2009年05月22日

道徳教育の現状は?4

675cec88.JPG 何年ぶりだっただろう。先日のことだ。

 退職したもの同士、二人で楽しく飲むことができた。


 わたしは社会科、Aさんは道徳というように、所属する研究会は違っていたが、最後の10年くらいは、ともに仕事をすることがふえ、

 また、同じ地域の小学校長として情報を交換し合った仲ということもあり、年賀状のやり取りで、どちらからともなく、『また、飲みましょう。』ということになった。


 ちょっと蛇足を。

 不可解なことがある。わたしたちは、同じ学校に勤務したことはない。

 これは、わたしたち教員仲間に限ったことではないと思うが、

 今は親しくお付き合いいただいていても、そもそも、その出会いがいつだったか。何をきっかけにお付き合いいただくようになったのか、それを思い出せないケースは多いのではないか。

 Aさんとの出会いもそうだった。いつのまにか、自然にといった感じなのだ。



 再会はうれしかった。

 最初こそ、『久しぶり。』『おお。お互い元気でよかった。』などと、なつかしんだものの、すぐに、現職中の、しょっちゅう顔をつき合わせていたときの気分に戻った。それがおかしかった。



 さあ。話の中身だが、


〇まず、話題となったのは、道徳教育の現状についてだ。

 現状に問題があるとしたら、どのような問題があるのだろう。

 初任者に限らずだが、道徳の時間がお説教になっていることはないか。
 また、道徳が、日々の生活指導と、たいして違わないということはないか。

 若い先生の指導を見ていると、そんな懸念があるのだ。それでいいと思っているフシもある。

 おそらく、自分の子ども時代、そういう授業を受けていたのではないかと思われる。


 もちろん、学級に問題が起きたとき、お説教に走る。それは分からないでもない。

 だが、道徳とは、年間の教育計画に基づき、意図的・計画的に、道徳的な価値の追求を目指し、道徳的な心情を養うことを目的として行うものであって、即時即場的指導とは違う。だから、それは、道徳とは切り離して行うべきだろう。

 
 お説教に関し、お酒の場ではあったが、道徳の大家がおっしゃるには、

「一方的なお説教で、子どもがどれだけ心を揺さぶられるか。『そうだ。先生の言う通り。ぼくたち、わたしたちは反省しなければいけない。』そう思うかどうかだね。そこは問われるところだろう。指導者の自己満足で終わってしまうのなら、やらないほうがいい。
 指導者と子どもとが、強いきずなで結ばれていれば、それも期待できよう。
 しかし、そうであったとしても、それは道徳の授業とは、一線を画するものだ。
 
 道徳の時間では、児童自らが道徳性を育むことをねらうし、それが実感できなければいけないし、また、伸びようとする意欲をもつようなものでなければならない。

 そうなると、一方的なお説教では、どうもね。」


 わたしは、この話をうかがっているとき、先の『見せかけ、まやかしの民主主義』でとり上げた、『返事を返してこない児童はひじを掴んでひき戻し、もう一度一層大きな声で挨拶の言葉をかけて返事を待つ。』姿を思い浮かべていた。

 その話をすると、

「それは、お説教よりもっとひどいね。有無を言わさず体罰的に行っているし、言葉かけもない。
 児童の心情を養う面から考えれば、マイナスの効果しかないだろう。つまり、『こわいから言うことはきくが、反発心も起こるだろうし、心情的には、ねじ曲がってしまうだろうね。」

 
〇次に、わたしが最近気になっていることを聞いた。わたしが若いときは、道徳の授業は、前述の通り、道徳的な心情を養うものであって、道徳的な実践力を求めるものではなかったと思う。しかし、今は、その点、どうも違うようなのだ。

 この点、学習指導要領を調べてみると、

・平成10年度版では、『〜、道徳的価値の自覚を深め,道徳的実践力を育成するものとする。』とあるのに対し、

・昭和43年版、すなわち、わたしが初任だったころのそれを見ると、『〜、児童の道徳的判断力を高め,道徳的心情を豊かにし,道徳的態度と実践意欲の向上を図るものとする。』

