2009年05月09日

小1プロブレムの心配は?(5)4

44282255.JPG 本記事は、『小1プロブレムの心配は?(1)』からのシリーズとなっています。

 そして、『小1プロブレムの心配は?(4)』の続きです。



 今回のシリーズの(1)で、わたしは、

 『小1プロブレム』が、今後ますます拡大していく懸念はないか。

・それを、一つは、今回の指導要領改訂に関係して、
・もう一つは、社会的な背景の変化を追いながら、
みつめてみたいと思う。

と申し上げた。



 そして、ここまで、おもに、子どもを取り巻く環境のなかで、社会的な背景の変化を追ってきた。

 本日は、その最終回のつもりだが、結論は、残念ながら、

 『その懸念あり。』

 しかし、『懸念あり』のままでは申し訳ないので、最後は、『どう克服していったらいいか。』という点も述べてみたいと思う。



〇社会は、日進月歩、進化を遂げている。これは止めようがないし、止める必要もない。わたしが、『進化』と表現したのも、本質的に、社会の変容は、人々の幸せ実現へ向けての歩みととらえるからである。

〇しかし、子どもは、元来、いつの世も変わらない。『おぎゃあ。』と生まれたばかりの赤ちゃんは、縄文、弥生のむかしも、今も、何も変わるところはないのだ。変わってしまうのは、あるいは、変わったようにみえるのは、社会が変わったからである。

〇そういう意味では、子どもは確かに変わった。わたしの教員生活35年のなかでも、ずいぶん変わったと言える。この場合、直接的には、子どもの身のまわりにいて、子どもにかかわっている大人が変わったからであろう。それは、『小1プロブレムの原因』(前記事の後半、『それでは、どうぞ。小1プロブレムに至る原因〜。』からに書いています。)にくわしい。

〇だから、子どもに、『小1プロブレム』といわれるような、かわいそうな現実があるのなら、その解消に向け、子どもが幸せになるように、まずは、子どもの身のまわりにいて、子どもにかかわっている大人が、努力すべきだ。

〇幸せ実現の営みは、大人だけに許されるものではないはずで、子どもも同等にその権利があるはずだ。大人も子どもも同様に、自己実現を目指すことが許されなければならない。

〇もっと言わせてもらえれば、子どもも、子どもとしての幸せ実現が許されてこそ、その子どもはやがて大人になるのであるから、そのときは、大人としての、より確かな幸せ実現をめざしていけるはずなのである。


〇さて、そうしたなかで、『小1プロブレム』といわれる現実があるわけだが、先に紹介させていただいた、その原因をみると、学校の問題点を指摘されたのは、一点しかない。

 その方は、ズバリ、学校の問題と指摘された。今、それにリンクを張らせていただこう。

    ACTION 日本を動かすプロジェクト 子どものための教師再生を

 このリンク記事を下方へスクロールしていただき、『9月7日(日)「真相報道バンキシャ!」にて放送(第13回)』のコメント欄をクリックしてください。そこの、『小学一年生の親ですさん』が、それにあたります。

