2009年03月08日

挨拶の習慣づけは、どうあったらいいの。4

8734a826.JPG 先日の記事、『山の手と下町の学校 給食の情景から』に、ハッターさんからコメントをいただいた。(同コメントの1番)

 今、そのコメントの一部を紹介させていただくと、

 《(お子さんが通われる小学校では、)朝、玄関に先生方が立ち、登校してくる子どもに対し挨拶をするが、返事を返してこない児童に対しては、『ひじを掴んでひき戻し、もう一度一層大きな声で挨拶の言葉をかけて返事を待つ。』ということが行われている。》

 そして、他にも事例を書かれた上で、

 《私はなんとなく子どもが自発的に考える機会が少ないのではないかと思ってしまったのですが、toshi先生はどうお考えになりますか。》

とのご質問をいただいた。


 そこで、わたしとしては、同コメントの2番で、

 《(こういうことが、今も指導という名のもとで行われていることについて、)何ともなさけなくなってしまいます。》

と回答させていただいた。


 そうしたら、そのコメントに対し、たきさんから、

 《そういう事はいけない事なんですか??個人的に、あいさつをしない子は注意しなければずっとあいさつをしないまま成長すると思います。》

というコメントをいただいた。


 わたしは、一瞬、驚いたが・・・、でも、思いなおした。

 基本的に、自分が予期していない質問をいただくことはいいことだ。

 これは、ブログを始めさせていただいたときから実感していることで、ある種の緊張感をもたらす。

 ふだん、『分かりきったこと』ととらえ、あまり深く考えていないことでも、あらためて、『どういうことが言えるか。』『どのような意味をもつか。』など、事柄の原点を考える契機とすることができる。


 そういう意味で、たきさんには感謝申し上げたい。


 さあ。それでは、たきさんのコメントについて考察してみよう。


〇まず、これは、『注意』と言えるようなものなのかということだ。

 注意は口で言うものだろう。

 この場合なら、
「さあ。しっかり挨拶しようね。あいさつすると気持ちいいよ。」
くらいかな。

 もっときびしく言うなら、
「しっかりあいさつしなさい。先生から声をかけているのに、黙って行っては失礼ではないか。」

 まあ、そのくらいなら、『注意』のはんちゅうとみていいだろう。

 しかし、『ひじを掴んでひき戻し、〜。』というのでは、これはもう、わたしは、『注意』とはみなさない。


〇こちらがあいさつしても返事を返さない人は、大人であってもいくらもいる。こういう教員は、相手が大人であってもこういうことをするのだろうか。

 おそらく、しないだろう。

 『自分は教職という、子どもにとっては特別な立場にいる。だから、指導の一環として認められなければならない。』ということか。

 でも、このようなことをして、それで、子どもたちにあいさつが習慣化されるとはとうてい思えない。習慣化したように見えても、それは、惰性にすぎないし、こわいから言うことを聞くだけのことだろう。

 プロの教員だったらプロらしく、子どもが自主的、自発的にあいさつをするようになる手だてを講じたいものである。


 なお、『大人同士ではしないようなことを、子どもだからという理由でするということは、基本的にはなくしたい。』

 そういう趣旨の記事をかつて書いたことがある。それに今、リンクさせていただこう。

    子どもにも大人同様に、


 ちょっと蛇足になるが、日本では、

 『いや。教職は、子どもを指導するのが仕事なのだから、これでいいのだ。』という論理がかなりあると思う。

 わたしは、どうも、こうした、教員への特別視、また、教員が自分で特別視することも含め、こういうことが、『世間では通用しない理屈を、教員は、言うことが多い。』につながっているように思う。


〇さて、それでは、『こういうやり方では、すすんであいさつするような子どもにはならない。』と言っている以上、どうやったら、教育の成果が上がるのか述べてみよう。

 それが、たきさんのご質問への答えにもなるだろう。


 わたしは、前にも記事に書かせてもらったが、校長時代、校門に立って子どもを迎えることをしていた。

 初めのころは、子どもとのふれ合いを大切にしたいという目的で、後半は、それにくわえ、児童の安全管理の面も大切な目的になった。


 ここでは、あいさつにしぼって、わたしのしてきたことや思いを述べてみよう。


 朝、校門や昇降口に立って、子どもとあいさつをかわす。

 もう、校門に入るかなり前から、わたしの姿を見つけて、『校長先生。おはよう。』と大声を張り上げ、手を振るような、こちらの方がかえってはずかしくなってしまうような子どもから、
 まるっきりわたしを無視し、そこにわたしがいないかのように振舞う子まで、子どもたちの様子は、それはもう千差万別だ。

 それでいい。まずはあるがままを受け止める。


 しかし、あいさつをかわす子のなかには、すぐ、あいさつ以外の何気ないやり取りを始める子もでてくる。そういう子とは楽しく談笑する。
 しかし、どんどん子どもは登校してくるから、長々としゃべることはできないけれどね。


