2009年02月27日

山の手と下町の学校 給食の情景から3

5d8c9aeb.jpg 山の手と下町とでは、大つかみに見た場合、風土的な違いがあることは確かだろう。子どもたちは、それを、無意識のうちに背負って学校へきているのだから、それは、教室の雰囲気の違いとなって現れる。


 ただし、『はっきりしない言い方』と承知した上で、初めにお断りしておきたい。


 『山の手はこう、下町はこう。』と決めつけるわけではない。

 特に一人ひとりの子どもをみた場合、例外はいくらでもある。


 そのように承知しているのだが、しかし、『ああ。やっぱり下町の学校だなあ。』とか、『これは、山の手の学校にみられる姿だろう。』などと思うことは多い。


 下町の学校については、すでに記事にしたことがある。前記事でもリンクさせていただいたので、またまたリンクでは恐縮してしまうが、すみません。再度リンクさせてください。

    新しい学校が決まった。


 今年度、当初は、初任者指導として、このA小学校だけ、週2日勤務していた。しかし、11月くらいから、学級経営補助のボランティアとして、数校、おじゃまするようになった。
 今、ボランティアとしてはB小学校だけ、こちらも週2日おじゃましている。どちらも3年生である。

 そう。こちらはボランティアだから、勤務とは言えない。報酬もないに等しい。


 B小学校は典型的な山の手にある学校だ。とは言っても、マンションが多いのだけれどね。


 わたしはどちらの学校でも、給食を当該級の教室でいただいているが、子どもたちの様子に、おもしろい、きわだった違いを感じたので、今日はそれを記事にさせていただきたい。


 両校の教室とも、給食を生活班でいただいている。それは変わりがない。そして、担任は各班を回っているが、わたしは任意のグループでいただいている。これも変わりがない。

 
 『なんで、わたしも、担任同様、各グループを回るようにしないのだろう。』とは思うが、双方の担任ともそうやっているのだから、わたしは特にそれをとり上げて口をはさむようなことはしないつもりだ。

 ただし、問題が出たときは、それを契機に話そうとは思っている。


 A小学校の学級においては、特に問題性を感じない。

「toshi先生。今日は、ぼくたち、わたしたちの班に来て。いっしょに食べよう。」

それに対し、

「うん。いいよ。じゃあ、今日は、君たちの班におじゃまします。」と言うときもあれば、

「ありがとう。でも、今日は、向こうの班と約束しているからダメだ。次に来る日におじゃまするね。」

ということもある。それで、結果的には、何となくうまく各班を回るかたちになっている。



 B小学校においては、ちょっとやり方に問題性を感じている。しかし、今のところ、まだ問題は起きていないから、何も担任には言っていない。


 わたしが行った初日から、
「toshi先生といっしょに食べたいグループは手を上げて。」
という声が聞こえた。Cちゃんだ。


 それで、もう一班が手を上げて、2人でじゃんけんを始めた。Cちゃんが勝ったものだから、わたしは、Cちゃんの班でいただくことになった。楽しく班の子たちと話しながらいただいた。


 それからもずっと、Cちゃんの、『手を上げて。』が続く。


 数回、3人でジャンケンしていることがあったかな。でも、だいたいは2人。たまに、他に希望する班がないので、無条件にCちゃんの班へおじゃますることもあった。

 そのような状況だから、圧倒的にCちゃんのいる班でいただくことが多かった。



 おもしろいことがあった。一昨日のことだ。

 なんと、5人でジャンケンをしている。こんなことは初めてだ。


 そう言えば、ここ数日前から、わたしを取り巻く雰囲気が変化してきたことを感じた。


 それまで、チラッチラッとわたしの方をうかがう目はあったものの、積極的に話しかけてくる子は少なかった。わたしの方から話しかけるばかりの子が多かった。


 それが、

「toshi先生。昨日ね。おもしろいことがあったのだよ。〜ちゃんがねえ。〜。」

などと、話しかけてくる子が急に増えだしたのだ。


 最初は、週1日。途中から、週2日おじゃまするようになったとはいえ、こういう雰囲気になるまでに、2ヶ月くらいかかったというわけだ。



 さて、もう一つ、話を進める。

 この、『5人のジャンケン』には続きがある。


 この日は、久しぶりに、Cちゃんのいない班でいただくことになった。


 わたしは、当然、その班の誰かの机の上に、自分のトレイ(お盆)を置くことになる。

 わたしは、こういうとき、いつも、
「おじゃまします。わたしの給食を置かせてね。」
と言って置くようにしているが、この日も、わたしの目の前にいるDちゃんに、そう声をかけた。

