2009年03月26日

障害者との共生を!  ある講演記録から(1)3

3a788645.JPG 手元に、一つの講演記録がある。

 平成6年2月5日とある。もう、ずいぶんむかしのことになってしまった。

 読み返しているうちに、当時のことをまざまざと思い浮かべることができた。


 講演された方は、淡々とお話になるのだが、聴いているお母さん方は、みな、涙、涙だったっけ。


 わたしは、これはぜひ、拙ブログへの掲載をお願いしてみよう。そう思った。

 もう、15年も前の記録だが、それだけに、『社会福祉法人 訪問の家 知的障害者通所更生施設 朋(とも)』の設立のいきさつと同施設にこめた願い、設立当時の地域との交流の様子など、そのすばらしさが生々しく語られている。


 そこで、講演された日浦美智江先生にメールを入れさせていただいた。その後、電話でお話することもできた。今もお元気で、『訪問の家』の理事長をなさっていた。わたしはとてもうれしく思った。

「うわあ。載せてくださるのですか。それはありがとうございます。・・・。どんな話だったのかしら。読ませていただくのが楽しみです。」

とおっしゃってくださり、わたしの方がかえって恐縮してしまった。


 上記リンク先ホームページを拝読すると、日浦先生は、今も、全国各地で、講演活動をなさっているようである。(同ホームページ『日浦理事長の部屋』のなかにあります。)

 また、数年前まで、横浜市教育委員としても、ご活躍された。


 それでは、さっそく講演に移らせていただく。とても一回では載せきれないので、数回に分けさせていただく。

 なお、これは、わたしが当時勤務していた学校のPTA主催、家庭教育学級での講演である。わたしが記録させていただいたが、当時、日浦先生にチェックをお願いしたいきさつもある。

 それでは、どうぞ。




 障害をもった子とその家族の方に初めて接したのは、20年ほど前でした。それまでのわたしは、ふつうの母親だったのです。

 どんな母親だって、我が子はかわいいでしょう。あぶないことをしていれば手を出して、危険なことを避けてやりたいと思いますし、成長したなと感じればうれしくなりますし、我が子といっしょに公園に行って、同じくらいの子をもつ母親と仲良しになりますし、そういう意味で、ふつうの母親だったと思います。


 ある日、ふと考えました。

 この子だってやがては親元をはなれ、一人で生きていくことになる。このまま過ごしていたのでは、そのとき、わたしは子ばなれできなくなってしまうだろう。

 わたしができることは何だろう。こうやって、我が子に手取り足取り接していくことではあるまい。子どもの自主性を尊重しなければいけない。

 子どもがやりたいことの足を引っ張る母親だけにはなりたくない。それにはどうしたらいいだろう。

 そうか。わたしは、わたしの世界をつくらないといけないのだ。そう考えて、32歳のとき、社会事業大学研究科に入学しました。

 大学の勉強はおもしろかったです。


 だけど、年齢超過のため、卒業しても、公務員にはなれないと言われました。社会福祉法人の仕事しかないようでした。

 たまたま、地域のA小学校に訪問学級(後のA養護学校)ができました。重度障害の子どもの学級で、こういう学級は日本で初めてだろうと思ったら、日本で二番目とのことでした。


 それまで、こういう重度の障害をもつ子どもの学校はありませんでした。訪問指導といって、先生がその子の家を訪ねて指導していたのです。

 昭和47年、どんな障害の子どもでも学校へ入れましょう。そういう考え方のもとにこの学級はできました。わたしは、横浜市教育委員会に所属し、この学級に通いました。非常勤でした。そして、母親学級の担当になりました。


 それまで、わたしは、こういう障害をもつ子どもはもちろん、その家族とも接したことはありませんでした。

 小学生で寝たきりの子は、起こそうとしても首がすわっていません。みんなじゅうたんに寝ています。立てないのです。そういう姿にただただ驚くばかりでした。


 わたしは、当時、33歳。多くの母親が、わたしより年上でした。でも、今、当時をなつかしんで写真を見ると、みんな20年後の今の方が、若々しく見えます。


 暗中模索でした。何をしたらいいかが分かりません。一日が終わると、ぐったり疲れました。

 大学の先生に、
「ここは特別な世界と思いますか。ふつうの世界と思いますか。」
と聞かれました。わたしは感じるままに、
「特別な世界だと思います。」
と答えました。そうしたら、
「まだまだですね。」
と言われました。


