2009年03月27日

障害者との共生を!  ある講演記録から(2)3

ee34320c.JPG 昨日に引き続き、『訪問の家』理事長、日浦美智江先生の講演をお届けします。

 さっそく、講演に入りたいと思います。

 それでは、どうぞ。


 
 人は、誰も、自分がかわいいのです。障害をもつ子をもったとき、『何でわたしが、こういうめにあわなきゃいけないの。自分がつらすぎる。』そういう思いをもたない親はいないでしょう。


 重症者を守る会というのがあります。種痘が原因で身障者になった子の母親がその会長を務めています。

 彼女が言いました。
「今流している涙は我が子のためではない。自分の悲しみ、つらさのためであると、それに気づくまで、10年かかりました。」

 朋へ来て、それを話したら、
「10年じゃあ、早いよね。わたしなんか、それに気づくまで、もっとかかったもの。」
って、多くの親がそう言いました。



 我が子が歩けない。話すこともできない。

 ほんとうにくやしいのは子ども自身であるはずですが、それに気づきません。


 みんな、生きる力があります。それを助ける親でありたい。教育とは、やがて、社会で生きていく、その力をつけるものであるはずですよね。

 重症者の場合、気持ちのよさを笑顔で表現してほしい。そうした力を獲得させたいと思うケースがよくあります。そうなれば、親も助かるのですよね。心地よさを笑顔で表現できれば、そうしたことをふやしてやりたいと思いますし、逆に不快ならば、それも顔で表現してほしい。それが分かれば、さけてやりたいと思います。

 また、誰の介護でも、食事をとれるようになってほしい。これもまわりの人を楽にさせます。母親でないと受け付けないというのでは、母親は参ってしまいます。


 自立と自活は違いますね。自立は他人の中で生きていく力です。その方向を示す言葉だと思います。だから、自立はこれだというものはないでしょう。一人ひとりの自立があっていいのではないでしょうか。


 親が学校へ行って、学校の教師とのつながりの中にいる我が子の行動を見ることになります。

 おやつにかっぱえびせんが出ました。これは口の中でとろけるので、当時学級で出していました。

 一人の女の子が、どうしてもそのえびせんに手を出すことができません。目と手が一致した行動にならないのです。目ではえびせんを見ていますが、それをつかもうとしても、右にあるものをつかもうとすると、手は左に出てしまうのです。そうした障害もあるのです。意志と反対に体が動いてしまうのです。

 そうした状態がずっと続きます。先生方は、いつかはつかむようになると思って、置き続けます。

 ある日、やっとつかみ、口へもっていきました。瞬間、先生方は大騒ぎです。

 仲間を呼び寄せる。カメラを持ってくる。
「やったあ。」
「やったね。」
「よかったあ。」
みんな狂喜の表情でした。

 それを、その子の母親が見ていました。
「わたしって、悪い母親でした。これまで、うちの子が何かをやったからといって、あんなに喜んだことがあったでしょうか。やったあ、よかったなんて少しも思わなかったです。ほんとうにかわいそうなことをしました。」

 そうなんですよね。障害を嘆くのではなく、その子の、その子なりの伸びようとする力を信じ、それをどう伸ばすかと考える。その大切さに気づいたのですね。

 今は、知的障害と呼びますが、それは軽くはできても、治らないというところから出発します。歩けないならば、それをどうやって補うかを考えます。


 障害はどうしたって起きます。1万人生まれれば、どうしても、5・6人の障害者は生まれてくるんです。残念ですが、現在、それは致し方ありません。

 半分は、出産時のトラブルが原因です。酸素の欠乏によります。酸素を一番必要とするのは、心臓と脳ですが、いずれもいったんこわれれば、復帰不可能なものです。

 残りの半分は、おなかの中にいたときの異常で起きます。染色体異常などです。あとは薬害などが原因になることがあります。今、原因不明の障害も増えています。


 誰にそれがめぐってくるか、分かりません。生まれてくるまでは、ふつうと同じ娘さんであり、若奥さんでした。誰も、生まれながらに障害者の親ではなかったのです。

 だから、誰もが障害者の親になったとき、まず愕然とします。悲嘆にくれてしまいます。できるなら、この子の障害を背負ってあげたいと思います。わたしが代わってあげたいと思う。そうしたことから出発します。

