2009年06月01日

学習問題とは(6) 子どもとのズレ!?4

2f27b77a.jpg 本記事は、前記事の続きです。前記事をごらんいただいてない方は、まずそちらからお願いできればと思います。

    学習問題とは(5) 社会科の教材発掘


 前記事では、次のことを述べた。

 指導者側から簡単に学習問題を与えてしまうのではなく、まずは、地図や写真を使ったり、調べ活動をしたりしながら、『なぜだろう。』『どうしてだろう。』と、子どもが切実に思うようになるための掘り起こしをすることが大切である。

 そして、その掘り起こしには、時間を要することもご理解いただけたことと思う。


 冒頭から申し訳ないが、ここでちょっと話をわき道へ。

 国は、新しい学習指導要領においても、

 中学年の目標として、
『〜、地域社会の一員としての自覚をもつようにする。』とか、
『〜、地域社会に対する誇りと愛情を育てるようにする。』とか、
『地域における社会的事象を観察,調査するとともに,地図や各種の具体的資料を効果的に活用し,地域社会の社会的事象の特色や相互の関連などについて考える力,調べたことや考えたことを表現する力を育てるようにする。』とか言っていて、

 けっして、ゆとり教育の看板を下ろしてはいない。


 そこで、全国の小学校教員への切なる願いだが、

 ここは、都道府県名とその位置を覚えるなどという変な内容も入ってきたが、それに惑わされず、社会科を暗記教科にしないために、いっそうの奮起をお願いしたい。

 そう思っていたら、rusieさんより、大変うれしいコメントをいただいた。そのことについては、本記事末尾でふれさせていただきたい。


 それでは、話を戻して、

 その掘り起こしの段階で子どもの思いや疑問をさぐろうとすると、指導者の思惑と、かけ離れることもあることに気づく。これを、わたしたちは、『子どもとのズレ』と言う。

 ズレというと、読者の皆さんは、マイナス的なイメージをもたれるかもしれないが、これは、決してそうではない。

・子どもの思いや疑問をさぐったからこそ、生まれるものであり、
・子どもの思考の流れに沿った学習を保障する以上、このズレを認識することは欠かせないのであり、
・そのように認識するからこそ、指導者側が抱いていた指導計画を修正することができ、
・教え込み、指導者主導では味わえない醍醐味がある。


 本実践で言わせていただければ、前記事に、すでにその予兆はあった。

 それは、

 『驚いた。
 なんと、上記歩道橋も通学路になっていないのだ。歩道橋から50mほど離れたところにある横断歩道が通学路に指定されていた。

 これはすごいことだ。ふつうと逆ではないか。まず、こういう事例があれば、100%と言ってもいいくらい、歩道橋を通学路に指定するはず。そして、50mほどの迂回なら、これは、多くの学校がそうしているはず。きわめてふつうのことだ。』

の部分である。


 読者の皆さんは、すでにお気づきであろう。

 この、『100%と言ってもいいくらい、歩道橋を通学路に指定するはず。そして、50mほどの迂回なら、これは、多くの学校がそうしているはず。きわめてふつうのことだ。』は、大人の認識に過ぎないことを。

 子どもは、基本的に、自分の学校のことしか知らない。

 そんな子どもたちが、このような客観的な見方を、最初からするわけがない。



 ここで、またまた、話をわき道へ。わき道ばかりで、ほんとうに申し訳ありません。

 教え込み、指導者主導の授業においては、上記掘り起しなど必要ないし、指導者は指導者の思いで授業を進めることに何の問題も感じていないから、

 このような場合、『歩道橋を通学路に指定するのが当然』という認識のもと、子どもの思惑など度外視して、いや、それ以前に、把握することもなく、

 いきなり、
『なぜ、わたしたちのA小学校は、歩道橋を通学路としないのでしょう。』
などと発問してしまうのである。

 そこには、
・問題提示は指導者の役割、子どもは答えることのみ、
・授業を能率的に進めることのみ眼中にあり、したがって試行錯誤やズレは排除、
・一件落着型授業の展開、
・調べ活動は、時間のムダと考えることが多く、したがって、基本的には、なし。
・仮にやったとしても、それは、与えられた課題解決のため、あるいは、検証のためやるに過ぎない。そこから、疑問や問題を発見する自由は保障されない。

