2009年03月31日

自分の顔に責任を、3

a3faf677.JPG 退職し、初任者指導に携わるようになって、早、5年目を迎えようとしている。4月からの新たな出会いが楽しみだ。


 ところで、現職中はばくぜんとしていたが、今、この仕事に専念させていただいてから、確信にも似た思いになったことがある。


 現職中ばくぜんとしていたというのは、たとえば、次のようなことだ。

 ある教員のクラスに問題が起きて、子どもが荒れたとする。その教員からいろいろ事情を聞くなかで、わたしが、『もっと、子どもをほめなければダメだよ。〜のようなとき、ほめることができたではないか。』と言ったとしよう。

 しかし、そのとき、その教員から、『ほめているのですけれどねえ。』と言われたら、話は、もう、そこまで。

 『ほめていないだろう。』とか、『ほめ方がたりない。』とか、そのようなことを言うことはできない。何しろ、見ていないのだからね。


 しかし、今、そのようなことはない。

 なにしろ、勤務日は、四六時中、学級に入り込んでいるのだから、

 ほめるときの初任者の表情から、ほめる内容、それが子どもとしっくりいっているかいないかまで、すべてが把握できる。


 たとえば、
「先生が言ったことは、子どもの言動への感動が率直に語られていて、とてもよかったのだけれど、先生の表情とか口調とかいったものは、淡々として、ちっとも感動しているようにはみえなかったよ。視線も宙をおよいでいたしね。・・・。だから、子どもも意識が散漫としていて、ちっともうれしそうではなかった。」
などと言うことができる。


 それで、次の、『確信に似た思いになった。』にかかわることでは、

 多くの初任者は、教職についたとたん、多かれ少なかれ、自己改革を余儀なくされるということだ。

 
 わたし自身も、初任者指導の4年間、
『今のままではダメだ。あなた自身の人間性を鍛えないと、いい学級経営はできないよ。』
というメッセージを送り続けてきたように思う。
 
 もちろん、そんなストレートな物言いはしないけれどね。


 まずは、初任者の、あるがままの児童対応、教科等の指導の様子をみて、よいところを認め、ほめるようにする。

 どんな人間だって、やさしさ、思いやり、気配りする心はもちあわせているから、認めたり、ほめたりする材料は、絶対ある。

 しかし、それとは逆に、子どものやる気を喪失させたり、子どもをトラブルに追い込んだりするような対応も、残念ながらあるのだ。

 それは、もちろん、悪意をもったり、怠惰な心からだったりするわけではない。

 子どものために、『よかれ。』と思ってやっていることは間違いない。しかし、それがまずい結果につながるとしたら、よい方向にいくよう導いてやらなければいけない。

 そのいい例が、拙ブログにあった。今、リンクさせていただこう。

    すぐ涙ぐんでしまう子



 ここで、話を変える。

 先日、昨年度、わたしが担当した初任者Aさんが、若い教員ばかりさそい合わせて、わたしとの懇親会を開いてくれた。うれしかった。

 ほんとうに久しぶりの再会だった。

 そこで、ジーンとしてしまったのは・・・、


 ああ。そのまえに、

 そのAさんにかかわる記事も拙ブログにある。昨年の今ごろ、お別れのときのことだ。

    初任者の成長(7) 歓送迎会の一コマ


 さあ。上記、ジーンとしてしまった中身だが、

 この1年間、保護者や子どもとの信頼関係はバッチリ。すばらしい学級経営をしてきたことが話のふしふしに感じられ、ほんとうに安心することができた。安堵の思いがした。


 印象に残った言葉。

「学年主任のB先生が、昨日、ほめてくれたのです。めったにほめることのないきびしい先生なのですが、『Aさんは、今年、ほんとうにがんばったね。クラスのなかには何人か落ち着かないし、学力的にも心配な子もいて、クラスをまとめるのは大変だったと思うけれど、ほんとうにいいクラスをつくったわ。すごい自信がついたでしょう。』そうおっしゃってくださったのです。」

「そうか。それはすごい。Aさんの努力の賜物だ。

 そう言えば、5月末の歓送迎会のときも、先生方が言っていたよ。『A先生は、toshi先生がいなくなったら学級経営が下手になったなんて言われないようにがんばるのだと言って、ほんとうによくやっています。』とか、
 次は、校長先生の言葉だったが、『安心してみていられます。toshi先生の教えを守り、いつも、子どもたちのよさを見つけようと懸命になっています。今年もまた一歩前進しているなと思います。』

