2009年05月19日

子どもの無限の可能性を信じよう。5

89759ae9.JPG 標題の言葉。

よく言われる言葉だよね。しかし、言葉としてはなじんでいても、内心、これを信じていない方は、多いのではないか。

 『教え込もう、教え込もう。』とされる方は、この言葉とは無縁なところにいると言っていいだろう。

 
 でも、そう言うと、そういう方々は反論するかな。

 教え込んでこそ、知識は豊かになり、あるいは、行動がしっかりしてくる。そうなってこそ、無限の可能性が花開くのだと。


 しかし、その論理が破綻しているのは、

 教え込まれて、受身の姿勢を養われて、ある一定の年代になってから、『さあ、これからは自ら主体的に考えて行動するのですよ。』と言われたって、人間、そうそう、器用に生きられるものではない。

 小学生時代からの、きちんと、子どもの思いを大切にし、子どもの思いを学習の中心においた実践は、『子どもの無限の可能性を信じる』からこそ可能になるのだし、事実、そうした姿を子どもが見せるようになる。

 そして、肝心な、知識・技能の習得だって、教え込まれなくても、子ども自身の自ら伸びようとする力によって、自ら獲得していくようになるのである。

 さらに言えること。こうして獲得した知識・技能こそが、生きてはたらく知識・技能として、価値を発揮するのだ。


 『一時間の授業で、そんなに、子どもなんて変わるものではない。』

 よく聞く言葉である。しかし、逆も真なり。

 無限の力を信じる限り、一時間の授業の中で、無限の可能性を秘めた子どもの言動はよくみられるのである。そして、そこから、子どもの内面に対する大きな感動が呼び起こされる。


 また、教え込みでは、指導者の意図するところ以上に伸びることは基本的にありえないのに対し、子ども主体の学びは、指導者の予測もつかないところまで、いくらも伸びうるのだ。

 そして、今度は、そこから、指導者が学ばされることになる。



 さあ、それでは、

 そのような思いで、今日は、初任者向けにわたしが行った授業を紹介させていただこう。


 とは申しても、誤解してほしくないので、先にふれておくが、

 一つ。

 わたしが一つの授業を紹介すると、読者の皆さんの中には、『それは、一部エリートのような子どもの姿を書いているのだろう。』『ふつうの子がそのようなことを言うわけがない。』と、思われる方がいらっしゃるようなのである。

 そこで、あえてふれさせていただくが、

・これらはごくふつうの公立小学校の授業であり、
・したがって、子どももきわめてふつうの子どもであり、
別にエリートでもなんでもないのである。

 第一、ふつうの公立小学校で、エリート集団のような学級はありえないこと、自明ではなかろうか。

 これをご理解いただかないと、『子どもの無限の可能性』の主張も、むなしくなってしまう。


 もう一つ。

 toshiが主張する授業は、誰でもできる授業ではない。

 まわりくどい言い方ではあったが、そういうコメントをいただいたこともある。

 わたしが行う授業であるから、『発問が的確か。』『分かりやすい授業になっているか。』『流れがスムースで一貫性があるか。』などについては、わたしの実践力が問われると言っていいだろう。

 しかし、発言しようとする意欲、友達の発言をしっかり聞こうとする態度、聞き合いながら、学びの価値を深め合っていく姿。そういったものは、日ごろの学級経営がそのまま現れること、至極当然であり、それは、初任者である学級担任が育んでいるものである。

 荒れた学級だったら、いかにわたしががんばったところで、そうそう成果を上げることはできない。これも至極当然であろう。


 再度申し上げよう。

 初任者が経営する学級での授業である。


 それでは、以上、お断りした上で、授業の紹介に移らせていただこう。

 なお、〇印は、わたしの考察である。



 3年生の道徳。『人の心をあたたかくする気持ちのよい言葉』について考える。資料名は、『言葉のまほう』である。


 初めにこう投げかけた。

「ちょっと質問します。おうちの方や友達や先生方から言われて、うれしかった言葉がありますか。」

 それに対して、子どもから出た言葉は、

A「お母さんから、『リコーダーが上手だね。』ってほめられた。」
B「熱がでて保健室で休んでいたとき、『大丈夫。』って友達が心配してくれた。」
C「テストが百点だったとき、お母さんが、『よかったね。』って言ってくれた。」
D「先生が、『字がきれいだね。』ってほめてくれた。」
E「妹に、〜をしてやったとき、『ありがとう。』って言ってくれた。」