 だが、学校の問題とした意見は例外的で、上記『小学一年生の親ですさん』のコメントに対しても、反論が複数寄せられている。

 多くの方は、『主要因は、幼児期からの子育てのあり方(幼稚園、保育園の教育方針も含める。)にある。』とおっしゃる。


〇これらを受けて、わたしは、思う。

 確かに、学校の取組が、『小1プロブレム』の主要因ということはないであろう。それは、多くの方のご意見と同じだ。 
 
 しかし、学校の問題が一切ないというわけにはいかない。

 もし、学校に、新1年生への配慮が欠けていた場合、それを助長してしまうことはあるであろう。
 

 これまで書いてきたことの、おさらいになってしまうが、

 10年前の、4校時授業、及び、給食導入の問題。

 このこと自体は、社会的な要請により、学校が受け入れたものであった。

 しかし、その要請の趣旨を忘れ、

 入学当初から、4時間めいっぱい、子どもを本格的な授業として拘束(?)してしまっていなかったか。

 もしそのようにしていたのなら、幼稚園との接続の悪さ(?)に敏感な子どもたちにとっては、ストレスのたまる時間が長くなったということになる。


 そして、今回、はるえもんさんご指摘のように、4月当初から午後の授業もおこなわれるようになった。

 おそらく、これは、今年度、4月。全国的に実施の運びとなったのであろう。我が地域とて例外ではない。

 ストレスのたまる時間がさらに延長されたことになる。

 ほんとうに子どもたちは大丈夫だったのだろうか。

 もう、今年度の4月は終わってしまった。ゴールデンウィーク明けの今、この心配が杞憂ならいいのだが。



 
 さて、それでは、ここで、わたしが1年生担任として経験した、『小1プロブレム』の事例を書かせていただこう。


 まだ、『小1プロブレム』などという言葉がなかったころの話だ。つまり、徐々に学校に慣れてもらうために、最初は2校時までの授業、次の週は3校時までとやっていたころの話だ。


 それでも、当時から、こういうことは起きていた。

 それなら、これから述べる事例が、もし、今起きたとしたら・・・。給食はもちろん、午後の授業もたっぷりあるという、そんな今、起きたとしたら・・・。

 いや。広い日本のどこかでは、今年も、起きたに違いないという思いもある。

 そんなことを思いながら、書いてみよう。(なお、前号で2例述べる旨書かせていただきましたが、すみません。1例とさせてください。お詫びします。)




 それでは、どうぞ。


 
 Aちゃんは、入学当初、おとなしく、めだつこともなく、そういう意味では特に気になる子ではなかった。ただ、おそろしいくらい無表情だったなあという思いはあった。

 そのAちゃんが、3週間くらいたったころから、だんだん不安定な状態になっていった。

 友達に危害を加えることはなかったが、授業中、突然、動物的なわめき声を出したり、意味もなく教室内を立ち歩いたり、自分の持ち物をこわしたりするようになった。


 わたしは、最初、どういうことだか訳が分からず・・・、

 ただAちゃんの心が変調をきたしていることは感じたから、落ち着けばほめたり、こわせば、そっと代わりのものを貸してやったりして様子をみる感じだった。

 しかし、だんだん、そうした行動が際立つようになる。立ち歩きといっても、初めは教室の中だけだったものが、教室をとび出すようになり、

 そうなると、わたしも追いかけないわけにはいかず、連れ戻したり、担任外の教員に相手してくれることをたのんだりするようにした。


 そして、ある日、突然、何の前ぶれもなく、学校をとび出し、家に帰ってしまったことがあった。


 (すみません。ここでは、細かな対応等は、省略させてください。)



 保護者の話によれば、以下のようになる。


「B幼稚園は遠方なため、この小学校に入学したのは、うちの子だけです。ですから、初めは家が近くの子しか知っているお友達がいなくて、それで、おとなしかったのだろうと思います。

 B幼稚園は、きびしく訓練的で、子どもを枠にはめようとする傾向が強く、それは、親のわたしからみても、『そこまでやらなくても、〜』と思うほどでした。鼓笛隊の練習など、うまく吹けない子は泣いていました。『もう幼稚園なんか行きたくない。』泣きながら親に訴えていた子もいたようです。でも、うちの子は、そういうこともなく、なんとか、卒園することができました。

 しかし、小学校に入学し、toshi先生に受け持たれるようになると、toshi先生はやさしいし、子どもをしかりませんし、『何をしなさい。』『これをしてはいけません。』などと、ほとんどおっしゃらないですから、うちのAにとっては、それまでとまったく違ってしまったのですね。それで、そういう自由ななかでは、どうしていいかまったく分からなくなってしまったのです。

 
 でも、わたしは、toshi先生が担任でよかったと思っています。

 大丈夫ですよね。うちの子だって、だんだん自分のやりたいこと、自分の言いたいこと、それを出せるようになりますよね。」


 またまた、すみません。細かな経過は省略させていただいて、ただ、保護者の方がおっしゃったように、Aちゃんのそれは一過性で、数ヶ月で完全にふつうのペースを取り戻すことができた。大丈夫だったのである。



 このクラスの子たちは、よく同窓会を開いている。そして、6年生のときの担任とともに、わたしにも声をかけてくれるので、参加させていただいているが、Aさんがいると必ずわたしのところにやってきて、お酌しながら、声をかけてくれる。