 かくして、『ゆとり教育』批判へと走っていくのである。



 すみませんでした。また、話を戻します。

 わたしは、子どもたちがA小学校の通学路の実態を知ったとき、ほとんどの子は、『歩道橋を渡りたい。歩道橋の方が安全だもの。』と思うだろうと考えていた。したがって、そこから、『わたしたちのA小学校は、なぜ近くの横断歩道を通学路としているのだろうか。』という問題意識をもつようになると予測していた。


 しかし、そうはならなかった。早くもズレが生じたのである。

 いざ、ふたを開けてみると、歩道橋派と横断歩道派は、ほぼ半分ずつに分かれた。

 
 その原因を探るに、

・丘陵地に住むなど、ここを通学路としていない大部分の子にとっては、『自分たちの通学路と比べると、国道を通ってくること自体が、あまりに危険。かわいそう。』という認識が強かったのではないか。そのため、歩道橋と横断歩道との危険度の違いは、あまり問題とならなくなってしまった。

・現実に横断歩道を使っている以上、その妥当性、優位性を探ろうとするように、子どもの心理がはたらくのだろう。


 しかし、このズレは、指導する側にとって、それほどこまることとは思われなかった。

 なぜなら、

 前記事に、議論沸騰が予想されると書いたが、

 当初の議論沸騰の予想は、

 『横断歩道は危ない。歩道橋の方がいい。それなのに、なぜ横断歩道のほうが通学路になっているのだろう。』
という思いにかられてのものだった。だから、『A警察署で取材した。』として、警察の意見を紹介すれば、その思いはさらに強まるだろうと予想された。


 しかし、子どもの思いを把握した後では、
 横断歩道支持派と歩道橋支持派とのあいだで、議論がかわされることとなるだろう。そうであっても、議論は沸騰(?)するに違いないと思われた。


 さて、その際の、それぞれの思いは次のようなものであった。

〇横断歩道派

・信号が青ならすぐ渡れる。時間がかからない。
・車はちゃんと信号を守って止まってくれる。だから、安全だ。
・今もちゃんと渡っていて、交通事故は起きていない。
・うちの人が、『この横断歩道のすぐ近くにA警察署があるから、車の運転をする人はみんな気をつけているのではないの。』と言っていた。
・右折や左折をする車が多いと、横断しにくいけれど、ここは少ない。

・歩道橋は階段を上がらなければならない。疲れるし面倒だ。
・雨の日は、階段ですべって落ちそうになる。危険。
・歩道橋は幅が狭い。大人の人とぶつかりそうになる。危ない。
・歩道橋の上でふざけたりけんかしたりしたら、下へ落ちて、車にひかれてしまうこともあるのではないか。危ない。
・ぼくは高所恐怖症。歩道橋の上は高いから、おっかない。

〇歩道橋派

・歩道橋の上まで車は来ないから、ぶつかる心配がない。安心。
・あわてないでゆっくり歩けば、安全だと思う。
・信号の心配がないから、渡る時間は決まっていて、遅れる心配をしないでいい。
・歩道橋を渡ってそのままB道路で学校へ来れば、近くて便利だ。

・横断歩道を渡る場合、運転する人は、急いでいたりよそ見をしたりして、みんな赤でとまってくれる人ばかりではないから、危ない。
・右折や左折をする車は少ないと言っても、あるのだから、ひかれることもある。 
・赤になったばかりのときは、歩道橋を渡った方が速い。
・うちの人が、この横断歩道は赤の時間が長すぎるって言っていた。だから、歩道橋の方が速いと思う。


 この、双方の意見をたたかわせる授業は、初任者の担任により、父母授業参観として行われた。

 保護者の皆さんは、活発な子どもの議論に耳を傾け、感心したり楽しそうに笑ったりしていた。


・やはり、子どもたちにとって、論点が明確だったから、あらかじめ親に取材し、それに基づいた意見を言う子もいた。

・『歩道橋の上でふざけたりけんかしたりしたら、〜。』については、『そのようなことをしたら、どちらも危ないことに変わりはない。』という意見がでて、取り下げとなる。

・しかし、丘陵地に住む子どもから、次の意見が出る。
「通学中にふざけたりけんかしたりしてはいけないけれど、でも、ぼくたちの通学路は、そういうことがあっても、安全だよ。車はあまり通らないから。」

