2009年03月02日

見せかけ、まやかしの民主主義4

e76c9faf.JPG 前記事に対し、ハッターさんとvertvertvertさんからコメントをいただいた。ご両名からいただくのは初めてだと思う。

 拝見し、

 『教育にむける情熱に心を打たれたりします。』とか、『Toshi先生の記事を読んで、まだ希望はある、と思えたのです。』とかおっしゃっていただき、心からうれしく思った。

 でも、日本の教育のはずかしい部分というか、日本社会と言った方がいいのかもしれないが、そういう部分をお示しいただいたので、その点に関しては、憂いを共有するのだが・・・、でも、その共有できることがうれしかった。



 まず、お二人のコメントの一部引用をお許しいただきたい。

〇『私の子どもが通う小学校では今年度とても挨拶に力を入れていたようでした。朝、玄関に生活委員と先生達が立ち、登校してくる皆に挨拶の声をかける期間が数度設けられたりしていたようです。そして熱心さのあまりか、返事を返してこない児童はひじを掴んでひき戻し、もう一度一層大きな声で挨拶の言葉をかけて返事を待つという先生もいたようです。』とか、

〇『全体主義的な国家統制は今でも続いていて、私たちは皆知らず知らずにプロパガンダに乗っている。決めるのは自分であり、決められること、決定権を行使できることを子どもに伝えねば、と。』とか、

〇『一人ひとりの感じる力、受け止めて、おかしなことはおかしい、良いことは良い、と感じられる力、それが出来て、それを口に出したり、伝えたりすることがとがめられないこと、があるのではないか、』とか、

〇『教育の問題は、何処まで行っても社会と切り離すことが出来ない、と感じます。答えなんてない。感じて、考えて、動くしかない。』とか書いていただいた。


 わたしは、前記事では、山の手と下町の風土といったものを書いたに過ぎなかったのだけれど、

 それなのに、その記事から、わたしの教育観というか、人間観というか、

 わたしの言いたいことを端的に示唆していただいたような気がして、すごくうれしい気分になった。

 あらためて、お礼を申し上げたい。ハッターさん、それから、vertvertvertさん。ほんとうにありがとうございました。



〇まず、ハッターさんのコメントだが、挨拶の指導について、『ああ。日本にはまだこうゆう指導形態が存在するのか。』と、心から嘆かわしい思いになった。

『返事を返してこない児童はひじを掴んでひき戻し、もう一度一層大きな声で挨拶の言葉をかけて返事を待つ』という指導(?)についてだ。


 人間には心がある。

 朝、登校する子どもにも、百人いれば、百通りの心がある。

 朝、むしゃくしゃすることがあったり、考え事をしたりしていれば、校門に立つ先生の、『おはようございます。』に気づかず、通り過ぎてしまうことだってあるだろう。
 それなのに、いきなり、ひじをつかまれたら・・・、

 ああ。相手が子どもだから、そのようなことをするのだろうね。まさか、大人に対しては・・・、するのかな。


 こんなのは指導でもなんでもない。心を育んでこその指導なのだ。かたちにとらわれるのは、まさに、『全体主義的な国家統制』。いや、『学校統制』だね。いくらなんでも、『こういう指導をしろ。』と、国は言わないだろう。


 ああ。ただし、『かたちはダメ』と言っているのではないですよ。『心の育みを伴わない、かたちだけというのがダメ』と言っているのです。

 
 わたしは、拙ブログを開設させていただいたころ、『求められる教育観』なる記事を書かせてもらった。
 そこでは、今、『本記事で書かせていただいたような教育観は破綻した。』と述べた。


 それなのに・・・、実に残念だ。

 破綻などしていないのだね。いまだに横行している。

 何度も言うようだが、こうした指導(?)は、戦前の、皇国史観教育の時代となんら変わるところがない。変わったとすれば、主体が、『国家』ではなく、『学校』ないしは、『社会』に変わっただけのことだ。


〇また、ハッターさんのお子さんの学校では、児童会選挙があるのだそうだ。

 そのこと自体はすばらしい。しかし、立候補する子の多くが、”あいさつの一番出来る小学校にしたい”と演説したとのこと。そして、2年前は、同じく多くの子が、”いじめのない学校にしたい”と演説したという。