とある。


 やはり、明らかに違うよね。

 むかしは、『道徳的判断力、道徳的心情、道徳的態度、実践意欲の向上』とあるように、『実践』という言葉は使われているけれど、あくまで、『心情』を養うことをねらうのに対し、今は、『道徳的実践力』となっている。



 よく聞く話なのだが、

 「Aちゃんは、道徳の授業だと、いいことをたくさん言うのよね。だけど、実際の生活では、それが伴わないのよ。」

 ようするに、言葉と実践とが乖離し、何が正しいか分かっていても、行動が伴わないというのだ。

 そういう方は、『だから、道徳の授業をしても意味がない。』といった感じをもたれるようだ。

 とかく教員にとって悩ましくなるのは、

 『授業ではすばらしい発言をする子どもが、日々の生活では、友達をバカにしたり、問題行動ばかりとっていたりして、その発言が行動につながっていかない。』ということではなかろうか。

 そういう場合、はたして、『だから、道徳の授業は、意味がない。』となるのだろうか。

 
 これに関し、上記、道徳の大家がおっしゃるには、

 「それは違うのではないか。そういう先生は、そういう子どもの発言を、『口ほどにもない。』と思っているのだろうが、そういう発言をしたその瞬間のその子の心は、まさに、『その発言の通りに生きようと思っている。』と、信じてやるべきではないのか。」

 これは、すばらしい言葉だ。そう思った。ピグマリオン効果という言葉もあるくらいだものね。だからこそ、道徳の授業は大切にしたい。


〇ところで、学校が行う道徳教育は、

 以上述べてきたような、特設された道徳の時間と、全教育活動を通して行う道徳教育とがある。


 学習指導要領にも、

・学校の教育活動全体を通じて,道徳的な心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする。
 
・道徳の時間においては,〜,各教科,特別活動及び総合的な学習の時間における道徳教育と密接な関連を図りながら,計画的,発展的な指導によってこれを補充,深化,統合し,道徳的価値の自覚を深め,道徳的実践力を育成するものとする。


 そう。日ごろ行う道徳的な指導に関し、道徳の時間は、それらを補充、深化、統合する時間なのだ。

 だから、上記、子どもの思いと行動が乖離しているように見えても、実は、道徳的価値の自覚は進んでいるのだと信じてやろう。それが、道徳的な実践力につながる近道だと信じてやろう。そうでないと、その子の道徳的実践力の育みは、スタートにも立てない。

 そう思った。


 なお、以前も記事にさせていただいた、上記、補充、深化、統合の一例だが、

 子どものすばらしい言動があったとき、

 『うわあ。Bさんの今の行動、すばらしいね。この前、道徳で学習した、くまさんのやさしさを思い出しちゃったよ。』

と言えば、学級全員が、瞬時に、Bさんの行動の意味とか、価値とか、そういうものを理解するであろう。そうすると、それは、道徳的な実践力の育みに結びつくというものだ。

 わたしは、Aさんにそのようなことを言った。


〇ここで、前記事『子どもの無限の可能性を信じよう。』でとり上げた、最後に感動とともに聞いたMさんの発言を、再掲させていただこう。

 「『ぼく』(主人公)は、自分があわてんぼだっていうことを分かっているのにね。だから、自分にあわてんぼって言えばよかったのに、ぶつかった男の子に、あわてんぼって言っちゃったからね。それで、びっくりしちゃって、むしゃくしゃした気持ちになっていたと思う。

 それで、あわてんぼって、人に言っちゃったことをすごく後悔していたからね。だから、次の日は、『いいんだ。拾ってくれてありがとう。』ってやさしく言うことができた。」

 この発言以降、Mさんの日ごろの表情がガラッと変わった。すごく明るくなっている。笑顔が多くなり、素直で、学級生活が楽しいといった感じになってきた。だから、ふてくされるといった感じはまったくない。


 そう。

 表情がガラッと変わっただけでも、またふてくされなくなったというだけでも、『道徳的な実践力が養われつつある。』と認めてやろうではないか。


 わたしは思う。

 先の、『道徳的な心情を養うことが目的か、道徳的な実践力を養うことが目的か。』に関してだが、あまり、実践力、実践力と、大上段に構えないほうが、かえって実践力が養えるのではないかと。