 あのことは、よく覚えているようだ。

「いやあ。ぼくが1年生のとき、担任がtoshi先生でなかったら、自分はどうなっていただろうって、よく思いますよ。toshi先生が担任でほんとうによかったです。

 あのころ、自分は、どうかしていたのです。なぜ、あんなふうになってしまったのか、よく分からないのです。ただただ、自分で自分をおさえられなくなってしまって、あばれるしかなくなってしまったのですよねえ。

 toshi先生が、辛抱強く温かく見守ってくださったおかげで、今の自分があるのだと思います。

 toshi先生が、『いいよ。いいよ。』って見守ってくれたからこそ、自分は、自分を取り戻すことができたのだと思います。

 ほんとうにありがとうございました。」


  
 以上だが、読者の皆さんは、どうお感じになっただろうか。

 繰り返すが、当時は、段階的に、週ごとに、2校時、3校時と授業をふやしていった。それが今のように、いきなり、5校時まで授業があったとしたら。

 これはもう、子どもも、教員も、ともにつらいことだろう。

 
 このように顕著に現れるのは、見方によってはまだいいのかもしれない。問題は、ちゃんとやっているようにみえて、実は内面にストレスを抱えている子の存在だよね。これは見えないもの。

 しかし、顕著に現れる子一人の背後には、こういう目に見えない子が何人もいることだろう。



 この事例は、ある意味、幼稚園と小学校との接続の悪さを示すものであろう。

 しかし、これは、現状では、やむをえない面がある。今だって、どこの地域でも起こりうることだろう。


 この学校の場合、学区に幼稚園は一つもなかった。だから、子どもたちの出身幼稚園・保育園は実に多岐にわたっていた。そのすべての情報を得ることなど、不可能に近いと思われた。

 幼稚園の指導は、ほんとうに千差万別である。幼稚園ごとに違うといってもいい。また、近年は、保護者の要望を受け入れざるを得ない状況も強まっているので、そういう面からも変貌を遂げているだろう。



 この接続の悪さは、むかしからあった。いや。後述するが、今以上に悪かっただろう。それでも、社会の変貌以前は、豊かな大人のかかわりがあったから、子どもも落ち着いていることができた。

 今は、一触即発。子どもの内面は、いつ爆発して言動に表れるか、分かったものではない。その傾向が強まっている。

 子どもの身のまわりにいて、子どもにかかわっている大人は、そういう危機感をもつべきである。

 
 再度言わせていただこう。

 大人が自己実現を図ることはいいことだ。

 魅力的な大人がふえることもいいことだ。

 それが、子どもに対し、『人としての生き方』を学ばせる力をもつことになる。それは、無言の教育力ともいえるものだ。


 しかし、それは、同時に、子どもをひ弱な存在にしてしまっていることにもつながる。

 大人は、自分の自己実現を図る分だけ、子どもの自己実現に対しても、意を注がないといけない。 


 さあ。それでは、最後に、よりよい未来のために、いくつかの提言をさせていただこう。


 社会は変貌した。もう、むかしに戻ることはできない。

 そうしたなかでは、かつて無意識にやっていたことも、今は、意識して努力しないといけないのだ。

 かつて、『健康のために運動しましょう。』などと呼びかける必要はなかった。仕事のなかで、生活のなかで、そんな呼びかけなどしなくても、みんな無意識に運動に励んで(?)いた。でも、今は・・・、

〇そう。今は、子育ても努力を必要とする。親子の会話も努力を必要とする。

 努力と言ったって、そんな、大仰なことを言っているのではない。さりげない、何気ない、会話することを楽しむような、そんな会話があればいい。


 時間がない。そうかもしれないね。

 でも、それも、無理する必要はない。たとえ少ない時間であっても、ともにいる時間を大切にすればいい。

 用事もないのに、子どもの方から、『ねえ。ねえ。お父さん。〜。』『お母さん。聞いて。今日ね。〜。』そんな親子関係なら、まず、大丈夫だろう。

 聞き上手になることだ。

 よく、『うちの子は、口数の少ない子で。〜』という話を聞くが、わたしの思いでは、小さいときから、自然な会話を楽しむ雰囲気があれば、そんなふうにはならないという思いがある。