 そうしたら、何と拒否されてしまった。隣りのEちゃんの机を指さし、『そっちに置いて。』という態度だ。


 ジャンケンに勝って、わたしがおじゃますることに決まったときは、その班のみんなが喜んでいたのに・・・、

 そう思うと、少なからずショックだった。


 でも、仕方がない。Eちゃんに、
「置いてもいいですか。」
と聞くと、ちょっと考えた末に、しぶしぶといった感じで許してくれた。

 給食をいただいているさいちゅうは、Dちゃんも含め、楽しく談笑できたのだけれどね。



 さあ。それでは考察に移ろう。


〇冒頭述べたように、『だから、山の手はこう。』などと決めつけるつもりはない。でも、『下町の学校では、このように、拒否されることはまずないだろう。』とも思える。

〇こうしたことにジャンケンを許すのは危険だ。相手がわたしであるうちはまだいいが、『友達同士でこういう事態になったら、』と思うと、ちょっと、いじめにも結びつきかねないと言えるのではないか。

 今のところ、いじめの兆候は感じないし、他に指導することがあるので、この件にふれてはいないが、しかし、年度末も近い。このクラスとお別れというときになったら、やはりふれざるを得ないと思われる。

〇冒頭述べたように、山の手、下町と、確かに風土的な違いはある。

 あるが、小学校のうちなら、学級経営上、こういう風土的なものを克服することは、そんなにむずかしいことではない。

 担任の姿勢として、

『まずは、どの子に対しても、あるがままを受容し、』

 当該級だったら、

『Cちゃんの人なつこい、あけっぴろげな人格について、共感したり、感動したりする思いを学級みんなに聞かせ、』

そうすれば、その輪は急速に広がっていくはずだ。



 上記、給食中のできごとを、教頭先生に話した。

「ああ。それは、すごくよく分かります。toshi先生に親しみの感情はもっているのでしょうが、それが、ストレートに行動に出ないで、遠巻きに見ている感じなのですよね。

 わたしは、B小学校に、今年度着任したのですが、朝、校門に立って、子どもたちを見守っていますよね。こちらから、『おはよう。』『おはようございます。』と、声をかけるのですが、いまだに、『おはようございます。』と返してくる子は少ないです。

 でも、わたしの存在を無視しているのではなく、チラッチラッとわたしの方を見てはいるのです。わたしからすれば、子どもたちは、『ああ。教頭先生だな。今日もぼくに挨拶してくれるかな。・・・。ああ。挨拶してくれた。よかった。』とは思っているようなのです。でも、自分からは、声をかけてこないのですね。そういう子が多いです。


 それで、PTAの席で、わたし、言ったことがあるのです。

『皆さんは、どうなのでしょう。マンションにお住まいの方が圧倒的に多いと思いますが、皆さん、ご近所の方とすれ違うとき、お互いに挨拶をされていますか。〜。』


 うん。

 分かるが、しかし、先ほども書かせていただいたように、わたしにしてみれば、改善策はある。


 学級経営によって、子ども同士のかかわりが密になれば、子ども同士の行き来も増えるだろう。

 そうして、子ども同士が、まちで、あるいはマンション内で、進んで挨拶をするようになる。

 そうなれば、親も変わらざるを得なくなり、挨拶をかわすようになる。


 それは、無理なことかな。

 わたしは、無理とは思わないのだけれどね。


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 我が長女夫婦は、大規模なマンションに住んでいます。

 わたしは驚いたのですが、(驚くというのは大変失礼ですね。すみません。)

