2009年03月06日

発達障害児と問題解決学習と、 (4)4

9984ca93.JPG 久しぶりの本シリーズである。

 そもそも、このシリーズは、わたしがブログを運営させていただくなかで、

『問題解決学習という授業形態は、障害児、特に発達障害児に合わないのではないか。』と、はるえもんさんやなおみさんから指摘されたと、

 わたしが、そのように感じたところから始まったといっていい。

 ご承知のように、今、特別支援教育にかんし、国は、次のような方向性をもたそうとしている。

「従来から、小中学校にあった特殊学級は廃止し、支援を必要としている子(本稿では『障害のある子』と呼ぶ。)もふつう級に籍をおくとともに、新たに設置する特別支援教室においては、障害児一人ひとりのニーズに応じた特別な支援を行う。」
 

 それゆえに、現実に、ふつう級において、障害のある子が障害のない子といっしょに学ぶ機会はふえるわけで、

 それだけに、問題解決学習を標榜するわたしとしては、それが、『障害のある子に合わない授業』とされたのでは、いかんともしがたい、深刻な事態になると思われたのである。


 しかし、本シリーズを書き進めているなかで、わたしにとってのとまどいは、かなり氷解し、今は、『問題解決学習で大丈夫。』といった思いになってきたので、本記事では、そのあたりのことを書いてみたいと思う。

 ただ、あえて言うなら、わたしの、これまでの、『問題解決学習』は、障害のない子にとってのそれであった。しかし、今、そして、今後、わたしが思う、『問題解決学習』は、それこそ、障害のある子もない子も、ともに伸びてともに生きようとする『問題解決学習』である。



 その、一つ目のキーワードは『試行錯誤』。

 問題解決学習が、子ども主体の学習であり、子どもの学びの筋道を大切にしていく以上、そこに、試行錯誤はつきものである。

『〜の問題を〜で追求したら、うまく解決するのではないかと思ってやってみたが、それではうまくいかなかった。何がいけなかったのだろう。また、どのような追求をしたらいいのだろう。』

 そういうことは当然ある。俗に、批判勢力からは、『はいまわる学習』とも言われる。まあ、大人である指導者がついているのだから、適切な支援等もあれば、かなり解消されるものの、しかし、皆無にすることはできない。なぜなら、子どもにとっての試行錯誤は、大切な学習過程の一つであるし、そこにも価値をおいているからである。


 しかし、こうした学習場面を、発達障害のある子は、かなり苦手とするようだ。『何を学んでいるのか分からない。』『耐えられない。』『パニックになりそう。』


 さあ。こうなったら、どうしたらよいか。

 まず、言えること。

 指導者である教員の試行錯誤は、これは、あってはならないだろう。教員は、自分の学級に在籍する障害のある子の障害について、どういう特性があるのか、しっかり学んでいなければならない。教員が障害のある子の成長発達のじゃまになるようなことをしてはならない。


 しかし、子どもたちのそれは、認められなければならないだろう。

 子どもにとっての試行錯誤は、それ自体、追求への欲求、発見の喜び、満足感、そういったものにつながるのだから、避けて通ることはできない。

 そうなのだが、そうした知的欲求だけで学習を進めるということはあってはならない。つまり、障害のある子がいるのにもかかわらず、自由奔放に問題解決学習をおし進めるということはあってはならないということだ。

 まあ、しかし、真の問題解決学習が行われていれば、それは学び合いだし、どの子も存在を尊重されるのだから、そうした事態はありえないということになる。

 自分のクラスに、障害のある子がいれば、当然、子どもたちは、その子の存在も意識し、大切にするようになるだろう。

 たとえば、

 『ああでもない。』『こうでもない。』といった話し合いが、障害のある子にどういう影響をもたらすか、自然に学んでいくであろうし、

 障害のある子が引き起こす事態から、自分たちはどう対応していったらよいかも学んでいくことになる。


 そして、ともに伸びていくために、

 学習を工夫し、障害のある友達に配慮していくことが、その学級にとっての大事な学習内容になっていく。いくら自分たちの知的欲求が満たされるとしても、それが障害のある子の学習のじゃまになるのなら、それは、避けていこうとする心情が養われていくことになる。