 ハッターさんは好意的に、『子どもはその時の大人の意向にとても素直に影響を受けるのだなと複雑な思いをもちました。』と書かれているが、

 わたしは、『いきなりひじをつかむ』ところを見ると、これは、大人が言わせている可能性だってあるなと思った。


 見せかけの民主主義。

 まやかしの民主主義。

 そうした教育(?)を受けて、多くの日本人は大人になっていくとしたら。

 ああ。今の政治、経済。そうした大人のなれの果てでなければ幸いだ。 


 わたしは、かつて、若かったころ、修行時代といっていいと思うが、子ども主体の学習、問題解決学習がうまくいかず、悩んでいたことがあった。

 そうしたら、先輩教員から、きびしい指導を受けた。

「なに。悩んでいるの。悩みながらやるのだったら、まだ、教え込みをした方がいいわね。見せかけの『子ども主体』、まやかしの『問題解決学習』なんて、ダメよ。」

 わたしはその言葉を発奮材料として、がんばったのだけれど、


 ああ。この流儀でいけば、

「まやかしの民主主義、見せかけの民主主義なんてダメよ。それだったら、正々堂々とした皇国史観の教育の方が、まだましだわ。」

 うわあ。こわいなあ。


〇見せかけの民主主義、まやかしの民主主義は、まだある。


 vertvertvertさんからいただいたコメントだ。

『教育学特種講義のスクーリングで、子どもたちに伝えなければならないのは、自己決定権だと先生が仰ったのです。
 全体主義的な国家統制は今でも続いていて、私たちは皆知らず知らずにプロパガンダに乗っている。決めるのは自分であり、決められること、決定権を行使できることを子どもに伝えねば、と。
 でも、そのためにまず自分たちに出来ることは、、、
 貯金をすること、と、子どもが生まれたら私立へやること。

びっくりしました。』

とある。


 わたしは教育に携わるものとして、思うことは、

 まず、自己決定権とあるが、それ以前に、一人ひとりの自己決定力が問われなければならないと思った。

 今、自己決定権はある程度、あるのではないかな。それよりも何よりも、自己決定力があるのかどうか、それを育む教育があるのかどうか、そこが問われなければならない。


 全体主義的な国家統制についても、

 それも言えるだろうが、今の日本は、社会による統制、それは、マスコミとか、流行とか、そんなイメージだが、

 あと、自分が所属する団体による統制、プロパガンダもそれに含まれると思う。また、自己統制など、そちらの方がすごく気になる。


 でも、この教授はやはり少し言うことがおかしいね。

 自己決定権と言いながら、『貯金をすることと、子どもが生まれたら私立へやること。』というように、自分の価値観を言ってしまっている。まあ。もちろん、押しつけているわけでないことは分かるけれども。


 ここは、vertvertvertさんがおっしゃるように、

『一人ひとりの感じる力、受け止めて、おかしなことはおかしい、良いことは良い、と感じられる力、それが出来て、それを口に出したり、伝えたりすることがとがめられないこと』と言えるのではないか。

 

〇『教育の問題は、何処まで行っても社会と切り離すことが出来ない。』

 それはそうなのだが、でも、『教育は、社会を変える力ももつのだ。そういうかかわり方もあるのだ。』と考えたい。

 わたしが記事中に書かせていただいた、

『小学校のうちなら、学級経営上、こういう風土的なものを克服することは、そんなにむずかしいことではない。
 担任の姿勢として、
『まずは、どの子に対しても、あるがままを受容し、』
 当該級だったら、
『Cちゃんの人なつこい、あけっぴろげな人格について、共感したり、感動したりする思いを学級みんなに聞かせ、』
 そうすれば、その輪は急速に広がっていくはずだ。』

と、

『学級経営によって、子ども同士のかかわりが密になれば、子ども同士の行き来も増えるだろう。
 そうして、子ども同士が、まちで、あるいはマンション内で、進んで挨拶をするようになる。
 そうなれば、親も変わらざるを得なくなり、挨拶をかわすようになる。