〇最後に、わたしは、Aさんに対して、失礼なことを言った。

 いや、Aさんに対してというよりも、『道徳の指導に関して、』と言った方がいいのかもしれない。

 それは、

「道徳の授業は、パターン化されているから、初任者指導としては取り組みやすいのだよね。」

ということだった。

 Aさんに言われてしまった。

「確かに、パターン化されてはいる。しかし、その成否を決定する要因を考えれば、実に奥の深いものだ。」

 そう。それは分かる。

 簡単に申せば、日ごろの学級経営そのものが問われるということだ。

 日ごろの指導者の児童対応の通りに、子どもは育っていくのだもの。こわいといってもいいくらいだ。


〇わたしは、ここで、『インディアンの教え』を想起する。

 今、リンクさせていただいたが、リンク先の冒頭に、『自分が父親になるかもしれないという思いで読むと、胸に染み入るものがあります。』とある。

・ああ。父親か。

 胸が痛む。

 もう一度、父親をやり直したい気分だ。


 実は、今、

 初任者指導を通して、学級担任としては、やり直しがきいている気分のときもある。

 しかし、父親をやり直すことは、もう今さら、無理だものね。


・別なことも言わせていただこう。

 今は、民主主義の時代。男女平等の時代。

 このインディアンの教えは、何も父親だけではないよね。

 母親にも、そして、教員にも、『胸に染み入ってくれればいいな。』という言葉だ。

 Aさんが言った、『奥の深さ』も、実はここにあるのではないか。

 
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 冒頭、『お説教に走るのは、分からないでもない。』と書かせていただきました。しかし、これはやはりまずい。

 今でも、初任者のクラスの子たちにやってしまうことはあるのですが、できるだけ、子ども自身に考えさせる方向で、働きかけたほうがいい。そう思います。


 また、道徳の授業のパターン化については、

 これは、前記事でも予告させていただきましたが、近日中に、『小学校初任者のブログ』に、道徳の一授業の様子を掲載させていただきますので、そこで、くわしくふれさせてください。よろしくお願いします。


rve83253 at 06:29│Comments(17)TrackBack(0)指導観 | 道徳指導

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この記事へのコメント

1. Posted by ハッター   2009年05月22日 15:42
toshi先生、こんにちは、道徳の授業についてのお話とても興味深いです。

>道徳の時間がお説教に

とても難しいですね。また、突き詰めていくと個人の価値観にも触れていきそうな問題にも思います。特に高学年くらいになって内面が複雑になってきた子供の想いにどの程度関わっていったら良いのか。

またまた、身近なエピソードになるのですが、友人の子のクラスの学級通信に道徳の授業でのことが書かれていました。授業の内容は”みんなで心を合わせてひとつのことをやり遂げる大切さ”のような内容で、あるストーリーを読んで感想を聞くというものだったようです。それに対して、ある子が、”大騒ぎをして、みんなで何かを成し遂げ一致団結できたというのは幻想である。”というような感想を述べたようです。これを読んで私はなかなか大人びた、するどい意見だな、先生はどうここから進めたのだろう。-と期待して学級通信の続きを読みました。先生のコメントには、”こういう人とは同じクラスの一員として過ごしたくありません。”とありました。道徳を指導するというのは指導する人の人間性を試される部分があるのかもしれませんね。

2. Posted by JPM   2009年05月22日 20:29
私も道徳は、どうもうまくいきません。
ハッターさんのコメントにもあるように、子どもはかなりするどい意見を出せます。鍛えられていれば、なおさらです。
研修で「いい道徳の授業」を見せていただいたのですが、それは、物語を深く読ませないようにしっかりとついたてを立てて、子どもの思考を単線にすることによって、本時の道徳的価値やねらいに迫るというパターンでした。
それでも外れた場合はその考えも認めるわけですが、人間の葛藤にまで迫ることが難しいと思ったのです。

これも、知徳のとらえ方の問題でしょうね。。。
3. Posted by 中   2009年05月22日 23:35
我が子のクラスで、
今まで授業参観が二回あり、
国語と算数を見たのですが、
どちらも進め方に共通したものがありました。