 たとえば、

 資料等、自分たちだけ分かればいいという資料ではダメだ。障害のある子も学ぶ権利があるのだから、そうした友達の存在も意識し、より視覚に訴えた、分かりやすい資料を作成する必要があるとか、

 今、何の話し合いをしているのか、常に、視点を明確にするように心がけるとか、

 障害のある子が得意とするなら、反復学習もとり入れていくとか、

 そうした学びの計画を子どもたちが立てていくような、そんな問題解決学習でありたいものだ。


 また、障害のある子も、自分の障害の特性に応じ、配慮できることは配慮するという、そういう資質も、大切な学習となるだろう。

 本シリーズの前記事では、

 発達障害のある子が、パニックになりそうなとき、黙って教室を抜け出すようになったことを紹介させていただいた。


 そうか。

 再度、本シリーズの(3)にふれさせていただこう。ここでは、自分のかつての実践を紹介させていただいた。

 しかし、これは、もう数十年前のことで、まだ、社会全体に、アスペルガー症候群など、発達障害についての知識、理解は進んでいなかった。だから、このわたしにしても、『目の前にいる子どもから学ぶ。』という姿勢でやったに過ぎない。そのため、わたし自体もとまどいが多かった。

 おかげさまで、保護者の理解もいただいて、多くの成果を上げたと思っているが、しかし、学級経営のさいちゅうは、暗中模索というか、試行錯誤というか、あるときは、『どう対応していいか分からなくなる。』ということも含め、成果の上がらないことが多かった。


 しかし、障害への理解が進んだ今、こういうことはあってはならないだろう。指導者は障害の理解、また、障害のある子のいる学級における学級経営について、しっかり学ばなければならない。

 

 次、二つ目のキーワードにうつらせていただこう。それは、『共生』だ。


 学級内に、障害のある子も、ない子も、ともに存在を認め合い、ともに協力し合ったり、助け合ったりしながら伸びていこうとする機運が生まれたとき、保護者からの信頼は絶大なものになっていく。
 
 それは、障害のある子の保護者、ない子の保護者、双方ともだ。

 障害のない子が、障害のある友達の成長を、成果を、我がことのように喜ぶ。そういう姿には、保護者も喜びを感じてくれるに違いない。

 障害のある子の保護者にしても、学級のみんなとともに伸びていく姿には、多くの喜びを感じてくれることと思う。


 ただ、ここに至る道程では、保護者同士、また、保護者と担任との情報交換というか、あるときは、理解を求めることも必要だろうし、いろいろな困難があるだろうが、それはしっかりと取り組む必要があるだろう。


 逆な場合は、

 障害のある子の保護者は、障害への理解のなさ、クラスの子どもたちによる差別的言辞など、など。さまざまな問題の解決を求めてくるであろう。当然のことだ。

 また、障害のない子の保護者は、学習の停滞、子どもたちの負担などを言いつのるようになるだろう。これも当然のこと。


 今、わたしは、本シリーズ(2)の、『その6』に書かせていただいた、

 障害のある子と、ない子とで、指導を区別する指導者の姿勢を思い浮かべている。


 障害のない子には、わがままだということでしかる。

 障害のある子には、これは障害なのだからということで許す。


 これは、正直申して、かなりあるのではないかと憂慮する。

 だって、つい最近も、『山の手と下町の学校 給食の情景から』の記事に、ハッターさんからいただいたコメントがあるものね。

 コメントの1番。『返事を返してこない児童はひじを掴んでひき戻し、もう一度一層大きな声で挨拶の言葉をかけて返事を待つ。』というコメントだ。

 いくらなんでも、障害のある子に、こういうことはしないと思う。

 もしこうした『区別』をやれば、子どもたちは、『えこひいき!』『差別!』と言って、大人を批判するであろう。それが、障害のある子へのいじめにもなりかねない。

 なぜ、こうなるか。

 それは、指導者に、問題解決学習的な姿勢がないからだ。

 子どもの問題解決力を養うのではなく、常に自分で解決してしまおうとする。子どもは一方的になされる指導者の『裁定』に身をゆだねなければならないのだから、受ける損得、利害を常に意識させられるようになる。