 が、しかし、これは、あてにならない。話半分に聞いてほしい。


〇幼稚園、保育園、小学校の連携にも、努力が必要である。

 幼稚園、保育園は、学校との連携を深める努力をしてほしい。

 我が地域では、『幼・保・小』と言って、ともに情報交換し、連携を深めるための取組がある。それに協力してくれる園も多いが、まったく非協力的な園もあるのだ。

 でも、これも、やはり、今の時代は、努力してくれないとね。子どものためだ。


 我が地域では、教員が互いに授業を見合う取組もある。年3回ほどある。

 そういう機会を通して、相互理解を深める努力をしている。

 ただし、今後の課題だが、

 気になる子については、互いに情報を提供し合おうではないか。レッテルを貼るのではなく、『こういう取組をしたら、うまくいった。』とか、『指導上の反省点は、〜の通りなので、小学校においても、努力してほしい。』など、そういう情報提供だ。

 なお、これについては、保護者からの情報も、大事である。わたしの体験を具体例として述べさせていただいたが、その際の保護者から得た情報が、その後のわたしのAちゃんへの対応、指導に当たって、貴重なヒントとなったことは間違いない。

 今の時代は、こういうことも努力して行うことによって、スムースな接続に努めないといけない。


〇学校も、知りえた情報を大事にしないといけない。

 かつて、このことについて記事にさせていただいたことがあるので、リンクさせていただこう。

    先入観だなんて

 この記事にも書かせていただいたが、情報を無視するのも、情報に振り回されるのもよくない。

 要は、多面的、客観的な見方ができるようになることが大切だ。


 それともう一つ。

 これが、本シリーズの眼目だったが、

 今年度はもう終わってしまったので、来年度のことだが、新1年生の午後の授業は、5月のゴールデンウィーク明けからとしようではないか。

 そして、一人ひとりの子どもが、どう学校生活になじもうとしているか、あるいは、なじめないでいるか、そういう点をしっかりみとろうではないか。


 本来なら、これまでやってきた、4月からの午前授業、給食開始だって、たぶんに無理があったのだ。しっかり子どもをみとる必要があったのだ。

 それを忘れてはならない。


 再度繰り返そう。

 子ども本来の生活からみれば、今のシステムはたぶんに無理がある。

 だから、その無理な部分を可能な限りなくすべく、子どもの身のまわりにいて、子どもにかかわっている大人が、配慮する必要がある。

 目に見える部分については、まだいい。対応のしようあろうというものだ。

 しかし、問題となる事例の大多数は、内面にストレスを抱えたまま、我慢したりがんばったりしている。そのことにも、留意しよう。


 それには、子どもの表情、しぐさにまで、神経を行き届かせるともに、知りえた情報も大切にすることが必要だ。


 にほんブログ村 教育ブログへ
 ninki



 以上をもって、本シリーズは、一応の終了とします。ご愛読賜りありがとうございました。

 冒頭、『子どもの幸せのため、』『子どもの自己実現も、大人同様大切に、』と書かせていただきましたが、これに関連する記事で、PTAに対しての要望も書かせていただいたことがあります。

 それにリンクさせていただきましょう。

    PTAと学校(11) PTAの未来像は、

 『子どもの自己実現〜』にかかわる内容は最後の方なのですが、最初から読んでいただけるなら幸いです。


 また、本シリーズでは、1年生入学時の指導について、その具体的実践は割愛させていただきましたが、これまでいくつか記事にはさせていただいております。

 本具体的事例と結びつくものではありませんが、よろしかったらごらんください。


    鉄は熱いうちに打て (1)

 このシリーズは、6回続きますが、そのなかの多くが、小学校入学直後の実践となっています。

rve83253 at 10:34│Comments(5)TrackBack(0)学級経営 | 教育風土

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by きゃる   2009年05月09日 12:42
今年は1年生の担任になりました。
私が担任に決まる前から、
厳密に言うと、前年度の3月から
特別支援委員会で割り振った担当者が
入学予定児が在園する複数の幼稚園・保育園に足を運び
子どもの様子を観察したり
教員・保育士から情報を得たりしてきました。
学年末休業中には
入学予定児の保護者との面談、
入学式前日には入学式のリハーサル
(代表あいさつの子ども等、特別な子どもだけでなく
 不安があればどなたでもどうぞ、と呼びかけて)
を行って、不安を取り除く支援を重ねてきました。
全職員の協力のおかげで
発達障害等、発達課題に対応した幼保・小の連接ができ
私も担任としてとてもやり易かったです。
2. Posted by toshi   2009年05月09日 15:59
きゃるさん
 すごい。もう、感嘆の声を上げてしまいました。
 いずれも、わたしが考えもつかないことでした。これだけのことをなされば、『小1プロブレム』への対策としては、申し分ないでしょう。いい勉強をさせていただきました。
 これだけの対応をされるということは、保護者も学校への信頼感を増すでしょうし、それが子どもの安心にもつながり、めぐりめぐって、学級経営にもよりよい効果をもたらすことと思います。
 日本中がこうした取組をするようになるといいですね。
3. Posted by フルタ(1/2)   2009年05月11日 08:05
私には、シリーズ(2)のコメントのしれとこままさん、シリーズ(4)のコメントのhimebun05さん、そして上のきゃるさんの小学校が羨ましくてなりません。