 まだ、挙手している子はいた。

 が、

「それではね。まだ言いたい子がいるようだけれど、一つのお話を配ります。そのお話を読んでから、また話し合おうと思いますので、そのとき、今言おうと思っていることも言っていいですよ。
 
 (そして、プリントを配布しながら、)このお話には、『言葉のまほう』っていう題がついています。どうも、言葉には魔法があるみたいなんです。」


 そうして、わたしが全文読む。

 
 「それでは、『言葉には魔法があるらしい。』ということについて考えたことを発表してください。」

 すると、日ごろ、よく発言しているEさん一人が挙手。

「分かりました。では、30秒間、考える時間をとりましょう。Eさん、いったん手を下ろしてください。」

 そして、再度発言を促したが、やはり、Eさん一人だった。そこで、指名する。しかし、Eさんの発言に促されたのであろう。その後は次々に挙手があり、発言が続いた。

E「魔法っていうのはね。お話の最後の方に、『はっとしたぼくは、』って書いてあるでしょう。はっとしたっていうのはね。気持ちが変わったっていうことだと思うから、もう、けんかにはならない。だから、魔法なんじゃないの。」

F「『ぼく(お話の主人公)』はやさしいと思う。けんかにならないだけではなくて、なぐさめている。ほんとうの『ぼく』は、いい心だと思う。

G「賛成。ほんとうは心やさしい子だと思う。『いいんだ。〜。ありがとう。』って言っているから、自分でもすっきりしたと思う。」

H「ぶつかった相手に、『ごめんね。』って先に言われちゃったからね。相手につられて、いい心になったのだと思う。

J「ぼくも賛成で、最初に、『ごめんね。大丈夫。』って相手に言われちゃったでしょう。それで、前の日は、自分の方から、『よく見ろよ。このあわてんぼ。』なんてぶつかった相手に言っちゃって人のせいにしたから、それで、スーパーでは先に謝られたから、はっとしたのだと思う。はっとしたからいい心になった。」



〇どうだろうか。最初は一人だけの挙手だったが、友達の発言を聞いているうちに、それが刺激となり、次々と挙手がふえていった。だから、どの発言も、前の子の発言にかかわってなされていることに気づかれると思う。

 そして、初めは、『やさしい言葉をかけられて、ぼく(主人公)は変わった。』というとらえだったが、それに、『やさしい言葉をかけられて、本来のぼくの姿であるやさしさが示されるようになった。』という思いが加わっている。
 
 また、Hさんの『つられる。』は、おもしろい。大人のわたしは、『ひびき合う。』という言葉でこのことを考えていた。しかし、ここは、子どもの言葉でくくった方がいいと判断した。子どもの言葉の方が子ども同士では共感できるのだ。 



 この後、Kさんの発言が、多くの子の共感を呼び、価値の葛藤が起きる。

K「いい心になったっていうのに、反対っていうわけではないのだけれどね。でも、『ぼく(主人公)』は、初めっからいい心だと思う。

 だって、前の日は、ファミコン屋さんで男の子とぶつかったのでしょう。ぼくもファミコンを買いにいったことがあるけれど、並んですごく待つしね。それに、ソフトを買うのに夢中になっちゃうからね。『よく見ろよ。このあわてんぼ。』って言っちゃうくらいは、仕方ないと思う。」

〇このKさんの言葉がきっかけとなり、自分の経験を話す子がふえた。ファミコンソフトを買いにいった経験のある子は、半数を超えていた。

 それで、『ぼく』への同情論が展開されることになる。ほんとうは、いい心の持ち主なのだが、それでも、『混雑している人気店では、買うのにあせってしまうから、きたない言葉の応酬になってしまっても仕方ない。』という意見が大勢となっていく。