 その『楽しく談笑』の一例は、すでに過去記事に書いたことがあるので、今、それにリンクさせていただく。

    学校だよりへの想い(13) 若さをいただく


 こうしていると、やがて、あいさつする子がふえていく。それまであいさつしなかった子があいさつするようになったら、ほめてやるのだ。

「うわあ。うれしいなあ。〇〇ちゃん。あいさつできたね。しかも、大きくて元気な声だ。・・・。ああ。お返ししなくちゃね。おはようございます。」
などというように。

 この、あいさつする子をふやす営みの中身は、いろいろある。


 先ほど述べた、『まるっきりわたしを無視し、そこにわたしがいないかのように振舞う子』だったら、目と目が合っただけでもほめる。

「あっ。今日は、わたしの方を見てくれたね。うれしいな。・・・。おはよう。」

そんな具合だ。

 無表情だった子が笑顔を見せれば、それも同じ。

 わたしの方をチラッと見たり、笑顔を見せたりするだけだった子が、『おはようございます。』と言った場合ももちろん同じ。

 でも、気持ちのなかでは、『いいではないか。笑顔を見せるだけだって。それは立派にあいさつしているよ。』

 そんな思いもある。


 やがて、感動の場面もやってくる。


 わたしは、楽しく友達と話しながら登校してくる子らには、その会話をじゃましたくないから、『おはよう。』の声はかけず、ただほほえむようにして、見守るだけだった。

 あるとき、そんな集団が、昇降口からわざわざわたしのところへ戻ってきた。

 そして、口々に言う。

「校長先生。ごめんなさい。」
「わたしたち、話に夢中になっちゃって、校長先生にあいさつするの、忘れちゃった。ごめんなさい。」

 そして、声をそろえて、

「おはようございます。」

 もう、うれしくなっちゃって、その気持ちを口に出しながら、あいさつを返すとともに、次の全校朝会では、その話を中心に、子どもたちをほめた。


〇本日の結論。

 あいさつする子をふやしたいなら、また、あいさつを奨励する目標を掲げたのなら、その実践は、あいさつしない子を注意することではないはずだ。

 あいさつは押し付けるものではないはず。

 すすんであいさつする子、『あいさつすると気持ちいいな。』と実感できる子、そういう子をふやすことではないか。


 全校朝会で話せば、教員にも、その気持ちは伝わる。

 PTAの会合で話せば、そして、学校だよりに書けば、保護者にもその気持ちは伝わる。


 その結果は、

 これもリンクさせていただきます。リンク記事の真ん中あたり、『さて、会の内容は、』からをごらんいただければと思います。話の内容は、あいさつに限定していませんが、ご了承ください。

    学校評議員制は機能しているか


 子どもが変われば、教員も、保護者も、そして、地域も変わるのだ。

 いいことはひびき合う。

 そして、一見迂回しているように見えるかもしれないが、これこそが、ねらい達成への早道となる。


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 まったく話は違いますが、いただくメールのなかに、お子さんが通われる学校のもろもろの問題点を指摘され、『どうしたらいいでしょう。』と、相談されるものがあります。

 わたしは、そうした場合、

「お子さんの学校では、(上記リンク記事に書いたような)学校評議員制が、機能していますか。」とうかがうことにしています。

 名称は学校ごとに異なります。『学校運営協議会』などと称するものが多いでしょうか。

 そういう場合、上記リンク記事がお役にたてば幸いです。

rve83253 at 16:23│Comments(8)TrackBack(0)学校経営 | 教育観

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この記事へのコメント

1. Posted by 中田   2009年03月09日 14:32
幼稚園では、子供を門まで送ると、そこに先生が立っており、気をつけして、「おはようございます!」と一礼させていました。
それが、とても可愛らしいと先生にお褒め頂いて、その噂が主任や園長先生にも伝わり、子供は褒められたよ!と非常に喜び、その後、ご近所のおばあちゃんにも、きちんとご挨拶できるようになりました。
もともと、園でも挨拶は、きちんと教えられていましたので、他の子も、みなきちんと挨拶はしていました。
それが、学校に入学して、「先生バイバイ!!」と言うようになり、叱ったことがあります。
校長先生は、校門で、小さな声で何やら声がけしていますが、生徒の大多数は無視して通り過ぎていきます。
なんだか悲しいですね。

息子は普段、今でもご近所や親戚、家庭内でも、挨拶はよくします。
私も、あえて言っていることもあります。
でも学校では、そんな雰囲気ではないみたいです。
2. Posted by ドラゴン   2009年03月09日 19:03
こういうことも教育観にかかわると思います。
挨拶ロボットを作りあげるか、主体的に挨拶ができる子どもを育て上げるか、どちらを目指すかでしょう。