 そのうち気づいていきます。わたしが代わってあげることはできないが、いっしょにいてあげることはできる。『この子がいたからこれだけの人生が歩めたのだ。』という、そういう人生づくりをしようと思うようになります。

 わたし自身も、そういう親との出会いが、わたしの人生にとって幸せだったと、今、思います。


 
 一つ。子どもが卒業したあとの場づくりをしようと考えました。重症者は学校を卒業したあと、行くべき場所がないのです。家族が看るしかありません。

 でも、『何もできない。できるわけがない。』と決めつけるのは傲慢というものでしょう。

 じゃあ、どうしよう。

 バザーをしよう。いろいろなことをやって、お金を集めよう。それを元手にして、世の中に出すことを考えよう。

 そうした行動を始めて、11年目を迎えました。みんなの青春の場として、位置づきました。

 それやこれやの活動により、気づいたら3千万円たまっていました。寒い日もバザーをやりということで、露天商の人となかよしになったりしました。

 いろいろな努力と苦しみの中での3千万円でした。これは全家族の誇りとなりました。


 このお金をもとに、市と県と国の補助を得て建てたのが、今の『朋』なのです。

 夢のような感激を味わいました。国、県、市の援助がありがたかったです。

 あるお母さんは、
「夢みたい。この夢は覚めないでほしいわ。」
と言いました。別なお母さんは、壁をたたきながら、夢が正夢であることを確認していました。



 本日は、ここまでとさせていただきます。


 この講演を聴いて、わたし自身、目が開かされる思いがしたのだった。

 『重度の障害児が、学校というところで、いったい何を学ぶのか。』

 当時、自分のまわりの公教育しか知らなかったわたしは、そんな思いだった。

 この講演をうかがいながら、『自分は何て無知なのだ。我々は、日ごろ、教育の目的は生きる力を養うこととよく言うが、まさに、その、『生きる力』そのものを養っているのではないか。人間として、一番大切なものを学んでいる。』

 と同時に、学校というものの存在。そして、『朋』ができたということ。

 それは、親自身にとっても、自分が生きていくうえで、なくてはならない大事なものなのだということが、よく分かった。そして、その大事な仕事を日浦先生がなさっているのだった。

 そうか。すごいのは、その施設を、親が、自身のエネルギーでつくり出したということだな。

 自分が記録している紙が、涙でぬれるのをかまうわけにもいかず、心から自分を恥じ、認識を新たにしながら、記録し続けたのだった。


 さらに、もう一つ、強く思ったことがある。

 日浦先生は、国、県、市に対し、大変感謝していらっしゃる。


 どうだろうか。

 我々は、とかく、こうした行政を批判しがちだ。当ブログとて例外ではない。


 もちろん、批判すべきは批判してかまわないだろう。民主主義だものね。

 しかし、評価すべきは正しく評価する。その姿勢も大事だ。


 当時、もし、この行政が、わたしと同じような認識だったら、

 おそらく、養護学校も、朋も、できていないだろう。その価値を理解できないからだ。

 補助したこともすごいが、その背後には、障害児教育とその後の進路にかかわる、正しく、前向きな認識があったからこそと思える。


 今、この講演記録を読み返して、当時のそうした思いも思い出した。


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 この講演はもう一回続けます。

 なかなか標題の、『共生』に話が及びませんが、次回はそうした話が中心となります。

 障害のない者の生き方が問われる。

 そんな感じです。

 どうぞ、ご覧ください。

    (3)へ続く。 

rve83253 at 08:16│Comments(0)TrackBack(0)むかし | 保護者

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