2009年04月02日

ある高校におけるすばらしい授業研究4

d7df7f0c.JPG 先日、『“しょう”のブログ』のしょうさんが、拙ブログの、『教員にとっての研究研修とは、』に、コメントをくださった。リンク先のコメント9番である。

 そのコメントには、
《「子どもの学びを基軸にした研究授業」は遅まきながら高校でも始まっています。》
とあり、その授業研究について書かれた記事のURLを貼り付けてくださった。

    授業づくりと学校づくり

 
 拝読し、もう、『これは、すごい。このような授業が高校で行われているとは。』という思いでジーンとしてしまった。うれしさがこみ上げてきた。



 小学校において日々行っている、子ども主体の授業。子どものこだわり、問題意識を大切にした授業。
 それが、高校や中学校においても行われるようになることを、わたしは切望している。拙ブログにも何度か書かせていただいた。

 しかし、その一方で、受験システムが重くのしかかる日本においては、『子ども同士の話し合いによって価値を深めていくという学習形態はとりにくく、大変むずかしいだろう。』とも思っていた。 


 それだけに、高校における、子どもがいきいき学ぶ授業への取組(問題解決学習かどうかは分からない。くわしくは後述する。)には、『よくぞ。やってくれました。』という思いとともに、感動すら覚えてしまった。


 その感動の一つに、わたしたち小学校の授業研究でも、大事なこととしてよく言っている言葉がたくさん使われていたことがある。

 本記事では、そのあたりを中心にして、とり上げてみたい。


〇授業を中心にすえた「学校づくり」

 これはもう、言うまでもなく、きわめて大切なこと。

 子どもたちにとって、学校生活の大部分は授業なのであるから、その授業が分からなかったり、まったく興味がわかなかったりすれば、灰色の学校生活となってしまうだろう。


 そして、続く言葉に、『なるほど。』とばかり、うなづいてしまった。

 《(小規模校は存続に向け楽観できない状況にある)中で、ベテランも若手もみんな授業で困っていた。(…)教師同士がつながりあう(つながりあわねばならない)必然性があった。》
とある。

 そう。わたしも、よく拙ブログで、『必然性』という言葉を使うが、まさに、その『授業研究をしたい。』『しないわけにはいかない。』という必然性があったことになる。

 高校は義務教育でないだけに、大変なのだろう。小、中学校以上に、学校存続の危機が迫っているのかもしれない。でも、その危機感をてこにして、教員同士がつながり合えれば、すばらしいことだ。

 
 小学校と違い教科担任制なのだから、そのなかで全教員が授業を見合うというのは、もうそれだけですごいことだと思う。

 おそらく、その後に出てくるが、《子どもたちの)学びの事実》に焦点をあてているからこそ、できるのではないか。これが、教科等の学習内容に比重のかかった研究であれば、おそらく、全教員が見合っても、共通の土俵でないだけに、成果を上げることはむずかしくなってしまうだろう。

 
〇授業改善とともに生徒理解・生徒指導の充実を図る。

 これもすばらしい。双方ねらうことによって、子どもが主体的に学び、生活する姿を思い描くことができる。

 いくら授業改善と言ったって、教員の発問とか、資料とか、そういう話にとどまるのであれば、学ぶ主体である子どもは受身のままであり、それでは絵に描いたもちとなってしまう。そこは、やはり、生徒理解が欠かせないであろう。一人ひとりの子どもの学びの姿、生活の様子など、しっかり把握した上で、子どもの主体性を認めて支援している姿を想像する。

 実は、これは、小学校に勤務していたわたしも経験したことである。過去記事にあるのでリンクさせていただこう。

    学級経営の研究へ 問題解決学習の問題点(5)


〇生徒の個人名を出し合う研究協議

 上記項目に関連し、この研究に対し、わたしが一番共感できた点である。

 いくら、子ども主体の学習と言ったって、子どもを類型化したり、一般的子ども像が相手だったりしていたのでは、隔靴掻痒の感がある。それでは、目の前にいる、Aさん、Bさんの学びの向上には結びつかないであろう。

 ここはやはり、Aさん、Bさんの変容とか、課題とか、一人ひとりの子どもをストレートに観て、その子の学びの向上を図る必要がある。

 したがって、記事にある、
《「A君が『わからない』とつぶやいたが、どうしてそれを取り上げなかったか?」「A君への支援はどのようにしたらよかったか?」等。》
などが、研究討議の場で語られることが大切なのである。


〇一つ、問題点を指摘させていただきたい。

《公開授業をビデオ撮影し、それを見ながら、〜》というのには、いささか疑問を感じた。

 ビデオに写った子しか分からないからだ。写っていないCさん、Dさんのことで、大切な課題があるかもしれない。

 逆に、大写しにして、全員が画面に入るようにすれば、今度は、一人ひとりの表情までは分からなくなってしまう。

 ここはやはり、全員が教室でみた方がいいのではないか。一人ひとりがナマの子どもの姿をみて、『生徒の個人名を出し合う研究協議』をしないと、せっかくの研究の成果も限定的なものになってしまうおそれがある。

 まあ、自分の教室を空けることになるので、それが無理な事情があるのかもしれないけれどね。


〇「来るたびに生徒の表情態度・校内の雰囲気がよくなっている。」
「子どもたちが集中していたのが印象的だった。」
「以前の授業はこんなに真剣に考える授業ではなかった。(…)先生方の姿勢が伝わってきた。」