 子どもたちの、『ぼく』に対するやさしさを感じた。

 まほうという言葉の概念も、『けんかする心がやさしい心に変わった。』から、『本来の自分の姿が引き出された。』という意味に変わった。

 自分の経験からの発言は、説得力があり、多くの子の共感を得ることができたようだ。


 ところで、どうだろう。もし、教え込みの授業なら、このような発言を促すことはできるだろうか。だいたい、指導者に、『ぼく(主人公)が乱暴な口をきいてしまったのも仕方ない。』などという思いがあるだろうか。

 指導者の教材分析に、それはおそらくないはずだ。そうすると、そのような発問もしないから、子どものそうした思いを引き出すことはまずできないと思われる。


 さらに、特筆すべきは、この直後のLさんの意見である。Lさんはわたしが授業を見ている限りでは、これまで、まず発言したことがなかった子だ。おとなしいタイプの子。

L「ぼくは、ファミコン屋さんでぶつかったって、『よく見ろよ。このあわてんぼ。』なんて言わないと思うけれど、でも、このお話の、『ぼく』の気持ちは分かる。早く買ったら、早く家へ帰ってゲームをやりたいもの。だから、つい言っちゃったのだと思う。」

〇わたしはこの言葉を絶賛した。だって、自分は乱暴な口はきかないと言っているのだから、『ぼく』を批判的にみていいはずなのに、その心情に共感しているのだもの。


 その後、わたしは、冒頭のA〜Eさんたちの板書と、あとのお話についての板書を指しながら、

「すごいよ。さっきのA〜Eさんの発言は、まだ、お話を読む前に言ってくれたものだったよね。それなのに、このお話に出てくる言葉と同じものがいくつかあるよね。同じ言葉がある。おもしろいね。」

 子どもたちは、ニヤッと笑った。たぶん、『ぼくたち、わたしたちもまほうが使えるのかも・・・、』といった思いではなかったか。

 そう。『大丈夫?』と、『ありがとう。』が共通していた。


 わたしは、日ごろの子どもたちの経験と、このお話の世界との、『まほう』についての関係づけをねらった。そして、うまく関係づいたようだ。


 そこで、『言葉のまほう』について、授業の最終段階での思いを言ってもらった。

・気持ちのいい言葉
・やさしい言葉
・許し合える言葉
・なぐさめる言葉
・感謝する言葉
・人のことを心配する言葉
・すっきりする言葉

・そういう言葉が使える子は、心がやさしかったり許すことができたりする子だ。
・そして、そういう言葉を使うと、気持ちよくなるし、心がすっきりする。
・でも、『言葉のまほう』によって、反省したり後悔したりすることができれば、それもいい心だ。



 そして、お待たせしました。

 最後、いよいよ、『子どもの無限の可能性』を感じさせる発言があった。

 もう、指導者の予測の範囲をはるかに超えてしまっている。まさに、感動ものの発言だ。


 それは、Mさん。

〇まず、この子は、これまでも、本授業でも、発言したことはなかった。その子が挙手をした。しかも、『言葉のまほうで思うこと』といった、そんな簡単に言える内容ではないのに。

 担任も、教室の後ろで、何を言うかとドキドキしたことだろう。


〇さらに、これまで、わたしは、教室の後ろで見ていて、このMさんの行動に問題を感じたことがあった。

・ちょっとだけれど、
・そして、内気な子で、すぐ我慢してしまうことの多い子だけれど、
・さらには、口に出して言うわけではないけれど、

 すぐふてくされた態度をとってしまうのだ。


 そんなMさんが発言した。


 それでは、どうぞ。

M「『ぼく』(主人公)は、自分があわてんぼだっていうことを分かっているのにね。だから、自分にあわてんぼって言えばよかったのに、ぶつかった男の子に、あわてんぼって言っちゃったからね。それで、びっくりしちゃって、むしゃくしゃした気持ちになっていたと思う。