このマンションは、入居した当初から、見知らぬもの同士が、よく挨拶しているのです。


 我が夫婦が訪ねていっても、それは変わりません。

『この人はマンションの住人ではない。』と感じてはいると思うのですが、それでも、挨拶をせず黙って通り過ぎる人は、ほとんどいませんでした。

 逆に、わたしの方が、黙って通り過ぎようとして、挨拶の声をかけられ、あわてて挨拶を返すというようなことが、何回もありました。すみません。


 ですから、そう。

 何回も言うようですが、山の手だからこう、マンションだからこうと、決めつけるつもりはありません。

 でも、本記事で、『そういう傾向がある。』くらいは言っていますね。すみません。(何回も『すみません。』を繰り返し、それこそ、すみません。)


 もう一つ。

 今日は、山の手の地域を批判的にみた記事になってしまいました。

 そこで、反対に、山の手はすばらしいという記事も紹介させていただきましょう。もっとも記事本文では、そのようなことは書いていません。

 ただ、このリンク先記事にあるように、いったんまとまれば、その創意工夫たるや、ものすごいものがあると感じます。これは義理人情の薄い世界だからとも言えそうです。

 あっ。またまたすみません。あくまで、『そういう傾向がある。』という話ですからね。

 それでは、紹介させてください。

    ひらかれたPTA

rve83253 at 15:48│Comments(7)TrackBack(0)教育風土 | エッセイ

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この記事へのコメント

1. Posted by ハッター   2009年02月28日 15:21
 toshi先生はじめてコメントさせていただきます。記事の中で挨拶についてふれられていたので、そのことに関連して意見を伺いたかったのですがよろしいでしょうか。
 私の子どもが通う小学校では今年度とても挨拶に力を入れていたようでした。朝、玄関に生活委員と先生達が立ち、登校してくる皆に挨拶の声をかける期間が数度設けられたりしていたようです。そして熱心さのあまりか、返事を返してこない児童はひじを掴んでひき戻し、もう一度一層大きな声で挨拶の言葉をかけて返事を待つという先生もいたようです。
 先日、児童会の役員の選挙があり演説会があったのですが、その際には多くの候補者が”あいさつの一番出来る小学校にしたい”と演説したそうです。その後届いた学校便りには校長先生の言葉があり、挨拶に力を注いでいたのは校長先生で、それが児童に伝わり、とてもうれしかったとありました。
 天邪鬼なのかもしれませんが、たしか2年位前の児童会選挙では”いじめのない学校にしたい”という候補者だらけでした。挨拶の大切さもいじめの状況も特に数年変わっているわけではありません。子どもはその時の大人の意向にとても素直に影響を受けるのだなと複雑な思いをもちました。私はなんとなく子どもが自発的に考える機会が少ないのではないかと思ってしまったのですが、toshi先生はどうお考えになりますか。
2. Posted by toshi   2009年02月28日 16:47
ハッターさん
 同じ公教育に携わる身として、ほんとうに申し訳ない思いになります。申し訳ありません。
 ハッターさんがあまのじゃくなわけではありません。
 『挨拶に力を入れる。』
 そのこと自体はいいことです。
 しかし、それは、あくまで、自ら自主的に挨拶をかわそうとする子どもの育成でなければなりません。『挨拶すると気持ちいいなあ。』心からそう思える子どもの育成です。
 たぶん、お子さんの学校でも、そういうことは言うでしょう。
 しかし、《返事を返してこない児童はひじを掴んでひき戻し、》ではね。何ともなさけなくなってしまいます。

 わたし、記事にも書かせていただきましたが、それをもじって言わせていただきます。

《教員の姿勢として、
『まずは、どの子に対しても、あるがままを受容し、』
当該校だったら、
『すすんで挨拶する子の、明るく、気持ちのよい挨拶について、共感したり、感動したりする思いを、朝会などで学校みんなに聞かせ、』
そうすれば、その輪は急速に広がっていくはずだ。》
 この精神でいってほしいものです。
 