 学校評議員の言葉だそうだ。すごい評価をいただいたものだ。

 この研究が本物であるという印象を強くもった。


〇「最近周りを見る私の目(周りが私を見る目ではない)に変化が現れた。(…)一人ひとりが個性的な独自の表情を持っており、それを愛おしみ大切に思う感情が出てきたのである。(…)かつて、対人恐怖症で人の顔さえまともに見ることのできなかった私が、である。
 この変化はどこからきたのだろうか。思うにそれは、すべての生徒の学びを保障する(…)授業公開と授業検討会を通して同僚から学ぶ中で、他者を他者として認め尊重する姿勢と謙虚さが私の中に形づくられてきたからではないだろうか。」


 すごい言葉だと思った。

 研究は子どものよりよい成長を促すために行われる。

 それは確かだが、もしかしたら、研究に真摯に取り組む教員に、多くの幸せをもたらすのかもしれない。


 わたしもかつて、対人恐怖症にも似た経験をもったことがある。数ヶ月前、記事にもさせていただいた。

    ミスマッチと言うけれど、

 この記事でのわたしの述懐は、けっこうこの方の言葉と共通するものがあるように思った。

 やはり、研究に真摯に立ち向かうことは、教員を自己変革させる力をもっているのだね。前記事に書かせていただいた通りだ。

    自分の顔に責任を、


〇最後のこの項だけは、しょうさんのブログの引用ではない。拝読させていただいてのわたしの思いである。

 この、しょうさんのブログの、『授業づくりと学校づくり』からは、どのような授業なのか、その実践の具体的な姿をうかがい知ることはできない。そこまでは書かれていないのだ。

 しょうさんが、数回、記事にされているような、個別指導中心のフィンランドの教育に似ているのかもしれない。

 あるいは、わたしが標榜する、問題解決学習のようなものかもしれない。

 それは分からないが、しかし、るる書いてきたように、思いを共有することができた。


 高校には大学受験という、重い足かせがある。どうしたって、そこから逃げることはできない。しかし、そうした制約があるなかで、勇気をもって、『人間教育』にまい進する、その姿に敬意を表する。

 そして、受験にとっても、

 たとえ、まわり道でも、こうした努力を積み重ねる方が、

「来るたびに生徒の表情態度・校内の雰囲気がよくなっている。」
「子どもたちが集中して、(真剣に考えて)いたのが印象的だった。」

となるのであり、けっきょく、それが、受験にもよい結果をもたらすのではないか。

 そう、祈るような気持ちである。
 

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 中学、高校の学校生活を見るとき、

 『授業は分からなくてつまらないが、部活が生きがい。』というのは、よく聞く話です。しかし、本来の学校の使命からすれば、これはあきらかに邪道ですね。

 上記、しょうさんの記事には、『このすばらしい取組を県内全体に広めてほしい。』とありました。わたしはもう、日本全体に広めてほしいと思います。

 子どもの幸せのために。そして、自己改革した教員の幸せのためにも。


 しょうさん。すばらしい記事をご紹介いただき、ありがとうございました。

rve83253 at 15:56│Comments(4)TrackBack(0)指導観 | 授業

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この記事へのコメント

1. Posted by しょう   2009年04月02日 23:05
 拙ブログへのコメント「TB」、ありがとうございました。
 私のブログ記事は「実践報告」の部分を切り取り引用・紹介したものですが、この実践の特徴や意義をしっかりと敷衍していただきありがとうございました。ご自身が問題意識をもって長年取り組んでおられるからこそ、部分的な引用や「鍵となる言葉」から実践の全体像や意義が容易に把握・想像できるのでしょうね。
 
 実践報告のあったこの高校は、佐藤学氏の提唱する「学びの共同体」に刺激を受け、複数の職員が小学校・中学校も含む「先進校訪問」を繰り返しつつ取り組みを具体化していきました。同じような形で取り組みを広げていくことは充分可能であり、それは学校を変え教育を変えていくことだと考えています。

 〈小規模校は存続に向け楽観できない状況にある〉といった現実から出発し、研究活動を繰り返しながら「本物の学び」を保障していくことがまず大切です。

「授業での学び」に加えて「特別活動を含む様々な活動を通した学び」とことん追求した学校づくりについてもブログ記事(カテゴリー 「学校の力を高める」http://plaza.rakuten.co.jp/shchan3/diary/?PageId=1&ctgy=14)で特集しています。
http://plaza.rakuten.co.jp/shchan3/diary/200802140000/
などです。時間があるときにご一読いただければ幸いです。
2. Posted by ドリカムキャンプ実行委員会   2009年04月03日 08:56
おはようございます!初めて訪問します。
一般人でなかなかふれることがないお話でした、でも、本当は親であれば、ちゃんと考えるべきことですよね。ありがとうございます!
私も、人気ブログランキングに登録しましたよろしくお願いいたします!
ランキングに登録されているみなさんから学んで、楽しくサイトを運営したいと思っています(*^_^*)よろしくお願いたします!!
御挨拶にワンクリックさせていただきます♪
3. Posted by toshi   2009年04月03日 20:41
しょうさん
 いやあ。ほんとうにすばらしい実践ですね。やはり、変わるべき必然性があったのですし、その機に『ほんとうに、変わらないといけない。』という、教員や生徒の意識が本物だったからこそ、なしえたのでしょうね。
 『学校の取組が、学校を突き抜けて、地域を変える力に、』というあたり、
 それから、進学校の卒業生から手紙が届いたという、その一つ一つに感動してしまいました。
 そこまではいかないけれど、学校が地域を変える力になるという実践は、我が勤務校でもかつてありました。
 次回、その実践について書かせていただきたいと思います。よろしくお願いします。
4. Posted by toshi   2009年04月03日 20:55
ドリカムキャンプ実行委員会さん
 はじめまして。コメント、ありがとうございます。子どもが子どもらしくいきいきと取り組めるような授業の実現を願っています。
 今後ともよろしくお願いします。

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