グループ(3〜4人)で話し合いをし、
意見を出して、発表していき、
授業の終わりに先生が、
様々な考え方、解き方があり、
みんなでそれを話し合えたこと、
知恵を出し合ったことは、
すぐに正解を出すよりも、大切なことなんだ、
と、おっしゃったのです。
子供達も毎回、それを聞いていました。

少人数で、まとまりやすいのかもしれませんが、
明らかに、今の子供のクラスは、
昔に比べて、穏やかで、見ていて安心できるのです。

自動車教習所で、安全運転のために、
そのための細かなルール、コツを学ぶのと同じく、
心の指導の時間は、
やはり、あるべきだと思います。

しかし、それと同時に大切なのは、
道徳以外の授業でも、
普段の先生の子供への接し方も、
それも含めて、
ある意味、道徳的なことを子供は見て学ぶと思います。
もちろん、一番重要なのは、
家庭で愛されている安心感を持つことですが。

理科の授業でも、
昆虫を飼ったことのある子と、
昆虫そのものが嫌いな子では、
教科書の理解度に差があります。

道徳も同じで、
理屈ばかり、仲良くしようと、お説教じみたことを言っても、
子供の心には響かないと思います。

休み時間が、5分と短くなって思い切り遊べなくなったり、給食もかきこんで食べたり、
昔に比べ、なんだか学校の時間割は窮屈です。

本当に子供の心を考えるのなら、
もっとトータルに、教育そのものを改めて欲しいなと思います。



4. Posted by toshi   2009年05月23日 04:48
ハッターさん
 すみません。お言葉を返すつもりはないし、また、話がかみ合うのかどうか、不安もあるのですが、
 たとえ善意であるにしても、お説教というのは自分の価値観の押し付けですから、むずかしくなるのだと思います。お説教の聞き手の気持ちは分かりませんものね。
 しかし、子ども自身の思いを引き出す努力をすれば、それほどむずかしいことではありません。子どもだって、善悪(?)どちらか一辺倒ということはありませんから、しっかり自分自身をいい方向に導く努力をします。『信頼』というのはそういうことかもしれませんね。
 
 身近なエピソード、
 やりきれない思いで読ませていただきました。学級通信にそう書くというのは、すごいですね。ほんとうに驚きました。言葉がありません。

 しばらく手が止まりました。

 指導者がこまるような子どもの意見を、指導者がどう受け止めるかですね。この指導者はほんとうにこまってしまったのでしょう。子どもが信頼できないのでしょう。

 わたしは、こういう意見を喜びます。まさに価値葛藤の場が生まれますし、子どもたちに自由に意見を出させたら、議論沸騰が期待できます。子どもたちは、本音の中から真の道徳的な価値を生み出しそうです。

 それより何より、こう書かれてしまった子どもの心を思うとき、体罰同様の心の傷を負わされてしまったように思います。何とも申し訳ないことです。
5. Posted by toshi   2009年05月23日 04:58
JPMさん
《物語を深く読ませないようにしっかりとついたてを立てて、子どもの思考を単線にすることによって、本時の道徳的価値やねらいに迫るというパターンでした。》
 そのような授業、分かります。わたしもまさに、今、その授業を見ているかのように分かります。きれいごとで済んでしまう世界ですね。指導者の枠の中でしか考えることを許していませんから、無限の可能性を信じない世界ですね。信じないというより、こまってしまうということかな。
 まあ、でも、《それでも外れた場合はその考えも認めるわけですが、》とありますから、ハッターさんご指摘の学級通信よりは、かなり、ましでしょうけれどね。
 道徳に限りません。外れる意見を指導者がおもしろがれるかどうか、そこに、子どもが生きるかどうかの鍵がかくされているように思います。
6. Posted by toshi   2009年05月23日 05:22
中さん
 ああ。お三方のコメントのなかで、一番ホッとする思いで読ませていただきました。
 ただ、『学ぶ力』『生きる力』も、大事な学力の一つであることを思うとき、《様々な考え方、解き方があり、みんなでそれを話し合えたこと、知恵を出し合ったことは、すぐに正解を出すよりも、大切なことなんだ。》ということも、指導者が一方的にしゃべってしまうのではなく、子どもの気づきにゆだねたいですね。コメントを拝読すると、そういうことに子どもも気づいていそうです。
《道徳以外の授業でも、普段の先生の子供への接し方も、それも含めて、ある意味、道徳的なことを子供は見て学ぶと思います。》
 そうなのです。学習指導要領にある、『学校における全教育活動を通して道徳教育を〜、』というのを指導者サイドで見れば、まさに、指導者の道徳的姿勢が問われるところだと思います。ただし、道徳的にみて完全無欠でなければならないというのではなく、師弟同行の姿勢があればいいのだと思います。
《休み時間が、5分と短くなって思い切り遊べなくなったり、給食もかきこんで食べたり、昔に比べ、なんだか学校の時間割は窮屈です。》
 ううん。ごめんなさいね。これはちょっと理解できません。どうしてそうなってしまうのでしょう。 我が地域では、休み時間は、20分ないし、30分はとれています。また、給食にしても、わたしは毎日、子どもとともに教室でいただいていますが、楽しく談笑しながらいただいています。