 それは、無理なことかな。わたしは、無理とは思わないのだけれどね。』

は、そうした意識で書かせていただいた。


 もう一つ。

 ここで、過去記事を紹介させていただきたい。学校教育が社会を、そして、家庭を変えていく力になるという、すてきな例を紹介させてください。

   心の教育(4)


〇最後に、

『人が繋がることが出来たら、変わる、と思うのです。異質なものを排除するのではなく、なぜ、どうしてと受け止め、考えられたら、、、』

 いやあ。もう、ほんとうにその通りです。


 今、『発達障害児と問題解決学習と、』シリーズも書かせていただいているが、

 ほんとうに、人と人とがつながって、異質なものを排除するのではなく連帯し、自ら主体的に物事を考えるという、それこそ、それが、『生きる力』だと思うのだが、

 そうした力を養う教育を推進しないと、障害児も基本的にはふつう級に籍を置くという、これからの特別支援教育の時代は、うまく成果を上げられないだろうという、そんな思いをもっている。


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 冒頭の、『かたちだけはダメ』にかかわる過去記事があります。それも紹介させていただきましょう。思わず笑ってしまうような、そんな楽しい記事です。

    マニュアル


なお、あらためて、お礼申し上げます。

 冒頭に書かせていただいたことの繰り返しになりますが、

『教育にむける情熱に心を打たれたりします。』とか、『Toshi先生の記事を読んで、まだ希望はある、と思えたのです。』とかおっしゃっていただいたのは、ほんとうに、うれしかったです。

 そう。

 またまた、『ブログを続けていこう、いきたい。』という勇気をいただきました。ありがとうございました。

rve83253 at 00:23│Comments(10)TrackBack(0)学校経営 | 教育観

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この記事へのコメント

1. Posted by vertvertvert   2009年03月03日 18:30
toshi先生

思いつくまま書いてしまったコメントから、新しい記事まで立てていただいての、toshi先生の想いを伺うこと、、、
うれしいです。

『教育は、社会を変える力ももつのだ。そういうかかわり方もあるのだ。』


私も、本当にそう思います。
(だからこそ、その『力』が、おかしな方向に解釈されたり、間違った使い方がされることもあるのでしょう。)

『一人ひとりの想いや願い』という言葉は、教育を学べばとても身近なものです。
先生方一人ひとりの、『想いや願い』、子どもの家族、地域の人々、とどんどん広がってそれぞれの『想いや願い』を “受け止め合う”(何だか抽象的になってしまって上手くいえません)ことが出来れば、そこから何か始まるるのではないか、、、

社会がおかしいのは、基本的なコミュニケーション不足のような気がします。みんな、空気を読んだりするのには一生懸命なのに、すれ違い合っている。

toshi先生の記事には、先生の想いがあふれています。
だから、うれしくなってしまいます。
あ、教育には『社会を変える力』、だけではなく、もちろんその根底の、『人を変える力』がある、のですものね。

すみません、また長くなってしまいました。





2. Posted by ハッター   2009年03月03日 20:38
toshi先生の掘り下げによって、私自身の考えをより深めることが出来たように思います。取り上げてくださって本当にありがとうございます。
3. Posted by toshi   2009年03月04日 22:47
vertvertvertさん
 すてきな、宝物をいただいたような気持ちです。《だからこそ、その『力』が、おかしな方向に解釈されたり、間違った使い方がされることもあるのでしょう。》
 ほんとうにその通りですね。間違った使い方が多いのですね。
 確固たる信念をもつことも大事ですが、真理の前には謙虚でありたいとも思います。わたし自身も、双方を大切にしたいと思いますし、子どもにもそういう資質を育むべく努力したいと思っています。真理とは、『人としての生き方』。人間観にかかわるものですね。
 そのためにも、豊かなコミュニケーション能力を養いたいものですね。
4. Posted by toshi   2009年03月04日 22:48
ハッターさん
 こちらこそ、いろいろな刺激をいただきました。ありがとうございました。
 今後ともよろしくお願いします。
5. Posted by 社会人   2009年03月06日 04:51
記事を読みながら