 それをうかがって、すごくうれしく思ったものだ。」

「はい。あのころは、B先生から、『Aさんは、toshi先生から、他の初任者の2倍も3倍もご指導いただいたのだから、その分がんばりなさい。』って、すごいプレッシャーをかけられて、ずいぶん緊張もしたのです。」

 そう言いながらも、リラックスしていて、とても楽しそうだったのだけれどね。

「そうか。それは大変だったね。でも、Aさんの楽しそうなところをみると、それもいい刺激材料になったようだね。

 そう言えば、わたしも、Aさんとお別れのころ、Aさんに言ったことがあったね。」



 そう。わたしは、Aさんに対し、一抹の不安材料があったのだ。


 それは、

〇わたしが学級担任だったら、『そんなことでは注意しない。』というような些細なことでも、子どものそばまで行って、きちんとさせようとすること。

〇ときにものすごく険しい表情となって、しかりつけること。そして、そのようなとき、納得できないといった子どもの思いが、表情から感じ取れること。

子どものけんかの仲裁がうまくない。Aさん自身の判断を子どもに押し付けてしまうので、わだかまり、不満などを残したままになってしまうことがある。
 もっと、子どもの思いを聞かなければいけない。そうすれば、子どもは自分のいけなかったことにも気づくし、反省するようにもなるものだ。そうしたら、『けんかはいけないが、素直に反省できたのはえらい。』と言って、ほめることだってできよう。

〇イメージ的には、上記校長先生の言葉のように、子どものよさを見つけ、ほめていて、とてもいいのだけれど、ときに、地が出てしまうといった感じなのだ。

 一口で言えば、『子どもを受容、許容する範囲がせまくなってしまう』感じなのだ。

 そういうときは、Aさんの価値観を、子どもに押しつけようとしている。

 それを子どもは納得しない。反発が表情に出ていることがある。

 そういうときは、決まって、学級がざわついたり、落ち着かなくなったり、集中力がなくなったりする。



 それでお別れのとき、わたしは、個々のケースでのAさんの児童対応についての注意、助言をやめて、次のようなやりとりをしたことがある。

「失礼だが、Aさんの子ども時代、ご両親は、Aさんに対し、『子どもとはこうあるべき、』とか、『子どもはこういうことをしてはいけない。』とか、けっこうきびしかったのかな。」

「はい。それはもう、厳格だったです。きびしくて、たたかれたこともありました。それで、わたしは、中学生のころはけっこう親に反抗していました。」

「そうか。やっぱりそうだったか。・・・。でも、それなら、Aさんはえらいよ。ときに地が出てしまうことはあっても、だいたいは、子どものよさを見つけ、ほめるようにしているものな。」

「はい。それはもう、toshi先生のおっしゃるように、子どものよさをみつけようとしてがんばると、子どもの表情がはっきり違ってくるのですね。うれしそうだし、教室はとてもなごやかで明るい雰囲気になるし、子どももがんばるぞっていう感じになるのですね。それがよく分かるので、わたしもがんばらなくっちゃと思うようになりました。」

「そうか。それはいい話だ。

 Aさんの地の部分は、けっこう厳格で子どもにいろいろなことを要求してしまうようにみえるので、今の話は、『子どもが、教員を変える力をもっている。』ということになるのかもしれないね。

 人間て、そんなに簡単に、自分で自分を変えることはできないと思うのだが、しかし、教員という仕事は、あんがい簡単に、それができるのかもしれない。それは、子どもが自分自身を映し出す鏡になってくれているからだろう。」

「でも、不思議なことがあるのです。今、親元から遠く離れていますけれど、最近、すごく両親への感謝の思いがわいてくるのです。ここまで育ててくれたのは両親ですし、最後は、教職という、わたしのやりたいことを認めてくれましたし、そんなわけで、きびしさのなかにも親の愛情が感じ取れるようになりました。