7. Posted by ハッター   2009年05月23日 15:43
toshi先生、コメントありがとうございます。
それと、私の文章、分かりにくいところがあったのでしょうか、すみません。

toshi先生の

わたしは、こういう意見を喜びます。まさに価値葛藤の場が生まれますし、子どもたちに自由に意見を出させたら、議論沸騰が期待できます。子どもたちは、本音の中から真の道徳的な価値を生み出しそうです。

というコメントが心強く嬉しいです。

多様な価値観のどこまでを私たちの社会は許容できて、教育でどこまで導けるものなのかは私には難しくわかりません。
しかし、様々な価値観があることに気付いたり、葛藤したり、立ち止まって考えたりするという行為だけでも道徳の時間というのは価値があるように思います。
8. Posted by tama   2009年05月24日 01:43
はじめて投稿させていただきます。道徳的実践力のとらえ方ですが、道徳的な行為のことではなく、その行為を行おうとする表面に現れない、言わば「氷山の見えない部分のこと」を道徳的実践力ととらえるのではないかと考えます。だから、実際には道徳的行為を行わなかったから道徳的実践力が育ってないとは言えないのではないでしょうか。発言が行動につながらなかったとしても、発言したことで道徳的実践力は育っていると私は考えます。生活指導で手のかかる子供ほど道徳の時間では私が予想もしていなかった発言をよくします。私の児童理解が浅いと言われればそうなのかもしれませんが…。私は「信じてやるべき」なのではなく「共感できる自分でいたい」と思います。生意気な事を書いてすみません。
 
9. Posted by toshi   2009年05月24日 05:51
ハッターさん
《多様な価値観のどこまでを私たちの社会は許容できて、教育でどこまで導けるものなのかは私には難しくわかりません。》
 わたしは、ふつうの学級の状態だったら、子どもの発言はすべて受け入れてやっていいと思います。人権(特に差別)にかかわる問題、違法なことを主張する発言など、これらは許せないですが、まず、でることはないでしょう。 
 ただ、学級が荒れている場合は、担任を困らせようとしたり、試そうとしたりしますので、そういう発言がでる場合もあります。
 わたしも、子どもの、『特別支援級の子たちと一緒に、〜しようとは思わない。』などという発言を聞いたことがあります。担任は、『今の言葉は許せない。』などと、挑発にのってしまったことがありました。
 わたしは、そのとき、
『「いいよう。今、この瞬間の気持ちなのだね。でも、あなたは、柔軟な考えの持ち主だから、考えをすぐ変えることができるし、日ごろの態度から見ても、それが本心ではないと思えるから、許せる。今はちょっとカッカしてしまったのだね。」
などと言えばよかったのだ。』
と話したことがあります。
 まあ、でも、ケースバイケース。うまくいかなくて、反省することも多いです。
 しかし、これが中学校となると、むずかしさは増すでしょうね。これはわたしもどう対応していいか、自信はありません。
 