子どもが低学年のころ、打ち合わせをするために、予定時間より少し早く学校に行ったところ給食時間中でした。自分の子の様子も知りたくて、こっそり教室を覗いていたのですが、時間内にたくさん食べさせるために、先生ご自身があちこち見回りながらの立ち食いで大変だなぁと思ったのを思い出しました。

当時、運動能力向上プロジェクトがあり、同時に、5分前行動が方針となっていたので、給食後の休み時間が始まる5分前には、とにかく子ども達を運動場へと出さなければならない雰囲気が学校中にありました。

都市部のこの地域も、少し前までは、「一年生なんてこんなものよ(時間のかかるものよ)」って、先生方も保護者も思い、鷹揚に構えていました。上の子は、この環境で小学校を過ごしましたが、時間厳守という観点からではなく、バスや電車が遅れるものなので・・・と時間に余裕を持って出かける子に育っています。
4. Posted by フルタ(2/2)   2009年05月11日 08:07
きゃるさんの小学校の取り組みについては、私も、すごいなぁと思いました。ここまでしてくださると、親は信頼し、安心して、子どもを通学させることができます。支援が特に必要な子ども達に特別な配慮することで、他の子ども達も落ち着き、仲良くなれるような気がします。

他の施設との連携は、気もお遣いになるでしょうし、手間も時間もかかり遠回りのようであっても、結局は子ども達にとっても先生方にとっても得るものの方が大きいように思います。

また、toshi先生が書かれているAちゃんへの対応にもグッときました。
>こわせば、そっと代わりのものを貸してやったりして様子をみる感じだった。
そして、Aさん、おとなになっても、当時のことを覚えていらしたのですね。toshi先生が、厳しくすれば解決するという考えをお持ちでなくて、本当に良かったです。

>気になる子については、互いに情報を提供し合おうではないか。レッテルを貼るのではなく、『こういう取組をしたら、うまくいった。』とか、『指導上の反省点は、〜の通りなので、小学校においても、努力してほしい。』など、そういう情報提供だ。
レッテルを貼って問題が解決しないまま終わりという状況も知っているので、本当にこうなれば、その子にとっても、周りの子ども達にとってもいいだろうなぁと思わずにはいられません。
5. Posted by toshi   2009年05月11日 16:51
フルタさん
 学校教育が、地域によっていろいろあることはよく承知しているつもりなのですが、今回の給食とか、4時間授業とかでも、大きな違いがあることをあらためて知りました。
 その地域、地域の事情はあるにしても、いいことはお互いに学び合いたいものだと、退職した後に痛感してももう遅いのですが、心からそう思います。

《支援が特に必要な子ども達に特別な配慮することで、他の子ども達も落ち着き、仲良くなれるような気がします。》
 そうなのですね。『〇さんには、特別な配慮があるから、ずるいとか、えこひいきだ。』とかいうのではなくて、
 一人ひとりの違いを教員が尊重することによって、どの子も認められる雰囲気が学級にあれば、特別な配慮があったとき、子ども同士でも配慮し合う心情が養われることになります。

《Aさん、おとなになっても、当時のことを覚えていらしたのですね。》
 そっと貸してやるものまで壊すことはなかったですね。『そこに信頼関係の構築』があったと思ったものでした。
 きびしさをまったく否定するわけではないのですが、この場合、子どもがストレスを抱えていることや、やむにやまれぬ心情からの行動であることは明らかでしたので、寄り添うかたちになりました。

レッテルについて
 同じことをしても、レッテルはりと一人ひとりの児童理解とでは、えらい違いがありますね。

コメントする

名前
URL
 
  絵文字