算数でも、算数の「よさ」を感じないと、必要感を持ってもらえませんし、好きになってもらえません。
いろいろなことを積み重ねて、「挨拶をしてよかった」と思える体験をすることが必要ではないでしょうか。
3. Posted by tamasige   2009年03月10日 06:02
ご無沙汰いたしております。子どもが高校3年生の時、「先生が、授業中当てたAちゃんの声が小さいと大声でどなるけど、Aちゃんは大きな声がでないのに・・・いじめやん」と辛がっていたことがありました。また、職場の近所の中学校の生徒会の皆が横断歩道で遠くを見て、おはようございます。と大声を張り上げている年がありました。職場訪問のとき、病院では大きな声の挨拶が辛い患者さんもいるという話をしたら、次の年からは、校門に立っているようです。大声で挨拶されても叱られているようで気持ちよくありませんでした。絵本くまの校長先生を思い出しました。
4. Posted by toshi   2009年03月10日 06:34
中田さん
 園児のそれは、確かにかわいらしいことでしょう。そして、ある程度、かたちから入っていくのも、自然なことと思います。
 ただし、かたちのみに終始するのではなく、いただいたコメントにありますように、
《とても可愛らしいと先生にお褒め頂いて、その噂が主任や園長先生にも伝わり、子供は褒められたよ!と非常に喜び、その後、ご近所のおばあちゃんにも、きちんとご挨拶できるようになりました。》というように、園児の内面を育むことが大切ですね。
 なお、わたしは、子どもの内面重視の立場ですので、たとえ無言であっても、笑顔と笑顔の交歓ができれば、それもよしとしております。したがって、『先生バイバイ!!』であっても、それが、先生との親愛の情を示しているのであれば、一向に構わないし、あいさつしたのと同じととらえます。わたしの場合も、『校長先生。バイ。バイ。』などというのもありました。かわいらしかったですよ。
 『叱る。』というのは、たとえば、それが軽薄さを示していたり、教員をなめていたりした場合なら、必要なのかもしれません。
 しかし、たとえそうであっても、いえ、そうであるなら、あいさつとは別なかたちでの、日ごろの信頼関係の構築にかかわる配慮、指導が必要になってくるものと考えます。
 いただいたコメントにあるような校長先生の態度、学校の雰囲気などからすると、どうも、後者かなと思いますので、それだと、中田さんがおっしゃるように、悲しくなってしまいますね。
 やはり、あいさつそのもの以前に、『子どもをやる気にさせることのできない』学校の雰囲気、指導体制などが問われるのではないでしょうか。がんばってもらいたいものですね。 
5. Posted by toshi   2009年03月10日 06:39
ドラゴンさん
 『挨拶ロボット』。言い得て妙ですね。本当にお説の通り。ことは教育観にかかわります。
 『挨拶も算数と同じ。』なるほどなあと、あらためて実感させていただきました。ありがとうございました。
6. Posted by toshi   2009年03月10日 06:52
tamasigeさん
 高校の事例については、ある意味、教科担任制の宿命かなという気もしました。しかし、教科担任制であるなら、教員同士お互いに情報交換を密にし、子どもがかわいそうなことにならないよう、当然、配慮が必要です。
 ただし、この場合、お子さんが、『いじめ』と言っているのですし、教員は、『子どものそういう事情が分かっているのに、大声で怒鳴る。』ということかもしれないと思いました。
 また、記事中にも書かせていただいたように、一人ひとりの子どもへの愛情があれば、たとえ、情報交換が少なくても、『怒鳴る』という行為にはならないだろうとも思いました。
 いずれにしても、ひどいことです。

 学校の職場訪問後の話にしても、どういう意味合いで校門に立っているのかが気になります。
 ただ機械的に、大声を出させないための見張りということであれば、それはやはりまずいでしょう。 子どもの内面に寄り添い、それこそ、目と目が合うだけでもよしとして、心のふれあいを重視する、そういう意味で立っているのなら、すばらしいことととらえます。
7. Posted by kanakitarfc   2009年03月10日 23:07
いつも拝見させていただいております。

私は体育畑の人間なので、強制から生まれる自主性もまた価値のあるものだと信じています・・・。

一度先生のような校長先生と仕事がしたいです。

頑張って必死にやっている教師が報われるためには学校評議員制はバシバシやってほしいですね。
狭い世界で論議していると間違っていることが正論化されたりしてしまう・・特に生徒指導面では親や地域が望んでいる方向とは逆を向いて進んでいるような気がしてなりません。

お時間あれば当方のブログもよろしくお願いいたします。
http://kanakitarfc.blog120.fc2.com/
8. Posted by toshi   2009年03月11日 05:15
kanakitarfcさん
 初めて、コメントをいただきました。今後ともよろしくお願いします。
《私は体育畑の人間なので、強制から生まれる自主性もまた価値のあるものだと信じています・・。》
 貴ブログを拝見させていただきましたが、
 その学区に住んでいれば、目的意識のあるなしにかかわらず自動的に通学してくる集団と、たとえ公立学校であるとはいえ、部活のように、ある目的をもって集まった集団とでは、指導法が違ってくるのも当然かと思います。
 したがって、部活などの世界では、ある意味、強制力をもつことはあっていいと思っています。
 また、訓練でも同じことが言えると思います。
 いやならやめることができる世界と、そういうことができない世界との違いといってもいいかもしれません。
 

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