10. Posted by toshi   2009年05月24日 06:15
tamaさん
 『道徳的実践力』については、わたしも、tamaさんと同じようにとらえたいと思います。
 ただ、記事にも書かせていただきましたように、
学習指導要領によれば、かつての『道徳的判断力、道徳的心情、道徳的態度と実践意欲』という表記が『道徳的実践力』となってきているものですから、言葉の定義としては、区別させていただきました。《私は「信じてやるべき」なのではなく「共感できる自分でいたい」と思います。》
 この点については、『共感できる自分』がいた場合、その根底には、『信頼』があるとわたしはとらえますが、どうでしょうか。
11. Posted by しれとこまま   2009年05月24日 10:16
こんにちは。大変深く考えることの出来る記事ばかりで、親としても考えさせられることが多いです。
私の今の悩みとしては、今小6の長男ですが、入学前より計算が得意で、勉強では困ったことはありません。しかし、担任からは2年生の頃から「自分が出来ると思っている態度が出ている」と指摘があり、気になっていたのですが、保育所から同じ子供達のこと、関係性は固定していました。
授業で、先に出来てしまったりすると、まだの子に教えてきた長男でした。
それがずっとになると、今度は完全に頼ってしまう子が出てきました。
「助け合う」確かにすばらしいですが、「助け続けてもらう」になり「それが当然」となった場合、長男は「助け続けなくてはならない」となり負担だったようです。
いよいよ、5年生の昨年それが家で愚痴となり、校長先生に相談しました。
騒がしくしていても「ちゃんとしろよ」が言えない。言えば「冷たいやつ」と言われる。しかも、他の先生には叱られる。
「ちょっとお高い」と思っているのは、先生なのですが、子供は助手ではありません。
現在は、その辺も理解してもらって、勉強リーダーからははずれて(他の子にもチャンスがあるように)、早く終れば自分の課題をこなしているようです。少し難しい問題にもチャレンジできるようになりました。
また、複式学級のため、そうした子供が子供を教えるということが多いので、算数は教頭先生がフォローしてくれているようです。
「助け合う」「思いやり」という言葉が学校では非常によく使われていますが、それに対して疑問を持ってしまいました。
toshi先生は、どう思われますでしょうか?
12. Posted by しれとこまま   2009年05月24日 10:20
ごめんなさい。↑の話が、何が悩みがわからなくなりました。
悩みは、「協力しあう」ということと「思いやり」「助け合う」の意味を、どう長男に伝えればいいか、ということです。
次男の面倒はよく見るし、家庭でみる限りは問題ないかと思うのですが、ちょっと「偉そう」な感じはあるのです。
「井の中の蛙」だと思うので、そのうちわかると思いながら・・・。
13. Posted by toshi   2009年05月25日 09:06
しれとこままさん
 子どもに限らずですが、人間に完全無欠はないものであって、誰だって弱点は抱えているもの。お子さんの『自分が出来ると思っている態度が出ている。』という点についても、日本国中、どの学級にも見られることであって、わたしが過去に記事にさせていただいた言葉で言えば、『原個性』ともいうべきもの。
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/590724.html
 まずは、指導者が、一人ひとりの子どものあるがままを見つめ、よさは認めたりほめたりして、また、課題は受容したり共感したりすることによって、『実践個性』に高めていくことが望まれます。
 子ども同士のつながりが、幼少時からずっと固定しているとのことですから、よけいその点の確たる指導が望まれます。
 こればっかりは、教室での姿なのですから、保護者にはどうしようもないですよね。
 早くできた子ができていない子に教えるという、そのこと自体はいいことです。指導者の姿勢によっては、思いやりと感謝の心を養うことができるはず。教える方も教えられる方も、それが当然とならないような配慮が、指導者に必要だったのです。
 これに関しても過去記事があります。紹介させてください。
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/832512.html
 しれとこままさんのコメントに、『子どもは助手ではない。』とありますが、確かにその通り。
 そして、過去記事では、『先生が明日からできること』ブログのはるえもんさんが、『先生が楽をするためのちびっこ先生』ということを問題視されていらっしゃいます。まさに重なりますね。
14. Posted by YK   2009年06月03日 00:25
お久しぶりです。