 悪くなって不良になってほしいと思って子育てする親は絶対いないですものね。それが、今になって、分かったような気がします。」

「それは、そうだ。でも、Aさんがそう感じ取れるようになったのは、やさしくなったからではないかな。子どもへの受容、許容の幅が広がったのだろう。人間的に大きくなったと言えるかもしれない。それが両親への思いに転移したのではないかな。・・・。遠方だし、忙しいから、なかなか帰省できないだろうけれど、まあ、できるだけ機会を見つけ、親元へ帰って、親孝行しなさい。」

「はい。そうします。でも、わたしは今になって、親への感謝の思いがわいてきたのですけれど、3年生の子どもに、『それを分かれ。』っていうのは、やっぱり無理だと思うのです。ですから、わたしが変わるしかないのだなあって思いました。」


 なんか、ジーンとしてきた、このやり取り。

 ただし、このような話は、どの初任者ともできるわけではない。やっぱり初任者にもよるし、また、たまたま、こういう話をしても不自然ではないくらい、初任者と打ち解けた気分になれたことが大きい。


 むかし、リンカーン大統領は、『男は、40歳になったら、自分の顔に責任をもたなければいけない。』と言った。今は、男女平等の時代だから、『人は、』と言わなければいけないよね。

 さて、この言葉を、わたしは、『いつまでも親のせいにしてはいけないよ。』というように受け取る。

 でも、逆にとれば、『20代、30代のうちは、親のせいにしてもいいよ。』

 いや。まさか、そのようなことはないだろうが、

 20代のうちから親のせいにしなくなったこと。親に感謝する思いになったこと。これは精神的な自立を意味するのではないか。

 また、教員としては、自己改革しようとしていることになる。


 『信頼の教育』『すばらしい学級経営』の背後に、こうしたことがある。


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 もうすでに何度か記事にしたことがありますが、

 数年前まで、民放に、『知ってるつもり』という番組がありました。おもに偉人をとり上げ、その人となりをみて、人としての生き方を学ぶという番組でした。わたしが強く印象に残っていることは、『人は、親の子育て、親の生き方の影響をすごく受けるものだな。』ということでした。

 当時、子育てを終えようとしているわたしでしたが、子育てするのがこわくなるくらいのものでした。『ああ。自分はいい父親ではなかったな。』そんな思いがしょっちゅうしていました。

 だから、わたしだって、そんなにえばれたものではありません。

 娘、二人へ。ごめんね。

 ああ。そのはずかしい、懺悔の記録にリンクします。

     保護者の皆さんへ(2)

 
 ただ、親の子育てに指導教員はいませんね。祖父母だって、そのようなことはできません。

 しかし、これなら、できるかもしれません。


 子ども(孫)の姿を見て、子どもが明るくはつらつとしていたら、そのように話す。

 ぎゃくに、そこに明らかな問題性を感じたら、その問題性の部分についてだけ、自分の思いを率直に語る。


 そして、基本的には、初任者指導も同じかもしれません。

 冒頭述べたように、『今のままではダメだ。あなた自身の人間性を鍛えないと、いい学級経営はできないよ。』とストレートに言うわけにはいかないからです。

 ストレートには言わないが、

 子どもが自ら伸びようとしている事例、

 逆に、子どもが萎縮してしまったり、反抗的になってしまったりする事例を通し、

 どういう指導をし、どういう接し方をしたら、子どもがそうなるのかという話から、間接的に教員の変容をねらう。

 そんなところでしょうか。


 なお、Aさんの変容について、もう少しくわしく知りたい方は、下記リンク先をごらんいただければと思います。

    初任者の成長(6)

rve83253 at 10:14│Comments(2)TrackBack(0)自己啓発 | 指導観

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この記事へのコメント

1. Posted by 社会人   2009年04月03日 01:32
初任者は
先生の様な方に教わる事ができ幸せですね

学級経営は、
大切だと思うのですが

多岐に渡る教科指導や
教材研究や授業準備

さらに学校事務や
分掌などなど

やる事が多過ぎて
新年度早々
疲れ果ててます・・・
2. Posted by toshi   2009年04月03日 20:47
社会人さん
 年度末、年度初めのこの時期は、ほんとうにいろいろな仕事が錯綜しますね。ご苦労様です。
 でも、新しい学級への夢も広がるという感じなら、いいですね。わたしも、新たな初任者、子どもたちとの出会いを待ちかねています。

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