 それで、あわてんぼって、人に言っちゃったことをすごく後悔していたからね。だから、次の日は、『いいんだ。拾ってくれてありがとう。』ってやさしく言うことができた。」

 
 Mさんはすごい発言のできる子だ。あらためて、それを知った。

 わたしは、発言を聞きながら、自分の体に、『電気が走る。』のを感じた。感動して、もう、しばらくのあいだ、言葉が出なかった。

 『言った方があわてんぼ』なんて、そんな発言が出てくるなんて、誰が予測するだろう。


 おそらく、Mさんは、自分の経験を、このお話の主人公の『ぼく』に重ね合わせていたのではないか。それも、行動ではなく、心で感じたことの経験だよね。


 最後、そうした、わたしの『感動』を語って、この授業を終えた。
 

 子どもを信頼し、子どものもっているものを引き出そうと努力すれば、子どもといえども、すごい力を発揮するものだ。

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 本時、半分以上の子が発言しました。

 しかし、『真剣に学び、自分で自分の内面を見つめ、自分の内面をきたえた子は全員』と言っていいでしょう。友達の発言をしっかり聞いていたからです。そして、共感し合ったり、深めたりしました。

 繰り返します。

 『自分で自分の内面を見つめ、自分の内面をきたえた』経験。

 授業で、それを繰り返すことによって、主体的に物事を考え、判断する心が養われます。それが自分自身の生き方に反映されていきます。

 教え込みでも、断片的に知識を身につけることはできるでしょう。しかし、心がきたえられる経験は乏しいために、その知識がどう使われるかは、分かったものではありません。

 そのあたりのことはかつて記事にしたことがあります。よろしかったら、どうぞ。

    知徳不可分

 
 なお、この授業については、近日中に、姉妹ブログである『小学校初任者のブログ』でも、初任者指導の観点から、とり上げてみようと思っています。

 入稿したら、リンクさせていただきますので、そちらの方もよろしくお願いします。


 そうだ。

 最後に、5月の段階で、これだけの学級をつくっている初任者の担任に、エールを贈りたいと思います。すばらしいですね。

rve83253 at 01:24│Comments(7)TrackBack(0)子ども | 教育観

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この記事へのコメント

1. Posted by りえパンダ   2009年05月19日 22:42
5 素敵なお話をありがとうございます。
私は今年から特別支援学級を担任しております。
繰り返し教え込みの指導をしてしまっています。
発達障がいの子供たちにも、無限の可能性があると思うのですが、なかなか手立てが見つかりません。
どのようにしたらよいのか、よかったらご指導ください。
私事ですいません。
2. Posted by toshi   2009年05月20日 06:22
りえパンダさん
 私事ということはありません。少しでも実りある学習が成り立つよう、祈念しています。
 わたしは、特別支援教育については特に研究したとか担任したとかいうことはありませんので、的確にお答えできるかどうか分かりませんが・・・、
 一つはとり上げる教材の問題があります。保護者がドリル的な学習を要望されている場合、むずかしさもあるのですが、いかに子どもの生活から学びの材料を拾うか、逆に、いかに学びを生活化するか、そういったことが大切になるのではないでしょうか。
 過去記事にも書かせていただいておりますので、ごらんいただけたら幸いです。
 個別支援学級の授業に感動!
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/1199872.html
 個別支援学級  命の授業
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/410866.html
 個別支援学級の日々
http://www7a.biglobe.ne.jp/~syougakusyoninsya/gakkyuu4.htm
 最後の記事は、小学校初任者のホームページから紹介させていただきました。ここには、特別支援教育を実践されてきた教頭の指導も記事にしております。
 なお、個別支援学級としているのは、我が地域がそう呼んでいるからであって、他意はありません。
3. Posted by toshi   2009年05月20日 06:22
次に発達障害については、いろいろな障害があり、まずは、それについての専門的知識を身につけることが大切かと思います。それが、個の伸ばし方に通じる部分が多いかと思います。ただし、個を伸ばすことだけに専念するのではなく、ふつう学級の児童とのかかわりの中で伸ばすよう配慮することが大切ではないでしょうか。その場合、どの子も、『違い』を尊重する姿勢を養うことも重要です。
 これについては、
『発達障害児と問題解決学習と、』シリーズが参考になるかと思います。ただし、わたし自身の悩みや葛藤をとり上げていますので、要領を得た内容になっていない点はお詫びします。
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/1217631.html 
4. Posted by さとし   2009年05月20日 06:56
はじめまして、さとしと申します。いつも勉強させていただいております。