 これは、いい。今後の学習に生かせそうだ。


 と言うのは、
 
 丘陵地は安全か。そう言い切ってしまっていいか。

 現にガードレールやカーブミラーなどはある。これはやはり危険があるからではないか。
 逆に、ガードレールやカーブミラーがあるから安全という見方も成り立つ。

 また、車はあまり通らないと言っても、通ることは通るのだから、油断していればかえって危険という見方もできよう。

 今後、丘陵地の通学路をとり上げた際は、そんな学習が期待できる。


・『横断歩道と、歩道橋と、どちらが速く渡れるか。』については、次の時間までに実際に所要時間を計ってみることにした。

 分かったことは、歩道橋の場合、子どもでも1分で渡ることができる。横断歩道の場合は、赤が1分50秒続く。

 その結果、どちらが速いということは一概に言えない。運しだいという結論になる。

・『B道路で学校へ来れば、近くて便利だ。』については、

 地図を見る限りまさにその通り。

 しかし、車の通行量が多い上に、道幅がせまく、歩道もない。

 今後、歩道橋を通学路として使用しないわけを追求していくなかで、必然的に、こうしたB道路の特性についても学習することになるだろう。歩道橋とB道路はセットなのだから。



 この授業参観で、担任は、保護者の声も聞いた。

「横断歩道や歩道橋で、これは危ないなと思われたことはありませんか。」

 一人のお母さんが挙手。そして、

「横断歩道は、よそよりは安全だと思いますが、それでも、ヒヤッとしたことはあります。ちょうど歩行者の後方から右折しようとして横断歩道に入った車でした。わたしのすぐ前方で起きたのです。幸い接触したくらいで済んだのでよかったのですが、
やっぱり、横断歩道は危ないですね。できれば、歩道橋を通学路にしてほしいです。」


 とは言っても、

 本時、例の、『歩道橋を降り切った所が狭い。』ことにはふれていないので、このような保護者の意見になったと思われる。

「今後、歩道橋とB道路をセットでとり上げるときは、保護者の思いも変わる可能性がある。でも、それは、ふだんの授業であり、保護者は見ていないだろうから、子どもの学習の様子を保護者にもお知らせしないといけないね。」

 そのようなことを初任者の担任に話した。 


 ところが、実は、本時の終末の部分で、この歩道橋を降り切った箇所のことが、子どもによって、とり上げられたのだ。

 これは、ズレなどという言葉で片付けられない。もう、指導者側はまったく気づかなかった。まさに、子どもから学んだことであった。『そうだ。これは、この単元の一つの柱として、今後学習していく価値がある。』



 それは、『狭い』という指摘ではなかった。

 今、その子どもたちの発言を再現しよう。

「わたしたちのA小学校には、1年生だけれど、車椅子の子がいるでしょう。その子は、歩道橋では、渡ることができないよ。だから、横断歩道のほうがいい。」

「賛成。車椅子の子だけじゃないよ。歩道橋を降りたところには、点字ブロックもある。点字ブロックは目の見えない人が使うものでしょう。っていうことは、目の見えない人も歩道橋を使うっていうことでしょう。それなのに、わたしたちまで歩道橋を使ったら、目の見えない人のじゃまになっちゃう。」


 そうなのだ。今後、障害者との共生という視点も大切にして、この通学路の問題に取り組まなければならない。

 子どもから大切なことを教わった。


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 前記事に、rusieさんより、すてきなコメントをいただきました。リンク先コメントの2番です。

 『教材研究をして『しかけどころ』をきちんと準備して授業に臨むと,教師もわくわくしますよね。授業が楽しくなるし,子供といっしょにいることもどんどんどんどん楽しくなってきます。学ぶ喜びを共有していけます。』
とあります。

