるでしょうし、

 子どものすばらしい言動にもっと的確に対応することもできたでしょうし、

 試行錯誤は必要不可欠にしても、その期間はもっと短縮することができたでしょう。

 また、わたしが無知だったがゆえに、無用のパニックを起こさせてしまっていたとも言えるでしょう。



 わたしは思います。

 発達障害について、子どもたちは無知だったけれど、思いの根底には、

『ぼくたち、わたしたちがとうていしないようなことを、友達のAちゃんは、なぜするのだろう。』

そういう人間探求、友達探求の心があったのだと思います。

 すると、『分かった。Aちゃんはこういうとき、パニックになるのだ。』という気づきが必ずやってきます。そうして、『それなら、そういう行動をしないように気をつけよう。』という気運が学級に醸成されます。


 ごめんなさい。

 今日の記事は、ああでもない。こうでもない。

 何か自分でもすっきりとしません。ほんとうに申し訳ありませんでした。お読みいただき、ありがとうございました。 

    (4)へ続く。

rve83253 at 03:30│Comments(7)TrackBack(0)問題解決学習 | 個別(特別)支援教育

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この記事へのコメント

1. Posted by きゃる   2009年02月25日 06:55
広汎性発達障害の子どもたちの多くは
本時の学習の流れを示さなくとも
普段の授業の様子(経験)から授業展開を予想し
自分なりのプランを(かなり細かく)立てます。

ところが自分の立てたプランと実際の流れが異なった!
先生や友達、周りは平気にしているのに
自分は気になってしょうがない、
だから自分を責めてしまうところが困り感でしょう。

その困り感を軽減するために
「本時の学習の流れ」は有効と考えます。

不規則発言もパニックも教室からの抜け出しも、
その子の認知特性が原因ではありません。

>すると、『分かった。Aちゃんはこういうとき、
>パニックになるのだ。』という気づきが必ずやってきます。
>そうして、『それなら、そういう行動をしないように気をつけよう。』という
>気運が学級に醸成されます。

課題は教室環境や学級集団にあると考えます。
「本時の学習の流れ」が無くとも
経験からプランを立てられるその子の想像力を認め、
提示した「本時の流れ」とは違った流れになっても
対応できたその子の社会性の成長を認め、
ゆっくりかもしれないけど
ともに成長する喜びを味わうようなクラスが理想ですね。
2. Posted by toshi   2009年02月25日 17:20
きゃるさん
 ありがとうございます。障害のある子も、ふつう級において学ぶのが基本となるのであれば、きゃるさんのおっしゃる
《ともに成長する喜びを味わうようなクラスが理想ですね。》《課題は教室環境や学級集団にあると考えます。》
は、ほんとうにその通りと思います。
 今の時代なら、『共生』という観点から、子どもたちは当然発達障害について学ぼうとしなければいけませんし、指導者は、子どもたちの、学ぼうとする意志を養わなければいけませんね。
 障害のあるなしにかかわらず、他者理解と共生は、人間社会を送る上での基礎・基本といえるのではないでしょうか。
 あくまで仮説ですが、いかに障害のある人の認知特性など熟知していても、閉ざされた空間で、指導者が一方的、訓練的にのみ指導していたら、社会性は養われないのですものね。

 
3. Posted by アズ   2009年03月28日 19:02
A子ちゃんが羨ましいです、TOSHI先生のご指導法がもっと、広まってくれたらと、心から願います。
グレーゾーンの子を持つ母ですが、発達障害の知識を持って指導してくださる先生よりも、地域で長年「剣道」なり、「体操」なりを、愛情をもって指導されてきた方の方が、全く予備知識がなくても、うまく導いてくださるし、何よりそこの場では差別をされない息子がいます。
試行錯誤があって、はじめてわかる事が多いはずです。「発達障害の子は」とひとくくりに差別化してしまうことが、可能性も狭めてしまわないか?と心配しています。担任の先生は何か問題があると、では「養護学級の先生と相談して方法を聞いて」とおっしゃいます、いつも接している担任の先生の方がわかる事が多いと思うのですが、養護クラスにも在籍できず、普通級では別枠扱いで、親子とも苦しいです。
4. Posted by toshi   2009年03月29日 02:31
アズさん
 アズさんは、『知識よりも心』とおっしゃっているのだと思います。わたしも基本的にはそれに賛成です。別な言い方をすれば、一人ひとりをしっかり見よう。そしてその子に合った対応、方策を考えようということだと思います。
 まずはそれでしょうね。そして、それだけだと、誤解したり、間違った対応をしてしまうこともあるので、やはり、知識を身につけて、より的確な対応ができるようにしようということではないでしょうか。
《何よりそこの場では差別をされない息子がいます。》
 なるほど。ほんとうにそうですね。これ、間違いなく言えることだと思います。
 お説の通り、まず知識という考え方だと、グレーゾーンの子に対する対応がおかしくなることもあるでしょうね。
5. Posted by アズ   2009年03月29日 12:08
グレーゾーンの子を持つ親として、上の記事にあるような授業を息子にも体験させてやりたいと思います。なおみさんが発達障害の子には合わないと発言されたりする事が、どれだけの考えや経験を持って言われているのかわかりません。どうか「これは無理」「この子達は別枠」と差別される事なく、一人一人可能性も違うのだという心を持って、見ていただける事を願います。
6. Posted by toshi   2009年03月29日 16:18
アズさん
 問題解決学習を、単なる指導法の問題、指導技術の問題、子どもが主体的に学ぶ授業形態というとらえでしかないので、適、不適という話になっていくのだと思います。『人としての生き方を養う。』『自己を確立していく。』という、『人そのもの』を養っているのだという部分を、まったく見てくださっていないようです。
 また、『発達障害児と問題解決学習と、』シリーズのはんちゅうで言わせていただければ、障害のない子が障害のある子といっしょに学ぶことによって、共生の思想を身につけていくことができるという、その部分もまったくスルーされてしまっています。
 完全に分けて指導するわけにいかない以上、心を養う部分をスルーしたら、本シリーズ(4)に書かせていただいたように、『障害のない子には、わがままだということでしかる。障害のある子には、これは障害なのだからということで許す。』という、とんでもない指導がまかり通ることになります。アズさんのお子さんのように、グレーゾーンにある子への対応は、研究すらされていないと思いますから、いったいどうなるのでしょうね。
7. Posted by toshi   2009年03月29日 16:19
 わたし、心から思います。
 どの子もいっしょに学び、いろいろな友達がいることを知るという環境の中で、指導者が、学びも含め、どの子も大切にした接し方をすることが、今という時代、緊急に求められていることではないでしょうか。
 そうでないと、保護者同士も仲良くなれないでしょうね。
 わたし、アズさんから学ばせていただいたことがあります。
《発達障害の知識を持って指導してくださる先生よりも、地域で長年「剣道」なり、「体操」なりを、愛情をもって指導されてきた方の方が、全く予備知識がなくても、うまく導いてくださるし、何よりそこの場では差別をされない息子がいます。》
というコメントです。
 もちろん、知識は要らないとおっしゃっているわけではないですよね。要るけれど、それにまさるものが愛情だとおっしゃっているのですよね。
 そして何より、そういう場では、差別はおきないということ。ほんとうにその通りと思いました。

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