「教員の免許更新制度」を思い出しました

30回に渡る大学の講義を自腹でお金を出して
公立学校で働く為に
教員免許を更新する

と言うことですが

学校や児童の実態に
即した指導方法は

限られた期間の
年休を集中して使って

「詰め込み」するって

いかがなものでしょうか
先生方の考えを
伺いたいです

現場で研修や勉強は
必要とするタイミングにタイムリーに学びたいと考えます
6. Posted by たき   2009年03月06日 11:47
あいさつをしない子供に、捕まえてもう一度言わせる事はいけない事なんですか??
個人的に、あいさつをしない子は注意しなければずっとあいさつをしないまま成長すると思います。
7. Posted by toshi   2009年03月06日 23:47
社会人さん
 おっしゃるとおり、大学等でつめ込みをしても、それで教員の資質が高まるとは思えません。現場での、授業実践等に即しての研修でなければ意味がないと思います。
 くわしくは、それに関連して述べた過去記事があります。本コメントのHN欄に貼り付けましたので、よろしければごらんください。
8. Posted by toshi   2009年03月07日 00:34
たきさん
 わたしは、『返事を返してこない児童はひじを掴んでひき戻し、もう一度一層大きな声で挨拶の言葉をかけて返事を待つ。』のような行為は、指導とは思っておりません。
 まず、この事例は、『注意』と言えるのでしょうか。わたしは、『強制』『押し付け』をしているに過ぎないと思います。
 次、このようなことをして、挨拶が習慣化する子どもになるとは、とうてい思えません。『怖い人の前では言うことをきく。』という、そういう生き方が習慣化するのではないでしょうか。
 三つ目。挨拶をしない大人は大勢います。この教員は、相手が大人でもこういうことをするのでしょうか。しないと思います。それではなぜ子どもにするのでしょう。『教育される存在』だから。
 でも、これは答えになっていないでしょう。くわしくは今度記事にさせていただきますね。
《あいさつをしない子は注意しなければずっとあいさつをしないまま成長すると思います。》
 そのようなことはないと考えます。注意しないでも、的確な指導があれば、挨拶が習慣化する子どもに育つはずです。
 これも、今度記事にします。ぜひごらんください。
 なお、わたしが、こういう場で、校長として、どう子どもたちに対応したか、過去記事にありますので、本コメントのHN欄にURLを貼り付けました。あわせてごらんいただければ幸いです。
9. Posted by rusie   2009年03月08日 15:11
5 この記事を読んで,このごろ私の感じてきたことがはっきりしてきました。
私の中には,民主主義の考えがはっきりあるつもりですが,指導の中では,はっきりしていなかったような気がするのです。
そして,私の学校の子供達の中には,まるで,それが育っていなくて,先生の言ってくれるのを待つような子供達です。判断に困ることはみんな先生任せです。相談して決めて,と言っても,だれかの言いなりになるかじゃんけんか,といった感じです。そして,この1年,そうした事実を目にしていたにもかかわらず,きちんとした民主主義を身につけるための手だてを取れずに,だめだだめだと思い続けてきたような気がします。
問題解決学習を進めていても,本当の学び合いになってはいない,なさけない教室でした。
地域的な風土もあるかもしれません。地区内には差別的な扱いをされている家庭もあります。その差別は親の代からのような感じです。
怒りを覚えますが,怒りは何も生みません。
私のしてきたことが,みせかけの,まやかしの民主主義であった,ということにならないように,していかなければ,と強く思いました。
気付かせていただき,ありがとうございました。
10. Posted by toshi   2009年03月08日 23:49
rusieさん
 お久しぶりです。
 大変謙虚な言葉をいただきました。みんな同じです。わたしも何回も記事にさせていただいていますが、きびしい修行の時代がありました。子どもに反攻されたこともあります。そういうことを経て現代に至っています。
《地区内には差別的な扱いをされている家庭もあります。》
とのこと。これだと指導はさらに困難さを加えますね。でも、指導する側の、一人ひとりの子どもに寄り添う気持ちが問われるのだと思います。
 がんばって努力されていることと思います。今後ともよろしくお願いしますね。

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