>>『そうだ。先生の言う通り。ぼくたち、わたしたちは反省しなければいけない。』

今年度に入って、私があるクラスで授業態度について説教したら、全く同じことを言われましたね。道徳の授業はちょっとわかりませんが、説教をするならば、そこには必ず真実が込められていなければならないでしょう。授業の秩序を乱すのはいけないことだ、というだけでなく、その子の将来のために、私の人生観なり社会意識、道徳意識を明らかにする必要があるでしょう。だからこそ、相手のリアクションがあるわけで。それが一回の教えで全て理解できるわけではないからこそ、繰り返し説教をする必要があるのではないでしょうか。また、あるいは、私の教えが反面教師であったとしても、彼らに、自分の道徳観を作る素地ができれば、道徳に関する教育を行ったと言ってもいいのではないでしょうか。道徳というのは、基本的には、「〜〜してはならない」ということですので、現代の価値基準では、実践力(?)の判断基準は難しいと思います(「道徳的実践力とは何か」という明確な定義がされていたらそれに沿えばいいのですが、仮にそうであっても解釈の問題があるでしょうし。)ただ、道徳的実践に関する考えは、教師の個々人が明確に持っておく必要があるではないかと思います。


15. Posted by toshi   2009年06月04日 11:13
YKさん
 わたしもお説教はしてきましたし、今も、します。
 若いときは、自己満足に終わることも多かったかなと忸怩たる思いです。だんだん、学級経営力がつくにつれ、お説教はしなくなりました。というより、しなくて済むようになりました。基本的に、できていない子をとり上げお説教をするよりも、できている子をとり上げてほめるようにしたのだと思います。
 今は、初任者のクラスですが、場合によってはお説教をしてしまいますね。初任者の手に負えなくて、緊急避難的に、わたしが対応せざるを得ない場合が多いようです。
《彼らに、自分の道徳観を作る素地ができれば、道徳に関する教育を行ったと言ってもいいのではないでしょうか。》
 うううん。これはむずかしい。現実にその場面を見てみないことには、何とも言えないような気がします。ただ、指導者と子どもとの間に、強い信頼関係があれば、成立するともいえるように思います。
 道徳の価値基準については、つきつめると、確かにむずかしい部分はありますね。『うそをついてはいけない。』『正直なことはいいこと。』なのですが、うそをついたり、正直でなかったりすることが、相手への思いやりになる場合もあるわけです。
 道徳の授業でそういうケースバイケースも学べると、奥が深くなるように思います。
16. Posted by YK   2009年06月08日 05:08
私もいろいろなところで教えているので、一概には言えないのですけどね。上からの教え込みで、道徳を理解させるのは難しいように思うのです。理解させる、というより、道徳的な人格を形成するというほうが正しいでしょうか。「起立・注目・礼をきちんとやろう。挨拶をしっかりしよう」と言うようなやり方で道徳を教えろという人がいますが、それはとても大事なことであるけれども、道徳教育とは少し違うな、と思うんです。道徳教育というのは、抑圧される自分を感じてはならないと思うのです、そうでなく長期的な視点から、社会に生きる上でその子が自分にとって大事なことを何か、ということを実感できるものでないとよくないと思うのです。私の経験上では、問題解決の授業は、多分に道徳に関する教育効果とあると思います。というのも、ほとんどの問題−経済的、法的、社会的問題−においては、道徳的な態度を要求するので、自分の生活上において、道徳が重要であることを意識せざるを得ないし、その判断が優れた人間に対しては、生徒は自発的に「先生」と呼ぶようになるからです。とはいえ、まあ、ケースバイケースなのです。私も若いですし、教室の雰囲気や、相手との相性もありますし。私の場合、説教する側も、される側も、笑いを交えるので、結局、仲良くなってしまいますね。私の話をどれだけ聴いているかは疑問ですが、まあ、少しは信頼関係があるということなんでしょうか・・。
17. Posted by toshi   2009年06月09日 08:59
YKさん
《道徳教育というのは、抑圧される自分を感じてはならないと思うのです、そうでなく長期的な視点から、社会に生きる上でその子が自分にとって大事なことを何か、ということを実感できるものでないとよくないと思うのです。》
《ほとんどの問題−経済的、法的、社会的問題−においては、道徳的な態度を要求するので、自分の生活上において、道徳が重要であることを意識せざるを得ない》
 ほんとうにおっしゃるとおりです。これは、人への信頼にもかかわりますね。強圧的にでなくても、人は、自ら道徳的であろうとする心をもっているということですものね。
 ユーモアも大切ですね。
 これは、前向きに生きようとする気持ちにつながっていると思います。

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