3. Posted by ハッター   2009年03月01日 11:30
toshi先生コメントをありがとうございます。そして、申し訳ありません。toshi先生に”申し訳ない”などという事を書かせてしまいました。同じ公教育に携わる方といっても全国いろいろな場所でいろいろな方がいて、下町と山の手以上に大きな地域特性もあることと思います。
保護者の立場でtoshi先生のblogを読ませていただいていますが、時に”あぁ、あのときの先生はこういう事を伝えたかったのかな”というように、直接聞けなかった疑問に対する答えを見つけたり、教育にむける情熱に心を打たれたりします。
ぶしつけな疑問に丁寧なコメントを本当にありがとうございます。
4. Posted by vertvertvert   2009年03月01日 12:14
Toshi先生初めまして
昨年より読むだけで、お邪魔しています。
今回の記事を読み、コメントしたくなってしまいました。


通信教育の教職コースで学んでいました。
事情により免許は取らず、将来教職に着くこともないのですが、、、
教育学特種講義のスクーリングで、子どもたちに伝えなければならないのは、自己決定権だと先生が仰ったのです。
全体主義的な国家統制は今でも続いていて、私たちは皆知らず知らずにプロパガンダに乗っている。決めるのは自分であり、決められること、決定権を行使できることを子どもに伝えねば、と。

でも、そのためにまずそのために自分たちに出来ることは、、、


貯金をすること、と、子どもが生まれたら私立へやること。


びっくりしました。
お金があれば選択肢も広まり、決定権も行使可能性が広がる。それはもちろんそうでしょう。でもその前に、すべてが経済資本で決まってしまう社会が問題なのであって、そこを問わないでどうするの、と思ったのですけど。現実的に実行可能性を考えたら、社会の波に乗るしかない、と教えているのですね。
子どもを私立へやるなら、その学校の方針すべてに同意しなければなりません。それこそ、変えることはできない。私立こそ、個人の連帯が及ばない世界だと思ったのです、、、、
その前に、一人ひとりの感じる力、受け止めて、おかしなことはおかしい、良いことは良い、と感じられる力、それが出来て、それを口に出したり、伝えたりすることがとがめられないこと、があるのではないか、、

続きます。








5. Posted by vertvertvert   2009年03月01日 12:15
続きです

最初からレールに乗って、余裕のある世界で、考えるのは楽です。
でも、何かが生まれますか?
山の手の小学校のPTA、うーんとうなってしまいました。
余裕があり、自由に参加し、自分の能力を『分かち合う』ことが出来る。自分のためではないから良いのでしょうね。そこには、子ども、がいるから。
自分が大切なだけの大人のぶつかり合いになったら、うまく行かなかったでしょう。
下町でも、頑なな、変化を嫌う風土があったら、、、子どもたちも開かれていないでしょう。

教育の問題は、何処まで行っても社会と切り離すことが出来ない、と感じます。答えなんてない。
感じて、考えて、動くしかない。
あのスクーリング以来、ずっと考えています。(それこそ周りの学生ニは、私立の教員になろうと納得してしまった人たちもいました)

人が繋がることが出来たら、変わる、と思うのです。
異質なものを排除するのではなく、なぜ、どうしてと受け止め、考えられたら、、、

とりとめなく書いてしまいましたが、Toshi先生の記事を読んで、まだ希望はある、と思えたのです。
ありがとうございます。
6. Posted by toshi   2009年03月02日 00:59
ハッターさん
 ごていねいに、再度コメントをいただき、ありがとうございました。
 また、最新の記事に、ハッターさんのコメントを一部引用させていただきました。事後報告になりまして、申し訳ありません。
 今後とも、よろしくお願いします。
7. Posted by toshi   2009年03月02日 01:06
vertvertvertさん
 長文のコメントをいただき、ありがとうございました。先のハッターさん同様、貴コメントを最新記事に一部引用させていただきました。事後報告となり、まことに申し訳ありません。
 今の日本の大人社会を見渡しても、また、ブログなどにはそれが色濃く現れますが、教条主義的であったり、ある団体の考え方そのものだったり、思考がかたく柔軟でなかったりするなど、大人の問題が大きいですね。
 今の政治も、これは記事に書きましたが、なんか、柔軟性がないなあと思います。
 これだけ国民の不評をかっているのが分かっているのに、なんのてらいもなく、3分の2を行使しようとするのは国民を欺くものだと、わたしは思うのですが、そんな論調はほとんどないようですね。

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