 母親学級は、どこにもありませんでした。だから、モデルはわたしがつくらなければなりませんでした。


 最初に、子どもを学校につれてくる意味について考えました。

 学校へ通うというのは、子どもだけでなく、その母親にとっても、初体験なのでした。ふつうの母親なら、我が子が幼稚園児、小学生へと成長するにつれ、我が子を仲立ちとした母親同士のつながりができます。

 しかし、障害児の母親にはそれがありません。我が子が家にずっといるのですから、その世話に追われるということもあって、家に閉じこもりっぱなしになるのでした。


 1クラスに15〜30人の子どもがいました。あるお母さんが、夏休み後、語りました。

 夏休みが長かったです。最初、我が子がぐずぐず言ってこまりました。それが、二晩続きました。夜も寝られません。三晩続くと、疲れ切ってしまいました。主人もいらいらし、
「いい加減にしてほしいな。仕事に差し支える。」
と言うようになりました。

 そんな日、子どもをつれて車で出かけました。海へ出ました。
『ああ。このまま、海へ飛び込もうかな。そうしたら、楽になる。』

 でも、そのとき、頭に浮かんだのが、このクラスのお母さんたちの笑顔でした。
『海へ飛び込んだら、みんなに何て言われるかな。あのお母さんは弱虫だった。そう言われるだろうな。』
そう思い、家へ戻ってきました。


 みんな黙って聞いていました。話し終えても、沈黙のときが流れました。どのくらい沈黙が続いたでしょう。誰かが、
「海へ飛び込むのはよそうよ。水ぶくれしちゃうよ。」
と言いました。雪山ならどうか、捜索隊が大変だ。ガスは。死に顔がきたない。排気ガスは。というように、次々と死に方が出ました。

 いったいいくつ出ただろう。また、沈黙が続きました。
「いい死に方なんてないじゃん。やっぱりがんばろうよ。」


 この心が施設『朋』の源流にあります。わたしの心の源流でもあります。

 まず、お母さんが何でも話せて、楽しめる。まず、親が生きること。それがスタートなのです。


 もう一人、忘れられない親子がいました。お弁当というと、みんなが重いお弁当を持ってきます。おなべごと持ってくるからです。

 なかに、哺乳瓶持参の人がいました。先生に、
「もう大きいのだから、哺乳瓶はやめようよ。」
と言われたとのこと。翌日からその子は学校へ来られなくなってしまいました。哺乳瓶がないと、どうにも食事がとれないのでした。


 ある子は、人が近づくと拒否します。興味あるのは物ばかり。抱かれるのも嫌がります。人に興味をもたないと学習は成り立たないので、『まず抱く。そうして、人と接する心地よさを体験させたい。』そう思いました。

 ある時、その母親が語りました。

 生まれたとき、『この子の命は長くて1年。』と言われました。それなら、『情がうつるとかえってかわいそうだから、かわいがるのをやめよう。かかわらないようにしよう。』そう思いました。

 そうやって育てたのですね。抱かれる体験がなかった背景には、そういう子育てがあったのです。

 わたしはその母親に話しました。
「この世に生まれて、抱かれる体験がないなんて。彼はいったいどうなるの。」
彼はそのとき、1年どころか、6年間生きてきたのです。


 こういう障害をもつ子は、よく肺炎をおこします。その子が肺炎になったとき、医者が手術をすれば治ると言いました。父親は、『手術はしなくていい。どうせ手術が成功しても、短い命なら、今、死なせてやりたい。』そう思いました。母親は、『可能性にかけてみたい。』と思いました。手術は成功し、彼は今、21歳になっています。

 この前、『朋』に遊びに来てくれました。もう、人大好きになっていました。お母さんの首に抱きつくようにして喜んでいました。




 途中ですが、今日は、ここまでにさせてください。このペースだと、あと、2回分あります。続けて掲載させていただきます。


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 本講演の冒頭に、『そうか。わたしは、わたしの世界をつくらないといけないのだ。』とありましたね。

 本記事とはまったく関係がないのですが、この箇所でわたし、思い出したことがあります。

 それは、拙ブログ過去記事にあります。今、リンクさせていただきましょう。

    亡父の『歩こう会』

    (2)へ続く。

rve83253 at 02:54│Comments(0)TrackBack(0)むかし | 保護者

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