 問題解決学習的でない場合の、『宿命』と言っていいだろう。


 話を戻す。

 どの子にもふりそそぐような愛情。それが子どもに実感できること。それが大切だ。

 また、そうした姿は、問題解決学習的な指導にして、初めて可能だと思うのだが、

 今、そうした過去記事にリンクさせていただこう。

    えこひいきではないですよ。



 さて、結論だが、

 特別支援教育はスタートしたばかりだ。

 その理念は、ウィキペディアによれば、

〇幼稚園から高等学校にわたって行われるものである。

〇器質的な障害(視覚障害・聴覚障害・運動機能障害・知的障害等)に加え、発達障害者支援法に定義されるLD、ADHD、高機能自閉症等も対象とする。

〇 障害の有無やその他の個々の違いを認識しつつ様々な人々がいきいきと活躍できる共生社会の形成の基礎となるものであり、すなわち、これは、障害のない子供たちにとっても意味を持つものである。

となる。


 障害のある子も、ない子も、ともに生き、ともに学び、ともに伸びていくという、そうしたなかで、豊かな人間性をもち、真の民主主義社会を背負ってたつ人格の形成がなされるのではないだろうか。


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 どうでしょう。

 国は、特別支援教育の推進を言っています。

 しかし、他方では、受験競争、学力競争(狂騒)、学校間競争など、ちょっと特別支援教育の理念と矛盾するのではないかと思われる社会が形成されようとしています。

 そして、一部学校現場では、学級崩壊、学校崩壊が進行するという・・・、

 読者の皆さんは、こうした現在の社会を、どうお感じになるでしょうか。 

rve83253 at 06:24│Comments(2)TrackBack(0)個別(特別)支援教育 | 問題解決学習

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この記事へのコメント

1. Posted by ドラゴン   2009年03月09日 18:56
いつも勉強させていただいております。
平成元年版の養護学校の学習指導要領に「(3) 各教科等の指導に当たっては,体験的な活動を重視するとともに,児童又は生徒の興味や関心を生かし,自主的,自発的な学習が促されるよう工夫すること。 」とあります。これはまさに、総合であり、問題解決学習と通じるものではないでしょうか。
その意味で、問題解決学習と特別支援教育は相反すものではないと思います。

もう一つ、重要なキーワード「個に応じる」というのはどうでしょうか。
これこそ問題解決学習ならではだと思いますし、特別支援教育でも重要なキーワードです。
現行の特別支援の学習指導要領でも「個別の指導計画」が位置づけられました。私は、これを通常の学級でも取り入れてほしいと考えております。

北俊夫先生は、社会科の授業をバイキング料理に喩えられました。教師から与えられるコース料理ではなく、子どもが好きな料理を選ぶバイキング料理のような授業は、講義形式の一斉授業では無理でしょう。

以前、問題解決学習をしたくても、すぐに社会に出る子どものことを書きましたが、そういう実態はあるとしても、人が学ぶということは、問題解決的であるのが、自然な姿だと思っております。
2. Posted by toshi   2009年03月10日 07:23
ドラゴンさん
 おっしゃるとおり、特別支援教育に関する学習指導要領では、まさに、総合であり、問題解決学習でもある生活単元学習が、重要な位置を占めていますよね。こうしたことがもっともっとPRされていかなければいけませんね。
《私は、個別の指導計画を通常の学級でも取り入れてほしいと考えております。》
 これも、ほんとうにおっしゃるとおりです。そして、問題解決学習をおし進めている方々は、みなさん、『座席表』に代表されるかたちではありますが、これを自然な形でとり入れていると思います。 このことも、拙ブログなどで、もっともっとPRしていきたいと思います。
《問題解決学習をしたくても、すぐに社会に出る子ども》については、やはり、そういう子どもへの配慮は大切というようにとらえたいですね。

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