「子どもの無限の可能性を信じよう。」

最近、目白大学教授の不登校に関するご講座を聞く機会があったのですが、そこで教授はこう言っていました。

「人間は意外と強いんです。きっかけがあれば自分の力で立ち直っていきます。」

しかしじっと待つ教育の歯がゆさ。私はサラリーマンの傍ら家庭教師をしています。今年で実働7年目。その域までたどり着くのにはまだ修行が必要です。
5. Posted by toshi   2009年05月21日 00:32
さとしさん
 貴ブログをのぞかせていただきました。ベンチャー起業を目指すブログということで、まさに、無限の可能性を追求されているのだなと、うれしい思いになりました。わたし自身、そういう意欲的で自立して生きる人間の育成を目指していますので、心強い思いがしました。
《「人間は意外と強いんです。きっかけがあれば自分の力で立ち直っていきます。」》
 そうですね。その通りと思う一方で、やはり、自ら人生を切り開くような教育を受けていないとむずかしいのではないかという思いもしています。
 家庭教師というのは、すぐ成果を期待される仕事でしょうから、『待つ』のも、つらい部分があるでしょう。
 こだま先生の『道草学習のすすめ』ブログが、いい刺激になるのではないかと思いました。
6. Posted by 中   2009年05月22日 23:59
先日、担任の先生に赤ちゃんが生まれたのです。
そこで、お祝いに、寄せ書きでもプレゼントしたら喜ばれるのでは?と我が子に提案しました。
ちょうど、色紙が家に1枚残っていたのです。

最初、我が子は休み時間ないしなあ、みんな書いてくれるかなあ〜と不安げでした。
ですが、どうすれば良いかは、一切アドバイスせず、学校へ行かせました。

そして、我が子が帰ってきて、
「今日は、クラスでお祝いパーティーして大成功だった!!」と興奮冷めやらない様子で言うのです。

お祝いのために、先生に気づかれないように寄せ書きをしようと声をかけると、
子供達は、寄せ書きのレイアウトやデザインを考え、クラスだけでなく、学校の全職員にまで、1日かけて、メッセージを書いてもらったそうです。
記入漏れはないか、廊下の掲示板の先生方の写真を見比べチェックをし、
最後に校長先生のところへ。

校長は、くす玉を用紙してくれたそうです。彼らは、色紙と、折り紙を細かくちぎったものを沢山詰め、
帰りの会のときに、
教室の窓を全部閉め切って、息をひそめて先生を待ちました。

先生が入ってくるなり、
「おめでとう!!!」の紙ふぶきの嵐☆
くす玉がパカッと割れて、中から大量の紙ふぶきと色紙が!

これを聞いて涙したのは、言うまでもありません。
余計な入れ知恵をしないで、正解だったと思いました。

普段、みんなで何かを成し遂げることがスゴイ!と、先生が口癖のように、仰っているのが、
子供の心に届いていたんでしょうね。
それにしても、まだまだ幼いと思っていた子供達が、ここまで1日がかりで事を成し遂げるなんて、
その日は感動しすぎて、胸いっぱいでした。
先生は、もっと幸せだったことでしょう。


7. Posted by toshi   2009年05月23日 12:04
中さん
 うわあ。本記事にぴったりの話題ですね。まさに、国が言うところの学力の一つ。『生きる力』。ゆとり教育の目指すところです。そして、子ども自身のすごさも感じますが、中さんをはじめ、教職員の姿勢もすばらしい。
 わたしも感動させていただきました。

 いろいろ考えましたが、これ、すみません。次回記事にさせてください。感動を具体的に、書かせていただきたいと思いました。とにかく語りつくせない何かを感じます。
 ありがとうございました。

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