 そうなのです。

 こうした学習は、生きた学習です。どう学習が進むか、指導者にも正確には分かりません。

 教師もワクワクとか、

 授業が楽しくとか、

 学ぶ喜びの共有とか、

 ああ。ほんとうに授業とはこうありたいもの。


 こうした学習は、何度も申し上げるとおり、『学び方』『生き方』の育みを学習の目的としています。

 わたしたちは、

 少なくとも、エセ科学に惑わされたり、教条主義的になったりすることなく、実証的で、主体的、行動的で、それでいて、柔軟で・・・、豊かな人間性も育むという・・・、そういう未来の日本人の育成を目指しています。


 もう一つ。

 子どもとのズレにかかわりますが、

 指導者が子どもの思いを把握しようと努力しないと、大変なことになる事例も過去記事にあります。

 教え込みの授業の危険なところですが、

 授業そのものが子どもの実態に合わなくても、それに気づかないのですね。そして、指導者はいい授業をしたつもりになっています。ところが、ある部分の子どもにとっては、何の力も身につかなかったなどということも起きるのです。

 もし、まだお読みでなかったら、どうそ、ごらんください。

    みんなちがって、かわいそう? わたしと小鳥とすずと

rve83253 at 10:09│Comments(2)TrackBack(0)問題解決学習 | 社会科指導

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この記事へのコメント

1. Posted by しれとこまま   2009年06月02日 08:10
授業参観に行くと、先生の「こうしたい」と思う目的と子供の考えのズレがわかりますが、参観日というプレッシャーか、若い先生だからか、目的外の方法を述べた意見を無視、もしくは簡単に流しちゃう(ポイってする感じ)ありました。
社会以外でも、「正解!」を先生は求めてるので、ちょっと違う方法で正解を出した息子は(算数でしたか)数少ない正解者だったにもかかわらず、流されてしまいました。
その考え方は、先生の正解ではなかったからです。時間も終盤でした。余裕というものは無くなっています。
他の先生にもそれは言えて、若い男の先生(初任者というのとお母さん方にびびってた?)に多く見られました。
どうしても、少ない時間で「正解」を導き出そうとすると、急いでしまいます。
頭では「自主性」や「考える力をつける」と思っていても、時間というものにさえぎられた感じでした。
「ゆとり教育」には「考え方」だけでなく「時間」もゆとりが必要ですし、「基礎力」も必要かと思います。
教える内容を減らしても、授業時間が減ってしまっては、ゆっくりと子供が考える時間がないですし、基礎力をつける時間もないんです。積極的に意見を出したり、考えたりするには、やはり頭の中にも余裕な部分がいるのではと考える次第です。
2. Posted by toshi   2009年06月02日 13:57
しれとこままさん
《(指導者にとって)目的外の方法を述べた(子どもの)意見を無視、もしくは簡単に流しちゃう(ポイってする感じ)ありました。》
 いやあ。これは多かれ少なかれ、皆そうだと思いますよ。わたしも若いときは、そうした傾向があったように思います。
 『どの意見も大切にしたい。そして、子ども同士で価値の追求をさせていきたい。』
 そのように思うと、上記目的外の意見は、授業を活性化させることに気づきました。
 これは算数も同様です。答えは一つかもしれませんが、たどり着く筋道は多様にありますね。どの解き方が便利か、あるいは、応用がきくか、あるいは、分かりやすいかなど、いろいろ考えをめぐさせることは、これぞまさに、『数学的な考え方』を養っていることになります。通信票の評価項目にもあるわけで、決してどうでもいいわけではないのですがね。大事にされないのは残念です。
 『道草学習のすすめ』のこだま先生もおっしゃっています。
 『時間がない、時間がないと言いながら、数多くの問題をこなそうとする。そうではなくて、一つの問題にじっくり取り組むことが大切なのだ。』と。
 ほんとうにそうだと思います。そうすれば、お子さんの考え方、解き方も大切にされたはずですよね。そして、それは今も可能なのです。
 そうだ。今度、算数の授業を掲載させてください。先週、わたしがやった、3年生の割り算です。考えてみれば、この子たちにとって、人生最初の割り算への挑戦なのでした。ご期待いただければうれしいです。

 

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